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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

雑感想

2018-12-29 15:16:38 | 断片
 こんにちは。年の瀬も押し迫ってまいりました。今日は東京も氷点下。もっとも快晴なうえ当家はマンションなので、窓際で上着なしだったりしますが。
 今日は多くの方々はお仕事も終わりでしょうね。当ブログも雑感想日でございます。
 
 まず先にお役立ち情報。
 大掃除の発見ではありませんがふと思えば、災害用備蓄食料を取り替えてないな、と。そこで取り出しました「アキモトのおいしい備蓄食」缶詰パン アレンジとグレープ味。おやおや、すでに賞味期限1年以上超過。さてどうしたものか。ネット検索上、私はだいじょうぶだったという書き込みがない。わかりました、わたくしが食べてみましょう。
 おいしい! おいしいぞ、アキモト缶詰。37カ月保存のものですが、50カ月までは大丈夫ということが分かりました。ご参考まで。
 もっとも缶詰が膨らんでいたり傷が入っていたりみたいな場合はやめたほうがよいようです。
 そんなもの知らない? 購入お勧めだけどなあ。保存切れ乾パンだと食べるの苦痛じゃん? 食パン2枚分のカロリーで400円。安くはないけど、備蓄食だからね。例の東北大震災のとき会社泊まりでコンビニの棚はカラッポ、ほんと腹減って寒くって困ったもの。

 次、ニュース。
 その1)朗報:【AFP=時事】「英政府は、動物の搾取や虐待を防ぐため、ペットショップでの子犬や子猫の販売を禁止する新法を来年導入すると発表した。」 うれしい。他国だけど。ほんと洪水の水をバケツですくったってしょうがないのだ。
 
 その2)「静岡県東伊豆町の動植物園「熱川バナナワニ園」で27日、年末恒例の「ワニ池大掃除」が行われた。放流池の水を抜き、全身を現した体長約3メートル、体重約200キロのミシシッピワニなどの背中を飼育員らがデッキブラシで丁寧にこすって“1年のあか”を落とした。」(共同)
 写真見たらデカいワニの側に立って、そのまんまこすってやんの。この飼育員の方たちは、食われてもいいと思ってるんだよね。生き物を育てる、って結局そういうことだと思うぞ。人間の子供でも何でも。
 
 その3)『学童職員1人も可能』「安倍政権は、人材確保が困難との地方団体の要望を口実に、」「市区町村の判断で引き下げ可能な「参酌基準」にすることを決定。」「参酌化されれば無資格の職員1人体制でも運営が可能」(赤旗)
 子供死ぬぜ。走り回る坊主なんか一人で見られるはずないだろうが。わたしゃ「市町村」なんてまったく信じていない。「裁量」の意味なんかない。地方自治なんかやめてしまえ。(市区町村の「区」は金持ちだから抜く。ところで特定自治体だけ金持ちってなんなんだ。地方税など取り上げて全部おんなじ条件にしてしまえ。ふるさと納税が聞いて呆れる)
 
 次、個人案件2件。
 その1)前回の文中で豚の悪口をいってしまって後味が悪く。豚って赤ん坊のうちに食べちゃうから悪口を反省するような良いエピソードがあまりないんだよね。ほんと鯨なんかいい身分。まえに豚の子が蜘蛛のおばさんに助けられる映画はやってたけど(「シャーロットのおくりもの」、だと)それも豚の良し悪しがテーマじゃないしね。
 
