リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「あとがき」の部分削除

2020-06-27 14:12:40 | 「歴史としての自由」
 こんにちは、九州は例によって雨前線が止まってしまったようで、大変そうです。東京地方はそこそこ梅雨で。梅雨はいいけど暑くて蚊が出てきて困ります。ダム貯水量は春の雨続きで十分なようですが、肝心のプールは中止のようですね。暑いわプールはないわ夏休みも2週間だわで、子供もなかなかたいへん。
 若人の皆様方はせっかくの土日も天気が悪そうで。うちのような田舎の近くでも、あるいは田舎で空いてるからか、路上テーブルが出てきました。一人二人で曇りの日なら路上テーブル狙いもよさげです。「外気の中でランチ」をテーマに、どうせ空いてるその近くのマイナーなミュージアムを「ツマ」にするのもよさそうですね。
 
 さて、ニュースは、そこそこいいニュースもあって、アメリカ・ガム向けミサイル迎撃基地建設撤回とか、パーム油発電所建設計画(京都府舞鶴市)中止とか(そんな非常識な計画があって、しかも公けの舞鶴市が推進していること自体驚き。原発市舞鶴も毒食わば、だな。)。しかし、いいニュースはわざわざ私が取り上げる必要もなく。あ、そういえば、辺野古もアメリカが地盤がフニャフニャじゃいやだ、と言い出したそうな。粘り勝ちかな。
 で、グアムをガムと呼ぶと自党にも怒られるんだそうな。世の中偉い人ばっかり。ま、いいや。

 というわけで、本日はニュースなしで。
 なんか役に立つ話ないかね。親戚にお中元でサクランボを贈ろうとしたら、もう佐藤錦は締め切りだって。紅秀峰というのは間に合うそうですが。去年、昔の職場の人たちと山梨でサクランボ狩りというのをしてみました。何種類もあるのですが、初めのうちは佐藤錦が無難に美味しかったです、そのうち口が飽きてどうでもよくなりましたが。東京で安売りのイチゴのあまおうととちおとめで、あまおうが好きな人は佐藤錦がよろしいかと。まあなんの品種でも高かければ美味しいでしょうが。
 以前、(東根市の隣の)村上の知り合いが、サクランボなんてめったに食べられない、といってましたが、産地では自家用の木があるんでしょうね、長野の知り合いは子供の頃はサクランボもリンゴも木にまたがって食べていたとのことです。豊かでいいですね。
 ではまた。寝冷えにお気をつけください。
 
 ****
 さて、本題は、つまらないだろう話で。
 次回作品、ようやく意を決して「てにをは」校正に入りました。そんな簡単なこと、とお思いでしょうがこれがなかなか難物で、1枚に数箇所も訂正がある。目が見えないからキーボードが打てないんでしょう。もう英語を扱うのもあきらめないといけません、キーボードの配置を覚えないまま来てしまったし。
 は、いいとして、あとがき。どうも退嬰的(たいえいてき)で暗い書きようの上に、悪口が多い。さんざん苦労して読んできて悪口を聞かされるんじゃあ、読んだ人もたまらないだろう、とはいえ、言わないのも業腹(ごうはら)で腹立たしい。一人で我慢して作業してるのに、このうえ自分の中に収めておくなんて限度外。
 そうだ、削って、それをブログに載せておこう。
 というわけで、その部分を載せさせていただきます。
 
 唐突ですが、以下
「今は誰も語らない事実がある。
 説明を聞かずとも唯物史観を知っている年代、私たちを最後とする年代にあるのは、社会の貧困が周りの同級生たちを襲って同級生の苦しみや悲しみを見るという共通の経験である、と信ずる。伝統私学のような特殊な、隔離された学校生活を送った人々を別として、私たち、少なくとも「高校にまでは行けた私たち」は、小学校や中学校でそうした同級生と自分たちとの差あるいは区別を、共通に知っていたのだ。ある者は失礼だから、ある者はそれを語ることは傲慢だから、ある者は既に自分の内では「そんなことは問題ではない」から、もうその事実を語ることはない。それだけに研究者たる人間は客観的にそれを伝えねばならない。後続の若い者たちが知っているのは、たかだか昔どこかでデモが起こったという、表現された出来事にすぎないから。
 さて、そんな時代も忘れた人々は、「富裕化」された時代を語る。すでに「資本論など関係がない」時代を語る。今でも資本主義に侵略された国々では、人が共同体の生活から追い出されて、家族もろとも貧困で死んでいっているにも関わらずだ。共同体に追い出され、うまく工場に雇われ労働にありつけた、ではその労働が作った商品はどこへ行く? 日本へ、だ。豊かな日本は貧しい者が作った安価な商品を手に入れる。当たり前だ。そんなことは経済学の常識、われわれの世代で高校へ行けた者たちは全部、一度は知った知識だ。で、そんな者たちが今出す結論は? 「この世は豊かになった」。これでは貧しく死んだ者たちは誰ひとり浮かばれはしまい。

 人は、歴史に参加する。あるときは下部構造に規定され、あるときは、本章で明らかにしたように、仲間たちとともに在ることによって、、、(以下略)」

 これを「あとがき」の前にくっつけると当初のあとがきが再現されるという寸法です。
 
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社会の平準化と無規定視点の妥当性(その2)

