リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

悪口なし

2019-04-27 14:56:42 | 断片
 こんにちは。いよいよ始まりましたそうで10連休。すごいですねえ。私の最長連休はおそらく7日。結婚休暇と忌引き。10日もあってうれしい人がいるんですかねえ。私はもっとばらけたほうがいいし、とりあえず今年は日数計算の人が心配です。来月数万も給料が減ってたらどうすんのさ、時給10円20円の昇給額など軽く吹っ飛んじゃうじゃん。ま、これは言わない考えない、がお約束でしょうね。
 というわけで、朝日新聞のコラムでは、「普通電車に乗って本を読もう」というのを推奨してましたのでご紹介。乗って本を読んで知らない駅で降りましょうという。私など景色好きなのでもったいないと思いますが、山手線一周くらいなら景色もつまらないのでよいか。料金は駅員さんしだいだそうで。スイカが効かないので駅員さんに話すと入場券代とか隣の駅代とかにするとのこと。後ろめたい方は、東京地方だと、『東京23区内の普通列車(普通車自由席)に乗り降り自由のきっぷ「都区内パス」』というのがあるそうで、1日中乗ってても750円だそうです。平均値で推理小説3冊は読めるでしょう。それもばかげて? そしたら花の庭園めぐりとセットというのはいかが? ツツジやフジ、時期によってはバラ。六義園とか古河庭園とか浜離宮とか新宿御苑とか、JRでいけるところはたくさん。
 なお、連合のメーデーは今日ですが、5月1日に共産党系が代々木公園、旧の社会党・新左翼系が日比谷公園でやりますので、こちらもどうぞ。
 以上、ためになるブログでした。
 
 さて、ニュース。その1。
 池袋で、もう言い飽きた、老人による自動車殺人。都知事小池が自分の使命をサボるものだから、東京でまた不幸な子供と親がでてしまった。助けられた命なのに。
 もういいかげん80歳免許取り上げが実現するのだろうな。人口密度100人以下の地域の年寄りたちはいったん取り上げて、事情により申請許可制だよ。80歳で禁止ということが公的に制度化されれば75歳で神経のイカれたやつらにも指弾が来る、というものだ。
 と従来からの主張は飽きたから今回は止めようと思ったのだけれど、ネットで「盛り上がる迷惑老人ネタ 指弾しているだけでいいのか」出所不明。署名しろよ。NEWSポストセブン(?)
 だと。なにいってやんでえ、反省でもすりゃ可愛いが、自分がいちばんエライと思っている年寄りどもになんの遠慮があるものか。署名すりゃどんな立場でいってるか知れるのだが。私の立場は簡単だよ、年寄りの絶対的敵。年寄りは早く視ね。
 
 その2。
 「経団連は新卒の学生の就職活動について、通年採用を広げていくことで大学側と合意した。春の一括採用に偏った慣行を見直す。能力を重視した採用の動きが強まるなか、大学を卒業した後での選考など複数の方式による採用へ移る。」(日経)。朝日もいろいろと広めてるよ。昨日なんか、それをやらなければ日本は潰れる、とかいう資本家の発言も紹介。経済学者より資本家のほうがよく分かってるよね。食い物だけはよく食べる老いぼれ馬はすぐ首を切って、文句をいわない若いロバと交換しなければ、これからは企業にはもう儲けなんか出ないよ。
 というわけでこちらへいらっしゃるようなサラリーマンの皆様には、少し給与体系がマシになるかもね。みんなが派遣社員とかなら、その給料で子供の学費が出せないと国家の労働力の質量が保てないから、もちっと給料を出さないとね。
 他方、こちらへいらっしゃるような学生の方々には、未来は暗いね。企業は自分に反抗するような暴れ馬を雇って調教してるヒマはないそうです。
 
