リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

話題なし

2023-04-29 13:30:34 | 断片
 こんにちは。青い空に雲が白い水彩絵の具を塗ったようなパステル調で。自家撞着(どうちゃく)? ま、春ですねえ。
 東京地方、GWは平常勤務の人は今日だけ天気のもよう。今年は温かかったのでもうツツジも終わって、少し山か北の方へいくのがよさそうな。
 わたくしは今日は洗濯なしなので冬の布団を干してしまおうと。それが風が強くてパタパタいって。これは叩かないで済むな。
 
 今週は今回作品の宣伝封筒作ったりなんなりで、頭がいっぱい。友だち用以外は送付終了で一仕事終わり、何を言いたいかというと、世間のニュースには鈍になっております。
 新聞も休みのせいかどうでもいい(=誰でも反応が同じ)ことばかりだし。
 昨日の朝日夕刊の1面などひどいもんだ。1面全部が「日本全国の「町」はチョウかマチか」。って、それ1面の話題かよ。
 おかげで区分けがあるって知りましたが。
 おおまか、フォッサマグナで分かれるんだってさ。東がマチで西はチョウ。ただし北海道はチョウだと。そかね。知ってるとこは市になってるからよくわからないけど、熊本砥用はマチだし益城もマチだし。函館宝来町はチョウだけど、こんなの元の字名が音読みが多いか訓読みが多いか、みたいな話では? 知らんけど。仮に岡山に美里があったら、そりゃマチだろ。「美里」は字名じゃなくて作りもんだけど。と思えば西の方は大昔、京都宮中迷信庁が響きのいい音読みの作りもんの大字名を設定した、とも思える。九州も京都勢力の福岡近辺はチョウだそうだし、北海道は全部作りもんの大字だろうし。
 まあ、全部今考えたことで根拠ないけど。
 どうでもいいことをいうから、話題のない今日のブログが埋まってよかった。
 
 今日は春の勲章発表で、朝刊紙面が退職高齢者官僚名でバカバカしく埋まってるよ。恥ずかしくないかねえ、自分たちの感性が。いつまでお上が偉いのさ。やりたきゃ宮内庁でコソコソ隠れるようにやりゃあいいのに。新聞がなくなりゃ消えてなくなるか。いや、アメリカ軍の司令官に勲章を出す、というのは国家のやることだから「理解」はするけどね、ほとんどがただの小役人だぜ、それでも恐れ入るところが小役人かね。 
 そんなことに紙使うなら、昨日配ったという『あんさんぶるスターズ!』の地域限定ワイド広告、全部に入れろよ。ほんと、どこに配ったのやら、、、
 
 今日は連合の休日メーデーに社民党が来ている。全労協はどうするんだ、と思ったら、ぜんぜん検索にひっかかりやしない。あきれた。C派は駅前デモ。まあやらんよりはいい。K派はなし。人間てプライドを捨てたら終わりだと思うぞ、とくに指導しようなんて思う層は。軽蔑する奴についていく人民はいないからね。
 全労連は5月1日にやるってさ。退潮とか言われて悲しいね。がんばってね。
 
 
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「解放行動の原理」発売!

2023-04-23 13:54:12 | 「解放行動の原理」(旧「理論」)
 お待たせしました、隈社会学の余技とはなりますが、『解放行動の原理』。今回は、出版工房オフィス・ミュー 扇田麻里子様の手を借りまして学術研究出版様から発売です。、

 皆様におかれましては、
   BookWay様
https://bookway.jp/modules/zox/index.php?main_page=product_info&products_id=1436

   Amazon様  (4月23日現在は、一時的に在庫切れとのこと)
https://www.amazon.co.jp/dp/4911008032

   あるいは各書店様
    ISBN978-4-911008-03-4 によりまして御注文、
にて御入手できます。定価2,530円。

 といって内容不明のところ、例によりまして目次を上げさせていただきます。

 なお、BookWay様の上記サイトに立ち読みコーナーがあります。「立ち読みする」をクリックで開き、左上の3本線をクリックしてください。
 また、隈のHPの「本の紹介」ページに、もう少し言葉で書いた概要ものせてありますので、ご参照ください。

 
『解放行動の原理』
  ー主意主義的変革主体論の理路

序論 
 第1節 諸前提の提示     
 第2節 行為の原理・原則及び派生する行為論上の定式
 
第1章 下位体系内行為と上位体系の変更 
 第1節 「解放」とは何か。    
 第2節 下位体系が焦点となる理由    
 第3節 現実の下位体系     
 第4節 下位体系の独自的規定性   
 第5節 上位体系から下位体系への規定性    
 第6節 下位体系から上位体系への規定性 
   