2020-06-20 11:50:01 | 賃金・価値・権力
 というわけで、オタク用、本日の続き。簡単にね。
 さて、全社会労働者価値論も趣旨は間違っているわけではありません。実際、労働者が働くからみんな生きていられ、資本家も労働者収奪の結果、裕福なわけです。
 そもそも、前回のべた資本主義世界の論理は、資本家が労働者収奪をする世界が存在する場合のみ有効であるに過ぎません。その世界が停止したとき、初めて、社会体制のパラダイムは変更されるのです。それはいつ? 変革(革命)後です。
 変革後すぐの「粗野な共産主義」の段階では、そこに存在する資本主義の「売買」関係しか事実認知していない人間に規定されて、商業の場はまずは「交換」の場となるでしょう。わたしは「交換」ナンセンス派ですが、しょうがないのです。
 ここにおいて、運輸・保管等労働者は、資本家の代わりに資本家が使った剰余価値の源泉である労働者から直接に自分の分配分を受け、賃金を受けていたサービス労働者は、そのサービスの受け手に対し労働の交換要求を行うでしょう。
 このとき、もちろん、交換価値規定は消えて、人間の労働は労働一般となる。
 左翼理論の視座としての価値論は無意味となり、仮にそれでも論理立てようとするのならば、ここで、労働の一般理論が生ずるのです。交換基準も、「平等な」基準として、労働時間と労働強度、あるいはその時代でのその他の有償労働の基準が当てられるでしょう、そのときの人間しだいですが。
 このとき、人間の占有する権利である「生産手段」は、社会全体として、消費物資の生産に使われる全ての機構の人間労働との接点、となります。
 
 ついで、本来の共産主義の段階になって、それまで十分に事実認知された交換の実質のなさが、「交換」の場を「相互取得」の場に変えたとき、人間の労働は、自由な行為一般として存在し、その「労働」たる規定性を喪失し、「価値」や「生産手段」という無価値な概念を消滅させるでしょう。
 
 わからない? 
 まあ、次回作品の宣伝ね、キャプションみたいなものか。他の誰も言ってないので、展開するのはブログ記事では無理というもの。「視点で違う」こと(と、その影響は社会構成で違うこと)だけご理解ください。

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資本論解釈に見る、視点に依存する規定性(その1)

2020-06-20 11:41:18 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。梅雨とのことですが東京地方今日は良い天気、2、3回暑い目に会うと、最高気温予想28度って、涼しくてありがたいくらいです。

 さて、今日の本題も、ずっと下方。
 とわざわざ書くほど、今日は記事がだらだら長い。なんだろね、意味も薄く。普通の方たちは、今日はスルーしたほうがいいかも。

その1)
 読者の方におかれましては、調味料のキャップの取り方をJIS規格並みに統一してくださいませんか?
 って誰に言ってんだよとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、はっきり言って、当ブログにいらっしゃる方は、インテリか、あるいは社会に対峙(たいじ)するのがなんの苦労か、と思う方に限られると思っております。そういう方は、当社会では稀有(けう)。そういう方は世間、たとえば上司も一言を聞かざるを得ない人間なのです。常にね。とくに製造業に入ったあなた、エリートですし期待されてますぜ。
 というわけで、ブルドッグソース等に入社されましたら、ぜひ、蓋の取り方を統一していただきたい。ソースの蓋の取り方、あれ、常に不明。不明で家人に渡すと1秒で取りますが、ともかく蓋付近真っ白けで突きつけられてもわかりゃあしない。目え見えねえもん。老眼の方はお分かりでしょうが、私のような弱視でもそうです。
 それからゴミ分別用の蓋取り、これも料理酒、オリーブオイル、ソースで全部違う。ぜひ業界的に働きかけていただきたい。これは前世代共通では? うまく国家公務員になれた人は、もうそれだけで責任があるからね。通産省なり、厚労省なり、期待してますぜ。もっとも期待の優先度は低いけどね。高かったら私自身で闘うけど、蓋の取り方だからねえ、、、でも権限ある当事者となったら責任問題ですので。ぜひよろしく。 
 
その2)
 一昨夜(6月18日)、死去後ずいぶん経ってネットでわさお(6月8日死去)の思い出話が出てました。そうかそんな時期か、と。
 私もなんども葬式・御通夜に出ましたが、そんな折に司会者の言う「故人の思い出話」なんかできやしませんよね。せいぜい「驚いた」くらいですし、それでいいのです。若人の方は失礼だと怒るかもしれませんが、できやしませんて。直後ですもの。死んだ情報のほうが重要ですし、それに驚かないやつは来る必要もない。その後、しばらく経って知り合い同士で集まった折、ようやく思い出話を始めるのです。それで周りも癒される。
 わさお君も、そうやって思い出話をされて、わたし的にはよかったな。周りの癒し。なんたって11、2年前初めてネットに出た頃、かわいかったし。
 
その3)
 「君のような顧客をぼくは喜んで失う」アマゾンCEO、人種差別的な顧客への対応が称賛される。(以下、引用長文)
「ベゾス氏はアマゾンの顧客2人からここ数日以内に送られてきたEメールのスクリーンショットを投稿した。メールは同社が"Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)運動"を支持していることを批判するものだった。このうちデイブ(Dave)と名乗る男性が送ってきたメッセージには、下品な言葉や人種差別的な中傷が含まれていて、「お前とのビジネスは終わりだ」と書かれていた。
 ベゾス氏はこのメッセージをインスタグラムに投稿し、そのキャプションに「デイブ、君のような顧客をぼくは喜んで失う」と書いた。
「こうしたヘイト(憎悪)は、影に身を潜めていることを許されるべきでない。目に見えるようにすることが重要だ。これはこうした問題の1つの例に過ぎない」ともベゾス氏は書いている。」(buizinessinsider)
 デイブ君、ショックだろうねえ。こういう差別発言屋って、悪口言いながら自分が相手の仲間だと思ってるんだよね。それが今日の自分の存在のしがい。ところが孤独の現実がバレてしまった。ほかに仲間もいないから、その日はコンビにでも行ってひたすら当り散らすしかない。まあ、そういう吹き溜まりの傷をなめあうSNSもあるのか知らないが。
 って、多少なりとも同情しているわたし。わたしもあちこちでさんざんお付き合いをさせていただきましたが、もう勤めてないから微少な同情心も湧きます。一人ぼっちのあなた。