 その2)先に話題にしたM区J町のB書店。来てもらって、IT企業の兄ちゃんみたいな店員が700冊ほどの本を30秒も眺めたら、「うちでは扱えませんのでさようなら」だと。この書店は30年前に店を改築して、おう、すごいじゃん、頑張れよ。と応援してたのに、なんだこいつ。そろばんずくで古本屋やる気かよ。古本屋というのは本に愛着を持って愛着のある同士で世界を作ってくんじゃねえのか、同じ町でよお。40年前おいらの本も買ってもらったし30年前親父の本も買ってくれただろ、同じ町だもんなあ。30秒で見当が付くのはわかるよ、おいらにだって30秒で分かるし。しかし嫌でも5分居て、3冊だけ計100円で買っちゃなぜ悪いんだ?
 わかったよ、そろばんずくだな。早く潰れろ。誰も同情しねえや。
 K市T区I町のI古本屋が潰れたのはそれができなかったんだろうね。ここも昔風に対応が真摯だったからね。
 怒りすぎ? 700冊箱に詰めずらっと背表紙が見えるように並べるのがどんなに大変か。しかも私がやったんじゃないし。
 
 まあ、とはいえ、悪口で1年を終えるのはいかにもよくない。
 本年ははっきりいって悪い年でした、本は1冊出来たけど。(はっきりいうな。)
 正月から悪いのが見えていて抱負もいわなかったので1年の総括はありませんし。(って、もっと気まづくなった。)
 まあ悪くても一生懸命生きたのでよかったです。(ちょっと戻した?)
 常連の方々にはお世話になりました。これに懲りずまた来年もお付き合いくださいませ。(いつものことだで慣れてる?)
 ともかくも、良いお年をお迎えください。
 
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「古代資本主義」と近代資本主義(その2)

2018-12-26 15:32:57 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。本日は前回の続き。本来の「資本主義」と「古代資本主義」なるものを分かつ決定的差異の第2、「支配権力にとっての産業資本の威力」。これじゃ文学的ですか。ともかく続きなので全面的にそればっかです。

 「古代資本主義を支える商人資本には社会システムを変革する能力はない。彼らに出来るのは商業差益による自国での自己の剰余物資の豊富化だけだ。しかし、近代資本主義の本体である産業資本は、世界を変革する」ということです。まあ世界史でご存知のとおりなのでこれで終わってもいいのですが、「そんなものは偶然の出来事だ」とかいわれてもいやなので展開します。
  
 さて、「そもそも」論からします。
 まず、支配は地域的には点です。大きな点が近くの点を破り配下にする。そうして点と点のネットワークができる。しかし人民はその間にこぼれているに過ぎません。大和朝廷が日立の国を攻めて従属させた、といっても、大和朝廷は常陸国の人民の一人も知りません。では常陸の「国主」職なら人民のことを知っているか、というと、そんなはずもない。(現代の)石岡市のボスは兵隊を出してくれる近隣の村々の村長ならよく知っているでしょうが、国境の(現代の)大熊町内の村長を知っているかどうかも怪しいものです。ましてや貢納を取り立てるあてもない弱小のことなど、地図もないのに支配者が知れるはずもない。「常陸国府」はあっても「常陸国」など日本古代には実はないのです。しかし、それで充分なのです。各地区の「点」が周りを支配し、その「点」のネットワークが存在すれば、大和朝廷は日本のボスです。この、支配は武力だけでは「点」にしか作用しない、というのは社会への重要な認識なのでご記憶のほどを。

 というわけで、話を全歴史過程に戻します。
 支配者は「国」など「点」があればよい。同様に商人資本も「点」さえあれば良い。「市場」ですね。築地があれば、全国の網元にとって、川崎市内の魚屋の配置などどうでもよい。築地で全部売り払えればそれでOK。
 点でよいのが商人資本。彼らは差額利益を構成するための拠点があればよい。
 つまり、資本主義以前支配者体制と商人資本は、点を確保しさえすればよい、という意味で並行して存続しているのです。
  
 しかし、資本主義は、産業資本は、それではならない。面の確保が必要なのです。
 第1に、その面から労働力を醸出させ、第2に、その労働力から生ずる価値を実現してくれる商品を購入する人々を、面で賄(まかな)わなければならないのです。
 同様に、産業資本を飼っている国家支配者も、後付けでこの要因が入ると面が支配できなければ結局自分の地位が保てないのだから困る。こうして両者は、自己の生理的存在の存続のために搾取を実行する資本を力を合わせて確保せざるをえない。労働力と資源物資と、土地です。
 もう一度いえば商人資本はそんなものは興味がない。歴史的一時の現実には産業資本とダブる商人資本も一部には存在するでしょうが、実効性はない。そのときの支配者には不要だからです。
 こうして産業資本の自生国ではそれ自体で統一国家が生ずる。統一国家は「国民」レベルでの権力的実力と身分あるいは差別の崩壊のための重要な必要条件です。
 
