リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

技術(等)の勝利

2009-10-31 20:52:37 | コーヒーブレイク
 陽は海に沈み、その名残りの夕焼けにくっきりと映える真っ黒な雲の稜縁。
 画の手前には、夕暮に白く光るススキに囲まれ、見晴台から庄内の海を見つめる夫婦二人。

 知らない、こんな写真は。

 おそらく35ミリ換算で24ミリ広角相当で撮られたこの写真は、銀塩フィルムであれば、空にピントを合わせれば開放F2.4で5メートルから手前はボケざるを得ない。ところがこの夫婦は、広角であればカメラから2メートルしか離れていない。(絞るとぶれるのでそれはない)
 しかもこの暗さではトライX3200の増感で、手前の風景が白黒で映し出せるだけ。雲の縁の曲線など表せない。ところがまるで低感度コダクロームのようにくっきりと出ている。

 さすがデジカメ。
 
 という、朝日新聞土曜版の掲載写真の話でした。
 (撮ったのはアサヒのカメラマン(でしょう)相場郁郎氏)
 
 (写真愛好家でない方は、上記記載で、そんなふうに、今まで撮影できなかった情景が現に写真となっている驚きを感じてくだされば。)
 
 だからどうということはないんですけどね。
 そんなのっぺりしてしまって、いったい写真家はなにを伝えようとしているんだ? わけわかんねえじゃねえか。
 草が白黒トライXのように光っているが、こりゃ、デジカメ増感のハレーションだぜ。
 ま、いろいろ。
 でも報道写真ですから、この記事では酒田の海の情景が撮れればいいんです。
 デジカメはこう撮れる。それを知った人たちは、こう撮れるから、じゃあ私の感動の表し方も他の手段があるのだな、そう思って世界に向き合える。
 
 そか、やっぱ、銀塩フィルムは古いよね。
 
  だからどうということではなくて、銀塩派は、銀塩、というよりはフィルムの限界性をわきまえて撮っていく、それに何の不都合があるわけではないんですけどね。(ご想像のように私は銀塩派)
  
   ただ、世界は第三者的には広がっているんでしょうね、それは悪いことかもしれませんけどね。

    とゆうふうに、びっくりしただけ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲームと勝負

2009-10-29 22:11:35 | コーヒーブレイク
こんばんは。
 さっそくですが、ほんとの題は、「一歩を踏み出す資格とは」
 基本、将棋の話なもので、これも「お客さん、間違ってこないで」法。
 気い使っちゃいまして。
 
 で、竜王戦2戦目、矢倉戦で、矢倉で同じ技量の人が戦った場合の典型例で森内九段負け。(いや森内にチャンスも、とかあるでしょうが、それは典型例のうちですよ)
 時間配分のヨタ話はおきまして、
 結局技量が同じだと自分で転んだ人が負けですが、矢倉の後手というのは攻められるんで転ぶようにできてる。絶望しちゃうんですよね、シンプルに言うと。.

 ひいきの渡辺竜王勝ちで私はいいけども、森内さんという人も将棋界一とも思われる、人のいい人で。

 昔、大山名人という人は、タイトル戦2日制の夕食休憩で相手を威嚇しまくった、という話で、それでいつもタイトル戦を勝ち続けたとうわさされてます。
 そんなこといってもそれで負けるなんざ、相手が弱すぎですよね。
 そうじゃなくて、決して自分が負けるなど思っていない、どうせ相手は下手だと自分に言い聞かせてたんだと思いますけどね。
 自分が不利でもいい勝負。自分のほうが強いから。そう思い続ける。
 そう思わないと、未来など切り開けない。

 かくて、「一歩を踏み出す資格」、です。

 人生はゲームじゃない。
 コマもルールもそろっていない。
 誰にも結論など見えていないところで、一歩を踏み出す。

 それには、将来に存在するのはレールではないことの覚悟、そして自信ですね。
 強いものが勝つわけでも運がいいものが勝つわけでもない。自分が勝つ。
 中高年ならわかるでしょ。
 
   森内さん、ゲームが好きすぎです。毒海蛇狩りでもやられたら。
   (ライオンとかクマは、私が好きすぎで)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年齢的ハンディキャップの取り方