 その3。
 朝日新聞では ”平成中に魚離れで購入量が半分に” なったかのごときいい加減な記事が。 まあ皆様におかれましてはバカバカしいので商業新聞など信ぜず、水産庁のホームページのエクセルでも見てお考えを。そこにはそんなデータはございません。といっても子供たちが生の魚を切り刻む、という姿は想定しがたいのは確かですけどね。
 で、これは入り口。
 平成中も語り継がれた「日本人の魚離れ」論。どこか「今の若いもんは」論と似た気がするのですが、ここんとこ日本魚業者の生活研究をざっと見てて、そうだよなあ、と思ったのが魚消費量。魚消費量なんてやっとこの数十年にあがっただけで、日本じゃ昔から魚なんて海岸以外では食べてない、という確信。ニシン御殿のいわれのように、魚なんてみんな肥料に取っていたわけで。しかも食べたって腹いっぱいになんかなりゃしない。日本人の主食は米(麦、粟、ヒエ)と味噌(汁)。魚は小魚の塩漬けか佃煮をほんのちょびっとでどんぶり飯を食う。それが日本食。
 ずっとおかしいと思ってたんだ、私の実家は中産階級ですが、子供の頃は魚なんて一匹の半分ずつ。イワシがあるときは12、3センチの小イワシを一人2匹あて。他に食べるものがないから魚食民族とはいえますが、今のようにブリやら鯛やらサンマやら豊富に食ってるのに魚離れ呼ばわりなんてありえない。
 そのうち知ってる人もいなくなるとウソが本当になってしまうので、書いておきます。
 要するに戦後豊かになって、タンパク質が買えるようになったとき魚しかなかったし、物流も整ってきて内地でも食えるようになった、それでたまたま量が増えたという事情。高度成長と共に肉の値段が安くなって、肉のほうが美味いし腹持ちもするから、当然のように魚消費量は頭打ちになり肉に取って代わられた、というシンプルな事実経過であります。魚離れは当然。
 
 と、食べ物の話を見渡してて思うに、ほんと人間て地球生物を勝手に改変してますよね。
 10センチ以上の生き物の全てを、自分たちの食えるものにとっかえている。動物園に生存している動物以外は、右を見ても左を見ても人間の食べ物ばかり。海を見ても山を見ても、食えないと思えば虐待し、食えるものと取り替えている。これは異常事態だと思うなあ。気味悪い。地球という名の牧場。鳥はうまくすりぬけてるけど。
 他方、どうせそんななら希少生物がどうのとあれこれいうのもバカバカしいとも思うものであります。人間が死に絶えればまた復活するんだからね。ま、1万年後人間がいるとは思えないし、食われなかったネズミから新しい哺乳類が発展するのにも1千万年もあれば十分でしょう。まだまだ地球は地球。
 
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悪口数件その他

2019-04-20 10:10:43 | 断片

 こんにちは。先週に引き続き、土日休の方には絶好の盛春ですね。といいながら、部屋の中はまだ初春で毛糸のカーディガンが離せませんが。糖質制限のためか私にしては寒い。
 この間、毎回のように、「1、2日何もない(ことが蓋然的に高い)日は幸せ。」と思った瞬間に何かが起こる、ほんとに厄年以外の何ものでもない、もう静かに暮らしたいよ。とは思いながら、気がかりにも大小があって障害は薄く、今回は主観的には久しぶりに悪口三昧。

 まずは、平凡な感想。
 「絆創膏呼び方マップ」なるネット情報があって、元はといえば方言学者の篠崎晃一氏の調査のようだが(と隈の調査結果)、もうめちゃくちゃになって広がっている。いいのか、出所の分からない情報を拡散して。は、いいとして、中央にパッドのある絆創膏、あなたさまはなんて呼びますか? 私は生後27歳まで東京都の住民でしたが、キズバンと呼ぶのですが。通じるし。で、篠崎教授によるとキズバンと呼ぶのは富山県だけの特異な現象だと。東京はバンドエイドと呼ぶ、と。そりゃ正式に書くときは「バンドエイド(ジョンソンアンドジョンソン)」と書きますけどね。傾向で面白がるのはよかばってん、商品名を方言扱いするのは無理があるぜよ。

