リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

秋本番

2011-10-30 21:11:50 | 断片
 こんばんは、いい時候が続いております。
 昨日は東京地方青空の下、ちょっと秋の日の散歩、お墓参りと高尾地域徘徊で「命の洗濯をして」きました。「 」内は小学生の時に習った熟語ですが。
 一昨日は、3年前までの出向グループ同窓会にも出席しまして、楽しいふた時を。
 みんな若い人たちで、生き生きとした人たちなんで、気持ちがいいのですね。
 私も若人に「昔の○○さん(本名)のさだまさしのフェリーの歌、こんな歌があるのかとすごくよかったです」といわれてにっこり。
 (それはそれ、稀に会う人だとうそいえなくて困ります。間違ったこと言っちゃった。普通は可及的速やかに訂正するのだけれど、もうできなくてごめんなさい)
 
 ただ、残念なことに、というほどではないけれど引っかかることに、もうすでに出向先での私という仕事の名残が消えてしまったみたい。
 もともとそれを知っているのは同僚のもう1人だけなのでしょうがないし(直属上司も能力不足で知りえない)、そういう過去は消えていいとその頃から同僚には言っていたのですが、ま,引っかかりはしますね。
 たとえ話にすれば、「トヨタ・レクサスのデザインは僕だぜ、、、でも誰もしらんな」 みたいな種類の話で。ま、出向先関係者でこのブログ見る可能性はなかば知ってる人のみだからいいのですが。世の中ってそういうもんですよね。
 人は自分の力を注ぐ。
 一般に少数のある人(々)は、他人のおかげで賞賛される。
 ある人は自分で区切った人に(だけ)賞賛される。もっとも、懸命して、なお区切った人に賞賛されないのもつらいかもしれませんが。
 ただ、それは「親切」と一緒で。人を区切るというより、他の(具体的人間というよりは)「魂」で区切るとかね、そういう覚悟で生きていかないと人間が細りますよ、ってグチっているようにもみえますが、はっきし言ってそんなことを本心グチるようでは本7冊は書けませんね。
 以上,ためになるブログでした。
 
 なんて世間話を余裕でかましてますね。
 そんな余裕にしてはあまり物事進んでおりませんが、余裕ついでにいうと、将棋ゲームでひいきの渡辺竜王が竜王タイトル戦で挑戦者に2連勝。ひいきが勝つのは楽しいもので。
 ところで、将棋が話題になるとこれもいいたくなることですが、将棋というのは収入元締めで将棋連盟というのがあるのですが、これの今のボスの米長邦雄という男が(女が腐ったような)どうしようもないクズで。(私は主観的には人民一般の味方ですが、個別女の要求の味方ではありません) 将棋連盟系のサイトにはアクセスしないようにしております。ほんと,心が狭いですが。おかげで不愉快なのはこちらですから自業自得でいいです。
 しかし,その分、この米長という男が余計に目の上のたんこぶですな。
 
 目の上のたんこぶといえば(余裕ですね)、これも幼少のみぎり習った熟語ですが、意味はお分かりですか。
 いまどきの人は知らないでしょうが、昔は剣術の稽古で頭を木刀でガンと叩かれるんですな。
 そうすると、ゴリラ男以外ではたんこぶができるんですよ。たんこぶは引くのに24時間かかりますのでそれがを見た他人は,そりゃジャマだろうな、と。
 
 などなど。
 秋は1年に一度しかありません。これからが秋たけなわ。2011年の秋、いい秋だとよいですね。
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悪口良口

2011-10-23 21:17:30 | その他
 こんばんは。今週は時間のかかる課題が3つ半ほどあり、ようやく2つほど終わりましたが、心も頭もあまりブログ従事っぽくなく。
 本日はまあ,元気ですよお、の、ご挨拶といいますか。
 お前なんか死んだっていいよお、とかそういうことではなくて、嫌なヤツならそれなりに、残念だね生きてるよ、ということを表すのがいい、と思うんですよね。そういうのが人間同士の生活だと。
 以上、ためになるブログおわり。
 
 
 今日の朝日新聞は、みなさんがお読みにならなそうな場所に編集委員だかが
 「国会で原子力事故の調査委員会を,アメリカの圧力で自民党が発案したのではあるが、作ることになった。画期的だ、これは国民の代表が政府と対決できる一歩だ」みたいに書いておりました。
    (何度も言いますが,当ブログの「 」は引用ではありません。)
 まったく、これが30そこそこの記者が書いたなら許せますが、顔写真をみればどうみても50.

