リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

フイルム雑感

2012-01-29 15:33:59 | コーヒーブレイク
 こんにちは。今日も寒いので手抜きの my faborite things

 コダクロームⅡ。KⅡ.

 コダックの外式カラースライドフィルムのことで。あーあ、コダック潰れたって。
 フジフィルムの破廉恥的人員解雇に怒り、これからフィルムは全部コダックだ、と決めたばっかりだったのにい!
(フジの悪口書いたっけ? 腹いせに書こうとした記憶はあるのですが)

 KⅡというのは、私が風景も撮っていた頃、写真雑誌やカレンダーの感光材料で一世を風靡した、重厚な色のカラーフィルムです。
 スライド用なんで、私は使わないうちに名前が変わったり、さらにはもう作らなくなってしまったようではありますが。
 それでもいつかこいつないしその後継フィルムで綺麗な風景写真を撮りたいと思っていたのですが、、、もうどうしようもなくなってしまいました。
 
 もっとも、フィルムがあっても綺麗な写真も撮れなくてねえ。 撮ろうという気になる風景がない。
 家族ができてからは、人の入らない風景はつまらなくて。
 (コダクロームの持ち味は重厚さなので、人物を撮ってもしょうがないものがありまして。重厚な人物なら別ですが。暗いイギリスの紳士とか。でもそれならそれで、アグファという暗いフィルムが(過去)あって。)(だからコダクロームで桜を撮るのもいまいち。桜はコニカ。サクラカラー。でも、これももうない) 
 
 おおまかにいって趣味の写真というのは、「時よ止まれ お前は美しい!」って場合に撮るもので。
 この30年ほど、風景に時が止まる必要を感じない。
 なんといいますか、風景は自分の世界の一部に過ぎなくて。「ぼく、次の瞬間に行くから。次の瞬間が欲しいから周りの世界は止まんなくていいよ。」 みたいな。
 「自分(たち)の今が今しかないから記録したい」という気持ちは出るんですけどね。それは風景を止めてなくて。風景に顔を向けないと風景は背景にすぎないよね。 
 綺麗な写真は好きなんだけどねえ、まずは世界を綺麗だと思わないと写真は撮れない。 ってゆうか、うちの(近辺に見える)森なんか綺麗だけど、別に今にとどまってくれなくていい気がするんだよね。明日も来るし。今に入れ込むとあした困る気がする、っていうか。
 まあ、ふつう、人間てそうなのかな。風景を撮る人が変わっているのかも。
 
 
 それにしても記念用写真は撮るし。 フジは買わないんで、もうフィルムがない!(コダカラーの在庫はあり) 中国製がまともになるまでイルフォードの白黒写真で満足するか、、、

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不明を恥じる 原発の日常

2012-01-22 21:01:52 | 断片
 こんばんは、お寒うございます。今日は夕方、8度と上がってうれしい。
 このへんが私の勉強環境的限界ですね。

 さて本日は息抜きに、読書感想文。

 森江信、原子炉被爆日記、技術と人間(社)、1979.

 放射能関係図書も一時のはやりのうちは左右のイデオロギーばかりで敬遠していたところですが、そろそろいいかな、と図書館借り出し。それにしても古いものですが。 社会科学理論の発展は1980年で終わったとはいえ、なにもルポルタージュまで古いものを奉らなくともよいのですが、
ともかく、見てびっくり。

 宣伝キャプション
”原子炉の清掃に従事した労働者が綴る衝撃のルポルタージュ。福島原発や浜岡原発など6つの現場で、約3年間にわたり放射能洗浄の業務をこなした日々を詳細に明かす。”

 原発ビルは放射能汚染だらけ。森江さん、全編これ被爆。去年の話じゃなくて、30年前、できたての原発ですよ。そこでフツーに勤務してて1日40ミリレム~100ミリレム(0.4ミリシーベルト~1ミリシーベルト)の被爆が毎日、って、ああた。
呆れた。 その後改善された報告もなく、ってそんなレベルじゃないぜ。
 洗浄たって放射能棒を洗うわけじゃないんですよ。ただの発電所ビルの清掃。
 こりゃ原子力科学は欠陥科学もいいとこじゃないかい。