最後、これは短く。
 上野千鶴子、行岡良治「論争 アンペイドワークをめぐって」。フェミニスト支援用に読んでみるか、と借りた。ひどい。何が論争だ。ただのブントの仲間割れ。井戸端でやってろ。
 今まで人の商売を邪魔したことはない(つもりだ)けれど、これは言う。買うな。ムダ。愚劣にして、けがらわしい。消しゴムで読んだ記憶を消したいくらいだ。


 というわけで、本日は次回作価値論部分への注がらみで確認した、大野節夫「マルクス経済学のパラダイム」をきっかけに、オタク論議。
 これも素人の方には関係ないけど、物事には視点というものが、主体の自由選択で存在します。ただし、自由ではありますが、それによって見えるものも見えなくなる、という話で。
 こういうのはどこまで書くのがブログ的なのか難しい。でも本当に分かっている人間というのは、この筋道を分かりやすく書くことができる、のがほんとうです。やってみましょう。

 この大野氏はパラダイム変換をしたいそうで、どうしたいかというと、「他の商品との交換に至るまでにその商品に要する労働がすべて商品価値を形成することになる」説を通説にしたい。運輸、保管、販売、宣伝、記帳エトセトラの費用です。 
 こういう話は50年前からあって、たとえば、赤堀邦雄とか飯盛信男とかという人。そういう人たちは「第三次産業の労働も価値を作る」と主張しました。もちろん、大野氏の視点は単に経営企業の実際的視点ですが、こちらは労働者の視点。労働者は全員搾取されている、という、理屈は別な話ですが、でも、事情は同じ。
 事情を示す例を出しましょう。
 たとえば、ここに18歳の通り魔Aが同じ18歳の被害者B君を刺した、という事件があったとします。
 この事件は同じ思春期から青春期の若者についての諸学問で解ける、と思ったら、それは余りにも世間知らずです。B君については人類共通の理論が打ち立てられるかも知れない。しかし、その理論では通り魔を根絶することはできない。この同じ理論では、「被害者のB君だって同じ状況なら同じことをしたかもしれないから執行猶予にしてあげよう」という結論以外に出はしない。そんな「誰でもが起こすから」では理不尽な通り魔事件は絶対に根絶ができない。その「同じ状況」なるものを社会から打ち捨てない限り、また通り魔事件は起こる。それは通り魔Aに視点を定めて、その状況を分析し、その状況の規定性を排除するしかない。「人はみんな同じ」で済むことなどない、といってはいない。だがそんなものは、平和な時代の恋愛沙汰事件くらいだ。
 「そんなの別に当たり前のこと? そうかね、二人とも同じ19歳の若者だよ、同じ人間にそんな特別なことなんてないんじゃないの?」
 そう言うのが先の両氏の「全社会労働者価値論」(と、名づけてみました)です。(それぞれ「全」には商業などの例外がありますが)
 
1 旧来の?価値
 まずは価値概念を宇野経済学的に述べておきましょう。
 交換価値は、必需品労働者の自分が作った製品の買い戻し行為によって決まります。買い戻す(単位のない)価格が賃金になるわけです。それ以外に労働者賃金が、したがって価値が、決まる理由はありません。しかし、そこで決まることは避けられないのです。いったん決まった賃金は、他の労働者にも波及する。すなわち、各産業労働者の収奪構成、耳目に受け取りやすく言えば収奪度は、生産労働者の賃金によって決定されるのです。

2 全社会労働者が価値を作れば?
 もちろん収奪度といってもサービス業等の場合は、生産労働者のように、剰余と賃金の構成の度合い、というわけではありません。まず賃金があり、それに雇用者の取り分が恣意的に加わるのです。雇用者が「俺の取り分はただでもいいや」と思えばそれでも社会は成立する。あるいは奢侈品を法外な価格で売る商店があっても、それを買う者さえいれば社会は成立する。これを経済学が規定することはできない。従って、そもそも生産産業とは違う、原理論の範囲外の事項なのです。
 サービス業も流通費用も資本家の恣意下の事象なのです。恣意をいくら理論化しようが、それは資本家の観念の形象となるに過ぎない。それは経済学には混ぜられない。
 製品を今日売ろうが明日売ろうが(保管)、工場の前で売ろうが、貴族の家の前で売ろうが(流通)それは資本家の置かれた状況による、資本家に属する不分明な事情です。
 恣意は恣意一般として資本家に帰属し、資本家の競争上の制約として、労働者賃金一般の費用が必要経費となるだけのことです。
 もしも焦点が賃金労働者一般であれば、人はなぜ資本家一般が儲けられるのかを知ることはない。「それは労働者が自分のものを作っているのにそれを資本家が強奪するからだ」という答えには、「吉本興業の社員は人を笑わせている、同じではないか」と反論されるに終わる。そこにあるのは「効用一般」です。そもそも見物人が払う金は、もともとどこにあったのでしょうか? その金はどこからか忽然と現れるしかない。全ては闇の中です。