 みなさまも騙されてはいけません。片寄らない委員会なんてありませんぜ。委員はみんなどっちかに片寄ってるんだから。(そしてこれも必ず2割くらい反対派をいれます。反対派の中で,浮き上がってる奴をいれるわけ。それによって常識がある人間ではついていけない議論をさせて,結局目論見どおりで多数決する、というわけです)
 右翼のうちガキたちは「朝日は赤い」だのといって、記者をテロったりしますが、何を勘違いしているのか。
 朝日は基本,体制派です。これは朝日はブル新だ、とかいっているのではなくて、朝日新聞の基本方針です。
 なので、菅が選んだ人間達の影響が怖くて、原発容認結果をなんとか出そうとするのがよい、といっているだけです。
 
 そんなことより、事実認識なんかは政府答弁まかせでいいから、それぞれの議員の価値観に合わせて、原発の代替エネルギー開発予定は、とか、あるいは原発がまともに動くようにどうするんだ、とか、政府を問い詰めるほうに力を注ぐほうが、よほど「国民の代表」的な行動です。
 はっきし、政府も国会も、自己保全の時間つぶしをしているだけです。
 時間つぶし。
 前に進めよ。
 
     昔読んだサラリーマン文庫で、日本大企業での「頭の良い過ごし方」というのが出ていました。上司が突飛な案を言ってきたら、むずかしいフリをする、なにも分からないフリをする、なにかをしようとしているフリをする、そしてそのうちあきらめるのを待てば,相手はあきらめるか異動する。それで会社は損失を免れることができる,と書いてありました。私も中企業ではありますが、ああ、そうなのか、といまさらながら感心しました。
     し、か、し。私は突飛なほうなので、こうゆうのは大嫌い。


 と,まずは元気を示す悪口。
 さて今日は、買い物で近くのちょっとした都会へ。「ちょっと」、しかしてない街ですが。
 ここでは毎夜、駅前で素人音楽演芸をやっておりまして。
 仕事で疲れて帰ってきて、電車の乗換えでいったん改札の外へ出るのですが、平日はその改札を出たすぐの場所で、ドへたなブルースシンガーがギターをガナラしてまして。
 もうかんべんしてくれよ,と思うのですが、何ヶ月も一向にうまくならないし、やめもしない。
 本人,わかってんのかなあ。
 
 なのですが、土曜,日曜ともなりますと格段に腕の違う人々がやってきまして、これがいい。
 今日も、新顔のおねえさんがギター鳴らしてまして、よほど見物人に交じりたかったですが忙しいので通り過ぎました。
 心の中で、いいぞ、がんばれよ、といって通り過ぎる通行人がいるんですよね。こちらも本人にわかって欲しいものです。
 あなたもそうなら、がんばってください。心の中だけですが応援してますよ。 
 
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またはyoutube3件

2011-10-15 21:45:08 | コーヒーブレイク
 こんばんは。どうも天候不順ですね。
 ここのところ字ばっかりが続きましたのでちょっとコーヒーブレイク。
 マイフェイボリットシング。
 
 わたしなんざ気が小さいもんで、youtubeってほんとに使っていいのか悪いのか、と思いながらも、パソコンの意義の5つめはこれだなあと思うのですが。

 まず第1件めは、「二つの手の想い出」;森山良子。
 これは想い出のフォーク集なるサイトで、これいいよね、みたいに拾った、というだけの意味。高校の時の、ノンポリティクスの人たちの影響曲。森山良子は中学生から好きでしたが、こういう軟弱なのは中学生わたしには関係なく、軟弱な友人達からの受け売り。
 ま、それで、懐かしのフォーク集→二つの手の想い出(森山良子)(→youtube)
で、右端の宣伝欄をみたら上記画像が入ってました。

