リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「解放行動の原理」発売!

2023-04-23 13:54:12 | 「解放行動の原理」(旧「理論」)
 お待たせしました、隈社会学の余技とはなりますが、『解放行動の原理』。今回は、出版工房オフィス・ミュー 扇田麻里子様の手を借りまして学術研究出版様から発売です。、

 皆様におかれましては、
   BookWay様
https://bookway.jp/modules/zox/index.php?main_page=product_info&products_id=1436

   Amazon様  (4月23日現在は、一時的に在庫切れとのこと)
https://www.amazon.co.jp/dp/4911008032

   あるいは各書店様
    ISBN978-4-911008-03-4 によりまして御注文、
にて御入手できます。定価2,530円。

 といって内容不明のところ、例によりまして目次を上げさせていただきます。

 なお、BookWay様の上記サイトに立ち読みコーナーがあります。「立ち読みする」をクリックで開き、左上の3本線をクリックしてください。
 また、隈のHPの「本の紹介」ページに、もう少し言葉で書いた概要ものせてありますので、ご参照ください。

 
『解放行動の原理』
  ー主意主義的変革主体論の理路

序論 
 第1節 諸前提の提示     
 第2節 行為の原理・原則及び派生する行為論上の定式
 
第1章 下位体系内行為と上位体系の変更 
 第1節 「解放」とは何か。    
 第2節 下位体系が焦点となる理由    
 第3節 現実の下位体系     
 第4節 下位体系の独自的規定性   
 第5節 上位体系から下位体系への規定性    
 第6節 下位体系から上位体系への規定性 
   
第2章 下位体系内部での解放 
 第1節 システム上の権力と行為主体    
 第2節 ささやかな解放    
 
第3章 環境要素の変更による解放 
 第1節 自己権力の獲得     
 第2節 権力の変更の原理    
 第3節 行為共同性と肉体力の集合拡大化    
 第4節 社会的正当性の獲得浸透  

第4章 二次的権力からの解放ー差別 
 第1節 抑圧と差別    
 第2節 差別とは   
 第3節 資本主義と差別    
 第4節 差別からの離脱    
 
第5章 主体の主体としての解放 
 第1節 自己の社会に対する主観的解放 
 第2節 主体的行為と現在的条件    
 第3節 自己否定と共生     
 第4節 解放への行動     
 最終節 共生のくにへ 


 本件は、抑圧から自己を解放するための行動の一般理論である。抑圧、すなわち、資本主義により拘束される環境要因、あるいは差別である。
 ここに明らかにされるのは、個人にとっての抑圧の機構であり、従って個人の抑圧からの脱出の手段である。
 それは決して全体社会の機構の解明と同じことではない。その下位の、具体的人間が生きる場における機構の解明が、今回の第1のテーマであり、その具体的社会関係内の人間の行動が抑圧をどう解消させてゆくか、という過程の提示が、第2のテーマである。
 これらによって、読者は、具体的集団内での人間の行動の意味を知るであろう。
 とはいえ、抑圧からの解放行動自体は、戦いであり、終わりのない過程である。しかし、解放を述べる者は、解放の結実を語らなければならない。すなわち、人間の共生である
 人は抑圧者のいない空間のなかで、人の仲間と生きることができる。人はそれぞれに踏み越えられない違いを持つ。そして、その違いを抱えた共生の現実化こそが人が人間であるということであり、読者は本書の到達地点において、その現実的意味を知るであろう。

 とはいえ、筆者のほんとうの希望は、本書は最後であろうから、最後は祝福で終わりたいということである。
 私にとってもう闘いの季節は終わった、完全無欠の勝利だ。あとは鴎の翼のような白い帆のヨットに乗って濃藍の海原の水平線の向こうへゆくこと、それは召命を終えた人間につかわされた、次の、あるいは最後の召命なのだ、と、フランスの大物語作家は綴った。
      ( ”Attendre et espérer!” ー’Le Comte de Monte-Cristo’ )
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次回作概要