3 価値概念提出の本来的意義

 こうして、生産労働者の視点に立ったとき、資本が過剰となり生産が滞る事情が分かり、先進資本主義社会で製造業が一部を除き衰退してサービス業ばかりになることが分かり、後進国が資本主義となる事情が分かる。後追いで評論されるのではなしに、因果連関として明らかにされるので、「事前に」分かるのです。だから「科学」なのです。
 そして何よりも重要なのは、そもそも社会科学の成立は、人間が、自己の生産手段で生きていくことができなくなった、特異な社会を解明するために存在し始めたということです。
 人は誰でも親から受け継いだ、あるいは自分で見つけた、生産手段によって生きてきたし、生きていける、それが類人猿出現以来数百万年の歴史です。生産物は強奪されるかもしれないが、類人猿等はその占有する生産手段でまた生産を続けていく。この「生産手段」の個人にとっての重要さも闇の中へ落ちていく。
 科学は、決してPCで世界賭博をし続けて金を儲けたり、手慰みの絵を描いて人から消費物資を受け生きる理由を解くために存在するのではないのです。そうして生きてはいけないわけではありません。しかしそうして生きられる理由を解くには科学ではなく年寄りの人生訓で足りるのです。

 と、まあ批判したように見えますが、別に論理がアホだとか言っているのではなく、視点の問題だ、と言っています。
 こういう理屈はフェミニズム運動と絡み合うから一筋縄ではいかない。むげにアホとか言って切り捨てると、角を矯めて牛を殺す、というわけです。むげじゃなくてどうする、というのは別な話。今日は別な話には行かずに、直線的に前に進みます。項は改めますよ。オタクの方たちは次のページへ。
 では普通の方たちは、また来週。
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受け売り1件

2020-06-13 10:48:32 | 断片
 こんにちは、お元気? 東京地方、梅雨入りだとか言うので天気図をみたら、もう梅雨明けの前線配置じゃん。実際、気温も梅雨明け直前だし。梅雨入りというのは本来、か旧来、最低気温が10度台なのだよ。季節感ゼロだねえ。
 朝日新聞のコラムは「ドクダミ」の花を褒めていました。参考書の世代だねえ、ドクダミの中で生きてれば臭くてとても褒められないことが分かっただろうに。
 
 さて、新聞に”go to ”とかいうわけの分からない符丁が出てて、なんだと思ったら、政府が「旅行やレストランにいきましょう」っていうんだって? で、宣伝費が3千億とか。
 宣伝してる場合か、特急・新幹線増発させろよ。席は一人で2座席の臨時列車。旅館がいくら頑張ったって、旅館や観光地の問題じゃないだろう。わたしゃ空いた旅館も空いた観光地もぜんぜん怖くないぜ。実際危険もないじゃないか。ただ、その閑地にどうやって到達して、さらに帰ってくるのか、という問題じゃないのかね? 無責任に宣伝したって、人民が受ける危険は減りはしない。国鉄がぶうぶう言うなら何百億か握らせろよ。それでもいうなら国会で特例法作れよ。いいかげん人民任せはやめろ。
 
 ここでまたリツイートもどきね。
「草加耕助さんがリツイート 麻木久仁子@kunikoasagi 6月6日
「うーむ。ついに出たか「政治に政治を持ち込まないで!」的ながっかりした顔☆→三原じゅん子議員「予備費10兆円を政争の具に使わないで」野党反発に(デイリースポーツ) Yahoo!ニュース」
中身ね。「自民党の三原じゅん子参議院議員がツイッターに、「新型コロナ感染症対策予備費の10兆円を政争の具に使わないで」と投稿した。」
 つい笑ってしまったよ、ほんとに議員か? だれだっけ、三原って。てめえのアタマで国をどうにかしようという気概がないから白紙予算の意味も分からない。政府様がよきに計らってくれるし、あたし知らないもん。誰だ選挙票入れたの?
 何が起ころうと、人民で対処しなければならない、それじゃあ人民は不幸だぜ。
 もっとも「民度の高い国民」とかおべんちゃらを言われてやに下がっているような人民じゃあしょうがないが。
 
 さて、本日は受け売り。
 先週書いた「美しき小さな雑草の花図鑑」にいたく感銘をうけたので、この、雑草にみんな共通の精緻な外見はなんだろうか、と、前川文夫「植物の進化を考える」(1969)。専門外なので知りませんが植物界では有名人のおじさんのようで、なかなか元気がいい。
 で、植物と動物の違いって知ってる?
 両者とも、もともとは同じ(成長により変形する)単細胞なのですが、それでも細胞は分裂する。あるいは分裂しなくてアメーバーのように太っていく時期もある。
 なんでもこの細胞分裂から進展して、どんどん直線的に進むのが植物。イメージは「生長点」です。これを称して「つみ重ね体制」という。
 対して動物は。アメーバから進展して、ぐにぐにした形から袋状になり、袋の中に増えた細胞が落ちていく。これを「はめ込み体制」と称し、囲い込んだ空間に細胞を流し込んで埋めていくんだそうです。
 おおわかりやすい。初めは同じ単細胞、ってとこ、いいでしょ?
 なんでもそうやって原理を喝破する人が必要ですぜ。
 といってもこっから先はどうも研究が進んでないもよう。50年も経ってるんですが。