第2章 下位体系内部での解放 
 第1節 システム上の権力と行為主体    
 第2節 ささやかな解放    
 
第3章 環境要素の変更による解放 
 第1節 自己権力の獲得     
 第2節 権力の変更の原理    
 第3節 行為共同性と肉体力の集合拡大化    
 第4節 社会的正当性の獲得浸透  

第4章 二次的権力からの解放ー差別 
 第1節 抑圧と差別    
 第2節 差別とは   
 第3節 資本主義と差別    
 第4節 差別からの離脱    
 
第5章 主体の主体としての解放 
 第1節 自己の社会に対する主観的解放 
 第2節 主体的行為と現在的条件    
 第3節 自己否定と共生     
 第4節 解放への行動     
 最終節 共生のくにへ 


 本件は、抑圧から自己を解放するための行動の一般理論である。抑圧、すなわち、資本主義により拘束される環境要因、あるいは差別である。
 ここに明らかにされるのは、個人にとっての抑圧の機構であり、従って個人の抑圧からの脱出の手段である。
 それは決して全体社会の機構の解明と同じことではない。その下位の、具体的人間が生きる場における機構の解明が、今回の第1のテーマであり、その具体的社会関係内の人間の行動が抑圧をどう解消させてゆくか、という過程の提示が、第2のテーマである。
 これらによって、読者は、具体的集団内での人間の行動の意味を知るであろう。
 とはいえ、抑圧からの解放行動自体は、戦いであり、終わりのない過程である。しかし、解放を述べる者は、解放の結実を語らなければならない。すなわち、人間の共生である
 人は抑圧者のいない空間のなかで、人の仲間と生きることができる。人はそれぞれに踏み越えられない違いを持つ。そして、その違いを抱えた共生の現実化こそが人が人間であるということであり、読者は本書の到達地点において、その現実的意味を知るであろう。

 とはいえ、筆者のほんとうの希望は、本書は最後であろうから、最後は祝福で終わりたいということである。
 私にとってもう闘いの季節は終わった、完全無欠の勝利だ。あとは鴎の翼のような白い帆のヨットに乗って濃藍の海原の水平線の向こうへゆくこと、それは召命を終えた人間につかわされた、次の、あるいは最後の召命なのだ、と、フランスの大物語作家は綴った。
      ( ”Attendre et espérer!” ー’Le Comte de Monte-Cristo’ )
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どうせ他人事

2023-04-22 14:23:16 | 断片
 こんにちは。久しぶりに暗くて空気が冷たい。でも湿気が少なくて、洗濯物が乾いてうれしい。明日は北海道以外は晴れだってさ。平常勤務の人はよかったですね。あちこち花盛りですよ。わたしは多分、遠く行かない。
 期限が連休までだっていうんで、結局無料コロナワクチン受けてしまった。5回目。だんだん副作用も弱くなって、もう慣れて効かないんじゃないかね。
 花粉症も鼻水化しないまま季節が過ぎてしまいました。うれしいって言えばうれしいけど、、ちょっと淋しさも。老化なんだろうねえ、、

 もう、たけのこ食べた? 出盛りじゃない? この辺じゃ誰も買わないからか年寄り用の貧弱なのしかなくて、隣町に買いに行ったら大きいのはいいけど韓国産の皮ブカブカの芽の青くなったやつが980円だって。人をバカにして。この辺の小さな450円のにしました。
 形ばかりの若竹煮とタケノコご飯、まあ縁起物みたいなもんで。
 考えてみたら国産水煮590円でよかったのかも。味は良かったけどね。

 さて、どうでもいい件。
 朝日新聞に神戸出身のタレント系が「”ひちひちよんじゅうく”は関西弁だった」と自虐?していました。
 前も言いましたが、7は「ひち」に決まっております。と、これはうちの片親が九州のせいか? とも思っておりましたが、そうでないことに思い至りました。昭和30年代の東京目黒区では授業で「ひちひちしじゅうく」と教わりました。そのときの金子先生がどこ出身か知りませんが、標準弁でしたが(小3以降は鹿児島の竹之内先生)。
 ほんとに7をシチと(昔)発音した県民なんて、どこかにいたのかねえ、学習院初等科だけじゃないかい?

