リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

浮世の雑談

2015-10-31 17:47:04 | 断片
 こんにちは。本日はハロウィン、といってもこちらには関係者の方は来ないでしょうね。まあもうすぐ冬だ、ということです。今日までクールビズだとかいってるやつはくるくるぱーですね。真に受けてワイシャツで通勤するやつもばかはばかですが。
 そこで前回文、少し訂正。WAWAJAPANNのワイシャツの件、問題なしといいましたが、洗濯してアイロンがけのときよく見ると、脇の合わせがざんばら髪状態。端的に言うと、裏返しと一緒。私のワイシャツはみな安物ですが、これははじめての症状ですね。とりあえず生地の糸をちょきちょき切りましたらまあ通りすがりに気づく人もいない状態になりますが、これ毎回やんのかねえ、、
 昔の長崎屋サンバードのワイシャツはとてもよかった。非ネクタイ用なら(襟がすれて切れないので)30年は持ちました。ここんとこ40年目のサンバードシャツがさすがに次々に擦り切れてますが (なにしろ体型が変わらないので、着れる)。 高度成長をとげた時代の労働技術の完成と一流会社の余裕ですね。すばらしい。
 ただ、すばらしい会社はみんなつぶれるので理不尽ですが。売り物が40年着れたら、そりゃまあつぶれるのが資本主義。
 長崎屋まだある? 名前だけあってもわれわれには関係ないし。
 
 さて、本日の朝日新聞、木質バイオマスの活用を、とかで木を燃やして燃料にする、村等の取り組みを(大々的に)ご披露。村人いわく、(山村である)「この村を生かすにはこれしかない」。
 しかしさあ、(実は広葉樹林の)当該村的にはそうかもしれないが、いやしくも天下の公器、政府権力に物申す全国新聞のいうことかねえ、、、
 木はさ、まずもって燃やすもんじゃねえよ。
 江戸時代、鉄づくりや炭づくり、塩づくり、その他でさんざん燃やした結果、どこのお山も丸坊主。このままじゃ何も作れないぎりぎりで、ようやく石炭様が間に合ったのだよね、って本に書いてあるよ。名前忘れたけど(そもそも初めから覚えない)(というのも敬意がないなあ、という気もしたので言い訳しますと、「イギリスの深かった森が消えてみな牧草地になったのはイギリス鉄の生産による」 という有名な話が昔からありまして、これはその日本バージョン、というと、理論上は要するに「検証」扱いになり多少敬意が消えます。いえ、「初めて」は検証でも重要なのは承知しております) 「東海道五十三次の絵を見てご覧」 て書いてあった。背景のお山はみんな禿山。わたしは、読んで「そうか」と思っただけですが。燃料にすれば里山はみんな柴山に変わる。
 本来、全国紙的には、主張すべきことはそういうことではないでしょ。
 材料としての木々を、どう採算がとれるように配慮するか、うまくいけば(いずれもっと元高となったときの中国への)輸出品目として確立できるか、そういう論陣を張るのがほんとでしょ。木への物理的なアクセスをどう作っていくか、材料の規格処理をどう制度化するか、こんなことはみんな本に書いてあるし、林野官僚だってみんな考えてるでしょ。足りないのは予算と法制化努力だけ。あとはそのための世論を喚起できるかどうか。
 ウケなきゃ書かない新聞なんか、健康書と料理本しかない営利図書館と一緒だね。
 
 ついで、これはテレビ。オバマがイスラム国掃討のためシリアにアメリカ軍特殊部隊派遣を決定、だってさ。ほんと兵隊さんは従順でよいね。国家権力者が「死ね」といえば、「しょうがねえ、死ぬか」てなもんですね。
 恐ろしい話だ。
 こんなことが日常的に起きている民主主義『国家』アメリカ。
 明日の民主主義『国家』ニッポンですね。政治家というのは、マスコミに向かって深刻そうなフリをして実はわくわくしながらそういうのが夢なのです。
 てめえでいけや。
 