 当方は発酵させ中の次回作品の注的追加を確認しているところ、価値論を扱いながらシャドウワーク系の理屈に言及がないことに気づきました、が、くだらないので言及はやめました、
 が、問題はこんなくだらなくても自分の主張の引き合いに使うフェミニスト群。
 藁をも掴もうとしているのかもしれないけれど、藁じゃあ溺れ死ぬしかないんだけど、と、ちょっと不憫になりました。
 さて、というわけで、ここはまずは女性(労働)自立論の論陣を張ろうかと。次々回の仕事ね、労働者問題は後進国人民を含めて勤めを果たしたので。
 まだあと、障害者活動の自立論を控えて、しかしこちらはその後ね。障害者の知り合いの方には悪いけど、女性の知り合いのほうが多いし。その頃はまだせいぜい70歳だから頭動くんじゃないかな、目医者は治してくれないことが判明したから、そのとき視力が効けばね。
 
 話は別で。 一昨日は蒸し器でシューマイの夕御飯。これは結婚祝いに職場の前の席のおばさんに貰ったもの。結婚したときの調理器具もどんどん壊れてきて数えるくらいしか残ってないけど、蒸し器は下の鍋部分以外はピカピカ。幸いこの前いった「たち吉」洋食器セットとか、貰い物はまだ少し使えてます。井出清子さん、その節はありがとうございます。お元気してますか?

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リツイートもどき

2020-06-06 11:55:39 | 断片
 こんにちは。水曜日に更新したので本日は更新予定ではありませんが、その水曜の前回(と前々回)に土曜更新ないよと言い忘れたので形ばかり。

 いつもB派系の情報探しにする「旗旗」系サイトから、リツイートもどきで。
「草加耕助さんがリツイート
mipoko@mipoko611・5月31日
黒人プロテスターと警察の間で壁となる白人女性たち。警察が黒人達に向けるのと同じ暴力性を向けなければ差別の証明となり、向ければ暴力性の証明となる。この賢く気高く勇気ある行動を知った後では、「反差別は普通に言え、声高に言うな」という「普通が大好きな日本人」たちが、とても矮小に思える。」
 これが、ほおと感心する写真が載ってて。やるねえ。
 問題は、私の操作能力ではもう詳細が不明だということで。ツイッターなるモノはなんなのか。

「草加耕助さんがリツイート
米山 隆一@RyuichiYoneyama・6月3日
普通の人が批判すると、批判するなって言われる。
普通の人が大きな声を出すと、大きな声を出すなって言われる。
でも高須院長が大きな声で批判しても、その声は何もいわない。
木霊でしょうか。いいえ、権力擁護の言論抑圧です。」(高須の愛知県知事批判のことです)
 ちょっと話は変わりますが、なに、高須とか玉川とかその他いろいろ「キャスター(あ、コメンテーターっていうのね)」って。なんの資格があると思って視聴者は拝聴してらっしゃるのかぜんぜん不明。どんなテーマだってしゃべっちゃうんだよね。デュ―リング氏のような天才かね(なお、私は反デュ―リングではありません)。わたしもテレビ局言ってしゃべれば、それで評論家なのかい? 高須も偉そうにテロリストモドキに世間を煽(あお)って。あ、なんちゅうと「告訴だ」とか言われるね。一言悪口言われて告訴だとか、高須ってそんなエライ奴なのか? MSNエンタメ欄でしか知らない奴だけど。でもめんどくさいので訂正しておこう。テロリストモドキという本旨は「県知事の政治生命を吹き消すべく政治的発言で徒党を組む」という意味で誰もテロをする人間だとはいっておりません。ソースね。
 「高須克弥院長(75)が2日、名古屋市のホテルで会見し、愛知県の大村秀章知事(60)の解職請求(リコール)のため、政治団体「お辞め下さい大村秀章愛知県知事愛知100万人リコールの会」を設立したことを明かした。」(Daily)
 いやそんなことじゃあなくて世間の風潮。
 評論家が学者と呼ばれ、おしゃべり男が評論家と呼ばれる、知の大安売りだよ。
 
 さて。せっかくだからなんかためになること。
 久しぶりの貸し出し本で、前宣伝した「美しき小さな雑草の花図鑑」はびっくりでした、ほんとに小さな花の拡大写真の不思議さ。これ自体分子じゃないかねというほど小さいくせに精巧にできてらっしゃる。一見のお奨め。
 一緒に借りた「昆虫好きの生態観察図鑑Ⅱ」、これもきれいだけど、項目ほとんど半分あろうかと交尾の写真ばかりで、目障りこの上ない。奨められません。変わった人なんだね。
 で、中に『クロオオアリ』で、クロシジミチョウの幼虫を「巣に運んで餌を与えて育てることでも知られている」んだそうで。知らねえ。wikiにもないぞ。でも感心なアリなので調べてみました。
 北條賢という人のブログ(http://column.odokon.org/2010/1201_182100.php)、なんでもクロシジミはクロオオアリのパラサイト同然の雄と同じ匂いを出して、働きアリをだまくらかして食わせてもらっているそうな。この人の研究結果のもよう。
 そういってもらわないと分からないけど、まあ「ため」への入り口にはなりました。

 じゃね。
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行為主体の(微)小論理学(2)