 他人事でどうでもいい件。
 「チャットGPT、横須賀市が初導入」(共同通信)
 だって。いいじゃん、つまんねえ定型文や上っ面の議会答弁文しか書かないんだから縦横無尽だね。民間も使ったらいい。サラリーマンに起こる苦労の何割かはくだらない文章作成だからね(それ以外は「苦労」ではなくて、やりがい)。それが数秒で書けてしまう。なんて効率化!
 一方、「ChatGPTへの対応を表明した国内の大学一覧【2023年4月21日更新】Pogo / gmoriki
 ちゅうサイトがあって、要するにどの大学も「利用可、注意して使え」といっている。
 あ、ぜんぜんだめ。どこもかしこも同じ。チャットGPTで作った文章と思われる。
 人間てさあ、ある事項を自家薬籠中の物にするには、ひたすら自分の頭の中でころがして使うしかないの。教授ならわかるでしょ。わかんない? あ、今、ハサミとノリの切り貼り人生なのね。
 論外。うそでもダメって言えよ。だめじゃなきゃ学生は本気で使うぞ。卒業証書くれるんだから。
 
 でさ、他方、文科省のやつら
 「受験生の思考力や表現力を測るため、文科省は私立大に対して記述式の導入拡大を求める。」
「私大入試、記述式4割のみ 22年春入学、文科省調査」(共同通信)
 なんていうんだぜ。 
 ああ、もう、ばかばかばか。
 導入なんかいらねえ、そんなもん。
 国語の項目選択試験で十分。もちろん、理科や数学の試験じゃ思考力や表現力もわかるはずはないけどね。国語は記憶できないから選択問題だけでわかるんだよ。配点多くしてね。
 うそじゃないよ、理工学、統計学の出現数式なんて、もう何年か経てばAIが作って、AIが解くんだぜ。アタマ使う必要ないから、機械でもできるのだよ。エンジニアはそのハザマにある「思考」を担当するだけ。国語論理のみが必須になるのだ。(それより大学に、チャットGPTは思考力がなくなるからやめろ、っていえよ。といってもお上大事な人間たちは、来月には「チャットGPT 文科省でもやる」とかいうのさ。うんと軽蔑してやってください)。
 
 ともかくその結論として、日本人はみんな思考力なんかいらない。ここに登場した人物たちのように、そんな程度で暮らせてるんだから、継続すればいい。わたしには他人事。
 
 ただ、思考力はいらないから、思考力もないくせに上にこびへつらう民度だけはなんとかしないと私の孫たちが死んでしまう。
 「「敵基地攻撃、際限のない撃ち合いに」柳沢協二・元官房副長官補が語る 「国民に被害及ぶ恐れ」伝える必要」(これは去年の東京新聞)
 この元防衛官僚が人が21日の衆院財務金融委員会で参考人発言したって、赤旗が。
 伝えたって無駄だ、けど言わないよりましだ。
 
 これも他人事。
 K派があまりにも無原則なのでひいきにしたい北井分派氏、しかしどっちもどっちだね。
 氏のブログによると「かのツインタワーの崩壊のときに、黒田寛一が、ムスリムを支持せよ、と指示したのは、今日の中央官僚が既存のものに依存するというように自分の感覚と思惟を働かせたのと同じ構造だったのだ。私は、このことに気づかず、彼の指示に従った。私は、おのれの身が切られる思いである。黒田寛一その人が、自分の内在的超克の論理を裏切り、既存のものへの依存におちいったのだ。」と反省している。他人は無視して自己の内面をのみ重視しろ、と。
 しかしね、そんなこといったら誰とも共闘なんぞできやしないぞ。まあK派らしいが。
 共闘の合言葉は、国家ではなく「人民」。おお!こんなことを「マルキスト」に教えなければならないとは!
 行動が人民的であれば、であるときに限って、これを支持するのは当然なことだ。「イスラム」が人民的であったかどうかはしりゃしないけどね。別の大きな勢力だからって、そのことだけで友であることを拒否してはいけない。
 K派もいつも(表面的には)唯我独尊だったわけじゃない。というより、60年前から、ソ連や中国が悪いのは親玉だけ、彼らは社会主義勢力、の認識だったしね(と対馬忠行が怒っていた)。もともと彼らには国家は崇める対象、この警戒心のなさはどうにかならんのかね。

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論理の行為論的基礎(その5)

2023-04-15 13:33:47 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日は全国的に雨。雨だと買い物の用がなければ外に出たくはない、というと、春の花なんてすぐに盛りを過ぎてしまう。黄色く綺麗だったタンポポ野原も昨日久しぶりに見に行ったらすでに飛び去ったあと。昨日咲きかけてたツツジ群も、すぐに茶色くなっちゃいそうだ。
 