 まことに不明だなあ、私。
 だいたい、原発従事なんて放射能防護服を着てるとばっかし思ってたし。 そんなもんない。ただのカッパだ、なんて、3.11でようやく知りましたよ。

 しかし、あんまりだろ、科学者諸君。

  て、本が、30年前に出たけど、関係責任者はだれも反省しなかった、ってことだね。
  これは地震予想問題ではなくて、それ以前のイロハのイ。初めの一歩、全ての前提。
  なんともはや。


 ぜんぜん息抜きでないね。
 
 では、話題を変えて、「とうふ屋うかい」 竹とうふ。 今日親戚にいただきまして。
 ネット検索をどうぞ。やらせのチョウチン記事ばかり。
 
   おりゃ嫌いだ。ゴマ豆腐だぜ。実体は別として。
   土風炉の豆腐のほうがだんぜんおいしい。豆腐だし。
 
 なんてだれも書かんところがやらせだといっておる。
 でもこれで本当の記事ができたので、うかいも安心してくださいな。たしかによくできてますよ、個性豊かで。 親戚の方、ごちそうさまでした、っていまごろ遅いかね。 
 
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プチ権力者と共同性

2012-01-15 21:27:08 | 歴史への視角
 えー、こんばんは。寒い日が続きます。この頃はうちのような都会の田舎は焚き火もできなくなって、風物詩というものがなくて嫌です。せめて当家まわりには枯れ木や枯草があるだけでもまし、というんでしょうか。 石焼イモ屋さんも来ないし。

 さて、ここんとこ堅い話が続きまして、書いてる方でもちょっとほとぼりをさまそうかと。
 こうゆう偏執症性のなさが私の弱点ですが。
 
 で、私の敬愛するエンゲルス氏。敬愛しても盲目でないところが普通ですが。 なんて、まだ話題が堅すぎるか。
 で、彼氏の若い作品。
 F.エンゲルス、国民経済学批判大綱、マルクス・エンゲルス選集補巻5、マルクス=レーニン主義研究所、大月書店、1955.
 を見てみました。 いつか見たいと思ってたのですが、いきつけの図書館になくて、めったにしないのですが取り寄せ。
 さすがに面白い。題を「マイ フェイボリットシング」にしようかと思うくらい。
 
 いわく
「国民経済学は、商業の拡大の自然な結果としてうまれた。単純で非科学的な暴利商業のかわりに、おおっぴらな詐欺の完成した体系、すなわち完全な致富学があらわれた。」
「できるだけ多くの現金をまきあげ、うまいぐあいに手に入れた現金はたくみに関税線内にとどめておくたみにあらゆる手段をと」る国家間の商業。「革命の世紀たる十八世紀は、経済学をも変革した。、、、それは、、、同世紀の人道的精神が駆りたててゆく結論に到達するために、、、詭弁と偽善を利用せざるをえなかった。こうして、経済学は、博愛的性質をおびることになった。それは、自分の行為を生産者からひきあげて、消費者にふりむけた。」
「諸君(自由通商主義者)が、打算的でなく、不道徳な、利己的な動機を心のそこにいだかずに、道徳的であったことがどこにあるか?」

 抜粋なんで分からないかもしれませんね。さんざん商人の悪口を並べ立てているところです。
 こういう抜粋の手の抜き方も、体力なのか、長いと悪いからという気の使い方なのかよく分かりませんが

 
 で、エンゲルス談。(その時代の)商業は、嘘と騙し合いでできているって。エンゲルスという人は製造業者の息子なので、当時、仲買人に恨みでもあったんでしょうね。 わたしなんか「やれ、やれ、」、てなもんですが。
 とはいえ、私も普通に公立小中学校を経てますんで、友達もいるし、発展しきった国の商人の一般論をそうまとめたくもなし。
 さて、どうしよう、、、ちょっと風呂敷を広げざるをえませんか。
 
 この間申し上げましたように 生理的最低限を越えた消費物資のあるところで、さらにその剰余の生産物が運搬に不便であるところでは、これを他の生産物等と交換するために、必ず交換のための媒介物を発明します。
 ご存知、カネですね。
 なんでそうなるかって、わざわざいえば、人間行為の生理的好悪、すなわち、一般に、直接的成果をもたらさない行為によって疲れることを拒否するという側面によります。
 カネは、その素性からして、最低限の生存形態以外のどんな時代にもあるものです。商業は、この剰余交換物の巨大性に応じて、カネとともに必ず発生する仕業です。