 35年前の渡辺真知子。
 すがすがしいでしょう(ちょっとお肉ですが)(こんどのgooはアップロードもわけがわからなくて。ほんとはもっと目立たないようセットしたいのですが)。
 私が持ってるのはLPですので、こんなのがたくさん。内容はとくにどうということもない、ただすがすがしい歌々で、こちらも真面目な日々の息抜きに聴いていただけですが、中身はなくともまじめに若さに取り組んでいてよろしい。
 やはり若い人は一途でいいですねえ、そうでない人は若くてもただのガキですが。

 って、要するに年齢にこだわってますな。
 渡辺氏とか、ってまだテレビに出てまして。
 でるのはいいけど、誰であれ中年以上が若いときの歌を歌うのは困ったものです。
 本人は歌っているときは変わらないのでしょうが、それはわかりますが、歌い終わったら違う人間ですからね。そういうことは顔が証明している。
 っていうか、同じ人生を背負って私の前を通った人たちの歴史(的な顔)を反映してるんですね。私にとっては。
 人間、中高年ならそれなりに、そういう人生を渡った歌を歌えばいいのにね。
 歌ってる?
 んならそういう歌でテレビに出られるまでテレビに出なきゃいいのに。
 とはいえ、まずは先立つもの(生活費)なのかね。でもそれなら僕には関係がない。ケナすだけ。
 というつまらぬ自分の職業姿は今日はすぐやめて

 というわけで第3
 ”I could have danced all night”
 マイフェアレディです。
 昨夜、マイフェアレディ(シナリオ版)を読んで、こいつらの(主人公のイライザとヒギンズの)関係はなんだ、わけがわからん、と思って今日ネット検索したら、yahoo検索上から8個目で「ヒギンズ教授とピッカリング大佐はゲイだ」なる論が出て。上から8個目って、実質一番上ですぜ。世の中腐ってますな。今晩もイギリス国防省がゲイでクビって新聞にありましたが。
 ま、しょうがない、読んじゃったんで不愉快な気持ちでマイフェアレディは本棚に戻しました。
 不愉快で忘れましたが、こいつがいうには、イライザとヒギンズは父娘関係でロマンスなんかないというんですな。
 (原作者の)バーナード・ショーがそうした、っていうんだからしょうがねえ、、、
 と思った上でウサ晴らしに歌でも聴こうと「見た」上記の歌の youtube。http://www.youtube.com/watch?v=JZn4-BvJxr8

 裏切られたな、バーナード・ショー。
 こりゃ残念ながら、イライザとヒギンズで恋人同士だ。ざまあみろ。われわれ中高年はなんだって見えちゃうもんだ。
  (ほんと、わたし心が狭くって)
 教訓、机上のつじつまあわせが空論に過ぎないのは原子力発電に限らない。
 じいさん(ショー)がなんといおうと、この映画は年の離れた恋の話でした。

    いやはや、四方山話でした。


 P.S.
 すごく関係ありませんが、上記、空論問題で
 そういえば、飛行機の操縦は原発のように、ただの操縦席という机上の仕事で「空論の巣」になれるはずの領域だけれども、そうはならない。
 先進国操縦士は、ドブ板政治家のように地道に飛行前自機を見回るから。
 そうでなきゃ自分も死んじゃうからね。
 (後進国操縦士は、そういう時間的余裕も与えられないし、もともとそういう国的習慣もないので,事故で死んでしまう)
 そうしない空論責任者が従事する仕事は、存在してはいけませんな。
 と、時間つぶしの機会に読み返した、『機長の決断』に思いました。
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実証社会学の意義

2011-10-09 15:32:32 | 社会学の基礎概念

 というわけで、前回の流れですが、実証社会学、
 フランツ・ファノン、「地に呪われたる者」『フランツ・ファノン著作集3』、鈴木道彦・浦野衣子訳 、みすず書房、1969.
 「それのどこが実証社会学だって?」 と非難ぶうぶう、ですね。

