リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

注 前掲

2011-01-30 20:45:30 | 断片
こんばんは。
「注 前掲」じゃ新しい人にはなんだかわかりませんよね、ということで、安心して(気を使わずに)前回の続き。
 こうゆう話はあれやらこれやら前提が多すぎて話しづらいものです、ってそのへんが「断片=酔言」カテゴリーで、そんなこたあ酔っ払ってるからどうだっていいや、みたいなもんで。

 で、前掲の前提。
 中道より右の人たちは、前掲の体制の悪口について、そうだろ、どうせ共産主義だろ。と思うだろうし、左翼だと、なんだこいつ、労働者国家ソ連をバカにして、って、どっちの人々も、何も知りもしないのに思う私で。
 で、
加藤周一、ウズベック・クロアチア・ケララ紀行、岩波書店、1959.
 ほんと、ソ連崩壊前の周辺国情報は、こうゆう紀行文しかないんですよね。この本は数年前、(多摩川の)中野島の古本屋で100円で買ったもの。著者加藤周一などは右翼にいわせれば左翼でしょうが、左翼に言わせればこの人を左翼と認めるのは2%ほどだろうという、そんな人。

 で、彼氏、何を言うかと思えば、”アフガニスタンの人知未踏の原野とみまごう荒廃した国家から、ソ連最新鋭のツボレフ飛行機で同じ平原の先、山脈の向こうのタシケントに飛んで驚いた。なんだこの都市文化は。なんだこの民衆の平均的文化享受は。”
 (趣旨)

(注1:タシケントとは、話題のソ連邦周辺国ウズベキスタンの首都です)

 で、私はなにを「注」したいかというと、この国(これらの国)では、人民も権力者に文句をいえるほど、とりあえず生活の最低限(以上)を享受している(た)んだ、ということはお忘れなくということですね。
 (最低限(以下)じゃ、最高権力者向けの文句にはならないんですよ)
 スターリンだってバカじゃないし、ただの権力の亡者でもない。人民というカテゴリーを救う気持ちはあったんですよ、人間だからね。そうでないと私の理論は成り立たない。ただ、方法が権力主義的だ、というだけで。
 周辺国だってそのまんま資本主義と比べたら、素直にみんなが測りようもなく「マシになった」んだ、ってことを忘れては、ただのバカな右翼でしかない。これって若い人の100%が知らないことだろうな、と思って、注。
 めんどくさいね。
 まるでマルキストみたいだ。お礼いって。
コメント

後進を枠付けられたロシア周辺国

2011-01-29 21:34:31 | 断片
 こんばんは。毎度お寒いところ、昨晩は丑三つ時、マンションの外で猫たちが必死の喚き声を立てあってびっくりして目が覚めました。
 最近お目にかかるにゃんこ情報といえば癒し系の赤ちゃん顔ばかりしていますが、そういえば私の子供の頃は、必死に吼える野良猫ばかり。どっちかっていうとこっちがほんとなんでしょうね。
 まあ、「ほんと」というのも難しく、私という人間のほんとは癒し系の赤ちゃん顔なんですが、仕事場の連中はまず誰一人そうは思ってくれてないでしょうし。そんなに吼えるな、K。ってとこでしょうか。

 さて、今日は『断片』カテゴリーですが、別に誰に怒っているわけでもなく。ここんとこのニュースの悪口なら私じゃなくても誰でもいえるし。っていうか、ちょっと疲れちゃってね。

 でもためになるブログ。今日は私の頭じゃなくて伝え聞き情報。
 先週までの日本人民史に引き続き、今週の私の関心は辺境人民史。ソ連の配下共和国はどうなっていたんだ、とひとしきりの情報収集。
 こうゆう辺境史は、基礎理論には関係がないし、だいたい国名からしてわけわからないので過去は見なかったのですが、今週ちょっと見てびっくりしたところです。
 