 ところで橋下、いつまで政治してるんだ。早く辞めろ。
 
 などと例によってくらい話を。
 そこで、お口直し。「当たると評判の、指の長さで分かる性格判断」なんて話題がyahooに。中指の次に長いのは、薬指? 人差し指? 両方同じ? の三択。こうゆう当たる占いというのはもちろんどれもみんなに当てはまる。答えの三通りは、
 ・チャーミングな愛されタイプ
 ・頼りになる自信家タイプ
 ・争いを好まない平和主義者タイプ
 みなさん、「ほんとは」 3つともあてはまるでしょ? そう思えば、みんな自己認識、間違ってるよね。
 おまえは、って、もちろん全部当てはまります。いや、これほんと。
コメント

浮世の話

2015-10-24 15:23:17 | 断片
 こんにちは。まだまだまことに良い気候。ただ、陽が傾くのが早くなって来ましたので山登りの方はそろそろご注意を。
 さて、WAWAJAPAN、1190円の長袖ワイシャツ、木曜から着て、まずまず着れましたことをご報告。楽天口コミは、「良い」レビューも「悪い」レビューもその通りでした。ちゃんとほつれた長い糸もついておりましたし。さて長持ちすればよいのですが。あ、これからの季節は話は別です。ネクタイ締めると擦れるかも。私は首筋のタグは痛いので取りましたし。
 でもワイシャツなんて綿45%でも10年前は900円で売ってたのにね。中国の人件費が上がった、というはずです。
 
 本日は、ここんとこ堅い話が続いたので、浮世話を2、3。
 桜井だのなんだのの年寄りどもが、文化の日を明治節に戻すといっているだけの話を朝日が一面トップにでかでかと書いておりました。さすが左翼の顔をした右翼。何千万円分もの広告費がタダ。ほんと、右翼の活動は楽です。国会論議じゃあるまいし。こちとら何の手出しもできないのに。
 ところで、天皇誕生日、昭和の日っていうんですって? 知らんかった。民主党が賛成したんだってさ。さすが左翼の顔をした右翼。きちんと要所は押さえてますね。だから安倍もはじめから9条のみ改正をしてりゃあいいのに。ぜったい民主党も協力してくれたって。ま、よくもありませんが、安倍とかって、大きなつづらはガラクタばかり、って基本。
 右翼っちゃあ、ジュンク堂もたかだかの不満分子に脅されて節を曲げたって。
 本屋に中立もくそもない、ということもわきまえられないんだから、本屋側が。図書館じゃあるまいし。自分たちはなんのつもりなのか。まあ、客商売だから、ともいえなくもないが、事情は違うから怖いね。ほんとはこわかあないが。
 
 左翼の実働部隊もおんなじようにすりゃあいいのにね。みんな頭が良すぎちゃって、そんな馬鹿なことはできず、けっきょくバカ。
 こういう実につまらなく論理も正当性もないうじうじした腐った人間の「社会活動」が、実は着実なボディーブローになるんだよね。攻撃しているほうはなんの苦労もせずに、一発一発また一発。運動の実効性の基準は私も書いたことがなかったね。陽の当たらない路上で機動隊なんぞとけんかするより、何百倍も影響力があるのに。大きなつづらは重くて歩けなくなるだけ。国会の政治家はさすがに実験的実践の歴史があるので、「バカ」といわれてもやるべきことはわかってそうだけど。
 あ、ついでに、朝日の例のような反運動の実効性の基準も書いたことがなかったね。
 まあ、それらも一種上部過程の問題なので、次回配本にご案内。
 
 ん? また堅くなったか。
 話はかわり、川崎の図書館にない名探偵コナン、今の通勤先の所在区では持っていてようやく84巻まで読めました。
 思うに、これを満足に収束させて終わらすのって不可能に近そう。あっち、こっちに手を広げすぎ。今どこまで進んでるかは知らないけど。
 ドタバタって終わらすんじゃなきゃ、今までのエピソードのつじつま合わせに15巻は必要だと思う。
 実際は終わりが見えてから15話、5巻くらいで終わらさざるを得ないかと思うと、「未完」というのも選択肢じゃないか、なんて思ったところです。ペラペラしゃべってあれよあれよと終わるより、想像に任せるところを山のようにしつらえて「終わった」ほうがまし。結末? あれしかないよね。あれしかないのをどう豊かにつなぎ合わせるかはお手並み拝見のところ。
 