2020-06-03 21:46:41 | 社会学の基礎概念
 今日の前回の続きです。
 というわけで、発端は、英語の勉強の続き。英作文勉強の選択的濃厚取り入れが喉のせいで無理なら(も一回やろうとしたけど、痛いし熱だし)単純に英文総量で勝負しようかと思い直し、ついては題材はヘーゲルの小論理学にしてみようか、と思って。今はいい時代で、ネットに英訳が上がってまして。
 なので、今日のお客さんはオタクの中でもヘーゲルをかじったことのある人オンリー用。
 なお、以下ではヘーゲル理論の宗教的側面は、問題にしても悪口にしかならないので、ないことにします。
 
 さて、ヘーゲルが述べようとしたことは認識の論理学ということになっていますが、それは認識行為の論理学ではありません。認識の残滓の論理学であり、認識の抜け殻のゴッタ煮です。人間がある認識行為をした後に残るものは、その結果の表象だけです。それはそれでよい。それらは人の行為の必要、人の行為を他者と分け合うための必要から、生まれ保持される言語情報だからです。それに限れば役に立たないというわけではない。
 たとえば机を飾るために花を選ぶとき、人は花を選ぶか写真立てを選ぶかする。そして花と決めたときに花屋へ行き、そこで選ぶことは赤い花か黄色い花、あるいは赤くて小さな花か赤くて大きな花である、あるいは花といってもバラであり、あるいはカーネーションです。その選択の結果残るものは、花一般の表象とその色、あるいはバラとカーネーションの区別、等という結果です。しかしてヘーゲルの頭に残るのは、花一般であり、それが持つ色です。それらは普遍であり、常に他者と生きるごとに呼び起こし使用されるべき表象です。他方、彼にとって、その過程は頭に残るものではありません。常に状況に応じて変化するものだからです。それは特殊的状況として個人にしか属さない。かくして、彼の認識に残る残滓は、環境内の対象のみとなります。したがって認識の論理学なるものは、自分の外部にあるはずのその対象の認識ということになります。というわけで、理由はあるけれど遊びですな。ヘーゲルは哲学者だから遊びもしょうがない。 
 しかし、お化け以外の人間はそうではありません。もちろん、ヘーゲルをたてまつるマルキストもそうであってはならない。
 人間が認識するときは、必ず自分の行為にとって、そのときの環境に応じた対象を、そのときの行為の趣旨に沿って、「認識しだし」そして「0,1秒後に実際に認識する」のです。この現実を組み込まない限り、それは現実に適用される論理学ではない。

 以下、行為主体の微小論理学はこう構成されます。
 まず、認識の当初には「有」がある。これはそれでよい。
   1 有論
「なんでもない何かを知るために人は認識体制に入る」のです。これがなんでもないことを読者に確認するために、有無成について述べるわけです。

 しかし、次いで、質も量もなんら直接的ではないのです。
 では何が直接的なのか。行為の選択の主体性です。ここで小論理学の構成は崩れます。
   2 行為の原理と原則
 
 この主体性を通って、ようやく質や量が問題となります。
 
   3 対象の即存在
 が、そこでは質も量もなんら独自性を持たない。花の「赤い」も花束を構成する「数」も、全ては行為者の外界に存在して行為の主体性となるべき億万もある要素中の一つの抽象です。
 
   4 行為による選択
 ここにおいて、対象が区別される。この区別の内容が質であり、量であり、同一であり、対立だ、というだけです、これら全ては行為の主体性の問題です。
 
 それでは事物の本質というものはないのか?
 それは次の段階です。
   5 対象の存在認識と規定性
 
 普遍的な「対象」などというものはないのです。
 対象は、まず、行為主体の主体性に沿って規定性が把握される。この規定性がつかんだものが「本質」です。
 ここまでが主体論です。
 しかしもちろん、対象は1人の行為主体の下にあるわけではありません。
 
   6 現存在
 諸対象は独自の規定性をもっている。
 ここで、規定性は既に論理学を通っている。なぜならば、規定性は個人に属するのです。
 驚いてはいけない。規定性は個人に属し、現存在とは多数の個人による、幻視の規定性の集成なのです。
 
   7 因果連関
 ここに規定性を辿る因果連関が生ずる。交互作用などというものは生じません。そんなものがあったところで人間には理解不能だからです。存在するのは「理解不能」という内容を持つスローガンだけです。
 
 そして論理学はここで終了です。現実認識の抽象性は終わり、これに現実が対応する。形式上は、社会科学徒はこの論理学に現実の肉付けをすることになる。
 有はこの内実を持って成となります。これが人が生きる認識の抽象性です。
 この抽象性が現実に触れるたび、人間は自己の自由と不自由の認識を増やしていく。一方、その因果連関を増やしながら人は悟る。我々は自由を求めて生きている。そしてその先にあるのは、支配なき世の中、すなわち、国家なき世界であると。

 と、まあ、こんなところで、英訳本読んでて、アホかと思ってから23時間経ちました。この私の速さといったらなかなかのもんでしょう? いつもと同じで。
 本にはしないけどね。哲学などくだらないし。
 マルキストも学者の給料を貰っているなら、ヘーゲルの提灯持ちなどしていないで、このぐらいの論理学でもこさえたらどうですか?
 