 さてニュース。その1。
 政府が高給取り高齢者の年金減額を止めるそうな。今は高給取りは年金支給が減額されるのですが、当然だね、年金は自分のカネじゃない。が、「厚生年金が減額され、高齢者の就労意欲をそいでいる」「在職老齢年金制度がなかった場合、フルタイムで働く60代の男性が約14万人増える」(毎日)と。こんなものはただの言い訳。そんなやつらが働く必要は一切ない、いやなら辞めろ。他の若人が働いて税金を納めればいい。働きたければ若人と同じに最低賃金で働け。そしたら年金減額などないのだから。つまりは高給資本家共の言い訳。

 その2。
 萩生田光一・自民党幹事長代行が、地方議員の厚生年金加入を認めることについて「少なくとも普通の生活ができる制度は、セーフティーネットとしてあってもいいと思う。」(朝日)と理解を示したそうな。なんじゃそりゃ。議員は国民年金に入れるのだぞ。サラリーマン以外の日本国民は、すべて国民年金(しかもらえない)なのだぞ。有難いだろう? それになんの文句があるのだ。サラリーマン以外は「普通の生活」ができないとでもいうのか。
 ま、そうなんだけどね。しかし、いくら本当のことだって、てめえらで設計している制度について、余りにも無責任というものではないか。立法者だぞ。議員なんてやめちまえ。
  
 その3。
 新しい紙幣の津田梅子肖像が左右反転してるって。ネット住民がぎゃあぎゃあ騒いで。ばっかじゃないの。紙幣画は写真じゃねえぞ、肖像画だぞ。図工の授業で絵を描いたことさえない余裕世代。ネット見てると偉そうに「許せない」だのと、お前は津田梅子のなんだよ。何の関係もないくせに遺族が悲しむだとか。だったら津田なんか使うのはやめちまえ。
 まあ、こんな現象は簡単なことです。「マニュアルに書いてないことをやったから死刑だ。文句あるか。俺は偉いんだ。俺は毎日マニュアルどおりにやってるぞ」。こう言いたいだけ。日本の抑圧された幸せ国民は。犬小屋でわめくな。自分で世界を切り開いてみろ。絵の一枚も描けないで。こうゆうやつらに支持されてるアベも、いいんだか悪いんだかね。

 その4。
 朝日の1面大・論壇、「福祉や社会保障のサービスを受けるには、役所に出向き、面倒な書類をそろえ、自分で申請するのが原則だ。しかし、必要な人に必要な支援が届いていない。このままでいいのか」との問題意識。全くそのとおり。
 それになんだか呆れた回答が。鵜沼憲晴氏。皇學館大学教授。面倒な申請をすることは「人間らしく生きる権利、自分らしい人生を送る権利が国民にあるからです」だと。ずっこけた。自分らしい人生を送ることは「実現に向けて自分自身が準備したり努力したりすることと表裏一体なのです」。新品まっさらの「自助論」だぜ。問題はこれが資本主義経済哲学教授ではなく、社会福祉学教授だ、というところ。しかも朝日新聞が取り上げて。資本主義の腐朽はそこまで来てるのかねえ。
 皆様にだけお教えしましょう。サービス制度の申請制は、自分でしなきゃ役人がいくらいても足りないからです。それ以外にはありません。他人のことなど、調査権のある人間が、老いも若きも資本家もサラリーマンも、みんな含めて100人に一人はついていなきゃ分かるものではありません。後はただの言い訳。社会福祉学者が言い訳に乗るんじゃない。自分でできない種類の人間だから弱者なんじゃないか、そんなのは社会福祉の基本の基本。その基本への助力が現実には通らないから朝日が記事にしているのに。思うにこの教授はそんなことは知ってていってるんだぜ。知らんでいうネット住民よりもっとひどいさ。自由主義者には悪いが、福祉の放棄は資本主義の放棄でもあります。共産党がさぞ喜ぶことでありましょう。
 というと、自分の力で生きられないネット住民は弱者なのか、というと、ま、哲学的問題は残るけどね。
 