2022-12-24 11:38:19 | 「解放行動の原理」(旧「理論」)
というわけで本日の後半、次回作。もう今回作というべきか。
誤字脱字を残し、原稿完成、、、
というわけでもない。最後までつまらないので、これも景気づけで、目次。
こんな目で誤字脱字を探すなんて、素面じゃできねえ。

  「解放行動の原理」
      ーー主意主義的変革主体の理路

 本件は、抑圧から自己を解放するための行動の一般理論である。抑圧、すなわち、資本主義により拘束される環境要因、あるいは差別である。
 ここに明らかにされるのは、個人にとっての抑圧の機構であり、従って個人の抑圧からの脱出の手段である。
 それは決して全体社会の機構の解明と同じことではない。全体社会についてはすでに筆者によって解明済みであるが、その下位の、具体的人間が生きる場における機構の解明が、今回の第1のテーマであり、その具体的社会関係内の人間の行動が抑圧をどう解消させてゆくか、という過程の提示が、第2のテーマである。

 これらによって、読者は、具体的集団内での人間の行動の意味を知るであろう。
 とはいえ、抑圧からの解放行動自体は、戦いであり、終わりのない過程である。しかし、解放を述べる者は、解放の結実を語らなければならない。すなわち、人間の共生である
 人は抑圧者のいない空間のなかで、人の仲間と生きることができる。人はそれぞれに踏み越えられない違いを持つ。そして、その違いを抱えた共生の現実化こそが人が人間であるということであり、読者は本書の到達地点において、その現実的意味を知るであろう。

(ホームページのと少し変えました。ホームページも来年変えないとね。ただ今年中は比較用に残しておきましょう)


序論
 第1節 諸前提の提示
 第2節 行為の原理・原則及び派生する行為論上の定式
 
第1章 下位体系内行為と上位体系の変更
 第1節 「解放」とは何か。
 第2節 下位体系が焦点となる理由
 第3節 現実の下位体系
 第4節 下位体系の独自的規定性
 第5節 上位体系から下位体系への規定性
 第6節 下位体系から上位体系への規定性

第2章 下位体系内部での解放
 第1節 システム上の権力と行為主体
 第2節 ささやかな解放

第3章 環境要素の変更による解放
 第1節 自己権力の獲得
 第2節 権力の変更の原理
 第3節 行為共同性と肉体力の集合拡大化
 第4節 社会的正当性の獲得浸透

第4章 二次的権力からの解放 差別
 第1節 抑圧と差別
 第2節 差別とは
 第3節 資本主義と差別
 第4節 差別からの離脱
 
第5章 主体の主体としての解放
 第1節 自己の社会に対する主観的解放
 第2節 主体的行為と現在的条件
 第3節 自己否定と共生
 第4節 解放への行動
 最終節 共生のくにへ 
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題の変更「解放行動の原理」

2022-11-19 15:16:20 | 「解放行動の原理」(旧「理論」)
 こんにちは。もうドングリの季節、この辺は落ち葉に紛れて顔を近づけてもよくわかりませんが、手入れのしてある児童用公園のドングリはごろごろと地面を埋めてるでしょうね。
 『小さな木の実』って知ってる? みんなのうた。

   小さな手のひらに ひとつ
   古ぼけた木の実 にぎりしめ
   小さなあしあとが ひとつ
   草原の中を 駆けてゆく

   パパとふたりで拾った
   大切な木の実 にぎりしめ
   ことしまた 秋の丘を
   少年はひとり 駆けてゆく、、、

 作詞:海野洋司さん。今年亡くなったんだね。同じく『白い道』も好きですが、こっちはママね。
 
 と、ただの前記事のお口直し。自分用。
 
 さて、次回作、題名を変えました。
 「解放行動の理論」改め、
 
 『解放行動の原理』
    ー自己否定と自由の明日のために
    
      ううんん、、やっぱ副題がいまいちだな。昨日、勢いで変えたから。
      「人は売れようと思わないと売れないよ」と松本隆が言ったそうな(朝日新聞)。だからって媚びたって売れるわけじゃあない。媚びたことはないけど。
      