 今日はディズニーランド40周年だってさ。もう、かね。わたしゃ出来て3年くらいで行きましたが、ただのデパートの屋上、樹もなくコンクリーの照り返しでひたすら暑くて。子供が小さいのでダンボと恐竜汽車に乗ったくらいで。ダンボが200円で汽車が500円、多分。昔は乗り物は別枠だったかtら。そのうちパスポート制4500円になってこれが長く続くの。これが痛かったのね、他の遊園地。どこでも個別に乗ってるとすぐ4000円なんて超えちゃうから、それならディズニーランドのほうがいい、って。
 で、端からつぶれて独占企業になったところでおもむろに値段を上げる、と。もう9000円。マイクロソフトのようだ。資本家のやることはどこも同じ。そのうえ「並びたくなければカネを払え」って。驚いたもんだ。ハンディキャップ優先はどうなるのかしら? アメリカ民主主義なんか忘却の彼方だね。
 
 わたくし儀、気づいたら先週あたりで父ちゃんの死んだ歳を超えてしまいました。父ちゃんも隠居するところでしたから、まあそんなもんかな、と思いましたが、私もそんなもんかな。まあ。カネもない分私のほうが食生活がいいので多少延びるでしょうが。延びなきゃ栄養士は全部廃業。みなさまも中年すぎたらケーキはお預け。宴会は酒とサラダだけにするように。タンパク質? どうせふだん食べるじゃん。
 
 おや? 和歌山で岸田の演説が邪魔されたって。
 わたしゃ別に岸田は好きではないが、遊びで世間を渡ろうとするやつは大嫌いだ。おさわがせ回転寿司やろうとどこも違わねえ。
 厳罰で致し方なし。


 さて、本題。
 まだ引き続いている視点問題。あんまし書いてるとみんな逃げていくよね、この辺が潮時か、もう遅いか。
 で、前回述べました認識主体の『この方法が「社会事象という対象に備わった」形式論理と弁証法です。』なる件。なぜ、そんなものが認識対象に備わるのか。
 
1 形式論理

 問題は、われわれは「形式論理」や形式論理「学」に沿って思考しているわけではない、ということです。誰が付けたか形式論理。これは「表象論理」とでも名付けたほうがいい。
 生物にとって、思考的判断とは、第1に、「同一と差異」です。
 物体は既知のAと同じであるかのように感覚されるがどうか。リンゴとリンゴのようなナシとは、同一のモノか。 
 ついで第2に、感覚上違いがあるときに、結果機能的に同一とみなしうるか。
 リンゴのように甘く喉の渇きも収まるナシは、別ではあるが、ある意味、同一です。これは「同類」と脳内で指示し、同一枠におさめたい。 
 こうして、同一物、異物、一般のカテゴリーがセットされます。 
 
 ここで、しいていえば「同一」と「異物」だけは生物に先天的に備わった感覚の結果です。それだけに「方法」ではない。生物にとっての方法は、その異物が「同様」の位置に転化する機構です。撫でて同様に心地よい「同様の毛皮」、食べて「同様に」満足する「餌」、生物は対象を操作し、次の行動の規準を入手する。この過程全体が方法です。
 すなわち、その同一性の成立をめぐる構成こそが、世で「論理」と言われるものなのです。何をもって「同一」となるのか、それが本来の「定義(規定)」であり、これを同一たらしめる要因が「規定性」です。

 手近にある本から表現を取ると、宇野弘蔵「経済学方法論」の5ページに
「かかる経済原則の解明自身を経済学的研究の対象となすことは、商品経済を対象とする経済学の特殊の意義を抹殺するものといってよい」とあります。
 ここで、経済原則なるものが本当にあるのか、宇野の念頭にあるものは本当に経済原則と呼べるのか、ただの歴史上特殊な事例ではないのか、そもそも経済学は商品経済を対象としているのか、そんなことは誰が決めたのか、エトセトラエトセトラ。文章はその文が示す事象が、誰にとっても同一の規定をもっているのかどうか、持つといってよいのかどうか、持つというべきではないのかどうか、すべて、哺乳類生物一般、「私、子リスはこの丸いドングリのようなものを、ドングリの同一性をもって齧(かじ)ってよいのか」という疑問の解消過程と同様です。
 と同時に、「母リスはやめろというが、それは同一ではないためなのか、それとも同一なのに自分が食べたいからなのか」
 これがイデオロギーが排除される根拠です。同一性判断とイデオロギー排除は、常に生物の志向の結果です。