 その5。 (”5”もあるよ。気がかりでいっぱいだと、”2”もいかないのですが。
 「福島廃炉に外国人労働者 東電「特定技能」受け入れへ」(朝日)
 ほらほら見ている前で怒涛のような外国人の下層労働者化が。「日本人が働いている場所は分け隔てなく働いてもらうことができる」そういうことで作った法律だから当然なのだが、当然そういう、人の嫌がる底辺に溜まっていく。しかも日本語が分からないからどんどん被爆する。「日本語が不十分だと危ないから雇わない」なんていうのは、この世の中、常に表面だけのきれいごと。せっかく希望に溢れて日本にやってきた人たち、の家族は、遠い国で不治の病に倒れた夫や子供を嘆き悲しむ。見れば分かる非日本語話者の底辺化は「層」となり、言語と顔つきの「区別」が「差別」となる。いやもちろん資本主義とは当然そういうものです。知らぬは資本家と労働貴族ばかり。
 
 その6。
 上野千鶴子の東大入学祝辞が少し話題。「大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっている」「東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです」。昔取った杵柄(きねづか)で懐かしそうな檄(げき)を飛ばしておりましたそうな。 
 結局女性運動というのは現状を生きる人間を肯定しなければできない。ざんねんなことです。要するに「女の私は資本家になりたいけどなれないのはなんで」という悩みを解決しないといけないわけです。というわけで彼女的には体制的に適材なところで一生近くをすごせたという、こちらはおめでたいと評すべき事態だったとわかります。左翼とリベラルは、かくのごとく取り組む対象が違うのだから、敵対してもしょうがない。これは人間たちのことではなく、マルクス主義者の自称する「イデオロギー闘争」のことです。イデオロギーはマルクスの指摘どおり、すべて体制の歪みを反映する性格を持ち、その性格のために有効に作用するのです。なのに自称マルキストときたらてめえらの純粋培養の無価値なイデオロギーだけを追求するのですな。社会上無意味になるのも当然です。 
 
 で、最後。
 「日田市西有田の民家の玄関先に、生後間もない女の子の乳児が置き去りにされているのを住人の70代女性が見つけ、119番通報した。」「住人の女性は「泣き声が聞こえたので玄関に回ると赤ちゃんがいた。なぜうちなのか」と驚いた様子だった。」(大分合同)。こんなニュース、選択、変?  いや、このうちでよかったな、と思って。親子悲惨な熊本慈恵の赤ちゃんポストよりも。よかったのレベルが下すぎ? う~~ん、どうでしょうか、、要は、長年生きてて感受するに、この70代女性という人はよさげな人だ、ということで。
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「社会事象の機能」という修辞術

2019-04-13 17:16:06 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。春ですねえ。北風が吹いても若葉の匂い。今日は久しぶりに遊び。横浜にチューリップを見に。お祭りは明日までですが、まだまだ花は盛りです。

 さてニュース。
 『世界報道写真大賞に「泣きじゃくる女児」 米の移民政策転換促す』。(AFP=時事)というのがあります。『ホンジュラスからメキシコ経由で米国入りした後に拘束され、身体検査を受ける母親の傍らで泣きじゃくる女児。当時2歳。この写真は2019年の「世界報道写真」コンテスト大賞に選ばれた(2018年6月12日撮影)』。【翻訳編集】 AFPBB News
この子はその後、米国内の集合住宅で暮らすようになった、と。ジャネラ・サンチェスちゃん。まだまだだけど、でもよかったね。 
 