 本題はね、「解放の戦略やら戦術とかは載ってないから誤解を与える」ってわけで、これで決まり。
 文章修正は、あとは序論を残すだけ。おかげで、さらにいっそう目が見えない。
 じゃ、出来上がりすぐじゃん、てわけでもなく、見出し・小見出しに触ってないので。これがあんがい苦労。中身の文がひどいので、目次で分かってもらわないと。
 
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仮称「解放行動の理論」集約突入的報告

2022-03-27 20:26:52 | 「解放行動の原理」(旧「理論」)
 .こんばんは。今日も空もニュースも暗いけれど、次回作品構成ができましたのでご報告、これでようやく、見出しだけでなんとか意義が通じるようになったかと思われます。
 って、もちろんこれから目の見えない目で文章を修正していくのは嫌、というよりは苦痛に近いのだけれど、その景気づけの一文、というわけです。あと4か月ね。やる気が続けばなんとかなるでしょう。世界が次の段階に展開して私の精神を邪魔しなければね。

 って、ほんとは、今日はちょっと花見中晴れ間があったので、(桜が映えて)なんかうれしくて。
 変? そっかね。
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仮称「解放行動の理論」中間報告

2021-12-11 16:12:33 | 「解放行動の原理」(旧「理論」)
 こんにちは。東京地方、暗い雨曇りの日が終わり、また冬の青空が戻ってきました、が、寒い。寒いといっても平年並みで、昔ならワイシャツにスーツ。
 前々回、みなみらんぼうの「コートにすみれを」が季節外れと書いたところですが、さっきgooのおすすめブログをみたら、「コートにすみれを」は、もともと”Violets for Your Furs.”というアメリカの12月の幸せ歌があったもよう。マンハッタンでは12月にすみれを売ってたんだとか。そのブログにはコルトレーンが作ったとかあったと思うけど(もう画面が消えてしまった)、ネット情報はフランク・シナトラの歌だって。
 って、だれもかれも知らないか。
 今日の朝日新聞のコラムでは、「タイムレコーダー ガチャンと押せば」なんて一くさりが載ってました。植木等という昔実在した喜劇役者の歌です。なんのことでしょう。
 自分の厚紙のカードを差し込むと、厚紙に押されてバネ仕掛けの数字印がタイプライターのように時刻数字を厚紙に打つんだよね。ま、これは昭和という時代。覚えてもいいかも。
 
 ついでの話題、喉の筋肉の体操のyoutune、松山千春を聞いて、お前、声高すぎだよと思いながら右端(の推薦メニュー)を見ると、なぜか「北風小僧の寒太郎」、歌が高橋優だって。高橋氏、ギブソンなギターを抱えてさわやかに歌っておりました。選択がさすがじゃん。
 て知らないか。
 ともかく、おおさむこさむ、山から小僧が飛んできた、ですね。
 
 さて本日のお役立ち情報、
 テレビでやってた「【週刊さんまとマツコ】水で洗うパラパラチャーハンの作り方」、
 ご飯を水で洗って15分置いておいてから混ぜると、パラパラチャーハンができるんだって。
 半信半疑で昼食にやってみました。
 ぜんぜんだめ。
 そりゃ当初ぱらぱらになるけどさ、途中で味見したら、ンンンー、ジューシー、、、水だよ。ご飯粒の中、全部水。15分も置いときゃそりゃ全部水吸うだろ。
 炒めるほどにべちゃべちゃつぶれ、結局いつものほうがずっとマシ。
 もっともわたしは玉子を危険視して昼の料理には使いませんので、玉子コーティングのなさのせいという可能性はあります。が、そんなら洗うことない。なんたってご飯粒、水だらけなんだから。
 
