リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人は何を糧に前に進むか

2008-02-17 22:58:37 | その他
感想ブログ

イギリス(産業革命):「私(医師)は数日前に分娩した婦人が具合が悪いというので診察に行った。彼女の家は地下室で、部屋の床は浸み出した地下水が溜まって歩けない。床に置かれているレンガの上を跳びながら部屋の片隅でワラに横たわり赤ん坊を抱いている彼女のそばへ行った、、、」
   (貧乏な人々は採光も換気も悪い、そして暖房もない地下室で生きていた。少なくとも命のある間だけは。)

アフガニスタン(40年前):門の脇の陽だまりにもう自分では動けないほど老衰しきったという風の男が横たわっている。よく見ると同居している若い娘の亭主だった、、、
   (ここでは労働しようとしても労働をする場がないのだ。水が降らなければ、作物を育てる労働の行き場がない。ここでは土地は広さで数えるのではない。どんなに多く、灌漑用水を分け与えられる権利があるか、が金持ちの証なのだ。)

前回の古本です。
両者とも貧乏の果て。
でも、内戦前のアフガニスタンではとにかく生きていけた。

じゃあどっちがいいか、などという問題提起は勇気のない人間しかしない。
どっちも悪いのだ。

また、だからどうだと自分自身なり日本人なりに要請する気もない。

ただ、少なくとも世界を変えられるのは、
「だって、それ当たり前じゃん」と、飴をなめながらのたまう子供ではなく、
 黙りこくって縫い物を続ける人間だと思う。耳をふさぎ、縫い物を続けながら、いつのまにかバレンタインの襟巻の端に、小さな十字架を縫い込んでいく人間。

 人間は心だから。

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古本屋

2008-02-15 22:39:23 | その他
日記ブログ

今日は仕事で府中市近辺に出張、直帰、で、もよりの府中本町駅へいきましたところ、古本チェーンの「いとう」がある。ま、ブック・オフのようなもんですね。
期待しないで入って予想通り出てきて、でも今日は早いから、数年ぶりに某中野島駅の中規模店「いとう」へ行こうかな、なんて、いきまして成果が7冊1150円。
すごい。
というか、情けないというか可哀想というか。俺が買わなきゃこんないい本たちが焼き場行きか、と。
たとえば、「アフガニスタンの農村から」80円、みたいなもんで、みなさん買わないでしょうけどね。すごい売れなそ。
その中で、帰ってからまず手にとった、250円も出した「産業革命と民衆」角山栄他。
読み始めて、よし、これは1000円の価値がある。
と、思って9ページ目、うううううんん、違うような。
いや別に、「働くことが賤しくないという経済倫理がイギリスで18世紀初めに確立した」って書いてあるだけですけどね。
にゃあお。
その手前で、「貴族階級は労働に手を染めないでダンスをして暮らしていたから労働なんて賤しいものだと観念していた」なんて趣旨を書いてあるのに、わずか数ページで何で変わるのか。
まあ、
  その1:ウェーバーがいったから
  その2:ぼくの友達はみんな中産階級だから、貴族にそんな偏見があるなんて知らなかった。(でも自分で書いてるぜ)
イギリスは誰の国か。
貴族の国さ。
働くことは彼らにとっては死んでも賤しいんだ。
そうじゃなくて、ブルジョワジーが「働くことは人間にとって正しいことだ」、と主張しだして、ああ、そうかい、そうだね、下等人類は働くのがよいんだよ、と貴族の配下の宗教家がお墨付きをあげた、というのがほんの数ページで誰だって予想するロジックなんですけどね。・・・かくて英国「の上層民衆に限っては」働くことは神の思し召しというお題目を唱えるようになった・・・とか展開するのがフツウ。

、、、あやや、だんだん評論ブログに変わってゆく。

日記でした。
いいたいことは、古本屋は知識の宝窟だ、ということ。
中古カメラ店みたいです。

     ところで、ここに面白いコメントがついていまして。が、どうみても
     HP勧誘商業コメントと判断されましたので、HPへ飛ばず削除しました。
     違いましたら文句をいってくださいませ。↓
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形式社会学