2 弁証法

 さて、話は変わるようですが、あるドングリのようなものはリスにとって、今日は食べられないが、川に落ちたそれは(アクが抜けて)1週間後食べられることがあります。母リスは平気で食べているのを見て、目のいい子リスは不思議に思います。人生不可解。同じはずのモノはどうして違うのか。この不可解さを解く者が第2の要因、「川に落ちた古い状態」です。この以前の状態と今の状態という2種の(現行の論理学者が矛盾と呼ぶ)出来事を取り持つものが弁証法です。
 ご覧になればわかるように、前記「 」内は1つの要因ではなく、まだ2通りの要因の複合した状態ですが、それが複合しているかどうかはさしあたりわからない。生物は2項対立しか取り扱えないのです。このため弁証法は哺乳類生物にとって普遍的な方法となるのです。

 「「方法」っていうけど、「同一と差異」のどこが方法だ?」
 それそのものの決定過程が方法の本体です。
 上記の本も、「経済学方法論」だのとわかったような題がついていますが、これはそもそも根本から違う。ある不動の概念があるものと仮定した人間(宇野)だけが勝手になすワザです。
 本当は、当該書で述べている「経済学の対象」や「段階論」の設置や「唯物史観」や価値論、恐慌論等の分化項目について、宇野弘蔵がそれらの「項目の性格を決めたときに」彼独自の「方法論」なるもの内容が決定されているのです。だから、本「方法論」なるものは、各項目をそう設定した宇野の意図の叙述に過ぎないのです。お疑いの方は確認されたい。
 
 さてそこで、この行為主体の資料は環境世界しかない。何が「正しい」って、知らない人間は知らないんだからしょうがない。
 そこで、市井の本物の「科学者」でなくとも、実証的な事実を探求する「学者」が必要なのです。まあイヤミですが、そのくらいは「市井の」人間のささやかな権利ではないかと。給料も印刷費もらってないし。
 
 なお、「矛盾律」,「排中律」などというものは、伝達の道具である言語に付随する、コトバの決まりごとに過ぎません。つまり、それらがないと、「一体お前の言うことはどっちなんだ、バカ野郎」という事態が生じ、会話が成り立たない、という事情です。 
 (いう必要もありませんが、世の中の自称「論理学」というものは、ただの定義の不十分さから生ずる混乱を面白がる子供の遊びごとです。)」

付) 推理

 さて、ついでに、論理の一種とされる、「推測法」について付記しておきましょう。
 ちなみに、上記のドングリの例は本当かどうか不明です。ニホンリスはオニグルミがあればあえてドングリを食べないようですが、しかしクルミがなければ我慢して食べる、と事実探索学者が述べます。一方、シイの実は人間でも食べられる。またアクが強くて食べられないナラの実等は粉にして水にさらせばヒトでも食べられる、と事実探索学者が述べています。かくて、推測ではありますが、上記の例は間違ってはいないのではないか、と考えられる。
 つまり、「類推」です。類推とはかように、同一性の適用拡大のことです。
 帰納法や演繹法などというものは、学者の遊びです。人間の生活に、例外のない事象などない。行為上の将来はすべて推測の域は出ない。生物の生活はこの同一性をめぐる思考からできているのです。


 で、まあ、こういうことをいうと、どこに書いてあったんだ? などという奴がいる。この隈、はばかりながらこのブログで他人様の諸理論などを使ったことなどない。全部、自前。他人をけなす時に引いてくる例を除いては。誰にだってそのために頭がついているのです。

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誰も知らない事象把握と方法との差異(その4)

2023-04-08 13:57:41 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。みなさまには春は満喫されましたか? 東京地方、花見の季節も一応終わって、気ぜわしさもなくなりました。今日(土曜)など、老人関係か、ハイキングの団体を沢山見かけますが、新緑だけならいいや。でも高尾山の山桜は見たい。
 スケジュールが落ち着くと、やっぱり目がかゆくて。でも今年はほんとに鼻への影響が消えました。もう死んじゃうのかな。

 なんでもムツゴロウが亡くなったとか。そこそこ青春時代の人なんですが。訃報欄を見ると毎日、時代に追われます。
 わたしはモラハラだから、ムツゴロウ好きではないけど、しかしすごい人間だとは思います。皆様などはお若いとご存じないでしょうね。北海道の時代に畑氏が書いた本には「到底かなわない」と感心させられます。テレビに出てた頃はもう変すぎる爺さんですが、本の「ムツゴロウの動物王国」みたいのね。畑氏も若いからすごさも一層。
 
 さて今日の新聞、
「社会保険料に上乗せ…だけじゃ足りない 少子化対策、負担増は誰に?」(朝日新聞)。
 ここんとこ忙しかったから知らなかった。なんだよ、社会保険料上乗せって。ほんとに金満サラリーマン政府・官僚なんて家族持ち社会保険料の重さがわかってねえんだね。ふざけんのもいい加減にしろ。そうしたいというのなら、少子化対策などくそくらえだ。もちろん、これはとばっちりで、軍事費倍増がいけないのですが。