2009-10-25 22:12:22 | コーヒーブレイク
 こんばんは。

 ほんとは「竜王戦、森内九段が勝つには」
 という題なんですけど、それじゃ何の罪もない人が来るので。
 この題で来た方はそれだけで罪かも。

 で、この29日が竜王戦という、優勝するとン千万貰える将棋の試合第2戦目なんですが、(すごいカネ? すごすぎる、、、やりすぎだべ、読売新聞)そこで、ひいきの渡辺竜王という25,6歳の人と、森内九段という39歳くらいの人が勝負をしまして。
 私はひいきが勝つか勝たないかで、ネット観戦してるとアドレナリンの分泌がひどくなるのですが、今回は、相手が負けるだろうから、まあいいや、みたいなもんです。
 で、当日は残業でネット中継観戦は無理かもしれませんので、初めから予想を言っておこうと。
 
 同等程度の能力の39歳が勝つには、終盤突入時に3時間持ってないとダメ。
 寄せる寄せられる、の手前で2時間持ってないとダメ。
 要するに、詰める前に1時間余してないとダメ。
 
 という予想、というか、助言で。
 
 わかってないんだよね、中年て。どれだけ自分の能力が衰えているか。
 考える力は残っているのだけれど、忘れちまうんだよね、一瞬前のことを。
 とゆうか、本来、キャッシュやメモリーに並べられているはずの情報が、引き出されては、即、消えてしまう脳細胞になってしまったことを。
 それを思い知って学習すると谷川九段等になれる。
 自己過信のまま突っ走ると佐藤九段や丸山九段のようになる。
 
 いたってシンプルかつ非情な人間世界。
  大したことないけどね。
   中高年になると、もっとひどいし、ましてや老年をや。
    要は、それぞれの時代をそれぞれに合った情報処理秩序に変えていく必要があるのですよ。
    とゆうか、そうすりゃ問題ない、というかね。
 若い人にはわからない人生の一コマでした。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信念家

2009-10-25 22:11:02 | 断片
 こんばんは、言ってみれば一昨日の続き。こうゆうので、カテゴリーが違うのも後で来るお客さんは困るかもしれませんが。ま、趣旨違うし。

 で、世の中、理想家じゃなくて信念家というのもありまして。自分の信念に沿って行動をして、世間の評価なんていいじゃないか、自分は自分の評価に従う。これが私の行き方だ。って人。
 理想家と似てるようですが、私も信念家系なので、違いがよく分かりまして。
 
 信念家というのは世間の評価なんかいらない。性格的には独りよがりですね。世間の評価が要らなきゃ世間だって気にしませんがね。
 で、だいたい、お金の儲からない生活をして、誰にも評価されずに死んでいく、というのは言いすぎなら、生きていく。
 私が信念家であれば遠慮なしに言うんですけど、残念ながら、私は平凡な大衆で、遠慮がちな表現。
 
 で、どこが違うか、再度言うと、世間の賞賛や劣等の評価(本人にしてみれば優越の評価)を受けないんですね。
 どうがんばっても、変な奴、でおしまい。
 理想家なんて、偉そうにカッコつけてれば、世間の人がテレビドラマにしてくれて当代の人気俳優が自分の人生を演じてくれるのにね。
 なにをいいたいか、というと、理想家なんて結局「たいこもち」だってことですけどね。
  で、私、大衆も、生涯で一度くらいそういう目にも会いたいな、って、いえ、強調してはいませんけどね。
  一生に一度、丸々太った灰色キャビアが食べたい、くらいの要望度。
 
 
  酒飲み話はおいて、ともかく信念家系の大衆には分かってますよ。松本Tさんとか。
  お仕事、がんばってください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理想家

2009-10-23 21:13:50 | 上部構造論
 こんばんは。勉強をしないと余裕がありますね、引き続き、本日の夕刊。なんだかという渡辺謙主演の映画の宣伝です。
 その評価の中の一行、なんでも石坂浩二が理想を貫く企業家を演じているそうです。
 いいですねえ、理想家。
 私も理想家的仕事をしたい、あるいはしたかった。このサラリーマン生活30年余、とてもじゃないけどできねえぜ。 
 なんじゃ、この評は。佐藤忠男と書いてあるが、旧名佐藤忠男のパロディーか。
 いずれにせよ、女子供に良く響く言葉なのは分かりますが、ほんとかよ、って思いますよね。