2008-02-11 21:35:27 | 社会学の基礎概念
 さて、ちょっと経済関係のテーマが続きました。このブログも社会学を標榜しておりますことで、社会学の基礎概念を少しとりあげましょう。
 まずは、社会学とは何か。これはブログ表題にありますね。社会科学としての社会学とは、生きている人間の自由をどう実現するかを、研究し、伝えていく行為のことです。
 それじゃ、「社会科学」と一緒になってしまう?
 そうです。社会学は社会科学の帝王です。経済学などは科学のための資料にすぎないし、政治学にいたっては科学でもない。
 昔から「社会学は社会学者の数だけある」とも言われていますが、科学としての社会学は上記しかない。。
 中には「社会学とは、(社会という)この不透明な非自然的前提の総体が、いかに存続・変化するかを問う学問なのであります」などとおっしゃる方もいらっしゃいます(別に他意はなくyahoo の1ページ目から拾ってきただけですが)。まあ、人間たちの秩序の存在理由というやつなんでしょうが、その時点で科学の資格はない。
 それは昔から床屋とか美容院で話してもらうことです。
 社会なるものが自主的に存続しようが変化しようが、われわれ生きる者の生とは関わりがない。科学という美称は、生きる人間の役に立つものにしかつかない。
 窓を真ん中から拭くか、右端から拭くか、左端から拭くかは、「窓の拭き方学」として「学問」にはなっても誰も「科学」とは呼ばない。「窓の拭き方」が科学となるのは、人間がこれから窓をきれいに拭く、そのために応用できる原理を表現したときだけです。
 科学はよく「因果連関の学」といわれます。現実がなぜそうなるのかを明らかにする、ということですね。
 でもそれだけでは科学というものの説明が不十分です。因果連関の学として強調する背後には、科学が明らかにするその答えを、生きている者が使っていく、という前提があるのです。
 社会が自主的に存続するとどう強弁しようと、それは、教師以外の生きている人間には何の役にも立たない言葉の遊びにすぎません。社会は変化する、そんなことは生きていれば分かる。それはなぜ変化するのか、そしてそれを人間が変えるための因子はなんなのか、これに答えるための基礎作業が、社会学です。
 

 ま、ここまでは前置きで、ご存知の方はご存知の話。
 今日は、行為の社会学とは似ているようで非なる「形式社会学」というものについて。
 
 行為の社会学とは、ある程度昔からの人間の行為スタンスを前提としています。
 人間はここ4千年ほどは変わっていない、という前提ですね。そしてこれから300年くらいは同じだろうという。
 この4300年をいってみれば超歴史的に述べるわけですから、一種の形式社会学という側面もありそうです。
 ただ、形式社会学というものはすでに特許をとれるほど昔からあるので、この昔からの形式社会学にはひとつ触れておかなければいけない、というところで。
 
 形式社会学は、2つの点で存在意味が薄い。

 第1に、それは評論であること。
 評論とは、第3者の「見た目表現」ということです。生き物は、とりあえず見た目で判断する必要がある。目の前の動物が牙を剥きだしていたら、とにもかくにも逃げたほうがいい。本当はあくびをしているかどうかなど、考える必要はありません。
 しかし、それでは本当はどうなのか、といわれれば、いやでも目の前の動物の身になって考える必要があります。
 
 とりあえず、見ただけの自分はこう考えます。「彼と彼女は仲がいい。じゃあ彼女に近寄っても無駄だ。」
 「あいつとあいつは仲が悪い。とばっちりを食うから二人がいるときは近寄らないでおこう。」

 そんなことは本当かどうかわからない。
 彼女は彼にウンザリして他の人間を待ってるかもしれないし、あいつらはケンカはするが同志だと思いあっていたりします。
 現実がどうであっても他人にとっては、前者は親愛関係で、後者は対立関係です。
 どうせわからない関係については、他人はいいたいほうだい、ってことですが。
 
 形式社会学の元祖、ジンメルに以下の記述があるとのことです。
「外部の社会や集団と敵対関係にある集団では、成員相互の連帯感が強まり、結合的な相互作用が促進され、集団としての凝集性が高くなりやすい。その点で、対立・抗争は社会化の一形式でありうる。」
(「わかりやすい例としては、戦争があります。国家という一つの集団が他国家と対立することにより、国家内部では国民が愛国心を高め一致団結して敵に立ち向かいます。」コピー元:村上さんという人の昔のHP。使わせていただきます)

 いわせてもらえば、何が連帯感だ。何が相互作用だ。すべては外在的要因次第だ、ということです。
 ある集団ではそうなり、別の集団ではそうならない。
 ある場合は政治集団では分裂を続け、ある場合は国家で革命が起こる。
 ある場合は遊び集団では、なんてこともなく毎日が過ぎてゆく。