 1 レーニンは、まともな人間として死んだ。
  
 アナーキストにとってボルシェビキなど不倶戴天の敵なので、レーニンなんかは私の25歳までにとってはただの権力主義者以外の何ものでもなかったのですが、やはり勉強していくと日本のレーニン主義者たちとは違ってレーニン本人にはマルクスを超えてるんじゃないかと思わせる天才がある、なにしろ彼が生きたのはマルクス以上(以下)の厳しい生存環境ですから。
 で、今回、彼氏が、本来ありえるはずがないロシア社会主義革命を、なんの冗談か、歴史の流れで引き受けてしまう人生の中で、最善を尽くしていたことを認識したところです。しかも最期の段階で周辺共和国の社会主義達成をスターリンに踏みにじられていくのを、及ばぬ体力と指導力で見ていかなければならないなど、巌窟王出演のヴァランティーヌの、目でしか話せない爺さんのような物語世界の状況だったのだなあ、という認識。
 
 2 それにもまして驚いたことに、周辺共和国など、革命の条件のジの字にも関係がなかったこと。というと語弊がか。百姓一揆の世界しかなかったというか。
 
 私など、ロシアは1917年現在日本よりも資本主義化していた、などと習っておりましたし、ロシアについてはそのとおりのようですが、ソ連はロシアだけではない。なんていくら左翼でも20歳で知る知識じゃござんせん、というところで。
 で、お初の知識でした。し、1週間でそのことを確認するのもなかなか苦労したんですぜ。
 
 革命に関係がないのになんでソ連の一員になったのか、は、周辺国がそれ以前のロシア帝国の構成素だったからであり、種々の思惑で、周辺を「ロシア」革命から切り離すことが出来なかった、というわけです。
 ロシア共和国の経済的な思惑と、ボルシェビキの革命達成の思惑。いや、この件では(想像のうえで)レーニンに同情したところ。
 ロシア革命の周辺共和国の事情って、知らない人、多いでしょ? というより、知ってる人はロシア史家とか政治党派政治局員くらいでしょ。
 ほんと、ひとごとながら身につまされて。

 だからなにって、それは次回の次回配本、隈応用理論のお楽しみ。
 (p.s.
  と、もったいぶりましたが、本日休日でネット遊びしてましたらいかにも低レベルなマルクス主義者たちの論議が目にたくさん。民族主義はいいか悪いか、って。ほんとにこの人たちは史的唯物論がわかっているのか、と何万回目の感想になるでしょうか。いいも悪いもないだろ。なぜソ連邦で(民族主義が)生き延びたのか、どうやったらなくなるのか、を考えなければ、レーニンとスターリンの2の舞だろうが。)
 (p.s.2
  民族主義が残ったのは国で言語を別にしたからだ、などというくだらない話はやめるよう、いっておかないと)
コメント

江戸時代とは

2011-01-22 21:37:07 | 歴史への視角
 こんばんは。
 悪口のあとは、早速の更新。って、また悪口かも。

 ここんとこ、自分的に日本人民史を振り返ってましたが、その発端が、これ。
 田中圭一、百姓の江戸時代、筑摩書房、2000.
 ひどいもんですた。
 なにがひどいって、見出し小見出し。江戸時代、百姓生活はバラ色、地域政治を操縦して人生を謳歌していた、としか判断できない見出しをつけた筑摩の新書本。筑摩っていうのも再建会社なのでこうゆうのが(反闘争者イデオロギーが)好きなんでしょうね。。
 いや、中身もそんなもんなら「ばーか」ですみますが、本文の中身はさすがに曲りなりに学者だった人間だからそこまでひどくはないという、それって著者的にはかえってひどいインチキさ。なんでそんな見出しを許すのか、って編集者に代わりに書いてもらったって気持ちでしょうね。
 田中という男、そんなひとかどの評論家ってやつが憧れなんでしょうなあ。
 だいたい、歴史で(ある地域を例証にしただけで)日本一般やら江戸時代一般を語ること自体、初歩的すぎる誤りですね。主要に新潟を褒めて百姓をバラ色化しているが、日本のどんな地域でも新田開発で田んぼ面積が8倍になったわけじゃないぜ。(新田は百姓の基金的存在なので、新田開発をすると豊かになります。新潟は江戸期200年で藩面積当たり8倍。新潟が米どころというのはごく最近のことなんですね)。本人、秩父の調査をしているのですが、そこでの事実は徴税問題にはおくびにも出さない。まあ、新潟県でもいいや。江戸最後期、1837年、柏崎で百姓は幸せに暮らしていたとでもいうのか。
 タコが。だいたい、80年代に筑波大学の文系教授をしていた人間というのは、まず疑ったほうがいい。
 いえ、本日は酔言ではないので悪口はやめて。
 それで、この本を読んで頭にきて、まともな本を見直しながら次へ次へと進んだら、日本古代史までいってしまいました。古代史っていうのは弥生以前史のことですが。誰だかが日本の中世は奈良、平安といっていましたが、正しいですね。まあ、それはそれ。
 