 さて面的支配の拡充は、それにはとどまらない。この「面」は資本主義と国家権力によって引き伸ばすことができる。これが資本主義的帝国主義です。
 彼らは「外国」を自らのものにし、そこでの労働力と資源物資と土地を入手する。世界分割後の帝国主義は、このうち土地を入手しそこなっているように見えますが、常に拡大の期を狙っているのは、世界各地の入植・併合の事例の示すとおりです。 
 この意義は、
 第1に、当該侵略国家内の階級関係の変成ないし再構築です。すなわち労働者の労働貴族化です。国内産業において賃金を最低線まで下げられた一部労働者や、最低限より少し上で経済的キツさを語るべき次の層の一部労働者も、国内賃金は低賃金でも、(上部階層は買いはしないが)当該国内において低賃金生産輸入物資を購入することが出来ます。当該物資は質は悪くとも、「気の持ちよう」の範囲内には収まる。かくて最低層労働者だからといってわざわざこの世を変えるまでの動機は生じない。 
 第2に、それまでの共同体的生産関係を分裂させ、人民を巻き込んで、全ての地域を相互依存化する。この第2の点は、人間の自由の進展を加速化します。
 地域の構成員の相互扶助のためには、地域内の行為共同性が不可欠です。そのための前提は、地域内行為者の経済的(土台的)相互依存です、すなわち、さしあたり個人の自由について不満が残るにせよ、資本主義的統一国家か、あるいは、既に経済的相互依存のある地域としての国家化あるいはアソシエーション化の2択です。
 植民地後進国内の面の構成は、支配権力から行政組織の形成が行われます。この過程で、それまでの共同体支配の破壊が行われ、残った支配モザイクの破片によって、共同体組織の再編が行われる。それまでの「自治」組織の再構成です。この過程は旧来支配力の減少ですから、その結果被支配人民の自由が増えるわけですが、それ以上に産業資本の侵略過程が共同体支配に壊滅的打撃を与える。都市との交流、すなわち被支配人民を拘束する共同体の生理的幽閉からの解放です。
 
 他方、人民による新しい消費物資志向は、もちろん物質信仰でそれまでの共同体文化をもろくするわけですが、それに伴って、人々に「それらの交易に従事する職」が認知されます。この職につけば、同時に貨幣経済の担い手として消費物資の入手も容易になる。どうせ余計者として遇される成人男性にとって、なぜ、共同体支配の下で鬱屈している必要があるでしょうか。かくて都市は膨張し、人民の自由も増大します。
 都市は点としてしか掌握されませんが、個々に終結する人民の心的地域は「面」です。さらにその後、現実的にそれ以外の周辺村落の人民の、都市を介した具体的なネットワークが成立する。
  
 これらの植民国家と産業資本の侵略により、植民地には将来の国民国家の条件が与えられる。植民地支配の組織が堅く組んであればあるだけ、独立後の統一性を得ることが出来る。
 
 まるで褒めているようですが、研究学徒が褒めようが貶(けな)そうが、歴史過程は存在する。そしてもちろん、歴史過程で本当に重要なものは資本主義の進展度でも自由の進展度でもないのです。そんなものは豚にでも食わせればいい。本当に重要なものは、そこで生きた人間が何を意図し具体的な行為を為し、その個人の行為がいかに人間の歴史上の自由を進め、あるいは阻んだか(はばんだ)か、ということです。歴史はその客観的把握と「個人の意図と歴史の連関」とのどちらを欠いても不毛です。
 だから、こんな片方だけの記述自体は不毛なんだけどね。でもこの客観過程の把握なしに人間行為の歴史的意味がつかめる、と思うことも間違いなのですよ。
 