 モデルは日本航空の会長みたいですが、
 じゃあ、理想家の2009年の日本航空会長は、今、存亡の時、なにをするのか。
 悪いことしかせんじゃろ。

 あなたの会社の社長さんが理想家だったらなにをしますか。
 食品会社なら分析表示どおりの原料を使う。
 はい、そして社員のリストラをしますな。
 市長さんなら、住民福祉に邁進し、そして、職員のリストラをしますな。

 リストラが何だ、お前らが働かないのが悪いのだ。オレはオレの理想を貫く。
 はいはい、働かなくて悪うござんしたね。

 理想家などとは、そういうものです。

 要するに、権力を持って他人を強いることで、世間の賞賛に合わせる人間を理想家といいます。
 太平洋戦争前夜、理想家とは、女子供をたぶらかして、男たちを戦争へひきずりこんだやつらのことです。
 
 
 でもいいなあ、理想家。あと少しの労働人生、理想家で給料をもらいたいものです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王様にお前はバカだといったとき

2009-10-21 22:12:17 | 断片
王様にお前はバカだといったとき
誰がそれを支持しうるか

 いやあ、こんな題は嫌いなんです。間違って来ちゃった人、ごめんなさい。

でも趣旨に違いはなくてね。
さっき(2個前、p.s.)、山内進とかいう一橋大学教授の悪口をいったけど、関係者は絶対乗ってこないよな、って。以下、一般論ですよ。

「でも、彼はこれこれこういう学術論文を書いている。
「でも、彼は、これこれこんなふうにいい人だ。
「でも、彼は、でもかれだ。」

 そう、いくらでも弁護がしうる。
 そうだよ、彼はバカだ、という人は、単に、よっぽど個人的恨みがある奴だ、と、これは私でも思います。

 王様であれ大学教授であれ、そこまで権力なり、学識なりが達していない人間に、その権力者等について本格的な批判など出来やしない。
 考えてみりゃ、政治世界が一番民主的かも。バカはバカだといえるのは、いまだけ。
 それ以前だって、自民党巨魁はそこそこだったにせよ(池田とかね)、その周りの有象無象は有象無象だったに違いない(想像です)。それは、丸山真男を褒めて安心してられる人々とおんなじ次元としか思われない(社会心理学者さんいかがですか。社会学的にはどうでもいいことですが)。
 
 いえ、私も長生きしてきたので、こういう社会的位置の人って、生き長らえるんだよね、と改めて思ったということです。で、個人的問題は、これは私の準拠枠にないファクターで。とにかく、わたしも日本人、こういう隙間構造って、目に入らないで過ぎちゃうんだよね。といって、わざわざ、フォローするほどのことじゃないしさ。

 とゆう、わたし理論的反省。
 なんか書いてて、本質的影響は大きそうだよね、って気が(現実にはホコリがついただけだろうけど)。
 わたし的に敵愾心はないし。

ありゃありゃリターンキーがエンターになってしまった。
たまたま題材になってしまった、山内進様、上記点で、その限りでお詫び申し上げます。


P.S.:
5分後、続いて、日本法制史。某教科書によると京都大学では「ロビンソンクルーソーがフライデーと一緒になったとき、法が生まれる」と教えるそうな。
 だからなんどもいったでしょ。法学なんか社会科学ではありえない。
 バーカか。バーカだ。人間二人だけの世界にある決まりが法だったら、誰も一兵卒で戦争になど行かないんだよ。(百歩譲って、「人間二人がキマリを作れる」立法府の選挙ができるのは、1945年、戦後になってだよ。そんなのも知らないのかね、京大のやつは。)
 京都の奴らはバカばかりだ。

P.S. (翌日)どうも人の悪口を言うと気がとがめます。とくに酔っ払って言ったときは。(カテゴリー「断片」に示されるように、昨夜は日本酒酔いで)。
 もちろん、本音が出た、というまとめ方もできます、、、
 って、今日はウイスキーなので、さほど酔っていません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原理の表現の仕方