 余談ですが、卵がないとチャーハンてとげとげしくなって、あんまり冬向きじゃないですね、冬にはぬくもりが欲しい。
 
 というわけで、本日終了。
 
 本題は次回作品の中間報告。
 先にお話ししました当初の構想(2020-08-08 )、
1 女性等への差別反対の方針の理論
2 それに加えて現行社会学の批判理論
 という内容の策定につきましては、完了しましたことをご報告いたします。
 でさ、とりわけ問題が今の2番目。
 できても「だからなんじゃい」という虚しさの霧が晴れず。ほんと、そんな理論に何の意味があるんだろうか。社会学なんてやりたいやつらにやらしとけばいいではないか。

 このテーマは、わたしが途中で社会学を捨てたから、最後に批判してこの世から消えれば人生のつじつまが合うと思ったのですが、違ったようです。おかげでこの1年、ひたすら虚しかった。
 と、しみじみ思ったのが最近読んだ都市社会学系の学者たちの自伝集。紛争世代のはずの社会学者たちがなんとも自己肯定感いっぱいに人生を集約している。ああ、だからわたし辞めたんだよね、としみじみ。大人になると昔の自分のわかることが増えます。
 これじゃあその前に読んでた(彼らと)同年代のマルキスト、小阪修平の自伝(と、それによるその仲間たち)のほうがずっとましだ。ほんと、マルクス主義者の方々には、理論家に限って、いろいろお世話になりました、と感謝。
 
 で、というわけで、編集方針の変更をしようと。いまさら中身は変わりませんが。
 「2 それに加えて、行為理論本体からのアプローチの限界点」
 は、いかにも負け犬。そこで
 「2 それに加えて経済学徒のための社会学理論」
 にしようかと。「経済学なんかやっても社会学なしに社会科学になるわけがない」と言い続けて30年、ようやく悪口でなく生産的に、彼らのための教科書を作ってあげようと。
 経済学徒と言ってもマルクス経済学同調者だけどね、前衛主義者を除いた。これで気の合った連中だけが私の読者になる。
 さらにいえば、内容は去年から一貫して変わりません。
 
 
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いわゆる「社会的権力」の理論化の簡単な道筋

2020-08-08 11:11:26 | 「解放行動の原理」(旧「理論」)
 こんにちは。とうとう圧倒的に暑い夏が。一昨年の夏から全面的にクーラーのお世話になってるんで体がやわになって、冷房なしでいると吐き気がしてきます。
 しかも人生面白いことないし。キーボードが見えないし。毎行手直し。
 世間様ではお盆休みとあわせて、誰でも3連休以上ですか? どっか行きたいなあ。我慢ばかりでわずかでもいいことがないと、すぐぶちきれちゃうよ。動悸やめまいが増えてきたし。
 毎日パソコンは詰まるし、ベロはアフタで痛いし。無事な人間は感謝しないといけません。
 最近、声も出づらいので歌でも歌って口を動かそうかとギター掃除。そういや指先がやわになって弦を押さえられないんだったっけ、まあ少し固くするか、とギターを構えたら、おや、コードが動かない。指が位置をすっかり忘れてしまったようで。さらにベロが痛いし。やめました。
 
 ニュース。
 「感染36人の病院、マスク不足が原因か 繰り返し使用も」神戸市立中央病院(朝日新聞)
 半年過ぎてもまだそんなこといってるよ。アベは当然の病院への手当てもしないでなにがGOTOか、といいたいところ。いまさらどうにもならないけどね。
 にしても病院・施設関係者だけでも守らなくて、なんの正義か。「心」なしにどこの「日本が美しい」のだ。ま、いえばいうほど虚しいけどね。
 
 『イソジン吉村』評判ですが、そりゃ政治家だから知識が多いわけでもなく、イソジンが殺菌薬だという知識がなければ舞い上がるのもしょうがない。しかし、ふつう、周りにそれくらいの常識がある人間もいるもんだが。それを止めないのは大阪府官僚がアホとしかいいようがない。世の中、おべんちゃら取り巻きに利口がいたためしがない。という経験則からは、一回りしてアホで固めた本人のせいになるんだけどね。
 