 (なお、wikipedia:フランツ・ファノンは、植民地主義を批判し、アルジェリア独立運動で指導的役割を果たした思想家・精神科医・革命家)

 どうやらこの本は「暴力論の本」として流布されているらしい。
 <フランツ・ファノン 地に呪われたる者>でのYahoo検索だと、さすが初めのほうにはそういう誤解は少ないですが、検索を続けると次第次第に読みもしない人間の「書評」が増えてきて、「暴力反対」やらユダヤ教徒の悪口やら、これやらあれやらなんのこっちゃ、と思ってしまう。

 読んでない人、興味のない人には唐突ですが、この本は植民地での人民の現実について、「単に現状を述べただけの」告発の書です。
 呼んだ記憶のある方は、ちょっと記憶を呼び覚ましてもらって。
 Q さて、ファノンの暴力論とはなんですか?
 
 、、、思い出せないでしょう?
 そんなものはないもの。
 植民地での人民の暴力性を語る本書には、べつに特段の理論はない。
 理論はないが、フランス本国の高等教育を受けた人間による、フランスエリート文化を踏まえた、現実の洞察に満ちた叙述がある。
 この叙述自体が、それが現実であればあるだけ、フランス帝国主義には大きな痛手であり、また、植民地人民には大きな助力だった、ということです。
 まったくフランス美文は無駄に長くって往生しますが。

 実証社会学というものも同じ機能を持っています。
 「実証するから実証社会学だ」、と思っていたら大間違い。実証だとかいって、どんな生活大衆でも実感として知っている統計調査結果を「実証」して、なんの学問といえるのですかね。
 そうではない。
 それは人民に現実を認識させるから、大学で教える意義を持つのです。
 現実の提示は、それを許している者を、新たな行為論的判断地点に引き戻させる。
 
 植民地で人民が侵略者に1日中ぶんなぐられ、罵倒され、よつ這いにさせられ、これに反抗すればのどぶえに短刀をつきつけられ、性器に電極をあてられる現実の提示は、自由と平等と友愛の国、フランス本国に対し、賞賛への揺さぶりをかける。
 同様に、そうした侵略者の暴力に、「当然にも」暴力で立ち向かう人民の姿(この「当然さ」が本書で展開されているだけです)は、賞賛の揺さぶられた本国エリートの生理性に脅威を与え、揺さぶりの駄目押しをかける。
 一方、植民地人民は、こんな書物は読めはしないが、それでもファノンという本国系エリートが、彼らの暴力を当然の結果だといってくれているようだ、ということで力づけられる。
 
 同様に、社会学が文字にする老々介護の実態や、40のフリーターの実態は、これを(もちろん)知っていても適当なところでお茶を濁していた高級官僚に、野党議員を間に入れて、再考を突きつける。 
 ま、ウソじゃいけませんけどね。


 というわけですが、同書にも思想がないわけではなくて。
 それが、前回の「いま、公共性を撃つ」が取り上げた、下記。

「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。(…)市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである。」(本書より)

 鈴木道彦(訳者)が広めた、ファノンでは有名な文章で。
 この文章周り(第3章終わり)に、思想といえば思想が載っています。 遅れた人民大衆をなんとか政治の主人公にするための「諸条件」の推薦が。
 ファノンにとって、そんなことは現実にはできもしないことなど百も承知だけれども、白血病で死期の迫った身には最後の文章かもしれない、その祈りの文章が。
 まことに、これらの部分に祈り以外の何かを感じようとするのは、第1章も第2章も読みやしなかった人だけでしょう。
 鈴木道彦も、上記抜粋以上に言及はできなかった、というよりは、ファノンのために、無視した、というところですね。