 みなさんもこの手の江戸時代バラ色本を見るなら、一緒に津田秀夫(70年代に筑波大学に移らなかった、文系東京教育大学教授)とか、せめて田中が悪口を言う共産党系の易しい本でも読む必要があります。
 たとえば
 加藤文三他著、日本歴史〈上〉、新日本出版社、1965、1978。
 どこが違うかといえば、一揆の存在を認めるかどうか、ということです。
 田中は、一揆など制度化された選挙のようなものだ、と思っているし、昭和までの(普通の)日本史学は、一揆を普遍的な変動要素と思っている。
 そして田中や同様な見方からは、我々の社会を変える契機を自己の理論から引き出すことはできない。し、だいたいそんな気はありはしない。
 普選下の戦後市民でさえ街頭デモさえせんというのに、江戸時代、誰が選挙のつもりで死を覚悟して整然たる要請行動を行うというのか。
 
 「同様の見方」っていうのは、ネット検索すると一緒に出てくる
 佐藤常雄(やはりその頃筑波大学教授)他、貧農史観を見直す、講談社、1995.
なんかですが。
 ま、こちらはまだマシ。これも網野善彦などの論が市民権を持ってから出てきたもので、私なんか、そーら、いつの時代も虎の威を盗むようなやつがいる、と、苦々しい思いがしたものですが、見出しを含めて別にウソを書いているわけではなかった記憶はあります(15年前の記憶ですが)。ネット情報では、田中の本とこんがらがってる人もいるので、情報を使うときは各自確認してください。
 まあ、いずれにしてもこれもイデオロギー本に近いものでして(歴史本は事象の取捨選択でいくらでも可能)。その辺が80年代筑波大であり、佐藤のアドバイザーの大石慎三郎(「新しい歴史教科書」作者。昔から論文の欠陥を指摘しても黙ってしまう人間だったようだ)というものです。

 ま、ここはためになるブログ、そのうえ今日は「断片」ではありません。なので、本日の教訓。
 
 さて、江戸時代。これは戦乱から生活が平穏になり、商品経済が(また)発達をはじめ、順調に時代の中で資本主義に向かって進展を続けていった時代です。私的におおまかにいえば、江戸当初前期の混乱期60年、中期発展期140年、後期爛熟期50年、末期腐敗期30年、てとこでしょうか。
 最後になればなるほど生産力の高まりで人民に自由が出てくるのは当然です。生産力が高まるということ自体、商業、工業、運輸従事者の増大を意味し、そのこと自体、そこでの食料等の物資の存在(=余剰農業生産力)とそこへ移れる人民の自由と、そこへ移れることで手に出来る行為の自由を意味しているわけです。その一方、生産共同体の2極分解と、江戸末期の(戦国時代に取り上げられた)富者による共同体権力の武力化の再発生も意味することにもなります。
 さらに他方には、そんな下層人民を専有武力によって将棋の駒とする武士・貴族階級がいる。
 ということは、下層人民内下層者は、飢饉があればとばっちりを食い、戦争があればとばっちりを食う、ということです。戦争で一旗あげようとした下層内下層人民はいますけどね。
 
 これは最低限の認識で当たり前すぎることなのですが、それこそほとんどの人は知らないか、知りたくないかのどちらかなんですね。知らないのはいいけれど、右も左も知りたくないというのがほんと不思議。
 