 次。ブラックホール初撮影だってさ。ほんとかね。CGとどこが変わるのか知りたいものです。朝日新聞には物理学者の村山斉が、「私たちは星のかけらでできている」って。人間を作っている元素は宇宙の星でないと作れないから、という、初めに言い出したのは誰か知りませんがそれはそれで広めたい常識ではあります(佐治晴夫『からだは星からできている』くらいをあげればよいのか)。
 しかし、実はそうじゃないね。「人間は宇宙と同一である。」 が正しい。「星のかけら」論は現象形態にすぎない。本ブログ2017-07-29 にて喝破したように、エネルギー世界には時間など存在しないのであって、どちらが「先」などという概念はない。エネルギーは融通無碍(ゆうづうむげ)。宇宙は一つ。過去も未来もない。遠いも近いもない。ブラックホールも今、現に、あなたの手のひらの中にある。
 もっともこれは本題ではありません。
 
 さて本題、「「社会事象の機能」には修辞以外の意味はない」。『定義と規定性』問題の続きにあたります。以下の例の場合は「社会の構造」かな。同じことです。
 今回は元はと言えば、林淑美「昭和イデオロギー」2005年。これは本屋さんなら、アルチュセールと戸坂潤を基礎にして昭和文学のイデオロギーを切開した本、とでもいうか。ご本人いい人みたいなので悪口をいうつもりはありませんし。
 ただ、本書の重要さは、戸坂潤やご本人様が作業したような、体制のイデオロギーがどうやって人々にとって支配的なイデオロギーになるか、という例解の繰り返しなのであって、アルチュセールがやったような分類法じゃないのですよ、ということを確認したい。林氏のアルチュセールの使い方は、ただの権威付けにしかなっていない。
 50年前であれば多少なりとも社会学をかじったマルクス主義者にとっては、アルチュセールの「イデオロギー諸装置論」など(注)、通説の焼き直しにしか過ぎない。私など(マルキストではなくとも)戸坂は18歳の時点で既読だし。「国家とイデオロギー」福村出版を読んだのは新刊のときだったけどすでに専門人なので、2度読む気はしなかったから(appareilって院試に出るかな、とか思ったのが思い出。5年後捨てた)。
 なんどでも例解を表現するのはよいことなのです。なにしろ、戸坂から林氏まで70年も経って、かつ、頭脳が生きているマルクス主義者などもう数十人しかいない現状なのだからしょうがない。もちろん、焼き直しというのは理論面のことで、ご本人の仕事としては実証的テーマとして初出なのでしょうから、問題ない。
 で、こんなことはどうでもよく、本題。
 このアルチュセールの定義設定のたぐいの社会制度の機能の指摘、あるいは一般論では「定義付け」、には何の社会科学の前進はない。彼の論の実質を評価的に言えば、「このように簡単にいえるよ」と提出した名前付け、にすぎない(があるだけ評価はするが、その説=独断が引きずらざるを得ない「まやかし」の分を差し引くべきでもある)。格好付けではなく人民への説明に終始した戸坂とは百倍(百分の一)も違う次元である。「名前がついていないと、人間には事態が捉えられない」という指摘も最近新聞でみたが、だから無意味とは言わない、がそれを科学の一端と思うのなら大間違いだ。フランスではそれによっておしゃべり斯界(しかい)の名士になれようが、それは貴族社交界の出来事であって、科学とは一切関係がない。たしかにその定義を2、3行書いて、あとの文は思いつくまま語れば論文になるのだから、大変に「実践」的である、がそれが文学評論ならぬ社会科学で有効なのは、フランス社会学=評論界だけだ。だって、「そんなのウソだろ」という反旨に答えられる内容がないのだから。「結果的にそうだ」では、後付けの評論に過ぎない。アルチュセールのように「それは支配階級の装置だ」と言ったら、「じゃあそれは支配階級がイデオロギーを意識的に広めてるというのか?」という問いが当然に出る。アルチュセール(長くてイヤだ)は「そうだよ」というかもしれないが、「そんなわけがあるか」というのが一般人で、「アルよ、それは一面的だ」とかという批判が出る。「一面的である」という批判は、実は「根本的に間違っている」と言っているに等しいということが分かるのは、学部3年生以上か。 
 私だったら天才だから、「そうだよ、そんなものは支配階級がそう設定して、かつ、今もし続けているのさ」と言えますが、私以外に、現在でさえ、そんなことを言うことができる理論家が存在するなどとは思っていない。
 うそだと思ったらお近くの機能主義者や構造主義者に聞いてごらんなさい。「それは、システムがそう機能するんだから視点が違うね」「それは構造なんだから、自然にそうなってしまうんだよ」。絶対それ以外答えられない。いずれもその理由など根拠付けてしゃべることはできない。ま、新聞で評論するのがせいぜい。
 子供たちには難しいか。子供って、教科書の文を覚えるのが勉強と思い込んでるからね、アルチュセールの論文を引用すれば理論社会学でしょ、って。って、いま自分で書いてもその思い違いの根の深さにぞっとするね。まあ教授も卒論くらいなら合格にしてくれるからね。
 大事なことなので何度目かで言うけれど、社会科学というものは、現象の存在を指摘するものではなく、なぜその現象が現象するのか、という理由を明らかにするものなのです。
 「ほんとかよ」って、言わせてもらえば、現象の存在なんかたかだか2、30年社会調査してきた学者より、その現象の只中で2、30年毎日毎日苦労して生活してきた一般人のほうがよく知っているのだよ。その一般人が学者に求めるのは、その自分の現実の由来なのだよ。だからその変え方なのだよ。若い学者は本当に何も知らない。