2009-10-18 21:32:14 | 上部構造論
 こんばんは。今日は、勤務後、奥さんが出てるので、スーパーの490円の寿司で焼酎をそこそこ呑んでしまいましたので、ちょっと元気です。
 上記で大事なのは、「そこそこ呑んでしまいましたので」というところで、寿司は酒に良く合いまして。
 (なお、私は料理は得意です。)
 で、そこそこ飲んだので、今でも手元にグラスがあります。限度を越すと後を引くというか。

 本日は、例によって朝日夕刊(あ、朝刊)。投書提言は、星旦二ドクター。
 ずいぶん出ますね、yahoo。14500件あります。なんで、そんな有名なんだろ。
 旧名東京都立大学教授。
 いい人なんですけど、今日の趣旨は、
 「インフルエンザでワクチンがどうのといっているけど、本当に大切なのは免疫力だよ。それには食生活が大切だからみんなよく食べなさい」というものです。
 と翻訳するとバカみたいでしょ。
 でも、ほんと。言ってる内容もほんと。
 
 菌やウイルスが取り付いた人間が、発症するのは、取り付き量とその人間の処理量の問題です。
 1個の細菌等で発症する病気というのは、私も聞いたことがない。最強で2,3個。
 日本脳炎なんざ、千人が1匹の蚊にたくさんのウイルスを注入されたとして、1人発症するだけ。他の人たちは、免疫を得て何も知らずに生きていく、という、40過ぎのあなた、あなたもその一人です。
 
 ま、それはいいんだけど、わざわざ、それを今いったところでなによ、って話で。
 
 本人、一時期、世界中の感染症の撲滅を考え続けた医者だから、このインフルエンザのバカ騒ぎが我慢ならないんですよね。
 でも、じゃあなんて世間に言うんだ。いいや、そのまんま、ぶつけたれ(「たれ」じゃないか。会津人だそうです)。内容はオレの専門分野だから批判なんてさせないぞ。てなもんでしょう。
 
 で、こうゆうイデオロギーの闘いは(大げさか)、ほんとのことをいってもしょうがない。
 実際に病気にかかるのは個人であるわたしです、ってわたしゃかかる気なんかないから、若い派遣労働者Aくんです。
 そんなA君。てやんでえ、栄養がどうのなんていわれてどうしろと。飯のことなんかこれ以上考えてられるか、ということが、わかんねえよな、医者には。
 星先生は、それも頭ではわかっているのだけれど(もともと飯の食えない後進国医療も専門領域)、だから、留学生や労働移民のことも念頭に正論を言っているのでしょうが、でも、これじゃ言いっぱなしだあね。提言というのは誰を味方につけるか、選択しとかなきゃね。
 
1 ほんとに栄養問題なら、慈善的な人、社会福祉政策者に言わなきゃね。ストレスをなくせ、最低賃金を上げろ。留学生は、卵ご飯で生きてるぞ。
2 とにかくインフル対策が我慢できないのなら、もういいかげん嫌気がさした行政担当者、企業主あてに、免疫なんざほっといてもつく、ということを強調する。
3 ほんとは子供が心配なら、って、そりゃいっても無駄だぜ。

 とゆうふうに、提言というのは、相手を見出すことで意味を持つのです。
 相手のある提言は、その相手ではない人間にとっても、意味が見出せるのです。人間バカじゃないからね。他人の身になれるの。
 
 そうでないことは、結局、論文にすぎないんだよね。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムスリムの下部構造

2009-10-17 22:52:43 | 社会学の基礎概念
こんばんは。

 ささいな論及が続いておりましたので、ここらでコーヒーブレイク
 と思いましたが、ここんとこ2日間ほどアルコール摂取量が減っておりまして、なんやかやとの思いは幾つもありながら、わざわざ書くほど、ためになるように結実しません。
 アルコールなどの薬物は、中毒すると、それなりに効き目はあるものなんですな。
 というか、ナシだと、アタマが働かなくなります。まあ、職業仕事くらいは誤魔化せますが。