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やっぱりバカだったか

2011-01-21 22:21:21 | 断片
伊藤元重。

 知る人ぞ知る東大の国際経済学の教授ですね。「知る人ぞ」っていうのは、「知るはずの人は誰でも」って意味ですかね。
 十数年前に世界経済論を勉強した折に、よく整理された本を書いていたので、ああ、この人は頭がいいんだろうなあ、と、思って、彼氏の論を速読して5回目。この間、なんで頭がいいのにこんなことを。いや、何か個人的な意味があるんだろうと思って見過ごしてきましたが、愛想尽かしの5回目。
 朝日新聞対論特集
 さて日本はこれからどうしたらいいですか、と編集部の問い。
 彼氏いわく、日本を米国基準にしろってさ。さすれば日本の経済はまだまだ発展するだろう。いわく「このまま国を閉ざして衰退していくほど日本人は愚かではない」そうで。日本人は愚かではないと思いますが、伊藤はバカでした。はあ、悲しいね、目をかけてきてやったのが、この言い草。
 かえりみすれば、幻想の近経原論で幻影の日本社会を論ずるだけの岩田規久男(学習院大学教授)その他を見てから読むと、清涼剤というべきものだった、ことも幻想。所詮、近経男。
 
 さらに悲しいことに、対論の相手は私が眼をかけてこなかった佐伯啓思(京大教授)。バカと比べるとどんな人間でもよく見える。
 いや失礼。
 ともかく佐伯氏、国家主義者らしく、日本の国家的全体は、経済状態ではなくトータルとして内需拡大でよくなるんだ、って桶屋のレベルだが京大らしく文化的に収めている。いや、感心。桶屋でも、社会というのはそういうものなのだよ。どれだけ日本人に伝わったかは別として。
 人間個人の世界は生理的必須条件が満たされれば、経済状態の高下ではないんだ。佐伯は国家主義者なのにそれがわかり、伊藤は自由主義者のはずだが気づく様子もない。これまで4回我慢してきたからね。私にはそういう権利がある。
 ばーーーか。ばいばい。
 
 ああ、くだらない。私は昨日寝不足なので、この辺で。

 p.s. そういえば、ここはためになるブログのはずなので、一言。
    評論を読むときは、人間、頭のよさではなく、まず価値観を確認したほうがいいってことですね。
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過程的勝利

2011-01-15 21:45:26 | 歴史への視角
 こんばんは。お寒うございます。旭川はずんと寒いですか? 今朝のNHKニュースで、零下10度はかたそうな運動場で、子供達が雪上カルタ取りなるものをしていましたが。想像外の状況ですね。

 さて、昨今のタイガーマスク。
 わたくしなどふやけすぎたのか、現金寄付では高級ランドセルは買えないから、ランドセルがよいかと思ってましたが、今日の夕刊では、養護施設の子供達が鉛筆やノートセットに感激している写真が。
 おい、そんな、予算が低水準なのかよ。

 いやもちろん、子供達は、あしながおじさんのように「私に私が使う何かをくれた人がいる」ことがうれしいのだとは思いますが、うちの子がその状況で鉛筆1本で喜んだとは思いがたい。合格鉛筆は別として。
 タイガーマスク、よいことをしました。朝日新聞数百万の読者で、昔パパだった人の1%、高齢者1万人は今ごろはお金を払いたくてうずうずしてるんじゃないかな。都道府県も金を出すでしょうし。
 ってそんな大変な額じゃないぜ。一体、福祉局、福祉部はなにをやっているんだ。
 あと、親のような人材もね。
 とゆう、これは前段。ただの感想。
 
 さて、昔々あるところに、組織から臨時雇用労働者の待遇改善闘争をサポートするよう指示された人間がいると思ってください。
 何年も何年も闘ってもいっこうに勝ち目の見られぬ闘争。そのうち自分の組織はないも同然の分裂状態(注)。
 しかし、彼は闘うのをやめようとはしない。
 個別闘争は他のセクトとも利害の不一致を、仲違いを生みます。彼の闘争もご多分にもれず。他セクトにも睨まれながら、勝利する当てもない闘争。
 敵にも味方であるはずの人々からもそしられけなされ。しかし、個別闘争は他の個別闘争と手を組み、彼は以前のセクトとではなく、闘争する人々の内部で生きていきます。そして闘い続けて35年。