 今日の朝日で、ふつうの人でも食べられる食堂車は60年代半ばから70年年代半ばまでの19年で終わった、なんて書いてありました。
 うそ。つまんねえうそ。私は1979年、盛岡から上野までの電車で、ハンバーグステーキを食べました。唯一の経験ですが。大変美味しく、ビールのコップが揺れないのに感心しました。(特急だったとしたら初めて特急に乗ったのかも。行きは夜行急行)
 鉄道はお弁当を食べるのも好きですが、どこの駅の弁当も似たり寄ったりになってしまって、文化は細るばかり。

 さて、オタク話もだんだん込み入ってきて、どれが当該記事かわからなくなりそうなので「(その連番)」をくっつけました。本日は(その4)。

 とっかかりは、日高普「抽象化の問題」『岩波講座哲学12』所収、岩波書店、1968.
 日高氏は宇野シューレ。といっても大内力氏の弟子。宇野学派らしく、「科学の方法は対象によって規定されること。したがって社会科学の方法は、社会の動きによって規定されることが明らかになった」とのたまう。面倒くさいことに、これと対比されるのがう”ぇーばーで、日高氏は彼が「科学の性格を決定するのはもっぱら認識主体の方法だけであるとする新カント派の科学論」だったという。
 これでは隈も新カント派だ。困ったものです。

 さて、以前このブログで述べたように、科学はその対象の「性質」によってその「方法」が決定される。その典型が「自然弁証法」です。人間の自然の認識が弁証法的となるのは、「自然が弁証法的」だからなのです。(2017-09-09)
 しかし、「科学の方法は対象によって規定され」は「しない」。
 自然科学で使われる方法はだれでもご存じのように、まずは、「数学」です。数学の日常的使用分は形式論理であり、近世以前の「自然科学」はこれで叙述されているともいえます。もしも自然科学の方法が自然という弁証法性によって規定されるなら、数学など使えないはずです。
 「それはお前が間違ってんだろう」?
 違あう。
 人間の把握の仕方と方法とは別のモノなのです。人は特定の自然事象という対象について、『その対象が持つ性質が許す方法の中から』『自己の主体的関心にしたがって、彼が把握している対自然的知識による適切な性質と方法を表現する』。この前段と後段は、別の規定性の下にあります。もちろん近世以前の自然科学にも数学を使わないものもあるのは、研究者の主体的関心が選んだ対象について、その対象の性質のうち、主体が認識している対象の性質によるのです。
 述べたように、人間は社会事象の中に、自分が理解しうるエイジェントを見つける。そしてそのエイジェントの5W1Hを設定する。そこから彼のエイジェントの動きが始まるのです。したがって、そこからが彼の認識の方法なのです。彼がエイジェントをどう動かしていくか。彼の過去の自分の環境との対話方法に即してエイジェントが動く。すなわち大方は形式論理であり、それで解けない関連が弁証法的操作となるのです。
 もちろん、経済学もしかり。
 日高その他の宇野シューレは自分の「科学」が唯一だと自己の科学性を標榜しますが、残念なことにそんなものは存在しない。
 さて、誰も知らない一言。
 新カント派が誤っていたのは、彼らが「対象とは独立に」科学の方法があると思っていた、「その1点に過ぎない」。何度も言いたい、誰も知らない一言。私の名誉の問題ではなく、世間の哲学論議がバカバカしくて。アホはもうやめれ。およそ生物たる存在において、「独立に」なにがあろうか。ほんとにくだらない宗教家たちが今もどんどん湧き出てくるので言いたい。
 といって、自称唯物論者がバカでないわけではありません、が、それは時代と共にスイープアウトされたから、追い打ちはしません。
 人間の「社会事象という対象」は、空中に浮かんでいるわけではありません。「既に」対象を認識する主体の頭脳のうちにあるのです。「その性質はもちろん対象に属しはしますが」、認識行為主体は、この既にある知識と交換消除創成を行いながら、認識を深めていく。何度も言うようにこの方法が「社会事象という対象に備わった」形式論理と弁証法です。
 さてその前に、その加減消除の舞台を作るのが視点と視座であり、これは「社会という対象の中ではなく」諸関係の中で自己の頭脳のうちにあり、「したがって、どう設定しようと個人の自由」なのです。