 さて、これからは23時間を越えた追加です。ここで例を出してヘーゲル系弁証法の説明をしますね。
 
 たとえば自然弁証法。エンゲルスですが。
 彼はモノを量的に小さくしていけば分子となり原子となりその「質が変わる」という。
 正しい。
 「えええそんなのが量から質への変換か?」って?
 だから、そうしたものは認識主体の問題なのです。今は人は斜に構えているからそんなものを「量」とはいわないでしょうが、それは認識主体たる現代人が「それをそういわないに過ぎない」のです。すべては認識主体の問題だから、エンゲルスも、「これは自然がそうなっている」といわざるを得ない。いつの間にか変化してしまう自然を見て、行為主体は他にどう言おうというのでしょう? 分子が原子に「変わる」のは「私の観念のせいだ」とでもいうのでしょうか? いいやそれはまちがいです。認識主体にとって、この変化は物体に属する性質なのです。実際そうだし。
 
 もちろん、質と量を仰々しく2大カテゴリーのように持ち上げたのは私のせいでもエンゲルスのせいでもありません。たぶん、ヘーゲルのせいでもないでしょう。生産奴隷から徴収する小麦の量と質、どちらも重要な徴収基準であったアリストテレス等のせいでしょう。しかし、理論上はそんなものは1000もある人間の関心の一つに過ぎない。現実には1000はオーバーですが、理屈です。
 
 もちろんこれは社会科学徒が扱う社会現象でも同様です。
 例を出します。
 性産業従事者が自己の職種の安寧を願うのは当然です。が、一方、そういう職種が安寧であれば、彼女がそれ以前に歩めたかもしれない、それ以上に幸せに生きられる途、は開けない。これは社会科学徒にとっては社会事象上の矛盾です。
 とはいえ、この矛盾は認識主体の問題です。社会科学徒にとっては矛盾でも、性産業を牛耳るヤクザにとっては矛盾ではありません。「学者の勝手に作った矛盾」です。
 じゃあ、これは私(たち社会科学徒)の矛盾でしょうか? いやそうではありません。認識主体にとって、この葛藤は社会に属する性質なのです。人間にとっての自然とおんなじなのです。
 
 ところで私と同じに、マルキストではない社会科学徒、にお教えしまうが、この矛盾も解き明かすのは弁証法なのです、マルキストには言ったってムダだから言わない。弁証法の始元は決して商品なりの「原基形態」にあるのではない。認識する「有」にあるのです。
 なんでもない「新宿の一人の女性のたたずまい」が「有」なのです。それは文字通りなんでもないから「無」なのです。しかし、この矛盾の行為主体の認識が有を分解させざるをえない。そして行為主体が彼の関心下にこれを分析し終えたときに、有は成となります、この成こそが「本来の社会現象」なのです。そこにはもう「なんでもない」無である一人の女性は存在していない、あるいは成の内部に取り込まれているのです。
 
 さて、では分解とは何か。有の否定です。
 
 「新宿の一人の女性の表象」は、行為主体による対象の否定によって、種々の感情を呼び起こす表象に変わる。「あの人は困っている」という状況です。
 行為主体は対象を否定しつくす。「困っている」「なぜ?」「困ってていいのか」。これが社会科学の端緒です。
 この構成素は有の否定、すなわち「新宿の一人の女性」と「これを否定する社会の諸要素」でできている。そしてこの有を否定的な社会の諸要素、「他に職業がない」「同じ人間なのにとりわけ女性に多い」その他の中で、行為主体は「なぜ?」の分析を続け、彼にとっての根幹を見つける。
 ここに成が成り立ち、社会科学徒はおもむろにその中の根底的2点について、上向の旅に出るのです。なぜ2点かといえば人間はそれ以上だと思考できないからだ、ということは過去何度も書きました。
 さて、ここで明らかにすべきであり、かつ明らかになるものは、つまり有であり成であるものは、「新宿の一人の女性」です。
 これを展開するものはロゴス、すなわち社会科学徒という行為主体です。
 だから、ここで展開されるものは、ロゴスによって展開された、ただの無に過ぎない諸要素であり、「自然」です。「新宿の一人の女性」を否定する社会の諸要素です。
 これが武市健人の明らかにした、資本論が取っていない、唯物的弁証法のトリアーデです。
 
 もっとも私はヘーゲル学者でも武市学者でもありません。これが二人の学者における真実かどうかは知りませんし、興味もありません。ただ、そう武市の著書によって教わった、ということです。
 
 5百円賭けてもいいが、マルクス主義者ったって上っ面でお経を読んでるばかりで、何も分かっちゃいないんだ。エンゲルスはマルクスを歪曲したって? そりゃそうさ。マルクス如きとは人間の出来が違うからね。
 ふんん、この悪口でちょっとはストレス解消? いやわたしゃそれほど心は狭くありませんぜ。そう言っとかないと本気にする人がいるからね。
 
 (P.S.なお、ついでにも一つ言わんでもいいことを言っておくと、なぜわざわざ「弁証法」を持ち出さないといけないかは、矛盾を扱わない社会科学研究など、不要だからです。そんな研究は「見れば分かる」もの、生活者が誰でも日々思うことの再現に過ぎないからです。そんな研究をして「学者」とは。
 あ、言わんでもいいことを。)
 
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(微)小論理学(その1 数学の場合)