 お疲れさまです。ブル新に認められるとは。(今日付の新聞じゃないですが)
 すくなくとも彼と彼の同志が鼻つまみものの極少数派でなくなったこと、および、今では彼は時代の主流の結節点的労働思想の表現者たるに至ったこと、について、他人事ですが、やったね、という思いを持ちます。
 
 そ、HN君のことで。みなさんの嫌いな。
 わたしはといえば、昔から是々非々だった自分が好きになりましたよ。 
 いまでも、本工集団のお祭り騒ぎしか闘ったことのない相対的多数派セクトがケチつけてますけどね、昔と同様。
 闘争とはそういうものではないってことですね。
 そういうものではない。教条や動員で動くやつなど、鉄砲玉以上の意味はない。生きている人間を、どうやって動かしていくのか、その中で自分がどう生きていくのか、ということが大切なのであり、その、はたから見れば愚かな闘争が、お祭り騒ぎの根底を支えるのだ。
 
 
 注:この部分は、私というマルキスト組織が嫌いな人間の想像で、わたしゃその頃からマルキストの情報なんて知りたくもなかったから現実とは違うかもね。違おうがどうだろうが、私は、よかった、いじめられっこの勝利だ、と思うんですね。資本家への勝利ではなく、人生への勝利。それが一番大事です。
 闘ったことのないやつは、資本家に勝利せんでなんだ、とかいうかもしれませんけどね。
 そういうやつは人生を生きていませんな。
 
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成人式まわり

2011-01-10 20:06:25 | 断片
 こんばんは。今日は成人の日のようで。

 三が日にお年賀をしそこなったお宅へ行く途中、ぞろぞろぞろと和服姿の娘さんが。どうも近くで成人式があった模様。
 いいですねえ、きらびやかで。スキーウェアと一緒で、個人の実体がなく、どなたさまも綺麗な着物。顔なんか見えませんし。
 私も真実が知りたいのでじろじろ顔を探していたら目が合って怖かったですが。

 で、その方面の電車に乗ろうとしたら電車の横っ腹に「東京富士大学」だって。知らないけど、最近はいろんな知らない大学ある、のはいいけど、「イベントプロデュースコース」だってさ。なんじゃね、それ。
 なに勉強したっていいけど、そんなもの4年間も勉強すんのかよ。半年で十分だろ。
 一オヤジとしてたいへんな疑問符。

 昨今は何かといえば4年制大学で。
 こうゆうのは、資本主義の延命策だよね。
 学生やってる間は、働かなくて済む。働いてもらっちゃ困るんだよね。労働力過多で。
 なるべく長く親の扶養でいてもらえば、親を低賃金にしてるのと同じ効果があるから。
 一方、親も子も体制に不満ももたず、親は子供のためと思って学費を払い、子供は何も考えず遊びほうける。どちらも満足。
 
 それもよくわかんない話だね。人がたくさんいるんだからもっとゆったり働けばいいじゃないかね。じゃあ給料安くするぞ、って、子供代がかからないと、親ってすごく楽なんだよね。
 
   なんか今日は昼酒で体調が悪いです。
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マイ・フェイボリットシング

2011-01-04 21:27:51 | コーヒーブレイク
 本日は、マイ・フェイボリットシング
 そのまんま。
 今宵サウンド・オブ・ミュージック上映 テレビですが。この単語、と発音、サウンド・オブ・ミュージックのレコードで覚えたものです。
 今日は代休だったので、オープニングから見てしまいました。
 ほんと、なんでもないシーンの変遷で6分間隔で涙が流れて(過去5,6回見ているもんでトータルに感じて)、朝、ハンカチ替えたよな、結膜炎になるぞ、みたいな。
 不思議なもんですねえ、まだやってますが。ほんとよくできています、3時間以上をてんこもりの盛り上がり。まだの人は必見、ですが、最近の人には分からないかもね。私などは(理論上)毎日ファシストと付き合ってるようなもので、実にシミラーな感覚ですが。

 と、これはただの感動。
 実は今日は「断片」のつもり

 yahooのl検索エンジンが変わって(googleと同じになって)、隈のホームページが検索から落ちてしまいました。
 思えば10年間、yahooにはお世話になって、ここだけは常に載せてくれていたのですが。