 
コメント

社会概念の制作

2015-10-17 16:00:55 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。秋冷の候、もう東京世間の通勤で半袖は私だけになってしまい、しかたなく通販で開襟用長袖ワイシャツを買いました。1190円。楽天で人気ナンバー1。安いからでしょうがポリエステル75%。到着しましたが、まるでレースカーテン。だいじょぶかねえ、首、切れないかしら。

 ところで、通勤下車する都会の田舎駅は近くに保育園があって、朝、30代のスーツの男が3つくらいの男の子と4つくらいの女の子と一緒に降りるんですが、、、変でしょ? 普通「子を連れて」って書くのに。
 こいつが男の子はカバーして歩くのに、まだせいぜい4つか5つの女の子に一切目もくれない。いっさい、です。女の子はうつむいてなんとなく後ろをついていくだけ。ここんとこはエスカレートして、男のガキが元気に跳ねるせいもありますが、まったく置いてきぼり。なにしろ一瞥もくれない。昨日など、駅を出てすぐ姿が見えなくなってしまった。女の子も立ちすくんでしまいましたが、なんとなくうつむいて歩いていきました。ひどかないですかねえ、、、継父なんでしょうか。継父ならまだいいかと思うくらい。ほんとの父ちゃんのことを思う余地があるから。保母さんも知ってるんだとは思いますが、こういう事情にいつも気を使ってなきゃいけない職業にはつきたくねえなあ、と思いました。1ヶ月で病気になりそう。もう見たくないので来週は次の駅にまで乗って、そこから戻ろうかと思います。
 ばかやろう。お前なんか結婚なんてするんじゃねえよ。

 というわけで、私など世間から隠れて頭でも使ってるくらいしかできないので、今日も前回の続き。
 あ、その前に、TPPで関税撤廃、って、ふと、どのくらい他で税金を上げる気か気になりました。
 何でも関税収入は8000億くらいとのこと。
 中国からはまだ関税を取るんでしょうから、政府が損するのは3,4000億くらいなんでしょうか。生鮮食品(コメを含む)の消費税率8%据置き損くらいです。関税も昔と比べたら驚異的に安いですね。もっとスイカやメロンに関税を(!。なんじゃそりゃ、という感じですが新聞談)かければ消費税を10%にすることもない、ということで。お金持ちの方が払ってくださいます。
 
 さて、全体社会と個人はつなげられない、という話の続きです。
 そもそも全体「社会」なんかに構造なんかない。
 なに、「社会」って。
 もともと、社会概念なんてものは、支配者が使いたい概念なのです。人民を支配するとはどういうことか、どうすればうまくいくのか、支配者「私」の次の行動は何であるべきか。(←社会「観念」は有効だけれども、概念「規定努力」はほぼ無意味、という趣旨)
 
 うそ? そんなことはない。
 庶民は、「社会」が何だろうが、一切、関わりなく生きられます。現にみんな生きてるし。(私の本でも説明はしても規定していません)
 理論社会学者の世話になった庶民は、息子を大学院に入れてもらった親を除き、誰一人いません。 
 誰の役にも立たない代わりに、誰にも迷惑もかけませんから、「社会」は理論者の思い通りに「作られ」ます。
 ここで「思い」とは、理論者が求める賞賛と優越のことですから、理論は、個人の境遇で決します。(境遇といっても、生活で手一杯の庶民が言い伝え続けた生活資料の供給体制のことではなく、ただの行為論的環境のことですが、境遇のほうが、「自分」の主体性が感じられそうで。)
 
 さて、そこで、「境遇」は個人の育ちの問題ですが、その育ちをクリアした人には、改めて外部環境が待っております。
 「理論家」への環境構成者の期待です。
 要は、内容からすれば、その時代の自由を拡大するものがウケる。
 自由といってもいろいろですが、宗教権力規制が強ければ、そこからの自由。貧乏の中に消費物資の拡大の灯びが見えれば、その拡大。国家権力が自分とその仲間を圧迫していることに反抗しうる勢力が見えれば、その勢力の拡大。こうした当時の要請に寄与するものが求められます。