 それはそれ。
 「橋を作る思想」に限れば、ファノンと、鈴木その他の日本人読者とのすれ違う論点は、植民地とは、マルクス以前の社会状況だ、ということです。
 そこには1個の国家ではなく、2個の違う「部族」状況があるだけだ。はるかに優れた武力と生産力を持つ侵略者部族と、遅れた「工場による教育」も受けていない植民地部族と。
 「橋を作る思想」が述べているのは表現こそ「市民」の行動様式ですが、それは、個人ではないという意味しかない。 ファノンが語っているのは、あくまで『遅れすぎた市民』である植民地住民のことでしかない。「植民地住民になんとか生の主人公たる意識を持たせたい」 ということがファノンの祈りです。その願いが先進資本主義国の国民にも祈られると考えるのは、残念ながら違いますね。
 とはいえ、部族として圧迫されている者が、部族として闘うしかないのと同様、地域人民として圧迫されれば地域人民として闘わざるを得ない、という意味では、前回宮崎さんのひいきも本書全体として同様のことですが。
 

 さて、今回は、実は特に乗り気ではなく、この人がいなければ書かなかったこの文。
 発語能力の高い、文の切れる鈴木道彦氏と、一緒に共訳者となっている
 白井愛(浦野衣子)氏
 なかなかなお人で。
 「このやろう、あたしは負けないからね」
 というまことに潔い一生を終えた方のようです。感心です、というと生意気なら(もう亡くなった方ですので)、感服です、というニュアンスでしょうか。
 ともかく、金嬉老を捨ててプルーストに浸る人より、ポール・ニザンと付き合う人のほうがましだな。(というのも挑発ですね。ご老人にいってもしょうがない。ま、悪口というよりはなっとくでけんな、ほどの意味で。人生いろいろ、くらいは知ってます)
 みなさまも、忘れられた共著者の方も注目してみてくださいませ。
 
 
(P.S.)
 余談ですが、標題の「地に呪われたる者」原題”LES DAMNES DE LA TERRE” というのは「インターナショナル」の「でだし」だそうで。
 http://gunka.sakura.ne.jp/mil/internationale.htm  によりますと
1.
  起て、地に捕われたる者よ!
  起て、飢えに苦しむ者よ!
  正義は火口で轟き、
  最後の噴炎をあげるのだ。
  過去を白紙に戻せ、
  奴隷とされたる群集よ、起てよいざ!
  世界は根底より覆えりて
  我らに適わざる事なし!

    Debout! les damnes de la terre!
    Debout! les forcats de la faim!
    La raison tonne en son cratere,
    C'est l'eruption de la fin.
    Du passe faisons table rase,
    Foule esclave, debout! debout!
    Le monde va changer de base:
    Nous ne sommes rien, soyons tout!

   (繰り返し)
  これぞ最後の闘いだ。
  団結しようぞ、
  明日にはインターナショナルが
  人々の繋がりとなるのだ。

    Refrain:
    C'est la lutte finale:
    Groupons-nous, et demain,
    L'Internationale
    Sera le genre humain.

 よい歌で。
 でも、昔、「他国の大衆とインターを歌っても、日本語での『ああインタナショナール』という箇所はハモるので感動する」 と聞きましたが、これだと(「ああ」がなくて) ハモれませんね。

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公共幻想

2011-10-01 21:02:12 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。本日はようやく来た秋に、震災遠慮の時節はずれの花火などを見てくつろいでいるところ。
 ほんと1日1日は大切に。
 
 さて、本日の趣旨。
 《アナーキズムとは誰もが平等だ、という認識を指す》、くらいにしましょうか。
 
 人間、自分が「自由でない」と思ったとき、とりあえず何をしますかね。
 「自由でない」時というと、たとえば今は大学3年生、ちょっと長年の遊びがたたって「このままだとどうもくいっぱぐれそうだ」みたいなときですね。
 ま、ふつう、その状況からなんとかしようと思いますね。
 私はそう思いますし、まず9割の人がそうしようと思うと思います。
 (ここで私は障害者や貧乏な方もそうだと思うのですが、余談ながら、それを思いつかない方が右翼。それにわざと思いつこうとしない奴が資本主義者、と規定しています)
 そう思いますか?
 「そう思う」と答えるとすると、思う対象は官僚や能無しの政治家や資本家も入りますよね。
 人は等しく同じ。世の中の事態を何とかしようと思う。
 この点で、みんな平等なのです。
 