 (P.S. 今ちょっと気になって戻ってみましたが、下記(注)のアル君でさえ「現実の由来」ごときものを述べたかに見えますね。そうでないことは「その変え方を述べられない」というところですが。論理上、下記論旨では、現実を変えるには学校教育を変えるしかないですもんね。
 そうではない。規定性というのは唯物的な現実の配置そのものではないのです。なぜその配置が存在するか、という、その理由なのです。ほんと、あぶないあぶない。褒める人と言うのは、対象をうまく書いてあるものです。)

 
 
 (注)https://blog.goo.ne.jp/hikarukonno/c/36f90c85ca5075ff2be38e2f987d245a様から引用させていただくと
 「彼が提起した「国家のイデオロギー装置」概念は、国家の支配がわれわれの日常意識の中にまで及んでいることを明確にした概念として、評価されています。つまり、われわれが日常生活の中で持つ何気ない意識は、学校やメディアなどの国家のイデオロギー装置によって植え付けられたものであり、それによってこそ現行の国家体制が維持されているのだと言うことを、アルチュセールはこの概念を使うことで明らかにしたわけです。」
 たぶん、今野晃様でしょう。
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「国家所有」という巨大な虚偽意識

2019-04-07 17:31:39 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、昨日は強い南風で桜の花びらが蝶のように舞ってました。風の音が怖いのが難。まだ花が強いので、今日も十分残っています。今年は小学校の卒業式と中学校の入学式は、両方とも桜で飾られたことに気づきました。