 ま、難しいやね。
 ここに出てくる登場項目は、
 1 性質を持っている、と言わざるを得ない対象、と
 2 それを見ようとする主体の主体であるという性質
 3 行為主体が扱おうという対象の限定化
 4 限定された対象の性質とみられる側面
 です。
 1と4が方法に関わり、2と3が主体に関わります。
 かくて、1と4は「探求者の意思の如何にかかわらず同じ」であり、2と3は「自由」なのです。
 
 
 でさ、ネット情報に
 「目からウロコ…東大の総長が「自分の頭で考えよ」という物言いを「危うい」と感じた理由」(4/3(月) 7:32配信 現代ビジネス) 
 なんちゅうのがあり、蓮實重彦が「頭で考えたってたかが知れている(趣旨)」、と言ったそうな。文芸評論家なんてそんなもんよ。学長になるのはやめれや。
 いやしくも社会科学に関わろうという人に限っては、自分の頭で考えなさい。長い目で見ればそのほうがずっと効率的です。
 あるいは会社で一つの仕事を教えてもらうとするでしょ。仕事のやり方は尋かなきゃわからない。でもそれがなぜそうなのかを自分で考え、調べてわかれば、その先、別のことなのに尋かずにかえって人に教えられるようになるのです。といっても会社の場合はその人の個性なので、どちらでもお好きに。人間、長所も短所もトータルで1人です。
 ただ個性とはいえ、はっきし言って、そうでない人間は頼られないよ。頼られちゃ、うっとおしい、って人もたくさんいますけどね。
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視点の同一、そして方法(その3)

2023-04-01 15:28:27 | 社会学の基礎概念
 こんにちは、今日は日本中が暖かいようで。日本中お花見オーケーそうでもあり。今日は出勤の人も夜桜だいじょぶでしょう。 
 年度替わりで新しい仕事とかいらっしゃいます? よくも悪くもどっちにしても仕方ないなら、こういうときはいいほうに考えないと損ですね。気持ちの問題じゃなくて、幸いどこにいっても良い人はいるもので、その人と知り合えたと思えば人生まんざらでもない。悪い奴も多いですが、そういうのは十把一からげで断罪して記憶から突き落とすのがいい。

 ニュースでは
「チャットGPT、イタリアでアクセス停止に データ収集など「違法」」(朝日新聞デジタル)
 チャットGPTって見た? AIがなんでも即座に教えてくれるサイト。いや~、いたく感心。これは評論家はもう要らない。高校教師もたいへん。記述式の宿題なんて一発だよ。そのうち「可笑しく教えてくれる」ランキングを競ったりね。byヨシモト。
 ま、コンピューターは信じてもコンピューター会社を信じちゃいけないので、わたしゃ試してみただけ。

 「10代前半の9割以上が「自分は幸せ」 内閣府調査」(テレ朝news)
 なんちゅうのもあって。
 そりゃあそりゃあおめでたいことで。わっちも同情不要で気楽でさあ。
 わたしなどは不幸のどん底だったけどね。まあ家はだんだん裕福になってきてたので、気の持ちようの範囲内。
 わたしは昔のことはすぐに忘れてしまうのだけれど、今週は「高校紛争」なんて本を借りて読んで、中高のころを「ああそうか」と思い出しました。教師は敵だったんだよね。年上はみんな敵。と思い出して、ようやくなんで彼らの思い出がないか分かりましたよ。記憶から突き落としたから。思えばもったいないことをした。善良な人も多かったのにね。まだ学生の人は教師と仲良くしてね。

 昨日の朝日新聞のコラムは谷川俊太郎だったよ。『さようなら』って詩の出だし。 
 
    ぼくもういかなきゃなんない
    すぐいかなきゃなんない
     、、、
    
 人が自立しようとする歌のつもりさ。
 ほんと、大嘘つき。
 どこのくにの中学生なり高校生なりが「ぼくもういかなきゃなんない」などとのたまうのか。親のお涙狙いのアクロバットだ。これだから朝日も信用できない。人間はな、人間は一人でどこかへ行くときには言い訳などする暇はないんだ。そんなことも忘れたのか。
 もう心などはるかに置いてき忘れた2流詩人、年寄り谷川俊太郎。これから絵本作家谷川と呼ぼう。

 さて。本題に移ります。視座は5W1Hで、視点は取り扱い世界の設定。もう一つ踏み込んでいえば、登場エイジェント(登場人物)の選択のことだといいました。
 そっからさき。
 視点も視座と同様に方法に先行します。なぜか? 視角・視座あっての概念だからです。ナイーブすぎる資本論崇拝者は、おそらく、資本論で展開した諸概念こそが真理だと思っているでしょうが、そうではない。それらは真理の一つに過ぎない。これはおよそ社会科学者のみならず、いまどきは歴史学者さえ知っていると思われる基本です。ある視点・視座の下に、当該理論で動き回る概念は「作られる」。それに優劣などない。