 しょうがないので、生(ナマ)で、ためになる記録。

 山内昌之という人がいまして、いまどきイスラムの本を探すとやたらでてくる東大教授の人で。ほら、ここんとこイスラム勉強してたから、(って、ほら、はHPの話題か)。
 なかなかためになる評論家で、職業は歴史家というそうですが、ま、評論家だけど、量でカバー、という人ですね。
 たとえば、今拾ったyahoo検索、1ページ目によると
 『(彼のある本は)、「イスラム史の主軸であった宗教と権力の相互関係を現代社会の構造のなかで理解すること」を目ざしており(本書331ページ)、このため、「イデオロギー分析と歴史学分析の相関的接近」という方法を採用している ...』
 みたいな仕事をしてる人です。
 
 この人は若いときはマルクス主義者だったのですが、不思議なことに今は「上部構造-下部構造」図式を憎んでおりまして、「イスラム関係人は、宗教=イデオロギーによってしか把握できない」と主張して止まない人です(『イスラム大衆は、地域のイスラム集団の宗教とイデオロギーと権力構造に沿って生きているから』、みたいな趣旨です)。ま、「権力」も足して、上記にあるような宗教+権力図式ですか。要するに下部構造はナンセンス! とゆうわけですね。
 
 でね、主には若い人向け知識。
 上部構造-下部構造図式は、ほんとはマルクス主義活動家は嫌いなんですよ。
 そんなのは年寄りの言うことでね。
 若いときに何で命を賭けるかって、自分の行為が役に立つからでしょ?
 自称マルキストというのは、第1に、そんな自分の意志が必ず歴史に反映すると思い込むものです。
 第2に、そして好きなものが権力です。
 自分が行動して何をするか、って、その場の権力=ヘゲモニーを握ろうとする。いや、ちっちゃいちっちゃい権力ですけどね。それに命を賭けた自称マルキストの人々は、イデオロギーと権力が大好き。特に「ブント」と呼ばれた人たちですが。
 
で、
その1: どんなに博識に見えても、パースペクティブ=ものを見る視角というものは、若いときからシンプルかつ変わらないものだ、ということです。特に歴史学や社会評論というものは、何の根拠もない「視角」で、一見した「論理」、要は話が、進んでいくものなのです。
 なので、私などはこのブログに来るような若い人は、それだけで頭が柔軟な人だと思うんですよね。

その2: こっちが本体ですけど。
下部構造というのは、ブントを主体とした人たちが思うような、資本主義や社会主義の経済体制のことではありません。
そんなことがあるはずがない。
(ブントとしかいわないのは、革共同とか名乗る人たちは、この手の話に深入りしないからわざわざ指摘しない、というだけです)
 下部構造とは、個人の行為に生理的に制約をかけていく社会関係のことです。従って、都市経済や政府経済からはるか離れたイスラム関係人(=ムスリム)にとっては、その生理性は、はるか彼方の社会体制ではなく、具体的に今日の自分を縛っている、共同体の関係性であり、またそこでの賞賛や優越を醸成する関係性なのです。(モデル理論や小さな国なら、政府経済とほとんどイコールだけどね)(地域のイスラム集団とは、要するに生活共同体のことでさあ)
 ってあたりまえじゃん。なんだかねえ。
 あたりまえのこともわからなくて、よく本が何十冊も書けるもんだ。
 でも昔はそんな把握でよかったんだよ。学生の下部構造なんざ家族・学校構造だからね。とりあえず、優越も賞賛も出来高払い、個々の場面で勝ったもん勝ち、それで終わる話だからね。
 そりゃ資本主義的学生位置というのもあるから一般論を唱えると少し複雑だけど、こっから先は、ここでいってもしょうがないので、またいつか。

(すいません10.21.21時過ぎにこのブログ見た人います? 以下、P.S.付けるとこ間違えちゃった)
P.S.はああん、山内進
  て、全然知らない人ですけどね。
  いちおう、発言したことは万全にしておこうという、当たり前な感性はありまして(ふつう、書く前に調べるって? ま、それはそれ)、今日読んだ 「西洋法制史」、山内進という人が、序論を書いていて曰く、『ある特定の「下部構造」からあたかもすべてが流出してくるかのように「法」を理解することは出来ない。』なそうな。
 へえ、おもしれえじゃんか、やってごらんよ、と見た結果は、何百もある共同体をいっしょにした議論。バカか。とりわけ資本主義以前古代に、何百の共同体に同じ下部構造があるかよ、と。はん、そんなもんさ。実証を続けている人間にはバカ以外評価のしようがないんじゃないの。1大学の事情は知りませんが、永原慶二が泣く、といったら、そうだよね、という声が聞こえてきそう。
 有名じゃないのは、あんた、自分のせいだよ。

