リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

現代の芸術的風潮

2018-03-17 11:32:45 | コーヒーブレイク
 こんにちは。東京地方、昨日は桜がみるみる膨らんでいきました、ようです。私には遠くて見えません。今日は十分寒いですが。

 さて、ニュースは森友書換えなんでしょうねえ。なんだか関係ない財務省やら麻生やらが非難されて、よくわからない様相を呈しておりますが。ばかばかしいからケツまくっちゃえばいいのにね。
 今は関連情報が溢れてるね。ちょっと前メモとっといたのが、『赤羽一嘉衆院議員(兵庫2区)は「削除されたのは本質的な部分ではない」とし』云々。(神戸新聞)。ここが本質だから書き換えて、人まで死んだじゃないか。他にどんな本質があるというんだ。まあ「文書の『偽造』じゃない」、という趣旨かね。
 若人に解説しましょう。
 そもそもこの決定文書は、「なんだよ、こんな契約、イレギュラーだぜ。決定にハンコ押せったって会計監査院に指摘されちゃうよ。、、、あ、事情がほんわかと書いてあるや、そうか首相肝いりだっけか。経過は変だけど監査でも通すしかないと分かるだろう。数億円くらいなんてこともない。俺ら近畿の地方役人風情のせいじゃないからね。」と読ませるように書いたんだよ。で、上から「なんてことをしてくれたんだ、こんな文書を残して。お前らのせいだから書き換えろ」ってわけだ。と、ここまでは火曜日記載。すぐ遺書メモでこの文が正しいことが証明されてしまいました。(私は関係者ではありません、が、組織人間なら誰だって正しく分かることです。もちろん会社幹部のお詫び記者会見と一緒。みんな議員も官僚も新聞記者も全員が知ってて空しい言葉の応酬)。
 私は記事の詳細など読まないけれど、ネットで足立とかいうバカ議員の支離滅裂な記事で知ったところによると、実際もそう推移したんだとさ。会計監査院は指摘をご遠慮した、ってわけだ。そりゃそうするさ。それは誰のせいなのかね。捕虜を銃剣で刺した二等兵は戦犯で死刑になるべきか、って話だ。そりゃ本人ではなく命令者のせいで、命令者をたどっていけば天皇のせいで完結する理屈だがね。正当防衛という理論構成はそのために存在する。
 したがって、財務省も麻生も「やめたやめたぜ、ばかばかしい。アベ、一人で勝手にやれよ」と対応するのが正しい。
 
 と言ってるそばから、また議員による恫喝だよ、前川・中学校講演問題。どうせ議員が国の教育局長に「こんなのあいつにやらせてていいの。おかしいんじゃない? どういうこと?」とかねじ込んだに決まってるし(私は見ちゃいない)。で、局長は課長に「前川さんなんかやってんだってさ。議員うるさいから調べといてよ。答えない? 生意気だね、ちょっと脅かしといて」てなもんさ。これはシンプルだけどね、何も構造は変わりゃあしないさ。官僚が悪いわけなんかねえよ、政治家がそういう構造を作ってるのさ。
 
 ここんとこウサ晴らしが続いてるので、ニュースはやめ。
 本日は文化芸術。国立新美術館は至上の印象派展。朝日新聞を見ましたら、記事にルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が載ってました。で、この15歳のかわいいイレーヌちゃんは、その記事だと19歳でブルジョワ貴族と結婚したようでその19歳のふんぞり返った写真が載っていて。げ。いかにも、という。
 金目当てのルノアールの腕も偉いが、この写真を撮った写真家も偉い。くわばらくわばら。
 もっともその記事にはなかったと思いますが、今ネットを見たところ、イレーヌちゃんはユダヤ人で、その後、身内はどんどんナチの犠牲者になってしまったようです。あまり悪口もいえなくなります。
 
 さて、芸術の季節、土門拳賞も木村伊兵衛賞もうまいとは思うけど賞の趣旨として納得いかず、中原中也賞。相変わらず賞の趣旨として納得できないなりにこれはよい。
 マーサ・ナカムラ「狸の匣」。これは久々のヒットとしか言いようがない。
 いつもの谷内修三氏のブログによりますと

     「許須野鯉之餌遣り」その後半。

   見ると、池の底には、本物の池が沈んでいたのである。
   そこには無数の鯉が棲んでおり、ありとあらゆる罪の形を丸い麸にして食べてしまうと見物客は言っている。
   江戸時代の人、いつの時代の人か分からない人、もちろん虫や犬に至るまで、鯉に餌をやりに訪れている。

   「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」という立て看板がある。

   地上では若いころの身体に似せて化粧をする。
   水の底では、何もかも終わりがない。
   池の近くの公園では、老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って永遠に遊んでいた。
   鯉は、口元に寄せる麸にひたすら口を動かし続けている。


 相変わらず中也ではありませんが、これは抜きんでている。東大生の作品ですね。別に東大生が抜きんでているとはいわないが、自由に言葉を操る能力が焦点だ、という比喩です。昔でいえば、長谷川龍生賞でどうだ。あ、長谷川先生はまだご存命か。
 そうなのだよね、土門も木村も中也も古すぎ、今の時代にその賞があるということ自体がおかしい。そんな現代の風潮・思潮の呼び方がないかと探しましたが、ないようで。
 もちろん天才アラーキーや鳥居氏のような生まれつきの芸術家が途切れることはないとして、それ以外の頭脳派。これを『自己保全的日常加工主義』、と呼びたいと思いましたよ。キャッチ・コピー的には零点ですが、私は評論家じゃないんで。
 そういうわけで、たとえば林忠彦賞とか植田正治賞とか谷川俊太郎賞とか大岡信賞とかにしたらどんどん該当者が出るであろう。そしたら私はもう一瞥もくれないけどね。(植田先生は良いですが。今年の木村賞の人たちは植田賞でしょう。でもそしたら検索しない)。

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