 といえば、まあ8割くらいの方は、それはそうだよ、で、なんなんだよ、と思ってくれるかしら。
 で、続きの本体は、あなたの家の10Km先に原発ができたら、(あるいは1Km先に火力発電所ができたら、あるいは500m先に風力発電風車が回ったら)、という問題です。
 「そんなもんができたら、放射能で、(化学煤塵で、あるいは低周波で)死んでしまうではないか」
 しかし、「きょうび、電気がなくては人民も生きていけない。みんなのためだ、犠牲になる可能性を受容しろ」
 という問題です。 
 
 
 で、何の気なしに見る図書館の書架に
 宮崎省吾、『いま「公共性」を撃つ~ドキュメント横浜新貨物線反対運動』、新泉社、1975.
 というものがありまして。
 まあ、この本は、いいような悪いような、まあいい本だと思いますが、ネットで見ると起こったことは遥か昔のことなのですが、2005年に再版も出ているそうで(青土社)。
 本の中身は、昔、国鉄が(神奈川県)保土ヶ谷の住宅地に貨物線を通す、っていうんで、住民が超党派で反対したという運動です。保土ヶ谷というのは首都圏近くの東京のベッドタウンみたいなところです。

 本の趣旨は、というと、
 エネルギーの節約で、ネットで見つけた、私とは何の関係もない、かとうぎ桜子という人の文から孫引用させていただくと

『「いったい、関係住民を犠牲にする「公共性」とは何なのか。住民運動はいっさいの「公共性」を拒否するのか。「公共の福祉」と「地域エゴ」を対立させて考える限り、突破口はない。それよりも、この両者が対立させられてきたこと自体がおかしい、と考えた方が素直ではないか。そもそも「公共の福祉」が、住民がそれぞれ住んでいる地域がよくなる、あるいは悪くなるのを防ぐということと矛盾し、対立するということ自体がおかしいのである。」
(宮崎省吾『いま、「公共性」を撃つ』より)
地域住民が不安に思う「公共」はありえないはず。だから、むしろ「地域エゴ」から公共が始まるべきなのではないか―という趣旨のことを宮崎さんは言っているのですが、』(以下略。ありがとうございます。)http://sakurakohappysociety.blog56.fc2.com/?mode=m&no=453

 で、この本への左翼の評価といえば
 ”なんと先駆的な本か。われわれは国家からの公共性ではなく、市民からの公共性を作っていかなければならない”
 みたいな、ね。
http://www.winterpalace.net/pyl/05_04.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/2007/707/zahyojyuku2-3-1.html
 上記、いずれも市民派新左翼ですが。

 さて、ここで皆様にはちょっと公共性というものについて考えていただきたいところです。
 みんなで生きているんだから公共性は大事だな、、、
 鉄道は公共的だからやっぱ作ったほうがいいんじゃないか
 いや、そんなことはない、公共的でも別の手段をとることもできるかもしれない、だまかされちゃいけないぞ
 エトセトラ、エトセトラ。
 
 でも今はスペースが(ほんとは時間が)ないので、結論を急ぎます。
  
 「公共性」について考えてくださいましたでしょうか? この著者の宮崎省吾さんも、いまだに (別の市民運動直面しつつ) 悩んでらっしゃるようです。
 しかし、本当のことを言えば、「公共性」だとかなんとかいっても、実はそんなものを考えること自体が間違っている。(ふざけんな、お前が考えろっていったんだろ? すんません)
 国家権力は、「われわれが公平に見て公共なんだから、これは公共」といっているだけ。
 もう片方で人民は、「虐げられているわれわれは人民で多数派なのだから。これが公共」といっている。
 どちらもいいたいことを言っているだけだ。

 もともと「公共性」なんてものはありはしない。
 あるのは、
 第1に、ある人間達(たとえば資本家)の要望と、それを聞く国家権力。
 かたや、第2に、ある人間達(たとえば人民)の要望と、誰も聞いてくれないので仕方なく大声を出す一部人民。
 それだけのことだ。
 世の中は「公共」などという言葉のないところで動き、そして定まってゆく。
 誰が悪いのでもなく、それが社会というものだ。