 で、商業ですが、
 もともと原始的な交易は、人間行為として種々の感情の入るものです。
 目の前にいて、いつも来る人間Aにたいして、それぞれがそれぞれに思いをめぐらす。
 この人って、子供うちと同い年だったよなあ、とか、この前騙されてひどい目に合ったぞ。とはいえ、気持ちは分かるがお灸も必要だな、とか。
 これらはふつう日常の感情。
 そうした感情の下で、現実が作動する。
 しかし、作動するからといって、それが起動力というわけではない。
 
 こうした事態は(文化人類学的=地誌的「贈与理論」ならまだしも)「贈与の経済学」やら「社会的交換理論」として役に立たない抽象化をされていますが、要するに幼稚な観念論であるのは、すべて人間の感情は、彼を規定する環境の産物だ、ということを忘れていることではあります。
 経済的取引のつもりで原始社会に乗り込んで現地の奢侈品を得ようとした白人侵略者たちが、実は憐れみの入った交換ごっこをしてもらってただけ、という事態ですね。
 原始社会というのは、交換物資がその人々の必需品である時代を指します。
 なんとか交換に応じてもらわないと誰かが死ぬ時代。あるいは暴力的に決起される時代。

 これが交換物資がカネと化す時代、すなわち、生産力が上がり、交換物資として奢侈品が作れる時代、入手できる時代となると、話が様変わりするわけです。 相手が可哀想だ、と思う気持ちにつけこんで自分だけ儲けようとするわけで。
 こういう時代は儲けた者が偉い、というか社会的に望まれている者と観念される。
 すでに古い道徳はなくなり、とはいえ、道徳基盤であるはずの宗教は残ってますから、宗教の腐敗が始まる。
 腐敗でなければ、宗教が改竄(かいざん)される。新教ですな。
 デフォー「ロビンソンクルーソー」を読むと、プロテスタンティズムの敬虔な非人間的金儲けのやり口がよくわかります。
 さらに「もっと悪くは」高利貸などという商売も出てくる。
 
 さらに時代が進むと、今度は必需品、準必需品がカネ化してきます。
 必需品系商品の時代は、商業=流通での金儲けができなくなります。
 金儲けしようとすれば労働者賃金にはねかえり、それならと生産資本家が自前で商業を始めてしまうからです。
 もちろんこうゆうのはあらすじで、実はある程度(の時代)までは流通でも金儲けができるのは、50歳以上の人なら日本の現実を見て知っていますが。
 
 というわけで、1925~1965年にかけての日本の小売商業とは、資本家が商業に乗り出すこのわずかな隙間の非資本主義的商業、「悪いけど儲けさせてもらうよ。でも、だからって儲けてばかりじゃない。社会に貢献もしなければね。」というもの。
 カネを持つことが権力となる時期で、かつ、時代T歩して、その時代の権力者はそれ以下の人間にターンバックしなければいけない時代。
 
 なんて書いてきまして、そうだねえ、こうゆうのも定式化したほうがいいのかねえ、なんて。
 
   いや、今日は、現代日本にはびこっている嘘や騙しあい肯定主義者に対するエンゲルスの小気味良さを宣伝しようと思っただけですが。

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歴史変更過程への行為者

2012-01-07 21:29:20 | 歴史への視角
 こんばんは。なんか疲れちゃいましたね。ま、わたしは疲れるようなことはしてませんが。
 だいたい、人間て半分以上他人のことで疲れるんじゃありませんか?
 