 さて、ひさびさにためになるブログ。ちょっと余裕を戻してきました。
 隈のお料理ポイント。「ごはんに合う」とは何か。
 御想像のとおり、旨みと塩。しかし、これがなかなか具体的には理解されていない、だろう、と。
 たとえば、カレー。みなさまは本格インドカレーレシピではライスと食べないはずです。いや、俺は食べる、って、これは理屈ね。インドカレーレシピには塩など入っていないはず。しかし、ナンやチャパティと違い水っぽく容積の大きいライスは、塩なしでは到底食えません。ご家庭でスパイスから作る本格インドカレーが不味い理由です。いやうちのは美味い、って、だから理屈。ココイチのは入れすぎですが、カレーには塩。高血圧用の日本カレーなど存在してはいけない。それでも食べるならご飯の代わりにスーパー販売の塩入りナンで。なのでこわいのがカレーうどん。これ、塩分最悪。 
 同様に、注意したいのが麻婆豆腐。こちらは本物の豆板醤やら甜麺醤やらを入れて作ればよろしいのですが、瓶詰めの豆板醤エキスにしろ味噌を混ぜればよいだろう、と思ったりすると間違い。中国味噌は塩分が白味噌の2倍以上あるから米にあうのであって、白味噌と豆板醤エキスでは到底ご飯用には足りません。いくら唐辛子や花椒を追加しようがダメ。
 塩の威力は大きいのであります。
 
 というわけで、今日は終了。
 本日は明日で、桜花は十分あるけど、もう世間は花見というより新緑の候。以下は、柄の悪いお客様用。  
 
 さて、興味は無いのですが、いちおう、元号が令和だって? みんなほめそやして、平和だねえ。「どうせお前なんか使わないだろうからどうでもいいだろう」というとそうでもない。税金と病院の書類では使うんだね、これが。でも使いそうな市役所系は使わずにすみます。進歩だね。まあどうでもいいのですが、みんなどうやって年の換算をするんだろうねえ、スマホなしで。
 で、生意気じゃございませんか、「「令」の字形、下の部分「マ」でもOK」(毎日)だとか。平和部族が。なにがOKだ、余計なお世話だ。日本人が日本語を使うのに許可がいるのか。(ま、ここは「欧米人」でもいいが)
 まあせいぜい安倍配下は「和シム」がいい。何がビューティフルだ。令はオーセティックだよ。「お墨付きの」というのが正しい訳だ、権力によるお墨付きの和。漢学者はよく教えてやってくれたまえ。
 
 ああ、悪口言い飽きた。
 それで本日が明日なのは、いろいろと仕事ができたのはそれとして、下記の文でテーマ設定に揺れたせいです。
 そもそもはしばらくぶりにひっくり返した副島種典の「社会主義経済学研究」。副島氏は今の柄の悪い人は知らないかもしれないが、まあ良心的な社会主義経済学者。その人が「広義の経済学」論でエンゲルスを批判している。まあこれまでは関係ないのでスルーした箇所だけれども、現段階で見ると「それ違うじゃないか」と思って。思ってエンゲルスの原文に戻ると、「あれこっちも違うじゃないか」と。で、皆様のためには物事を整理したほうがよろしいと思ったわけです。
A) 世の中には「もっとも広い意味では」という経済学規定がありまして、特に旧来のマルクス主義者の間で昔から論議になっております。エンゲルスが反デューリング論で展開した”昔から今までの社会の発展段階を研究する学問が経済学”という論で、これをマルクス主義者は未来まで引っ張ろうとするのです。この結果彼らの間では、「経済社会構成体」とかいう、ただの現象用語が一人歩きする。現象用語なのだが響きがカッコよすぎるから素人はなにか深遠な意味がある学術用語だと思ってしまう。で、素人はそのまま政治活動家になってしまうからいつまでもその誤解が続く、という事態が生じました。これは、「ウクラード」がただの制度組織という現象用語なのに、歴史家はなにか意義のある本質規定だと思ってしまうのと一緒です。といって、両者とも何の規定性も持っていないものなので、既に死語ではありますが。 
 ともかく、この広義の経済学なるものの存在が、ただの過渡期であるはずのソ連邦経済体制が「社会主義体制」として研究者からお目こぼしとなる事情の、重要な基礎となるわけです。
B) これに対して狭義の経済学が「資本論」で、宇野学派の副島氏は資本論を原理とし、社会主義経済は別に主体的に切り開くものだ、というわけです。エンゲルスは狭義と広義を一緒くたにしている、と宇野経済学らしく不満を述べております。実際、ソ連邦経済体制を非難できたのは宇野派(とその影響下の新左翼)くらいなのだからしょうがない。
C) しかし、本来、諸規定は過去の経済事象からも汲まなければ資本主義の歴史的規定が一般的真理になってしまうわけで、そんな馬鹿な話はありません。この点エンゲルスは原理的には正しいのです。
D) のではありますが、しかし、本来は、デューリング氏が原理的には正しいから話が込み入ってくる。氏いわく「奴隷制や賃金隷属制のような制度は、ふたごの兄弟として暴力による所有をともなうものであって」と正しく指摘しているのに、資本論に誤魔化されたエンゲルスは、「暴力は搾取を保護するだけのもので、その原因ではない」「(搾取の土台である資本と賃労働との関係は)純経済的な仕方で、まったく暴力によらずにできあがったものだ」などとのたまう。困ったものだ。もっともそのくらい入れ込んでないと資本論第3巻などできようも無いのだから、禍福はあざなえる縄の如し。

