リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

構造主義

2007-10-28 22:14:18 | 上部構造論
 HP派としては、毎日何が起こっているかというのは問題じゃない、っていうのが基本ですよね。昨日はふろしき残業で大変だった。明日は仕事ホンチャン、大変でないはずはない。
 なんてつまんないことを口に出したくたって、そんなこと書けないじゃん。つまんねし。
 なんつってるのはもっとさみしいね。
 
 というわけで「構造主義」
 
 1ヶ月前に紀伊国屋(書店)で本を買ってきて、ここのところの話題というのは、帰りがけの電車で読んだ本に挙がっているテーマなんですけどね、ってこれがその最後のテーマ。本題はアルチュセールというフランスの社会学者なんですけど。
 
 さて、あるシステムは、武力権力者の生理性と、それ以外の者の生理性の折り合いの中でシステムとなりますが、システムは武力権力者の趣味との折り合いの中で種々の色合いを持ちます。詳しくは隈の著作参照。 
 この色合いの下のシステムについて、構造機能主義と呼ばれるものの出番がきます。システムには構造という、とりあえず変えられないものがあって、それというのもその構造の構成素がそれぞれシステムを支える役割を果たしているからだ、というところですね。 
 そうした見方はある程度役に立つわけで、現日本資本主義体制では、仮に公明党が同数の国会議員を持つ民主党であっても、日本の政治の帰趨は変わらない。この状態を把握するのは、機能という言葉が簡便である、てなもんですわな。
 さてところで、しかし、ある一定の時期に、この下のシステムが空白になり、武力権力者たちの趣味が垣間見られることはある。こういう例外的な事象には構造機能主義は目を瞑ることになる。
 ここにフランス系の構造主義が妥当する事象が垣間見られることとなるわけです。
 社会科学的にはあまり重視されなく、これからも重視なんかされるはずもないハズレ科学。それもまあ、存在の意義はあるという。
 たとえば現代日本の場合、政府施策にバラマキ福祉が生ずるのは、かなりの程度公明党の存在のためで、それを見て、仏教の永年の隠された伝統が社会で構造をなしていてこれを生むのだ、ともっともらしく言うのも赤坂あたりの酒席の話題としては高尚な議論なわけです。たしかに、個人主義者たちの西欧キリスト教では出ない発想には違いはありません。構造機能主義では把握できない現象ではあります。
 
 なんて構造主義を褒めたかに見えるようでも(見えないか)、結局、構造機能主義にしても構造主義にしても、どちらも認識の簡便によい、というに過ぎません。
 本来の主体に即した行動環境を述べるには、トータルに行為の規制要因と行為による働きかけ作用とを述べていくしかない。
 今、構造機能主義等が簡便だといいましたが、行為論的な社会学は、哲学体系や神学体系のような構造機能主義やフランス流構造主義よりは何十倍も理解には簡単なはずです。それが他人の観念の制作物ではなく、私たち個人の行為の表現だからです。間違っていればそれは(私とかの)個別の社会学研究者の誤りに過ぎないことがはっきりしている。
 世の中は複雑ですが、社会科学は、同じ個人の人間の行為の反映を語ればよいだけのこと。なんら複雑なものではないはずです。
 もっとも、自分の趣味と生理性に生きる人間には、この交錯が理解できない。彼らには、趣味の日常のほうが重要だ。
 まあ、我々は、天皇や世襲資本家のことまで考える必要はないのですから問題のないことです。


(注釈1:フランス構造主義とは何か)

 およそ概念は、本来そのために出現した人間の行動から離れるのに従って、自由気まま、なんでもあり、の呈をさらす。
 ソフィストの「矛盾」なるものの半分はそうだ。矛盾でもなんでもないのだが、概念を規定するときに行動から離れるから、現実にはありえないイメージを創出することになる。
 たとえば「コトバとは何か」という問いかけについて、「私があなたにしゃべること」という現実を離れれば離れるほど不思議そのものとなる。いわく「言語が人間を作る」。
 ポスト構造主義なんて人々は、もうすでに「いっちゃってる」状態だ。
 こういう人々を説得する気はないので、若い人たちはこういうのに近づくなよ、という趣旨で話したい。
 これはなんでも同じなので、たとえば「時間」などというコトバがあって、そんなものがあるかといえば、「時間」なんてものは誰も見たことのないものだ。
 そんなものは行為が推移するさまを指すさけの言葉であって、この行為の推移から離れるほど摩訶不思議なものとなる。いわく「タイムマシン」だ。
 「昔に戻りたい」という気持ちまではまともだが、人間の行為のほかに「時間」なる世界があると観念するとその世界の「中で」行為できるかのごときイメージが沸く。
 が、本当は時間なんてありはしない。
 あるのは「原子」(なりのエネルギー形態)が、物質にとって同一の現在の中で、常時存在形式を変えているだけの過程なのだ。
 概念が自立するという、東アジアの言霊観念さえ越えた神がかり的な発想は、ヒマな貴族(=自由市民)のおしゃべりが文化であったイタリア起源のもののような気配はするが、私は西欧人でもクリスチャンでもないので本当のところはよく分からない。ただ、19世紀のフランス詩を思い出せば、フランス的構造主義は、近代フランスの歴史的伝統とは相当相関関係があるような気がする。(ちなみに、ローマ自由市民とは、アラブやドイツ、その他自立社会だと「王様」と表現されるべきかもしれない)。
 もっともソフィストの矛盾にはもう一つ、関係の間の矛盾、というものがある。ある関係を受け入れて表現すると、別の関係を受け入れて表現することについて、矛盾が発生するというわけだ。だが、これは社会の矛盾を正しく伝えるわけで、ある意味よいことだ。それには解決するテーゼを立てればよい。

(注釈2:世界は存在するか)
 
 西欧の300年の知識の伝統では、まずは物事が存在するかどうかを把握したがる。これがギリシア文化以降の貴族の暇つぶしの伝統だ。そんな貴族の伝統を捨てればもう少し賢いことがわかっただろうに、と思うこと久しい。
 存在するとは、本来、行為において考慮の対象になるという状況を指している。
 それが「本当に」存在するかどうか、などというのは神学の問題だ。
 神学がしたければ、野原の里イモでもかじりながら、『この里イモは本当にあるのか、本当はないのになぜ私の腹がいっぱいになるのか』とでも考え続けるがいい。
 しかし、生活者である我々は、他者と米を作らなければならない。他者と共に協働して自動車を作らなければならない。世迷言をいっていたら死んでしまうのだ。
 社会科学とは、そういうポカンとしていれば死んでしまう人間(=貴族ではなくブルジョワ以下個人)のためにあるのだ。しかして、西欧では産業革命以後、ブルジョワ階級の支配階級化に伴ってようやく出現したというわけだ。もちろん、日本はその後塵にあずかったわけで、偉そうに「大日本帝国」などと語れる筋合いのものではない。
 これは日本ナショナリズムを否定する論拠ではないけどね。
 私は是々非々。


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プチ・コーヒーブレイク

2007-10-14 22:20:46 | コーヒーブレイク
 すごいですねえ、ブログの威力。私のホームページが、わずかに引っかかっていたヤフー検索にも載らなくなって数ヶ月 (ウソ。2、3ヶ月)。ブログを作ったら、すぐ天下のgoogle系検索に載ってしまいましたよ。ヤフーなんかまだ載らないし。 (これは宣伝をかねてますので、スパムコメントも大事にしておるところでございます)

 というわけで、知らない方がこちらにみえると字ばっかで驚かれるので、この辺でコーヒーブレイク。マイ・フェイボリット・シング。

 お、マーチンじゃないか、と思われた方は、その瞬間プチお友達です。おや、キャッツアイじゃんか、いい色だしてるね、と当てられた方はコメントください。
 その通り、今は亡きキャッツアイ。これはCE―500。
 就職して初めてのボーナスの余りで、渋谷の黒沢楽器で買ったものです。
 ミディアム弦をつけるととんでもなく上品な音が出ます。
 ただ、ネックが曲がるのが異常に嫌いなので、すぐ外してライト弦にしてしまいました。
 前はヤマハのなんとか130だったか、ドレッドノートタイプでネックが細い上に反った感じでセーハがしにくいんです。てゆうか、指に肉が無く (隙間ができる)、力も無く、セーハは完璧に、全く、少しも、全然、できません。そのまんま、大人になってしまいました。
 だいたいヤマハ製ギターって、今でも多少その傾向はありますが、胸部は小さくって腹がドデカイんですよね。あんなんだよ、昔のヤマハ。訳がわからん美的感覚。しかもあのいかにも日本文化のピックガード (端っこがバチの柄のようになっている)。
 そのヤマハは中学生のとき、さして裕福でもない親が買ってくれたのでケチはつけませんが (つけてるか) (いや、大人になって思うと感謝するしかないところですが)。音はよく響きますよ。ほんと、あんなんだよ、このドデカイ音は、って感じ。

 昨夜久しぶりに爪弾いてみました。マーチン・エクストラライト2年間張りっぱなし弦はとても固く、いつの間にさび付いた糸でくすり指を切りました。うそ。左指全部が相当嫌になりました。

  いや、字ばっかですね。


注1:キャッツアイは女泥棒漫画ではなく、マーチンギター公認のコピーギターのブランド名。東海楽器という、知る人しか知らない有名メーカー製。
注2:ミディアム弦は、硬さがミディアムの弦。太い→強く張る→硬い。だったのですが、最近は違うのかもしれません。
注3:エクストラライト弦は、一番柔らかい弦 (2番だけど)。フォークコンサートプレーヤーにとって、弦は普通最低2週間以内で張り替えるべき。


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イデオロギーとユートピア

2007-10-07 13:23:37 | 上部構造論
 ミャンマーでは、僧侶らが主導する過去約20年間で最大規模の民主化要求デモが続いているようです。
 って、いつの話だ。今日はそんなものはありません。これは9月26日新聞記事の貼り付け。
 ブログらしく今日の出来事を載せようと思っていたら、注記の事情で時が過ぎていってしまいました。

 話は飛んで、カール・マンハイムという過去の社会学者の用語で、「イデオロギーとユートピア」なるものがあります。現体制維持のイデオロギーを「イデオロギー」と呼び、まだ見ぬ理想の国を志向する変革のイデオロギーを「ユートピア」と呼ぶ区分けです。
 そんなものに何の意味があるかというと、それまでのイデオロギー概念は、「イデオロギーは下部構造によって規定される」というものでしたが、この「下部構造」が経済的な利害関係としか捉えられていなかったということがあります。利害関係に沿ってイデオロギーは作られる。
 そこで彼のしたのが、それじゃあ「まだ見ぬ国はどうやって知るんですか?」という問いかけですね。変革のイデオロギーとは、経済的な利害をナマで出すものではなくまだ見ぬ国を思い描くものです。マンハイムの答えは、知識層によってこれを設定できる、というものでした。

 さて、彼に否定されたはずのマルクス主義者の諸君は、どうしたかといえば、実はマルクス主義者としては我が意を得たり、というところなのです。
 彼らは「主義者」ですから、運動が命です。ただの知識人なのに自分達が革命を実現するんだと思ってますから、おっしゃるとおり、理想の国は我々の示す革命後の社会。これを提示する我々前衛の役目は決定的だ。「ユートピア」という響きは都合が悪いので使いませんが、あとは密輸入です。「観念にも一定の役割がある。エンゲルスもいっている」てなもんです。
 エンゲルス? 70過ぎたご老人に新しいことを言わせるほうが悪いというものです。イデオロギー論の確立は、それから100年の時間が必要なのです。
 間違ってれば悪口をいっていいというものでもなく、若いときに観念の原則を世界史上初めて打ち立てた(フォイエルバッハテーゼ)のは、広松渉によるとマルクスではなくエンゲルスだということです。どっちでもいいけど。
 エンゲルスという人は、働きながら中高年までの人生を、友人の、読むだけでも大変な資本論草稿をあれだけのものにして出版する時間に充てた人です。ただの手紙に何を書こうとイデオロギー論がなってないなどといわれる筋合いではありません。

 まあ、それはそれ。
 イデオロギーについて真実はもうご存知ですよね?
 え? ご存じない。
 では拙著『光の国のダンサー』(イデオロギー)と『風とベイシティキャット』(知識)をご覧下さいませ。
 要するに、人は行為する時には自分の1秒後の将来をイメージする。
 生理的に生存できる将来。
 賞賛を確保できる将来
 自由を、つまり対外的優越を確保できる将来
 これらについて、事実として、ありうる現実として、外界を把握している必要があること。
 (中略)
 だから、下部構造が上部構造を規定するわけです。

 ところで、ユートピアです。
 ユートピアで必要なのは、この事実なのです。
 何かをしたい、でも何をしたいのかわからない。この「何」を提供する必要があるわけです。
 このことは頭脳作業だから観念の反作用がある、などといったら、マルクス主義者のように味噌もクソもになってしまうから止めてくださいね。
 「何」は、科学と事実です。
 科学はイデオロギーではない。事実もイデオロギーではない。
 もちろん科学と事実のセットを、行為の指針としてぶち上げることはイデオロギーです。これは思想ですから。(ブログ9月23日用語解説参照)なお、科学といっても、現実に妥当する迷信は一緒ですけどね。

 さてミャンマーです。
 残念ですが、ここには統一イデオロギーがない。これではまだまだ地道に闘っていく必要がある。
 でも暗いわけではない。日本と同じに。そんなことで暗かったら、人間生きてはいけない。闘いが一つ一つの事実となっていく。ただ、先が長い。

 統一イデオロギーがないのがそんなにダメなことなら、イデオロギーにも役割はあるんだろうって?
 おっしゃるとおり役割はあります。しかしそれは反作用などではない。
 イデオロギーは人間が生きていくときに使うものです。そして生きていく土台は下部構造です。デモをして下部構造が変わるわけではない。
(国家権力は下部構造ではないことは知っていますか?)

 ミャンマーは、私は知りませんが、デモのスローガンから逆算しますと植民支配的農村国家のようですね。武力権力に他国の経済支配が重なっていく国家で、ただ、農村国家というものは、農村のことだけうまくやっていれば、生きていくのに民主主義など必要のないものです。一般論ですが。
 ミャンマーの闘いは今のところインテリ各層間の争い、というところに見えます。もちろん個人の自由のためには、民主主義派の勝利が必要なのですが、それって、生産現場=圧倒的広域であるような農村での個人の勝利が見据えられるところでないと現実にならない。
 それが下部構造というものです。

 でもですね。世界資本主義は1国家の下部構造を超える。
 国家権力は、これを促進することが出来る。詳しくは拙著『パリの爆薬』をご覧下さい。
 あんま、詳しくないか。

 ではまた。明日は休日出勤。



【注記】

 マンハイムのそれに限らないが、社会科学上のイデオロギー概念への最も簡単な誤りは
 「(マンハイムは)バークの主張が『イギリスの支配階級であった門閥貴族のイデオロギー』であるとしている点であるが、完全な誤りである。」という主張だ。
 いや、他意はなく、ネットを開けたらすぐに飛び込んできたものだ。私も右翼の思想にまでは手を広げてないので、あわてて1週間費やしてバークというのを『中央公論・世界の名著』で確認してしまった。マンハイム原著(訳)も確認したが、適切な取り上げ方だった。ネットというのは役に立ちはするのだが、玉石混交なのは困る。もちろん本屋にだって玉はめったにないが、私の本棚には石は置かないようにしている。

 さてネットでは下記のごとく主張する。
 「バークは決して門閥貴族ではなかったし」
 「厳密にはイギリス人ではなくアイルランド人だ」
 「またカトリックなども、彼の幼少期にはごく身近なものであったし」
 「彼がウィッグであったことも忘れてはならない。」
 「今日では自由主義経済学者としてのバークも注目せられている。」
 「さらには保守主義という総体を取ってもバークはマンハイムの言うような身分重視がみられるが、カーライルにはそれがないといったように、」
 「イデオロギー或いは世界観の体系は存在しない。」
 
 残念でした。バーク一つとってみたが、マンハイムなり社会科学でいうイデオロギーとはそういうものではないのだ。
 
 それでは、資本家の息子も、ハワイ人も、牧師の息子も、社会主義者にはなれない。
 あるいは公明党員は資本主義を擁護できず、フリードマンが慈善寄付をしてはいけないし、カーライルは奴隷制度擁護も大衆蔑視もしなかったようだ。まあ、私はカーライルなんて知らないけどね。
 
 さて、誰がそんな単純な話をしているのだろうか。
 
 いったい、自民党員は全員が差別擁護者なわけはないが、しかし(ほとんど)全員が自由経済主義者だ。これをイデオロギー的には「一定の差別・容認主義者」という。文化のヘゲモニー(グラムシ談)を確保するためには、それだけで十分だからだ。イデオロギーというものはそういうものなのだ。
 まあ、マンハイムの時代にはグラムシはいなかったが、グラムシもそう難しいことをいったわけではない。(し、難しくするとアラが目立つので、あまり勉強しないほうがよさそうな気もする。)
 どんな底辺からの成り上がり者でも、権力階梯を上がるためには支配階級に利するイデオロギーを持たなければならない。
 井戸端評論はいざ知らず、少なくとも社会科学においては、私のイデオロギー論を待つまでもなく、昔からそのぐらいの初歩的な認識はもっていたのだ。
 
 もっともマンハイムの『イデオロギーとユートピア』は、社会科学というにはあまりにも概念がいいかげんだ。訳者には悪いが、本気になって読まないように。ウツると困る。これは社会学史か何かで概略知っていればよさそうだ。それよりも、同じ著者の『世代・競争』は秀逸だと思う。いまだに、越える著作の出ない世界の名著のはずだが(30年前読んだだけでかなり忘れている。こういう題材の解明は、科学的な手法では難しいのだ。ので私も手をつけていない。だからといって、そんなものを扱うのは社会科学ではない、とかいうのは本末転倒。なんのために社会科学をやっているのか忘れ果てた人間のセリフだ。)、若い人の目には触れないだろうなあ、、、
 
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