2020-06-03 21:44:08 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。お元気? 
 暑くなってまいりました。この辺のアジサイはもう8分咲き、名月院はえらそうに予約制とか言ってますが、鎌倉のアジサイは昔から円覚寺や東慶寺のほうが格上ですぜ。今年は穴場。アジサイは雨でもよいので好都合ですね、お奨め。ただし私は行きません。長い電車はパス。わたしも高齢者のようで移ったらアウト。
 今日はあまりに近眼の度が進むので目医者に行きましたら、白内障が進んで見えにくいのだろうと。ほんとに目医者って誰もが無論理。ピントが合って見えるところが近くなってるのになんで白内障なのさあ。白内障じゃあピントはどこにも合わねえよ(P.S.その後自力で調べたら水晶体が硬くなると屈折率が上がるもよう。自力だぜ)。眼外科はえらいけどね。
 ともかく、(目医者的には)もう見え方がどうのと言うのが許される歳ではないような。メガネ掛けて見えりゃそれでいいじゃねえか、という世界。ずいぶん前歯医者でも言われました、噛み合わせ? 噛めんのに文句言うな、って。そんなとこには二度と行かなかったけどね。ほんと高齢者差別だよ。しかし、わたしゃほんとに高齢者か?
 つきましてはyahooのビビッドアーミーのコマーシャル、なにあれ? 面白い。いいねえ、青春。どうせ、関係ない世界だけどさ。

 それより、今日は水曜夜で、なんで更新? そう、不愉快だからブログでストレス解消。今書かないとどうせ高齢者は明日にも死んじまうからね。
 
 さて、ニュース1件。
 ネットに載ってた、パチンコ屋さんが苦境、という一連のネット話題の、レポーターの結末。
 レポーターのインタビュー先は西口さんといいます。
 「「パチンコ店幹部に先行きが心配かと聞くと、笑って首を振った」
「「ホールからクラスターは発生してないからね、それなのにコロナだからと叩かれる、おかしな話だね」西口さんの言葉だ。是非はともかく、私もこのしぶとさと狡猾さを、同じ不要不急の存在として見習いたいとは思う。叩き叩かれ悲しいかな、赤の他人の誰が助けてくれるわけではない、自ら助くる者を助くのが人間社会の普遍的本質であることを、そんな利己の正しさに多くの日本人が気付かされてしまったこともまた、コロナがもたらした不幸なのかもしれない。」(ひの・ひゃくそう/本名:上崎洋一。)以上、ママ。

 これ、哀しいね、「人間社会の普遍的本質」だってさ。日本共産党、なにやってんだ、巨大な宣伝機関を持ってるくせに。普通の人に、ただの自己逃避を人間世界の普遍とかいわれちゃ、もうどうしようもないじゃないか。
 ちなみに、高齢者たる65歳以上ならそんな疎外された幻想、誰も言わんぞ。彼ら(我ら)は、何が起ころうが「俺がなんとかできる」世代。どっちが幻想だ? このレポーター氏らです。証拠は? アベです。アベだって、65(6)歳。最後の世代人とはいえ、そう思ってるだろう。(おじさんとなったレポーターである)この子たちは高校で政治経済を何も教えてもらってないんだよね。世代の断崖のような亀裂。このレポーター氏は49歳だって、もういい年なのにねえ、、敗北の80年代世代だね。まあ、旧新左翼と赤軍のせいとはいえる、行動主体的にはね。具体的に言おうか(いわないが、これは憤り)。
 
 さて、急いで書いている今日の第1の本題。
 今日は「数学」だよん。ぼかあ数学5点でも算数はできたのさ。
 
 4月の(古い)ニュースでしたが
 『超難問「ABC予想」がついに証明!「望月新一教授の宇宙際タイヒミュラー(IUT)理論』
 という記事がありまして、じゃあどんなものか、とレポーターが望月さんのお仲間の加藤文元氏に聞きますと
 「加藤:簡単にいえば、「たし算とかけ算の関係」にまつわるものです。もう少し付け加えるなら、「たし算とかけ算を分離する」というものです。」(KADOKAWA文芸WEBマガジン)
 ははあん、それは禁じ手だね、というわたしの感想、数秒でわかることです。ほんとかどうかは別として。
 「独ボン大のピーター・ショルツ教授が「論文には深刻で修正不能な飛躍がある」と批判した」(朝日新聞)。そりゃそうでしょ。
 もともと掛け算というものは、2個のリンゴを3人が持ってたら全部で何個? という存在です。「2+2+2=6」この集約系が掛け算、「2×3=6」です。離れようにも離れっこない、同じものの2側面です。したがって、この2つの式が同じものであることを証明することはできない。だって、前提なんだもの。前提は証明できない。
 しかし、足し算が別の意味を持っていて、掛け算も別の意味を持っていたら、この2つの別の意味を統合する体系において、これを証明するのは「たやすい」。だって、その体系はそうして成り立っているんだもの。
 ところで、この「証明」には本質的にダメな部分がある。そこに登場する足し算と掛け算は、われわれの言う「足し算」でもなくわれわれの言う「掛け算」でもない、ということです。別の意味を持ったら、そりゃ別のものさ。
 この事実をどう評価するなど、何の興味もありません。数学なんて人生で無意味だからね。私は無意味な勉強は、思春期この方、いたしません。で数学5点。算数は大事だよ。
 
 さて、ではなぜ書いたか、というと、ヘーゲルの「有無成」の説明に良いかな、と。
 世の中、「問題」が立てられれば、答えはおのずから出ている。これがヘーゲルの言う「有無成」の弁証法です。ただ、「初め」の問題は「有」であり、解けている問題は「成」である、というだけです。両者は「同じ問題」で、行為主体がその「同じ問題」に規定性を認識しているかどうかが、「有」と「成」の違いです。規定性は、これを認識したときにおのずと答えを含んでいるのです。前提しだいで、解けるのは当たり前。
 と、ここでね、今展開する問題はABC予想ではない。「行為主体」と書きました。私が書いたこの行為主体の「欠如」が、ヘーゲル弁証法の無意味さです。
 
 というわけで、今日の第2の本題へ項を変えて移ります。
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