 これについて、「エゴイズム」と主張しなければならないところが「公共幻想」なのだ。
 世の中に「エゴイズム」などないことは、きょうび、小学6年生でも知っている。
 「自分のためを主張するとエゴイズムっていうけど、みんなそれが自分のためになるから 『人のため』 とかいうんだよね。それってみんなエゴイズムでしょう?」
 「そうだよ、坊や。
 逆にいうと、エゴイズムなんてないんだ。言葉に意味が存在しないからね。
 人のことを考えるやつと自分勝手なやつの2通りが存在するばかり。」
 
 正統な人間の主張を「エゴイズム」などと自己卑下のごとく使われたら、われわれ人民全体が、自分達によって(後ろめたさにより)自滅するだけだ。
 イデオロギーとは、その時代の誰によっても認められる言説でなければ、何の力も持たないものなのだ。
 
 「原子力発電所を作ったのも公共のためであり、原子力発電所をなくすのも公共のためだ。」
 なる文言の、どこに意味があるんだ。
 いいや、意味などないのだ。
 公共という述語は、「僕はこれをしたいけど、それはみんなのためだよ、一部に、ためにならない人達もいるけど」という言い訳を述べているに過ぎない。
 そのうち「僕」がそれをしたくなくなったら、それは公共ではなくなる、というだけだ。
 
 
 というわけで、一番前に戻ります。
 人は誰でも同じ。誰が良いとか悪いとか、そんなものじゃあない。
 いくら私が左翼でも、人民の一部が主張すればそれは正しいなんて、そんなものではありません。
 国家権力が言うことのほうが、左翼の価値観であっても適切なことは山のようにあります。
 しかし、問題は、正しいとか正しくないとかいうことではない。困る人間は困る。どちらにせよ困る人間は困る。
 
 世の中というのはシンプルなものだ。
 『あいつがこうしたいというんだが、悪いけどきいてくれないか?』

 『向こうはいやだっていうんだよ、あきらめてくれないか?』
と、
 『ここは、お互い我慢するかわりに、それぞれその報酬にこうしたいと思うんだが、、』
の3通りしかない。
 これらはどちらがいいとか悪いとかいう話ではない。
 当該社会で、どちらがどれだけ理不尽か、という問題があるだけだ。
 私もあなたも「公共性」に遠慮する必要もなく、エゴイズムと「卑下」あるいは屈折した「賞賛」をする必要もない。
 
 
 
 実はこの運動は、私が大学院に入る時分、ちょっと民主的な社会学(・哲学)関係者の間で流行っていたのですよ。
 研究あり、行動のコミットメントあり。だれか教授連が組織立っていたんでしょうかねえ。私は単なる極左なので知りませんが。
 ある私の大学院の友人はそれを学部の卒論に。対して、私は冷ややかに。
 ここんとこ昔話が続きますねえ。意識してはないのですが。
   この貨物線課題、実はごく最近も、「あれ、あの人までが」、とびっくりした課題です。ま、この人はどうでもいい人ですが。
 
   でね、私の意見は30年経っても変わっていないというわけです。 Hjt様。 「世の中はカネ」 だなんて、矮小にならないように。 って、もう30年たって、、、


p.s.
 ふと、エリートのぼんぼんが
 「表象っていうのはそんなもんなんだよな、、」と発言するイメージが頭をかすめて。
 ぼっちゃん、わたしゃ一般論をいっているんじゃありませんぜ。
 公共という名で個人の自由を侵されることがあるからぼんぼんも気をつけな、といってるんです。
 ぼんぼんが左翼なら民主党政権に。
 ぼんぼんが右翼なら自称マルクス主義者政権に。
   痛い目にあったことのない男は、およそ国家と地方政権の役割は、公共の名のもとに個人に強制をかけることだ、という基本を知らないからね。  その点、女のほうがまだしもな気がするところですが。

  なお、標記宮崎さんの地方政権認識は正しい。そこが「良い本」という由縁ですが。
  人間、痛い目にあわないとね。   
 
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