 ついで、誰がそのイデオロギーを使うか、という話がでます。イデオロギー? 「理論」が運ぶ価値判断のことです。
 端的に言って、近似的に「読者」ですね。
 
 というわけで、各国の近代の社会科学理論は、誰でも気がつく特徴をもちます。さすがに「現代の」とはいいませんが。
 アメリカ;一言でいって実用本位。読者は一般大衆。
 開拓者的意志の前提とその意志による成果を表わし、強調して欲しい。「何が正義か」とかですね。
 フランス;一言で言って観念遊戯。読者は上層階級。
 遊べる観念をサロンに供給して欲しい。インテリみんなで議論しよう、てなもんで。まあ、サロンがサンジェルマン・デ・プレの喫茶店の場合もありますが。
 日本;一言で言って社交組織上のおしゃべり。読者は社交組織員。
 自然を壊すまでもなく、自分たちの環境をうまく設定することに成功するかどうか、が問題。それ以上は余計なことなので、読書世界は序論、序説だらけ。それで用は足りてるんです。
 ドイツ;一言で言って自己満足。読者は政治的集合体代表。
 日本と同様ですが、ドイツではそれ以前の権力体である宗教組織との対決のために、序論で満足してはいられません。宗教に成り代わるシステムが国家や政治体から要求され、現実への武器となります。
 イギリス;一言で言って実際知識。読者は中産階級。
 世界で自分たちが一番偉い人間であり、宗教との共存体制もある人間に、人が生きる哲学は不要です。その代わり、現実に階級も差別もありますから、それらを無視することもない。要するに中庸になれます。

 どうでしょうかね、こんなとこで。
 もちろん詳しくはその他の諸要因を含めた問題です。しかしてその他の諸要因の影響力は、この問題にとどまるわけでもなく、本格的には巨大な展開になりますので、やっぱ、こんなとこ。(今回でなく)次回の出版作品でトータルに提示します。

コメント

外部視点の解消の努力

2015-10-10 11:20:16 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。花粉以外には文句のつけようのない気候の今日この頃、また連休です。政府がいくつも連休を作った時期はあまり連休にあずからない仕事だったので良さがわかりませんでしたが、有ってみるとやっぱり良いものです。労働者政党は、連休は国民の義務にして(その分日給が減るので)最低賃金を上げるよう公約して欲しいものです。
 
 さて、ノーベル賞が地方国立大卒業者に。よかったよかった。昨今で一番良いニュース。以下、しばらくはお金のない意欲はある高校生テーマ。
 なんといってもおかげで勉学をしたい人間が自宅から通える可能性が増えたのは一番良い。下宿代は大変です。
 しかも、教育学部を出ても、授業料が最悪の医者以上に世界の人々を助けられる、という、ほんとに良いニュース。
 勉学の好きな方はお金がなくともがんばればだいじょうぶです、と無責任にいえることはうれしい。
   まあ、それでも大変ですが。
 
 ただ、彼らの頃はもっと条件が良くて、国立の授業料はずうっと安いし、しかも育英会の奨学金も、教師を3年もすれば返還義務は消えたはず。
 なんでだ、って、過去の経緯というものでしょうね。知りませんが。
 昔(戦前)から貧乏でも学校の教師にはなれたのです。授業料なしで、寮で生活すれば飯つきで、大学も高等師範にいけば実質大学ですし。(wikiに、さらに文理大へくのもタダ、みたいに読めますが、これは知らない。)私らの頃も、東京教育大(=高等師範・文理大)は貧乏な学生が集まってましたし。
 なので、地方大の教育学部や学芸大(=地方でいう教育大)は、勉強の好きな人は誰でも行けたのです。それでも、女だと行かしてもらえなかった人も知ってますが。

 なお、さらに、財務省はもっと国立の授業料を高くするとか。何が一億総活躍だよ。貧乏人はどうでもいいのか。なんのための消費税だ。
 (あ、いちおう。国立は授業料半額免除の制度があります。「全免もある」って、そりゃ生保レベルだよ。農家の方とかだと活用されている方も皆無ではないでしょうが)
 なお、東京に出てくる方は、学生寮のある出身県もかなりあるはず。時代で多少贅沢化していそうですが、勉強のために大学へ行きたい方はご利用されたらと思います。
 