 行為する人間にとって意味があるのは、そんな外観ではなくて、その外観を規定している要素です。その要素が分かったとき、人間はその知識を元に次の行為をすることができる。
 先の例に戻ります。
 現代の学生間で親愛関係のように見える関係は、何が規定因子なのか。姿かたちか、熱意か、話の面白さか。あるいは、当該関係は本当に親愛関係なのか。ただの暇つぶしか。
 会社の先輩の二人が対立していて仕事がやりにくくてしょうがない。何が二人をそうさせているのか。自分が間に入ることでどう変わるのか。
 
 その知識の(基礎の)提供以外に、一般人には学問の意義などありません。
 「親愛関係だの、対立関係などと、そういっておしまい? これが社会学?
 中学生以上なら見りゃわかんだろ。学費返せ。」
 みたいなものです。

 第2に、観察的表現の意義は、これを観察する人々の間のコミュニケーションのためにあった。そしてそれにしか役立たない、ということです。
 たとえば井戸端談義、たとえばギリシアの教師社会のお茶の時間の楽しみ。
 そう。役に立たないわけではない。学者の間だけにあっては。
 若い人たちはこれは覚えておいたほうがいいです。哲学者たちは科学もせずに、自分たちが偉い、みたいなことを言いますからね。惑わされずに、自分の研究で一歩を踏み出してください。
 
 さて、まだ続きます。
 ここでやめると、なんのための普通の人向けブログか分かりませんので。社会学的には、そうなんだ、ってことですけどね。
 
 で、まず、普通、「あいつとあいつはけんかしてる」とかいうじゃないですか。
 でも、それって昨日のことなんですよね。
 また、「あいつとあいつは話が合わない」ともいう。
 このほうが永そうですが、それでも昨日と今日のことにすぎない。
 人間はよくできていて、たまたま左翼だったり右翼だったりするけど、本当は左右の違いではなく、たまたま両人が子供の頃読んだ小説の主人公の好き嫌いのせいだったりする。小説の好き嫌いで人間を好き嫌いしたら結婚なんてできませんやね。それが「まず」の例です。
 あるいは、ある者は権力者が好きで、ある者は権力者など反吐が出るほど嫌いだったりする。それでも、一人一人の人間の付き合いに、権力者の出る余地はありません。一人一人になれば命を助け合う。これは「また」の例。
 
 じゃあ、これは社会学的にどうなのか。「疎遠関係はいかなる場合に変更されるか」。 
 やめましょうよ。そんなことは処世訓と呼びます。隠居したご老人が教えることですな。若い人たちが「科学だ」とかいって研究することではありません。
 科学がどう、という前に、人は前に出る。とりあえず生きる。まずはここです。
 生きてみて、わからん、困った、どうする?? そこが科学の出番です。
 
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白呪

2008-02-03 10:31:07 | コーヒーブレイク
マイ・フェイボリット・コーナー
知ってる人はごくわずかな、美輪明宏の世界。
、、、と思ってyahoo検索にかけましたら「白呪」で67,600件ヒット!
ちょっと待てよ、うそだろ。みたいなもんですね。

アルバムのタイトルなんですが。
私にとっては、学生時分に、東京は、うらさびれた都立大学駅前の中古レコード店「ハンター」で千円で買ったLP。ハンターは大井町(東京)にもありましたね。こんなの買うのは俺だけだろうって自信がありましたが。

今の人にはCDでもあるはずです。6年ぐらい前、行きつけの図書館に行きましたら新着CDコーナーにあって、ぎょえ、と思ってすぐ近くにいた35歳くらいの係のお姉さんに、こんなのあんですねえ、っていったら、はい、私が選びました、といってました。

で美輪明宏。
私も、人知れず歌うたいなもんで、ときどき家で歌を口ずさむのですが、これは歌えない。今日もジャケットの歌詞を見てひたすら黙り込んでしまいました、今日じゃないですが。
まあ、一番歌いやすくてヨイトマケの歌。でも1番で涙にくれる。
、、、どうしてこれが67,600件じゃ!