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「古代資本主義」と近代資本主義(その1)

2018-12-22 10:54:15 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、ここ2、3日青空でよかったです。冬はせめて青い空にお日様が照ってて欲しいよね。東京育ちには雪国は大変。

 さて、本日はニュースなし。未発言はなんにもないし。
 そういえば、昔鳩山由紀夫が偉そうに「普天間は、最低でも県外」とかいったのはなんなんだろうと思ってたけれど、宮崎の自衛隊新田原基地とかちょっと分けてあげようと思ったんじゃないのかね、広いし。鳩山が自民党の真似してふんぞりかえって明言しないからつぶれちまったんだよね。どうせ実質野党なんだから、バーンといえばいいのに。共産党ならそうするな。どうせ実現しないし。で、普天間には航空自衛隊が行けばいいのさ。って言った瞬間に左右から轟々たる非難。売国奴のウヨクまで反対しそうじゃないか。結局、根性のない奴は負ける。
 ま、ただの感想。
 そういえば根性話でこんなのがあり。「ISの攻撃で論文未完は許せない 教授がイラクに傭兵派遣し学生救出」(テレグラフ)。文字通りの話。ハロッタ・トゥルネル(シャーロット・ターナーさんだね)教授が傭兵を雇って博士課程の教え子を救い出した、という。いい根性だね。世の主査教授諸君に伝えたいよ。わたしゃ関係ないけど。
 
 で、世間話。
 ネット遊びしてて、なんだかの施設の企画案でふと目に映った名称「プレック研究所」。あれ、プレックじゃん。ここは学生のときの2番目の通勤アルバイト先。1番目の通勤バイトが金融会社でなんか雰囲気がギスギスしてたのに比べて、とても優雅に仕事してて、こういうとこいいなあ、と。自治体広報やガイドブックなんか切り張りして、なんかパンフ作りのバイトでした。今wiki見たらその頃は出来たばっかでみんなが若かったみたいね。ただ問題は六本木の近くで昼ごはんをみんなで喫茶店で食べるのでバイト代が減って困ったこと。昔の食事は高かったから。
 いやそれだけ。懐かしかったので。

 風呂場の白熱電球が切れて、前買っておいた新しい電球をいれたけど、つかない。あれ切れてるのか、と台所で使ったら点く。おやおやソケットが壊れたか、面倒だな、とあれこれ入れ替えてみると、点く電球がある。え~~、、
 というわけで、本日のためになるブログ、YAZAWAの白熱電球はソケットと相性があるのでご注意。ASAHIの電球がお奨め。
 うちはLEDにする? 風呂場なんかの照明は覆いがついてるのでLEDは気をつけてね。密閉型のでないと危ないそうだよ。

 さて、本日は、前回言った田川建三の「古代だって資本主義はある。それがわかんない奴は馬鹿」認識の、どっちが馬鹿だ、論。ま、べつに本気じゃないす。彼はもともとそういう人間だから本気では相手しません。それと、以下はマルクスの説ではないので誤解されぬよう。誰の説だって、隈栄二郎先生。わたしです。アダム・スミス直系の道徳的労働価値説。スミスさんより道徳的だけどね。
  
1「商業」の一般規定
 さて、まず「商業」とは何でしょうか。
 先月のこのブログでいったように(「売買と交換と贈与(その1)」)、売買と交換は違います。さらに、売買行為と商業は違うのです。「なんで違うんだよう、売り買いが商業じゃねえか」といわれても困ります。同じなら売り買いといえばいいのであって、今の問題は「商業」です。売り買いは、歴史上、必要物資を手に入れる方策のひとつ、と言う以上のものではありません。商業はそれによって生きる商人のなすわざであり、その商人の存在規定こそが本質なのです。
 さて、まず一般論から端的にいいましょう。商業とは収奪階層と被収奪階層の間に起こる労働力の争奪交渉です。
 労働力の争奪とはすごいでしょう。カネがあれば米が買える、着物が買える。それが争奪? そうです。そもそもカネがあればものが入手できるなんてそんなことを誰が決めたのでしょうか。神様? いえ、余剰労働力の収奪者です。