 以上、ただの解説でした。じゃね、また。
 
 といいながら、本日の話題。実は、社会学の視角の続き。ちょっと難しいので、普通の方には失礼。
 社会の外部から、社会の内部の社会行動を見る視点として、現実の社会関係と行為者が抱く(はずの)行為の意味をむりやり連動させようという試みがあります。理解社会学のことです。
 隈がいつも批判する、行為を他人ごととして解釈する方法です。
 これはもちろん研究者の人生そのものへの無知とかその時代の価値規範とかの反映になるにすぎず、あとから物笑いの種になるだけなので無視すればよいのですが、しかし、研究者とは、所詮外部の人間ではあります。その人間が内部のことをどうわかろうかという方法論上の問題は何百年経とうと残るわけで、おかげさまで「ウェーバー方法論の研究」などというものが今でも繰り返されるわけです。
 で、このときどうするか。
 まずは、人間にとって確かに正しいものは、何か。デカルトですね。
 「我思う、ゆえに我あり」
 社会学も同様です。
 「他人が何をどう行動するかは不明でも、少なくとも、私の行為は(正しく把握さえできれば)確かに存する」。かくて、現象学的社会学です。 (あ、ここ難しいですが、それが分かる人あてで、すいません。)。
 といいたいところですが、そうではない。
 残念ながら、フッサールの立場とは異なり、いわばフッサールの言葉を引き継いだ現象学的社会学は、行為者の主観しか問題にし得せんでした。たかだかの、「私」の主観から何が分かろう? 人はそこまで天才か?
 これではダメです。
 私から他者へ理解を進めるためには、人は誰にでも通ずる行為の一般理論を定式化しなければなりません。(無論、その後の他者による彫琢がなければ一般的真実には近づきません。)
 これが(( )内を除き)この文脈でパーソンズ(とシルズ)が試みた仕事です。
 もちろん、個人行為者から社会体系へは進めないので、パーソンズは、個人と社会を折衷した巨大な誤謬の理論を残したわけですが、意図は正しかったのです。
 
 ということを、追加しておきます。
 
コメント

社会学の基本視角をめぐる論点

2015-10-03 20:37:04 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日はあちこち運動会。運動会の日っていつも暑いですね、そんなわけないんですけど。暑いのに加えて抗花粉症薬のせいか、なんか不調。
 世間では、公共施設を使って政府の批判をすると、もう「弁士中止」 が入るようですね。姫路市にて。「公序良俗違反」だそうです。事が起こった7月には気づきませんでした。報道ありましたか? いずれにしても、もう少し向軍事国家のテンポは遅かろうと思ってましたが、私の認識が間違ってました。
 今回はエセ「自治体」も撤回したようですが、時代というのはこのように、なんどもなんども(反動のものでも) 運動を繰り返し制度を揺るがしながら、動いていくものです。いつもいいますが、法則というのは両刃の剣。やったもの勝ちは、左右両翼、お互い様なことをお忘れなく。
 あ、たまのお客さまへ。私には、エセでない自治体がある、という認識はございません。
 自治体政権というものは政府の出先であり、あるいは市長の私兵であります。どこにも民衆意志の反映先などありません(昔、そうでない状況もあった、と教えてくれなくていいです)。町会長意志の反映先も都会では消えつつありそうですが(というよりは町会長が若くなって、普遍性を帯びた=国家的になった、のかもしれませんが)。さらに、自治体行政というものも、人々の環境の同一性を害するもので、嫌いです。
 
 さて、本日は前回の続き。前回は「集団」 を素材に、社会を見るときに2つの見方が「あってしまう」 ことを言いました。
 第1に、主体的行為の過程たる社会関係と、第2に、「外部の」社会過程から見た観念という2つの見方です。
 で、だからどうかなるのか、という問題。
 説明を書いていたらだらだら長くなって、書くのも読むのもつまらなそうなので、まずは結論だけ書いておきます・
 
 1 この第2の見方によっては、「正しい」認識には達しない。「正しい」「正しくない」の判断は、それが行為に役立たないためである。この場合、それは「1面的」である。
 
 2 第1の見方を続ければ、行為者の日常に戻る。
  日常は行為者にとって正しいことだが、にもかかわらず、それだけでは「本質的な」認識に達しない。「本質的」「現象的」の判断は、それが行為に役立たないためである。この場合、それは「影響する他の事象への認知」を欠いている。
 
