リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「あとがき」の部分削除

2020-06-27 14:12:40 | 「歴史としての自由」
 こんにちは、九州は例によって雨前線が止まってしまったようで、大変そうです。東京地方はそこそこ梅雨で。梅雨はいいけど暑くて蚊が出てきて困ります。ダム貯水量は春の雨続きで十分なようですが、肝心のプールは中止のようですね。暑いわプールはないわ夏休みも2週間だわで、子供もなかなかたいへん。
 若人の皆様方はせっかくの土日も天気が悪そうで。うちのような田舎の近くでも、あるいは田舎で空いてるからか、路上テーブルが出てきました。一人二人で曇りの日なら路上テーブル狙いもよさげです。「外気の中でランチ」をテーマに、どうせ空いてるその近くのマイナーなミュージアムを「ツマ」にするのもよさそうですね。
 
 さて、ニュースは、そこそこいいニュースもあって、アメリカ・ガム向けミサイル迎撃基地建設撤回とか、パーム油発電所建設計画(京都府舞鶴市)中止とか(そんな非常識な計画があって、しかも公けの舞鶴市が推進していること自体驚き。原発市舞鶴も毒食わば、だな。)。しかし、いいニュースはわざわざ私が取り上げる必要もなく。あ、そういえば、辺野古もアメリカが地盤がフニャフニャじゃいやだ、と言い出したそうな。粘り勝ちかな。
 で、グアムをガムと呼ぶと自党にも怒られるんだそうな。世の中偉い人ばっかり。ま、いいや。

 というわけで、本日はニュースなしで。
 なんか役に立つ話ないかね。親戚にお中元でサクランボを贈ろうとしたら、もう佐藤錦は締め切りだって。紅秀峰というのは間に合うそうですが。去年、昔の職場の人たちと山梨でサクランボ狩りというのをしてみました。何種類もあるのですが、初めのうちは佐藤錦が無難に美味しかったです、そのうち口が飽きてどうでもよくなりましたが。東京で安売りのイチゴのあまおうととちおとめで、あまおうが好きな人は佐藤錦がよろしいかと。まあなんの品種でも高かければ美味しいでしょうが。
 以前、(東根市の隣の)村上の知り合いが、サクランボなんてめったに食べられない、といってましたが、産地では自家用の木があるんでしょうね、長野の知り合いは子供の頃はサクランボもリンゴも木にまたがって食べていたとのことです。豊かでいいですね。
 ではまた。寝冷えにお気をつけください。
 
 ****
 さて、本題は、つまらないだろう話で。
 次回作品、ようやく意を決して「てにをは」校正に入りました。そんな簡単なこと、とお思いでしょうがこれがなかなか難物で、1枚に数箇所も訂正がある。目が見えないからキーボードが打てないんでしょう。もう英語を扱うのもあきらめないといけません、キーボードの配置を覚えないまま来てしまったし。
 は、いいとして、あとがき。どうも退嬰的(たいえいてき)で暗い書きようの上に、悪口が多い。さんざん苦労して読んできて悪口を聞かされるんじゃあ、読んだ人もたまらないだろう、とはいえ、言わないのも業腹(ごうはら)で腹立たしい。一人で我慢して作業してるのに、このうえ自分の中に収めておくなんて限度外。
 そうだ、削って、それをブログに載せておこう。
 というわけで、その部分を載せさせていただきます。
 
 唐突ですが、以下
「今は誰も語らない事実がある。
 説明を聞かずとも唯物史観を知っている年代、私たちを最後とする年代にあるのは、社会の貧困が周りの同級生たちを襲って同級生の苦しみや悲しみを見るという共通の経験である、と信ずる。伝統私学のような特殊な、隔離された学校生活を送った人々を別として、私たち、少なくとも「高校にまでは行けた私たち」は、小学校や中学校でそうした同級生と自分たちとの差あるいは区別を、共通に知っていたのだ。ある者は失礼だから、ある者はそれを語ることは傲慢だから、ある者は既に自分の内では「そんなことは問題ではない」から、もうその事実を語ることはない。それだけに研究者たる人間は客観的にそれを伝えねばならない。後続の若い者たちが知っているのは、たかだか昔どこかでデモが起こったという、表現された出来事にすぎないから。
 さて、そんな時代も忘れた人々は、「富裕化」された時代を語る。すでに「資本論など関係がない」時代を語る。今でも資本主義に侵略された国々では、人が共同体の生活から追い出されて、家族もろとも貧困で死んでいっているにも関わらずだ。共同体に追い出され、うまく工場に雇われ労働にありつけた、ではその労働が作った商品はどこへ行く? 日本へ、だ。豊かな日本は貧しい者が作った安価な商品を手に入れる。当たり前だ。そんなことは経済学の常識、われわれの世代で高校へ行けた者たちは全部、一度は知った知識だ。で、そんな者たちが今出す結論は? 「この世は豊かになった」。これでは貧しく死んだ者たちは誰ひとり浮かばれはしまい。