 どう論議が発展しても、こういう人相手では実りがないのが分かりきってますので、日にちは変えず(今日は10.21)、P.S.でやめおきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近代社会学の魔術世界

2009-10-11 14:48:59 | 社会学の基礎概念
 こんにちは、今日は10月11日、東京ではキンモクセイの日ですね。
 、、、ないか、そんなの。
 とにかく今時分が最盛期で、だいたいこれよりあとは名残り咲きです。

 世間が穏やかに推移しているので、今週も専門的に、とウェーバーの宗教社会学でも取り上げて、「みてみて、こんなひどいよ」、とお知らせしようと思い本を借りてきたのですが、あまりの箸にも棒にもかからなさに唖然としてやめました。
 もともと学生期にはヒンズーやらイスラムやらは一切関心外の物事だし、ウェーバーの宗教社会学は社会学的には何の遺産もないので、そんなものは読まなかったのですが、先日の折原騒動で、折原系のウェーバー学者の本でウェーバーの宗教本が褒めてあったので、じゃあ、そろそろ見て(どうせ誤りだらけに決まっているから批判して)みようかと思ったところで。
 
 M.ウェーバー『宗教社会学』武藤一雄他訳、創文社、1976。
 
 なにが酷いって、のっけから根拠も示さない決め付けばかり、独断と偏見ばかりで、批判もなにも、ここが悪い、の「ここ」になる資格もないヨタ話ばかりでした。だからウェーバー学者など相手にするな、ということですね。
 どっかネットに文があればコピペするんですが、みつからないのでいやいや転打すると、まず始めの第1ページ目。
 「人身御供のような、とくに都市民族にとってはただごとならぬ行事ですら、フェニキアの海港諸都市の場合には、およそいかなる彼岸への期待もなしに献げられたのであった。」
 フェニキアって、いつの話さ?? 以下、根拠記載なし。
 その後も300ページ余、出る例、出る例、見てきたようなでまかせばかり。
 (別の話ですが、上記の文章は誤訳ではないか、とも思わせられます。これは、「呪術は現世利益のために行われていた」、という趣旨に続く文ですが、上記引用中、「ですら」の意味ってないですね。)
 ウェーバーのこの箇所が事実として間違ってる、と主張するわけではありません。宗教なんてそんなもんです。しかし、なにがフェニキアさ。3000年前に消えちゃった国だぜ。フェニキア文字の発見は19世紀ってwikiに書いてあるよ。なんで、そんな大昔の人間の思いまでおじさん知ってるの?? 根拠ないこといっちゃ嘘つきと同じだよ。
 
 というわけで、ためになるブログ、今日は、文系科学の成立。
 それまで支配者が被支配者に対し支配の言い訳に使ってきた諸文章は、資本主義の発展=中間階層の発展に伴い、支配を覆すため、社会における事実がどうなのか、を疑い、検討し、支配階級を批難する文章が分化してきます。文系科学の芽生えです。
 しかし、そこでも、事実や真理はどうでもよい、相手を批難すること、諸文章の役割は、そこで止まっていたわけです。
 社会においては、本来、真理などは2次的なのです。社会には、真理より大事な価値がある。
 というよりは、人間の行為においては、価値が実体で、その時代には真理は価値を掴んでいない、ということですね。
 価値とは、現代資本主義以前においては、生理性であり、支配武力という生理性を掴んでいた支配階層による宗教であり、あるいは、これに対抗する武力を支える思想でした。ウェーバーの時代でもそうです。ウェーバーは、宣教師の教えに従い、こけおどしで文章を綴ることが許されていたわけです。
 それは時代の問題で、勝手に書いてればいいが、しかし、そんなものは社会科学ではありえない。
 ウェーバーが「魔術からの解放」と呼んだ近代には、まだまだ、社会科学は成立してはいなかったのです。
 その後、下層階級までに及ぶ被支配階級の社会的位置の進展と、文字の普及と自然科学的知識の普及は、宗教のイデオローグとしての地位を下落させる一方、宗教に対する真理としての社会科学を成立させていったわけです。
 