 おお、久しぶりにコロナを話題にしてしまった。体調の悪い季節に。
 ついでに
「インターネット上で患者や家族への誹謗(ひぼう)中傷やデマ情報の書き込みが相次いでいることから、鳥取県は、悪質な書き込みや画像を保存する対策を始める。被害者が名誉毀損(きそん)などで訴訟を起こす際に、証拠品として保存したデータを提供する。」(朝日新聞)
行政権力のくせに、なんとなく下品だねえ。ま、下司相手じゃしょうがないか。

 さて、本日は、江原由美子「装置としての性支配」。論文集なので、とくに中の「「社会的権力」の理論化はいかにして可能なのか」。
 人のいい江原氏が人の悪い上野千鶴子氏と論争をして勝たれないという可哀そうな破目に。 ご当人は、唯物派(上野)に対して「文化派」ときめつけられて悔しがっておられますが、理論がないのではそれもしょうがない。95年の本なので、その後本人が作られたかどうかは知りませんが、「物象化」だの「主観性」だの『客観的実在」だの「文化・イデオロギー・規範」の並列化だの、哲学的「社会学」用語を並べている限り、できてはいないことでしょう。誰のせいって、まあ師匠のせいとでもしておきますか。師匠しらんけど。

 というわけで、不肖隈、すぐ加勢したげるというわけですが、しかし女性差別だけじゃあ重さが低いので、障害者差別を除く一般差別論に2年みております。で、それまでに私が死んじゃうとなんなので、方向だけ若い皆様にお伝えしておこうかと思います。

 さて、まずは、権力です。もちろん行為者の主体的行為の邪魔をする人間の努力が、一番ナマな権力ですから、まず、個人に対する権力のありかさえ見出せばいい。
 しかしそのありかが事情で変わり権力が出たり消えたりするから、ついで、その変更主体の事情を見出して、さらにその事情が変わる要因と様相を見出せばいい。見出したら、その変更要因を被抑圧者が触る(操作する)にはどうしたらいいかを見出せばいい。
 前提は、第1に、権力は家庭内や生産共同体内に発生しつつ、資本主義社会においては国家から生産関係を通して供給・合流される、ということです。第2に、被抑圧者に影響するナマの権力は、国家武力と生産関係の動きによって、発生もするが消滅もする。ということです。従って哲学的社会学派に権力は扱えません。上野がふんぞりかえる所以です。
 といって、「物質派」なるものが正しいわけではない。現実の問題は、被抑圧者個人に対する諸差別者の行動の集積のことなのであり、これをどうにかすべきだという意図がおおもとなのだがら、土台-上部構造論などを語ることには何の意味もない。 
 しかし、こんな事情の裁量は、唯物論者なら隈の行為論を使えば簡単です。
 ただし、その簡単さの邪魔をする既存のマルクス主義や哲学的「社会学」理論をどうやって排除するか、これが努力の2割を占め、ついでに差別も扱えないイデオロギー社会学(ふつうの社会学のことです)も批判しようと思ってるので、こっちが少し大変、努力の5割を占めそう。というわけで、だから2年もかかるのです。
 という一般論の確立の中で、じゃあ女性差別を例証にとって動かしてみる、女性差別をなくす操作を思考する、という、こちらは男にはいたって簡単。しかしてこれで約束宣言は完了。ちなみに隈は男です。
 なぜ女には難しいかというと、今は、人間は自分のことは視えない、という処世的な一般論でまとめておきましょう。正しく言うと、我がフリなどみていないというわけです。その結果、どこまで動かすと残りは差別ではなく性差か、判断がつかないということです。人間、自分が今言っていることしか考えられないし。まあ大方の論争などそんなつまんないものです。

 というわけで、私なら2年。いや、理論上誰にでもできるので、皆さんやってみてください。そしたらもう私は、どっか素敵な旅行して、コロナして死んじゃうかな。
 
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