 人は、歴史に参加する。あるときは下部構造に規定され、あるときは、本章で明らかにしたように、仲間たちとともに在ることによって、、、(以下略)」

 これを「あとがき」の前にくっつけると当初のあとがきが再現されるという寸法です。
 
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『世界資本主義の論理』

2018-08-01 16:21:30 | 「歴史としての自由」
 (前回、ぶつぶつと悩んでいました件、改めまして)
  次回論究あらすじ

「歴史としての自由」
   -世界資本主義の論理

【第1部】 マルクス資本論の誤てる構制
       (略)

【第2部】 歴史としての自由

 社会で自由に生きるべき人のその生き方を規定するものは、消費物資をいかに入手するか、という様態である。この様態の変遷により、人には「歴史」が生ずる。
 有史以後のすべてのこれまでの社会の歴史とは、国家による強奪の歴史である。他の弱小地域を飲み込み、吐き出し、自国の国家構成員と自ら認める人間のみのために消費物資を掻き集める歴史である。したがって、国家が存在する限り、それが計画経済国家であっても、他国の消費物資の強奪は常に国家の目的である。
 歴史とは階級闘争の歴史だ、などというのは、国家内特権階級の戯言に過ぎない。つまりマルクスである。アイヌの歴史を見ればよい。これを階級闘争で説明して見せよ。
 にもかかわらず、この国家の強奪の歴史を終わらせるには、特権者たちが構成する国家が必要なのである。国家は外部から崩すことはできない。外部からの努力は「他国」という自国の、領地拡大にすぎない。

 さて、その強奪の闘争はいつも、武力に特化した一群の人間がいる側、したがって、多くは武器の優越した側、さらに多くは、生産力の優越した側の勝利に終わった。大和朝廷の地域豪族恭順化を見よ。ところでこの勝利した一群の勢力の内部においても闘争があった。それが階級闘争である。階級闘争は当該一群の勢力を蝕み解体し続けた。それは外部の勢力にはできない作業であった。
 内部闘争とは何か。それは武力の優勢の如何を超える闘争である。内部は内部の一部分を多数部分に変改しながら、武力の保持者を追い詰めていく。
 武力の保持者は武力的構成を味方の者で固めたいが、そうはいかない。武力構成員は、命を掛けざるを得ず、そんなお人よしは、やっと社会の名誉で固めた幹部だけである。人民はそんな武装勢力の名誉を削りながら、行為共同性を広げ、武力を追い詰めてゆく。これが国内の歴史である。現先進資本主義国のブルジョワ革命までの一連の過程を見ればよい。
 では世界史における国外地域はどうか。国外は当該世界の資本主義から排出され続ける「資本主義」性によって、国内の行為共同性を広げてゆく。この国家以前の地域をも再構成し行為共同性を作る、奴隷的平等状況の創出拡大こそ、資本主義の歴史的使命である。後進諸国の歴史を見よ。
 
 すなわち、人間は自己労働による消費物資獲得という、自己の自由を広げる。他方、共通した社会的位置におけるその連帯が絶対多数派を作る。これにより、支配を、国家を、連帯して打ち破る。
 と同時に、自由を知った民衆は、労働力の商品化を阻止し、国家の支配を許さない。資本主義がなければ国家は自前の経済を作らなければならないが、民衆は、自前の経済を持つことで、国家の復活を許さないのである。
 と同時に、自由を知った民衆は、自「国」の経済の安定のため、他国の自由を求める。
 そんなものは理念に過ぎない? そうではない。この歴史段階は人類がはじめて手にした「理念が実現される」段階なのである。行為共同性しか生きる制約のないこの時代、人は下部構造から解放された彼の自由な精神を生きることができるからである。
 ここに他国においても社会主義が生まれる。世界資本主義の代わりに世界社会主義が生まれるのである。といっても資本主義という原始的蓄積を通り過ぎていない後進国にとっては、いったん歴史の凍結が行われるわけだが、この国家での社会主義の漸次的進展は、資本主義の終わっていない現在の解明課題とはしないことが許されよう。
 この歴史的大団円の前段の過程において、『消費物資の獲得』契機を資本主義が作り、『連帯』の契機を身分・階級闘争が作るのである。

 これにより、人は第1に、歴史的価値としての諸闘争を知る。なぜ敗北にすぎない過程の中の死に価値があるのかを知る。その敗北的闘争こそが、支配者に対して、人間が進むべき方向性を示すのである。
 と同時に第2に、人は「目的としての平凡な人生」の価値を知る。なぜ威勢のいい階級闘争に価値があるのではなく、先進国の多くでは当たり前の、「しかし平穏な」暮らしに価値があるのかを知る。平穏で自由な暮らしこそが未来のいつの日か、全世界の人類の誰もが手にすべき価値である。

 ということを、人が知りたくなくてもしょうがない。
 が、それこそが、生きながら、何人もの死を確かめつつ、何十人もの人に助けられた人間の残すべき仕事である。
 
   、、、って、もちろんまだできてないの。まあ、来年だね。
   (ちなみにわざわざマルクス資本論と書いたのは、そもそもエンゲルスは間違っていないからです。ぜんぶ引き回しにあっただけ)

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