 とまあ、ここまでが整理。結局4つともみんな悪い。って、隈がE)になってるだけではありますが。しかしここで「 E)」を叙述すると、到底終わらないし、ここでは必要がない。
 これらの4つの議論というのは、まだ見ぬ先の未来の体制をどう規定するか、ということに集約されるのです。デューリング氏は「暴力さえあれば可能だ」と言うし、エンゲルスは「いやこれは経済的必然だ」と言う。スターリニストは「現在出現している現実の社会主義国家を尊重せよ」と言うし、宇野派は「いや、それはこれから主体的に苦闘して作り出していくものだ」と言う。まあ、困ったものだ。現実はどれも自分のいいようには動かないし、経済的必然として動くわけでもない。どう動くかは隈は既に三部作で述べたのでそっちを見ていただくとして、ここでは過渡期体制と見まがうものがどうしてできたか、その最後の瞬間について述べておこうかと。それでこれらの4つの議論は空しく散るので。まず何もかもなくさないと、未練がましく言い続ける人たちもいるでしょう。
 
 というわけで本日の題、『「国家所有」という巨大な虚偽意識』。
 もちろん国家所有は法制度だから、上部構造とはいえ虚偽意識ではありません。が、この概念を使用し言語伝達する人々にとって、この概念によって頭脳構成されるものは「国家所有」という国家の派生観念に他なりません。
 それでいいじゃないかって? だめです。国家所有というイデオロギーが、現実での発現以前にその当事者たちに伝えたのは、権力者たち、すなわち国家と地域の武力権力者と、国家権力者によって私有権を付与された資本家と、農業的共同体権力者という、それぞれの私的所有者の権力と権限を自己の物とする、という巨大な私的所有の変換作業だ、という認識です。もちろんそれは、武力性がゆらぎ、国家範囲の一部とはいえ権力者の統治地域における圧倒的人民が統一しうる場面においては、可能です。 
 この連続性により、「革命」という社会の転覆が、スムーズに歴史上実現したのです。
 すなわち、革命に参加した当事者は、自己のやることと、将来に現れる制度が、明確に自己認知されていたのです。革命や新世界の青写真などは要らない。これまでの権力者の姿に、自己を投影すればよい。これが未来の姿へのなんの議論も無く、その手順だけ意思統一すればよかったボルシェビキの勝利の根幹なのです。これはもちろん、経済過程だけの問題ではない。といって政治家の意図の問題でもない。さらにこれだけの結果で社会主義体制となるはずもない。そして残念すぎることに、政策当事者の苦闘的努力でどうなるものでもない。圧倒的人民の質の問題なのです。

(P.S.その後、富岡裕が「社会主義経済の原理」(1977) の中で同様に、国家所有という虚偽意識と批判しているのを発見。ちょっと驚きました。そういう時代には、トロキズム関連の教養というのがあったのだろうか、、、)
 

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