 というわけで、引き続いて、唯物史観に足りないもの。
 
 それは、「お前は『変革』というが、人民は、なぜあるときは変革行為をしてなぜあるときは変革行為をしないんだ?」という問題です(注:人民全体の問題は終わってますよ。ここではただの、状況を引っ張るかのごとき層(前衛)の問題)。
 これを答えていないから、常にマルキストには「子供のケンカアナロジー」論が起きる。相手は政府資本家なのに、おやつとったから仕返しするぞ、それにつけては共謀してやったほうが良い、先生にいいつけたりすんなよ、と同じ。「当たり前だろ、人間だから」って? そう思ってるのなら説得しません。ま、これをもって、彼らは「運動論」とか「革命論」とか呼ぶのですな。
 ほんと、この「革命論」と、近経学者の需要供給の子供の買い物ごっこ論とは、無邪気さの双璧です。
 そんな論議で社会が動くなら、社会科学はいらない。
 
 さてと、答え、第1段階。
 現実は人間に平等を求めさせる。
 すなわち、人間の自由は、「同一であるべき」他者の自由を自己の将来とさせる。
 もちろん、どこまでが同一であるかが本当の問題なのですが、今問題なのは価値観の有無だけなので、それは価値観が決めるものではない、といっておきます(それが不満の人は隈著:『行為の集成』をお読みください)。 これが心的な不満の発生です。
 さてしかし、それだけでは国家武力の貫徹する世の中で、その行為の将来をめざして行動に移すことはできない。人間は、その不満を、逆流に抗して、組織化する必要がある。
 その根拠が、一般に価値観です

 人間個人が感ずる賞賛と優越の程度は、その間に「誇り」として、そのために命を掛ける規定性を生みます。
 それは賞賛と優越が、人生の全ての行為の目標を「目的」として構成する場合です。
 たとえば、ともかく飢えているだけの人間は、ともかく食料を手に入れる算段を考え、行動するほかはない。
 しかし、口足りたまま、たまたまあと5日分の食料しかなくなった人間は、飢えて死ぬか強奪するかを考える際に、それ以前の人生で仕入れた「誇りをもって」死ぬ方法を講ずることができる。
 それはどんなことか?
 人は、これから生きようとする人生に向かって、ある者が生きる方向を集合的に現物として見せられたとき、方向性を集合的に入手する。
 それを自分もまた遂行すべきとき、と認定したときに遂行するとき、それが誇りとなります。
 人民は、自分が歴史的人民となるときは、この過程に入る必要がある。
 
 ところで、人間の賞賛と優越を形作るものは、生理性、すなわち、武力権力と共同体権力のネットワーク(内の人間を見つづけた思春期までの人々について) です。
 この過程、すなわち、ある種の権力的地位の保持者の宗教家の息子その他が人民の窮状を見かねて殉教したとき、それを見た思春期人民がこれを胸に秘め、自分の30歳を形成する。
 こうして、安定した社会の崩壊は、15年をおいて社会の変更へ影響を及ぼしていきます。
 趣旨は、権力ある限り、人間が命を賭ける価値観は復活する、ということではありますが。
 
 さて、このブログ記事3回ほどで私たちが見たことは、支配は、人間間において剰余を強制的に発生させ、その剰余によって、動産価値を発生させていくものだ、ということです。
 しかし、そればかりではなく、他方で、人間間の平等の希求という行為原則により、人間は、支配の減少と支配の交替可能性を高めていきます。
 歴史とは、この全社会的な「要請と実現」のシステムの推移といったらよいのです。

 なので、1国社会主義の基本は単純なのです。
 国家内の人民の安全において、衣食住が安定的に確保されているかどうか。
 この2つの要素がなければ、全ての試みは階級国家に終わります。
 ソ連は? 中国は?
 物言えば唇寒いところに人間の自由などないのは、誰に教えてもらう必要もありません。 

 さらに、成立している階級国家においては、人民の平等性が確保されていなければ、それは常に転覆の運命にあるわけです。
 ソ連も中国も日本も同様。
 仮に、百万が一を越えて、両者(3要素)が確保されている国家においては、計画経済であろうと、商品経済であろうと、「社会主義」を出現させることは、1国的には政治意思において可能です。
 もっともそれは、国家である限りにおいて、「共産主義」ではありえないことは、基本の中の基本として忘れないでください。
 
 ところで、日本国なんか、とても社会主義に近いですね。残念なのは、それが他の後進国を踏み台にしていることで。それが資本主義日本、ということです。
 おかげさまでそろそろ危ない。だから危うい5年+15年=20年後が、私の本の読まれ時です。
 