 検索されることもさることながら、yahooは私のほんとの名前でも出てくるんですよね。
 おかげさまで、むかし、出向してた頃、酒席で「あなたはいったい誰ですか?」と聞かれたこともありますが。それも昔の思い出に。

 これで昔の知り合いなどと遠のくのもさみしいですが、しばらくひっそりと暮らすと決めるのも正月らしい出来事で。

 では本名に1年間さよならのあいさつで。アウフヴィーターゼン。これもこの映画で覚えて。


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精霊信仰

2011-01-01 10:32:21 | その他
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 
 東京地方、空が澄んで。私などはお正月は大好きで、って、行事は何でも好きですが、お月見とかね。たしかお正月は学校でやってもいいんですよね。こんなものは宗教じゃないってだれでも知ってるところが庶民の直感ですね。
 
 いや、日本のアニミズムだ、とか神道イデオロギーの行事だって、いう人もあるかな。
 
 宗教なんてものは人間の宗教心の発現であるうちは別に意味などないものなんですよ。
 意味がないから義務教育小学校でやってもいい。
 っていうか、宗教心の発現のほとんど多くは大事なことなんですな。
 お葬式とか、命日とか、だいたいそんな悪いことが多いのですが、たまにあるお祭り騒ぎは大事にしないと。
 
 なんて、左翼のブログで書くには言い訳が。
 だいたいね、仏教と違って神道には道徳性がない、ないから国家宗教にはなれない、ありうるのは天皇崇拝を押し付ける象徴としてだけだ、って書きましたでしょ。そもそも神道は天皇のただの祖先崇拝教だから、われわれ下々と関係があったことなどないのですよ。今から見れば戦前の神道イデオローグなど気違いにしか見えないのは彼らが尋常でない大馬鹿だからです。かたや、仏教イデオローグは、いつ見てもそうバカには見えない。それは仏教はもとから道徳を持っているんで、正気の人間でも道具として使えるからです。(今知ったのですが、IMEには「気違い」という単語がないんですね、ま、近代的なことで)
 かくて、戦後、政教分離が行われてしまえば何も人民に残ることは出来ない。
 神道イデオローグがなにを言おうと、村の鎮守は天皇教などとは関係なく発生し存在しつづけたものです。ま、ほとんどの「ご本尊」は天皇教に乗っ取られてますけどね。
 
 で、アニミズムは? って、アニミズムを論理上否定できないでしょ?
 われわれは仏教の教義は否定できる。誰も本当のことを知らんでくっちゃべってるだけだから。歴史的にも、いや今現在でも、教義者(仏教者)と自称しながら誰もが違うことをしゃべる、そんなものは「教義」ではない。キリスト教も然り。というよりももっと悪い。「神は自然世界に○○をした」などと、2千年間も神を懼れぬ嘘ばかりついている。いくら科学が自分の言を否定しても自分はそれを受け入れるくせに(がんばって抵抗しているのは進化論くらいだ)何の反省もしていない。新しく神の仕業を都合で作り出すだけだ。「騙り」である。彼らは、自分が騙している事を知りながら生きるためにウソをつく生活的詐欺師、以下である。彼らを地獄に落とさずに誰を落とすというのか。
 ま、否定できるのは教義だけで、仏やゼウスはいるかもしれませんけどね。

 同様に、精霊信仰に教義があれば否定できるけれど、そんなものに教義はない。あるのは精霊がいるかどうかだけ。樹に精霊がいることをどうやって否定する? 精霊はいるかもしれないがいないかもしれない。いずれでもそれは、思う人間のただの選択行為に過ぎません。
 そして、
 肝心なところですね、改行しますよ。 
 精霊は、規制しません。
 精霊は、権力行使をしません。
 精霊は、各種人間がこさえたまがい物の宗教の教義とは異なり、本「人」は不本意かもしれませんが、それを思う人間の自由意志の下、人間の自由を拡大してくれるものです。
 
 とゆうわけで、正月もお葬式も、主義を問わず普通に暮らせばいいのです。
 
    拍手(かしわで)なんか数えて打つなよ。そりゃ人間の仕業だ。 
 
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