歌詞をみるといわゆる臭い歌詞なんで、私なんかではとうていこそばゆくて書けない。でもこれを強引に歌いこんでしまう、美輪明宏。その実力はこっちへおいて、うまいとかうまくないとかじゃなくて、強引な世界の中で歌に引き込まれる私を含めた聴衆。そうやって全知全霊で生きてきてる人間がいる。それが67,600件なんだろうな、と。
だって、子供達にはわからないだろうけど、臭かろうがどうだろうが、これがちょっと昔の現実だったのだから。

そして、私の絶望的な精神に、数日間分のエネルギーがはいる。
自分の現実をその手に握りながら生きる人間がいる。
自分の現実。
テレビで吉本喜劇を見て笑っている自分は、自分の現実を生きているわけではない。
自分の行為として自分の将来を変えようと、したこと、今すること、明日しようとしていること、それが自分の現実です。
うそだと思ったら、一週間後、その日のことを思い出してみると分かります。覚えているのは、ご飯食べて、テレビ見て、メール打って、寝た。
 
、、、誰でも、その手に残るとしたら、自分の現実しかない。ただ、それを握って生きていくのかどうか。
 
 ふんふん、高校の倫理社会の先生のようだ。
 美輪明宏は、それに耐える歌うたいです。


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生産物か商品か

2008-02-03 10:00:20 | 賃金・価値・権力
モノのあり方は二通りです。生産物か商品か。
ヒトのあり方も二通り。ただの人間か、商品生産者か。

詩人の大部分は、自分が生きていて感じたことを伝えようと表現します。
小説家の大部分は、他人が買ってくれる物語を表現します。
 人はほおっておくと詩人になります。大部分のブログで、ブロガーは詩人です。
 小説家になりたい人は、たいてい売れなくて絶望します。ほんとは何がしたかったのかな?

人はほおっておいても自分が食べるもの、自分が使うものを作ったり取ったりします。
勤め人は、新入社員から社長にいたるまで、結局、他人が買ってくれる物を作ります。
 時計の要らない社会では、いまだに人は自分と家族・縁者の食べるもの、使うものを生産します。
 会社は、作るもので儲けがあがるように、物と労働者を加工するのが仕事です。


人が買いたいものはいいものですか?
 私はお金がないので、安いものが買いたい。
 では私は安いものが欲しいのか?
 そんなことはない。良いものを安く欲しいだけ。
 瀬戸物屋はなぜつぶれた? まともなご飯茶碗が欲しい。
 電気店のオーナーは広告紙を印刷業者から買いたい。それは広告紙を撒き散らして紙資源を使いたいからか?
 そんなことはない。でも、よさげな商品を消費者に見せつけないといけない。

社長以外の人間にとって、どこに偉そうに商品経済を擁護する理由があるのか、私にはわからないところです。
ましてや教育学部の教授たち。(まだいってるぜ)
 あるいは種々の転向者たち。
 商品経済を擁護したいのなら、悔しさに口をゆがめながら発言して欲しい。


もちろん、国家計画経済がよいというわけではありません。私はアナーキスト。

人の大部分は、助け合って生きていきます。
公務員の大部分は、法律という武力に守られた武器で、政権と経済秩序を守ります。
 人は、家族・縁者がどうしようもなく困ったら、なんとか便宜を図ります。
 公務員は、隣りの人間が困っていても国の権力は回せません。
 
当たり前のようで、マルクス・エンゲルス以外のマルクス主義者は考えたことのない事実。
 公務員は、政権の消費物を確保しつつ、政権の方針により、抽象的な国家のために秩序を守る知恵を絞り武力を行使します。
 たとえば100人の世界で200ある生産力の余剰を50人に分けるのが、国家に嫁いだ政権者の仕事です。 
 武力権力は、余剰をどう使うかを自分たちの賞賛と優越のために使うことができる。
 多くは「国威」という大義名分で。ほんのちょっとのおこぼれにあずかって。
 独裁とは、政権が選挙によって支えられていないことではない。50人を切り捨てる決定を、政権がすることです。資本主義では、資本家のせいにできますけどね。
 
 余剰生産力の200を100人で使えば、「貧乏人」が最高学府を目指す必要はない。おこぼれ太りした政権者に言わせればみんながプチ貧乏かもしれないが、だれもそうとは思わない。 
 社会主義の定義は、余剰を全人民が使えるかどうかにある。
 国家計画経済政権者が『全人民の「ために」使っている』などというのは、おなじみの資本家のウソです。だから国家資本主義などといわれる。でも国家計画経済は資本主義ではない。人間の意思によって経済を変えられるという体制は、資本主義ではない。ただ、意思的に資本家とおんなじことをした、ということです。
 ついでにいえば、権力者のウソはどの権力者でも一緒で、黒を白というわけですが、政権者は精神過程しか目立った儲けがないため、自分でもウソに気付いていないところがあるんで始末が悪い。きちんと教えてあげないとね。
 

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