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生産力史観・生産関係史観・階級史観

2012-01-01 12:51:37 | 歴史への視角
 あけましておめでとうございます。

 ほんと1年早すぎて。今年の抱負は良く遊ぶこと、と言ったのは去年だったか、おととしだったか、、、早すぎて抱負も設定しがたい。

 さて、今日の本旨は年末の追加。
 関連話で、左翼論壇では、マルクスの唯物史観は生産力史観か生産関係史観か階級史観か、などという話がありまして。
 なにがマルクスだよ、ちっとは自分の頭で考えろよ、ウスラバカ。その点アミンは偉いな、などと思うのですが、まあ、そういう方たちも食べていかなければなりませんし。論壇には論壇のお約束というものがあるんですな。いくら正しいことでも(私のような)馬の骨のまましゃべったら飢え死にするだけで。

 で、雑駁に言うと
 1 生産力史観
    生産力が高まってはじめて生産関係が変わる(=後進国革命は資本主義しか作らない)

 2 生産関係史観
    革命主体は生産関係(の中で育った人間)が決定するものである。ついで、彼らが新しい生産関係=所有関係(=国家「共同」所有)を実現する(=後進国でも社会主義ができる)

 さあ、どっちが正しいか、ということで、要するに、ソ連は社会主義か、って話です。
で 、も一つはちょっと次元がずれますが

 3 階級史観
    共産党宣言に、過去のすべての社会の歴史は階級闘争の歴史とあるから、本来、マルクスは階級闘争史観である。
    
 さて、本当は?
 マルクスがどうかは別として、本当は全部正しい。
 
 もともと唯物史観というのは、現象的には、階級の交替史観なのです。
 
 まず、第1の過程で、支配階級が必ず発生し、支配階級は剰余の入手の確保をめぐって、次なる階級に支配武力を渡す。

 ですからこれは、本質的には剰余物資の質的多さに依存する生産力史観なのです。
 (「質的」っていうのは、保存可能であり、かつ生理的に益のある物品の生産力に限るから。
 たんに穀物が豊作で人が遊んで暮らせるだけだと、人的労働力の剰余しか使えません。
 その結果は人的労働力の無益な蕩尽、お祭りや巨大建築物作成しか結果をしないことになります。)
 
 次に、第2、支配階級において剰余物資の更なる入手がうまくいかなくなって次の階級と交替するのは、その生産力を確保保全する生産関係がこのままではならず、別の生産関係に切り替えなければならないためです。しかして、これが生産関係史観です。

 で、この両者は矛盾するんですかね?
 どこも矛盾しない。
 マルキスト諸君も「生産力と生産関係は表裏一体」とか口先でいうけれど、だあれもこんなほんとのことなど知りはしない
 
 で、階級史観です。
 階級史観と階級闘争史観とは違います。
 階級史観とは、社会システムの背後にある規定性をいいます。
 一方、階級「闘争」史観は、現象の表現です(だからアホなアメリカ人がよく使います)。
 それは表現ですから、その同じ状況について、「社会の歴史とは、階級の中で平和を目指しつづける歴史、平和の歴史である」と表現しても、何も代わりはしません。階級闘争史観でも階級平和史観でも同じ。何の意味もない言葉です。

 もともと階級史観とは、そんな有象無象(うぞうむぞう)がおしゃべりするような、階級間のケンカ史観ではありません。
 階級の存在とは、資本主義社会においては、まず国家支配者とその他の存在、第2に資本家と労働者の存在ですが、これらの間で肉体的闘争を続けていなければいけない、という法はない。
 闘争現象が起こらなくとも、起こらないように収めるシステムが必要となる、あるいは、者気の諸競争に現象して社会のシステムを形作る、あるいは、権力とあいまって、どこまでたっても終わらない商品増大現象の心的原動力となる、その他、書くのも面倒な社会システムの規定因になる、そんな規定因が、次の社会変動を根本規定している、ということなのです。
 (どんな根本規定かは、隈の『行為の集成』をご覧ください。)


 さて、これでは、「唯物」史観だ。
 あたりまえですね。唯物史観の説明だから。
 実際それは社会科学の根本ですから、ここまででよいのですが、本当のことを言うとこれでは論が完結していない。
 論は、人間の行為で収束しなければ完結しない。「行為論的」唯物史観。
 
     そこは次回で。ではまた来週。今年もよろしく。
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