 ついで、ある一つの理論の中では諸概念が持つ意味は同一です。これは誰にでも「もちろん」でしょう。
しかして、マルクスのプラン上、概念の章である資本論の次に、あるいは次の次に、そして最後までずっと、同一の概念が動く。「もちろん」。しかして、或る理論において、その視点及び視座は必然的に同一でなければならないのです。
 考えたことのない人にはわからないかもしれないですが、資本論も土地所有論も賃労働論も国家も貿易論も世界市場論も、すべて同一の視点・視座において叙述されなければならないのです。
 これも誰にでも「もちろん」というしかないのでは?
 さて、そこでです、居並ぶマルキストに置かれましては、続きを書いてくれたまえ。

   (ト書き)と言って、教授は教場を出ていった。

 いやほんと、自分で考えたことのない諸君が相手だと、レベルが違いすぎて議論にならない。
 概念の章以上は書けやしないわけよ、同じ視点でなんか。なぜか。このマルクスの意図については、諸概念段階の視点が初めから間違っているから。これが150年経っても資本論の続編が出ない理由の秘密です。
 われわれはなぜマルクスのようなプランを立てるのだろうか? 世界をこの手で掴(つか)むためです。静的な把握ではない、この手で掴んでそれを動かす、変革する、ためです。その第1歩で立ち止まらざるを得ないような叙述は、決して「理論体系」ではありえない。
 ここで「方法」は下僕です。弁証法であろうが形式論理であろうが、使えることを条件になんでもよい。何を端緒にしようが、どこで止揚されようがそれは都合次第です。この止揚を何度繰り返しても構わないが、理論者はその時々に明らかにされた環境の規定性を武器に、世界市場までの道のりを、同じ視点と視座と諸概念をもって歩き続けなければならないのです。

 さて、題の「そして方法」です。
 方法とは、事実認識の整序の仕方のことです。一般の日常では、事実認識は、事実であろうとなかろうと、事実であるかのごとき風体で並べれば理解しうる。つまり形式論理です。しかし込み入った事情では次の段階として、事実認識を段階的に押さえてから組み立てないと理解できない場合がある。これを解くのが弁証法です。しかし残念ながら、人間の悩みは(?)これで止まるものではない。
 上記のように私としては第1に100人の人が100人ともに生きる過程で得る「形式論理」と、第2に、弁証法という2つの方法しか認めていないが、可哀そうなことに、学問に従事する人にはもう一つクリアしなければならない「方法」がある。「諸先賢の視点・視座からの離脱」という方法です。
 可哀そうな徒弟制度内人民は、先賢といわれる自分が生まれる前の爺さん婆さんの理論を使うように強制される。何千年前からのサガです。
 ここで、使うのは構わないが、問題は、直近の先人の無自覚です。
 少なくとも社会科学の場合、先人は絶対です。先人が直近の教授を教授たらしめその前の祖先教授はさらにその前の教授が教授たらしめ云々、これはイヤミではない、同情です。
 いったように、視点・視座の違う人間の諸概念は、流用した「その時点で自分にとっては全部誤謬」です。実証論文であれば自分に帰着する傷はないに等しいが、理論論文では致命的です。視点の喪失とは意味の喪失です。にもかかわらず何千人もの40歳前の諸教授・准教授の理論論文には、交通整理も出来ぬ視点・視座が氾濫している。これは私には関係はないが、これからを担う若人にとっては重要です。よくよく見極められたい。
(わたしの偏見では、最悪がボスも子分もめちゃくちゃな「世界システム論」です。
それまでのマルクス主義が持っていた展望が、その「用語」の定義とともに消えたのに、残っている用語に託してそれが残っていると信じている追随者たちが理論を出版している。この研究意図が消滅した世界の不可思議さといったら!
 いや私は独自にこれだけの展望を切り開いたという人がいれば教えてください。図書館になくとも自前で買い上げしましょう。 .
 が、まあ、付き合いたくもないので「偏見」扱いにしておきます。)

 ところで、めったに作らないグラタンを作ったら、どうも味がおかしい。洗い物してて気づいたら、小麦粉炒めの時、バター(マーガリン)入れてなかった。これは致命的です。小麦粉そのまま食べたっておいしくないぜ(コンソメ、塩、上にチーズは考慮外)。お気をつけください。
 
 
コメント
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