 3 したがって、実証社会学では、この両者の視点のズレを無意識に認識しつつ、事象の相互連関を明らかにする、という立場から、相対的に事実認知を深める。
 
 4 しかし、「3」が表すものは相互関連であって、その時点では、事象の因果連関は確定していない。
  因果連関の法則は、行為者の日常という第1の内部の視点と、環境を把握しなければ生きていけない人間行為者の第2の外部からの視点とに共通の行為法則を規定しつつ、その共通の規定がある状況下において存在した場合に、どんな範囲で諸社会関係の変化が起こるかを、「経験的に」=「実証的に」 確認し続けることで、真理に「近づいていく」 ことで近似的に得ていくものである。
  
 というわけです。そりゃそうだ、ということでしたらよかった。何しろ説明がめんどくて。それではそういうことでまた来週。
 
 で、以下はしょうもない説明。まずは、「1」です。
 たとえば、村人Aが、隣の(敵対的な)村落を見る場合、とりあえずこの「外観」から認知する。外観とは、ここでは、冬になると武器を持って襲ってくる人の集まり=集団、というものである。
 これはこれで役に立つから人間の認知なのだが、では、その外観以上のことを「推測」する場合、この認知の不十分さが露呈する。
 この集団Bは、村人Aにとって危険なものである。およそ危険なものは、これを構成している人間も危険であるに違いない。この集団Bの構成体員は、野蛮人であり、この集団の本質的機能は、隣村の侵略である。
 ところが集団Bの内部過程に立ち入って見ると、人間は仲がよく、魚を取って、いつも男も女も笑い合って暮らしている。彼らにとって村での行動は、精神ストレスの発散だ。ではあるが、この村は貯蓄可能な作物が少ない。海の荒れる冬場は、急に食料不全におちいる。かくて、隣の村から食べ物を強制的にもらう、というわけである。
 
 さて、この集団Bは、野蛮で隣村の侵略をする、という規定で、人は何か得るものがあるだろうか?
 早い話で片付けよう。「いいや、ない」。
 
 外部の人間は、(間違った言葉を使えば)、現象をその機能により把握する。
 (間違った言葉)とは「機能」 という言葉のことである。
 理論社会学者はこの言葉が好きだが、しかし、本当は「機能」ではない。人は現象を、自己がとらなければならない「対応行為」 によって把握する。隣村が攻めてくると思えばおちおち寝てもられない。こうした環境に対応すべき主体的行為のことである。
 さらに、たとえば「機能」なる概念は、それがある場合に正しくとも、行為者にとってはすでに無意味である。
 「機能」と呼ばれるものは、行為者にとってはその社会事象が自己の将来行為に対する意味であって、評価者の位置がその事象の内部、外部を問わず、決して万人に妥当する社会事象の性質ではない。
 ここで、その行為主体と客観主体とを混同するところに、外部視点の社会学の非科学性、客観的無意味、がある。

 それでは「2」はどうか。これはわれわれ普通の人間の普通の環境認識である。それでは不十分と認めるときを経て、人は「社会学」なる学問への期待をもつ。しかして、日常視点そのままでは、行為者の「豊かなる認識」も、「使えない」。

 そこで「3」である。
 このような状況で、実証社会学者はAやBの客観状況を調べ、それらに関わる人々への聞き取り、アンケート調査等を行い、その社会の状況と、その人々の意識を明らかにする。それは個別の認識でしかないが、社会学者は同様の調査を続け、一つの命題に達する。「村落では冬季の食料調達に不安が高ずると、村内の向戦争圧力を高め、隣の村を侵略しがちである。」
 さらに研究が継続されれば、「一般に狩猟経済の地域社会では、冬季において社会間の戦争が生じやすい」 という一般命題ともなるかもしれない。
 これが先にこのブログで言った、大方の実証社会学者が一つや二つは持つ、貴重な命題の種類であり、実証社会学者の数がカバーする、圧倒的な有用さである。
 
 しかし、本来は、「4」である。隈社会学である。
 とはいえ、現状、隈の理論を受け入れる権力が、社会学初学研究者に認識されない以上、これはないものねだりである。
 だいたい、隈は、生きているうちにそんな権力が生ずるとは思っていない。それで十分である。とりあえず私は忙しい。今月もアルバイトである。
 
 というわけで、まだ関連論題は種々残っておりますが、微熱さえあり、風呂で消えるかと思いましたが、気分とはうらはらに下がりません。基本、暑気当たりでしょうが。というわけで、また後日。
コメント