 でね、第2次世界大戦前、日本で本当のことを書いている本は、社会科学と呼ばれはしたが、諸官僚・資本家を含む戦前知識人にとって、社会科学者とは社会主義者のことだったのですよ。進化論を教えないアメリカのことも「60年遅れてる」くらいにしか笑えませんね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私的所有と私有財産

2009-10-03 21:53:06 | 上部構造論
こんばんは

 今日は十五夜、月が中空にまんまるく照っています。
 珍しいですね。いつも曇ってるのに。
 
 わたしなど、二度とあんな子供時代を送りたくありませんが、それでも、お月見の日、曇っていようがなんだろうが、縁側に白玉団子や里イモをお供えしたのは(数少ない)楽しい思い出です。
 
 というわけで、私的所有と私有財産。
 というわけで、というのは、あんな子供時代にした元凶の祖父というのが熊本生まれで、時の帝国大学にいくために、郷里の皆さんから学費を貰って旧制高校へ入り上京したという。
 今日は泉鏡花の本を読んでてそれを思い出したところで。鏡花先生、金もないのに18歳で上京して1年、他人の金を頼って暮らし続けたという。
 そのうえ、(本人みよりがなく)従姉が自分のかんざしを売って5円という大金の為替を送ってやったら、こんな端た金じゃあ積もった借金を返せないとかいって為替証書を破っちまったとか。呆れ果てたガキだ。

 で、本題。
 社会科学などやりだしますと、教授や教科書で「所有と財産は同じ言葉だ」などといわれます。propertyとかproprieteとかいう言葉で、西欧じゃ同じだそうでね。
 まあ、西洋かぶれの大学職業者がなに言おうと市井の人間には知ったことではないが、そりゃ違うだろう、ということです。
 日本語では「所有」は、その状態を指すものであり、「財産」はその持てる現物を指すでしょ。
 さて、じゃあ、その現物は、誰のものか、ということでして。
 西欧の中産以上個人孤立生活者は別として、資本主義以前の私的所有制度には、私的所有の確固たる規範=共同体法はあったが、財産権たる債権法は限定的にしかなかった、ということです。
 限定的といえば聞こえはいいが、はっきし言えばそんな法などなかった。あったのは「カネ」を巡る単なる借金制度であって、それさえも、チャンスがあればチャラに出来た、ということは中学校の歴史で「徳政令」として習ったとおりです。
 ついでにいうと。昭和天皇が死んだとき、徳政令が出たって知ってますか?
 なんでも破産者のごとき債務負担者の債務をチャラにしてやったそうです。わたしゃ知りませんでしたが。借金のある人も生きていれば、そのうちいいことがありますよ。
 
 ま、そんなこんなで、いいたいことは、よく世界的周辺国での、「来た者はもてなし、しかし、持てる者は全部吐き出せ」、という状況についてとやかく言われますが、そんなことは日本でも当たり前であったこと。共同性があるところでは、絶対的所有権はあれど、かといって、その財産の排外権は限定的だったのです。
 
 でさ、日本もカネカネ、返せだの戻せだの、高いの安いの、そいつはオレの金だ、触わんじゃねえだのは、ごく特殊な歴史的一瞬だということでね。実は、共同性の高いアジア人民としてはおかしな話なの。右翼民族主義者なら「カネがある奴は、偉そうにしないで人民にカネだせ」というはずのところでね。そんな右翼がいないこと自体、ウヨは掛け声ばかりのバカだ、ということでね。あ、バカじゃないかヤクザか。
 まあどうでもいいけど、そんなふうに私的所有は資本主義の基礎ではあるが、それは結果にしか過ぎない、ということでもあるのです。
 資本主義では、それ以前の社会と同じく(この同じくというところが、学問的には重要なところです)、私的所有権さえ絶対であればいい。それ以後の私的財産現象は、カネの亡者となった人間共の上部構造的現象だ、というのが歴史的事実です。
 
 なんてお話でした。 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする