HP派としては、毎日何が起こっているかというのは問題じゃない、っていうのが基本ですよね。昨日はふろしき残業で大変だった。明日は仕事ホンチャン、大変でないはずはない。
なんてつまんないことを口に出したくたって、そんなこと書けないじゃん。つまんねし。
なんつってるのはもっとさみしいね。
というわけで「構造主義」
1ヶ月前に紀伊国屋(書店)で本を買ってきて、ここのところの話題というのは、帰りがけの電車で読んだ本に挙がっているテーマなんですけどね、ってこれがその最後のテーマ。本題はアルチュセールというフランスの社会学者なんですけど。
さて、あるシステムは、武力権力者の生理性と、それ以外の者の生理性の折り合いの中でシステムとなりますが、システムは武力権力者の趣味との折り合いの中で種々の色合いを持ちます。詳しくは隈の著作参照。
この色合いの下のシステムについて、構造機能主義と呼ばれるものの出番がきます。システムには構造という、とりあえず変えられないものがあって、それというのもその構造の構成素がそれぞれシステムを支える役割を果たしているからだ、というところですね。
そうした見方はある程度役に立つわけで、現日本資本主義体制では、仮に公明党が同数の国会議員を持つ民主党であっても、日本の政治の帰趨は変わらない。この状態を把握するのは、機能という言葉が簡便である、てなもんですわな。
さてところで、しかし、ある一定の時期に、この下のシステムが空白になり、武力権力者たちの趣味が垣間見られることはある。こういう例外的な事象には構造機能主義は目を瞑ることになる。
ここにフランス系の構造主義が妥当する事象が垣間見られることとなるわけです。
社会科学的にはあまり重視されなく、これからも重視なんかされるはずもないハズレ科学。それもまあ、存在の意義はあるという。
たとえば現代日本の場合、政府施策にバラマキ福祉が生ずるのは、かなりの程度公明党の存在のためで、それを見て、仏教の永年の隠された伝統が社会で構造をなしていてこれを生むのだ、ともっともらしく言うのも赤坂あたりの酒席の話題としては高尚な議論なわけです。たしかに、個人主義者たちの西欧キリスト教では出ない発想には違いはありません。構造機能主義では把握できない現象ではあります。
なんて構造主義を褒めたかに見えるようでも(見えないか)、結局、構造機能主義にしても構造主義にしても、どちらも認識の簡便によい、というに過ぎません。
本来の主体に即した行動環境を述べるには、トータルに行為の規制要因と行為による働きかけ作用とを述べていくしかない。
今、構造機能主義等が簡便だといいましたが、行為論的な社会学は、哲学体系や神学体系のような構造機能主義やフランス流構造主義よりは何十倍も理解には簡単なはずです。それが他人の観念の制作物ではなく、私たち個人の行為の表現だからです。間違っていればそれは(私とかの)個別の社会学研究者の誤りに過ぎないことがはっきりしている。
世の中は複雑ですが、社会科学は、同じ個人の人間の行為の反映を語ればよいだけのこと。なんら複雑なものではないはずです。
もっとも、自分の趣味と生理性に生きる人間には、この交錯が理解できない。彼らには、趣味の日常のほうが重要だ。
まあ、我々は、天皇や世襲資本家のことまで考える必要はないのですから問題のないことです。
(注釈1:フランス構造主義とは何か)
およそ概念は、本来そのために出現した人間の行動から離れるのに従って、自由気まま、なんでもあり、の呈をさらす。
ソフィストの「矛盾」なるものの半分はそうだ。矛盾でもなんでもないのだが、概念を規定するときに行動から離れるから、現実にはありえないイメージを創出することになる。
たとえば「コトバとは何か」という問いかけについて、「私があなたにしゃべること」という現実を離れれば離れるほど不思議そのものとなる。いわく「言語が人間を作る」。
ポスト構造主義なんて人々は、もうすでに「いっちゃってる」状態だ。
こういう人々を説得する気はないので、若い人たちはこういうのに近づくなよ、という趣旨で話したい。
これはなんでも同じなので、たとえば「時間」などというコトバがあって、そんなものがあるかといえば、「時間」なんてものは誰も見たことのないものだ。
そんなものは行為が推移するさまを指すさけの言葉であって、この行為の推移から離れるほど摩訶不思議なものとなる。いわく「タイムマシン」だ。
「昔に戻りたい」という気持ちまではまともだが、人間の行為のほかに「時間」なる世界があると観念するとその世界の「中で」行為できるかのごときイメージが沸く。
が、本当は時間なんてありはしない。
あるのは「原子」(なりのエネルギー形態)が、物質にとって同一の現在の中で、常時存在形式を変えているだけの過程なのだ。
概念が自立するという、東アジアの言霊観念さえ越えた神がかり的な発想は、ヒマな貴族(=自由市民)のおしゃべりが文化であったイタリア起源のもののような気配はするが、私は西欧人でもクリスチャンでもないので本当のところはよく分からない。ただ、19世紀のフランス詩を思い出せば、フランス的構造主義は、近代フランスの歴史的伝統とは相当相関関係があるような気がする。(ちなみに、ローマ自由市民とは、アラブやドイツ、その他自立社会だと「王様」と表現されるべきかもしれない)。
もっともソフィストの矛盾にはもう一つ、関係の間の矛盾、というものがある。ある関係を受け入れて表現すると、別の関係を受け入れて表現することについて、矛盾が発生するというわけだ。だが、これは社会の矛盾を正しく伝えるわけで、ある意味よいことだ。それには解決するテーゼを立てればよい。
(注釈2:世界は存在するか)
西欧の300年の知識の伝統では、まずは物事が存在するかどうかを把握したがる。これがギリシア文化以降の貴族の暇つぶしの伝統だ。そんな貴族の伝統を捨てればもう少し賢いことがわかっただろうに、と思うこと久しい。
存在するとは、本来、行為において考慮の対象になるという状況を指している。
それが「本当に」存在するかどうか、などというのは神学の問題だ。
神学がしたければ、野原の里イモでもかじりながら、『この里イモは本当にあるのか、本当はないのになぜ私の腹がいっぱいになるのか』とでも考え続けるがいい。
しかし、生活者である我々は、他者と米を作らなければならない。他者と共に協働して自動車を作らなければならない。世迷言をいっていたら死んでしまうのだ。
社会科学とは、そういうポカンとしていれば死んでしまう人間(=貴族ではなくブルジョワ以下個人)のためにあるのだ。しかして、西欧では産業革命以後、ブルジョワ階級の支配階級化に伴ってようやく出現したというわけだ。もちろん、日本はその後塵にあずかったわけで、偉そうに「大日本帝国」などと語れる筋合いのものではない。
これは日本ナショナリズムを否定する論拠ではないけどね。
私は是々非々。
なんてつまんないことを口に出したくたって、そんなこと書けないじゃん。つまんねし。
なんつってるのはもっとさみしいね。
というわけで「構造主義」
1ヶ月前に紀伊国屋(書店)で本を買ってきて、ここのところの話題というのは、帰りがけの電車で読んだ本に挙がっているテーマなんですけどね、ってこれがその最後のテーマ。本題はアルチュセールというフランスの社会学者なんですけど。
さて、あるシステムは、武力権力者の生理性と、それ以外の者の生理性の折り合いの中でシステムとなりますが、システムは武力権力者の趣味との折り合いの中で種々の色合いを持ちます。詳しくは隈の著作参照。
この色合いの下のシステムについて、構造機能主義と呼ばれるものの出番がきます。システムには構造という、とりあえず変えられないものがあって、それというのもその構造の構成素がそれぞれシステムを支える役割を果たしているからだ、というところですね。
そうした見方はある程度役に立つわけで、現日本資本主義体制では、仮に公明党が同数の国会議員を持つ民主党であっても、日本の政治の帰趨は変わらない。この状態を把握するのは、機能という言葉が簡便である、てなもんですわな。
さてところで、しかし、ある一定の時期に、この下のシステムが空白になり、武力権力者たちの趣味が垣間見られることはある。こういう例外的な事象には構造機能主義は目を瞑ることになる。
ここにフランス系の構造主義が妥当する事象が垣間見られることとなるわけです。
社会科学的にはあまり重視されなく、これからも重視なんかされるはずもないハズレ科学。それもまあ、存在の意義はあるという。
たとえば現代日本の場合、政府施策にバラマキ福祉が生ずるのは、かなりの程度公明党の存在のためで、それを見て、仏教の永年の隠された伝統が社会で構造をなしていてこれを生むのだ、ともっともらしく言うのも赤坂あたりの酒席の話題としては高尚な議論なわけです。たしかに、個人主義者たちの西欧キリスト教では出ない発想には違いはありません。構造機能主義では把握できない現象ではあります。
なんて構造主義を褒めたかに見えるようでも(見えないか)、結局、構造機能主義にしても構造主義にしても、どちらも認識の簡便によい、というに過ぎません。
本来の主体に即した行動環境を述べるには、トータルに行為の規制要因と行為による働きかけ作用とを述べていくしかない。
今、構造機能主義等が簡便だといいましたが、行為論的な社会学は、哲学体系や神学体系のような構造機能主義やフランス流構造主義よりは何十倍も理解には簡単なはずです。それが他人の観念の制作物ではなく、私たち個人の行為の表現だからです。間違っていればそれは(私とかの)個別の社会学研究者の誤りに過ぎないことがはっきりしている。
世の中は複雑ですが、社会科学は、同じ個人の人間の行為の反映を語ればよいだけのこと。なんら複雑なものではないはずです。
もっとも、自分の趣味と生理性に生きる人間には、この交錯が理解できない。彼らには、趣味の日常のほうが重要だ。
まあ、我々は、天皇や世襲資本家のことまで考える必要はないのですから問題のないことです。
(注釈1:フランス構造主義とは何か)
およそ概念は、本来そのために出現した人間の行動から離れるのに従って、自由気まま、なんでもあり、の呈をさらす。
ソフィストの「矛盾」なるものの半分はそうだ。矛盾でもなんでもないのだが、概念を規定するときに行動から離れるから、現実にはありえないイメージを創出することになる。
たとえば「コトバとは何か」という問いかけについて、「私があなたにしゃべること」という現実を離れれば離れるほど不思議そのものとなる。いわく「言語が人間を作る」。
ポスト構造主義なんて人々は、もうすでに「いっちゃってる」状態だ。
こういう人々を説得する気はないので、若い人たちはこういうのに近づくなよ、という趣旨で話したい。
これはなんでも同じなので、たとえば「時間」などというコトバがあって、そんなものがあるかといえば、「時間」なんてものは誰も見たことのないものだ。
そんなものは行為が推移するさまを指すさけの言葉であって、この行為の推移から離れるほど摩訶不思議なものとなる。いわく「タイムマシン」だ。
「昔に戻りたい」という気持ちまではまともだが、人間の行為のほかに「時間」なる世界があると観念するとその世界の「中で」行為できるかのごときイメージが沸く。
が、本当は時間なんてありはしない。
あるのは「原子」(なりのエネルギー形態)が、物質にとって同一の現在の中で、常時存在形式を変えているだけの過程なのだ。
概念が自立するという、東アジアの言霊観念さえ越えた神がかり的な発想は、ヒマな貴族(=自由市民)のおしゃべりが文化であったイタリア起源のもののような気配はするが、私は西欧人でもクリスチャンでもないので本当のところはよく分からない。ただ、19世紀のフランス詩を思い出せば、フランス的構造主義は、近代フランスの歴史的伝統とは相当相関関係があるような気がする。(ちなみに、ローマ自由市民とは、アラブやドイツ、その他自立社会だと「王様」と表現されるべきかもしれない)。
もっともソフィストの矛盾にはもう一つ、関係の間の矛盾、というものがある。ある関係を受け入れて表現すると、別の関係を受け入れて表現することについて、矛盾が発生するというわけだ。だが、これは社会の矛盾を正しく伝えるわけで、ある意味よいことだ。それには解決するテーゼを立てればよい。
(注釈2:世界は存在するか)
西欧の300年の知識の伝統では、まずは物事が存在するかどうかを把握したがる。これがギリシア文化以降の貴族の暇つぶしの伝統だ。そんな貴族の伝統を捨てればもう少し賢いことがわかっただろうに、と思うこと久しい。
存在するとは、本来、行為において考慮の対象になるという状況を指している。
それが「本当に」存在するかどうか、などというのは神学の問題だ。
神学がしたければ、野原の里イモでもかじりながら、『この里イモは本当にあるのか、本当はないのになぜ私の腹がいっぱいになるのか』とでも考え続けるがいい。
しかし、生活者である我々は、他者と米を作らなければならない。他者と共に協働して自動車を作らなければならない。世迷言をいっていたら死んでしまうのだ。
社会科学とは、そういうポカンとしていれば死んでしまう人間(=貴族ではなくブルジョワ以下個人)のためにあるのだ。しかして、西欧では産業革命以後、ブルジョワ階級の支配階級化に伴ってようやく出現したというわけだ。もちろん、日本はその後塵にあずかったわけで、偉そうに「大日本帝国」などと語れる筋合いのものではない。
これは日本ナショナリズムを否定する論拠ではないけどね。
私は是々非々。