2 資本主義に見える資本主義以前の商業発展社会の規定因子
 余剰労働力は、支配社会においてはこの大部は、支配権力に徴税され、あるいは徴発されます。この労働力は支配階級のものとして、交換過程で使用される、つまり支配階級は自分の好きなものを入手するときにこの労働力(ないし労働力の成果)を使用するわけです。たとえば家が欲しけりゃ建築労働者に米を渡し、舶来の衣装が欲しければ海外の絹の生産現場に米を渡す。この使用時に、交換労働手数料として交換労働者=商人に実入りが入る。この実入りは元を正せば被支配人民の労働であり、この交換過程が商業です。
 この交換の時間経過上、支配者の剰余物資が多量である場合には、これが高じて支配者の事務担当者や商人それ自身も珍奇物品で身辺を飾って支配者の真似をする。これが資本主義以前の商業です。
 ここでの確認事項は、全ての商品的富の根本は、(農産物等という農民等による)労働であり、その存在の歴史的必須要件は、支配権力だ、ということです。

3 これに対して資本主義社会での商品経済とはなにか
 さて、農業生産力の増大は、これによってぜいたく品の生産に従事する人間の食い扶持の増大=従事人員の増を引き起こします。経済史の本によると、穀物・酪農品・羊毛原料・羊毛製品、その他ビロード・ガラス・陶器・木材・ニシンその他、です。ところが時代の変遷は、農民に余剰購買力までつけてしまいます。それはそれで使ってしまうのですから農民の貧しさはさほど変わりません=徴税も思うように進まないのですが、ともかく農民の米は支配者を通じずに商人の手に渡りますので、ぜいたく品労働者は商人が自前で手に入れた剰余労働から養われるようになります。かたや支配者は儲けた商人から徴税できればよいのですが、儲けの高に合わせた徴税は技術的に無理だ、でもぜいたく品生産物は欲しい、かくて支配者は常に借金漬けとなる。というのが歴史過程です。この結果、商人のところに剰余労働力が溜まる。
 ここが転換点です。
 初期商人は、支配者から授かった私的所有権を武器にして、資本家として、必需品の生産を行った。これが資本家の存在的歴史の当初です。資本家は、珍奇なものを集めて支配者からカネを受け取る代わりに、自前でカネを作る算段をしたのです。必需品を手軽に生産して、これを全人民に売ることにより支配者の代わりに労働者から金を受け取る。もっとも受け取るのではなく、搾取ないし収奪するわけですが。
 と、これが原則。論理派生的に、いままでのぜいたく品が必需品になっても同じです。小麦や毛製品は、先進地域では遠からず必需品になりました。あるいは後進国の鉄道導入については、鉄が必需品です。ポイントは、必需品はそれだけで剰余価値生産の資格を持つ、というところです。山のように生産されたガラスのコップは、その代わりに得る労働成果がなければ埋立地に直行するしかないところ、代わりに綿のシャツが必需品的に存在していれば、カネの介在により、不等価交換できる、つまり資本家の利潤となるわけです。
 実は資本主義とは、支配権力者が、商業的枠組みのまま、労働者の処分権を商人に与えただけの姿なのです。

 商業的枠組み? 聞いたことがない? こんな規定が意味を持つのはなぜか。 資本主義においては労働の収奪は、剰余価値の収奪ではなく、利潤の獲得として現象します。これが直接の収奪方式と違う理由は、当然に、その方式、すなわちいったん意義のない労働をさせて、その生産物をカネに変えるという媒介方式の故です。
 ここで行為者である人間が持ちうる意義は、誰にとってもありません。労働は虚しく、生産計画は賭けです。売れなければそんなものはクズ同然、これは商品化というよりも「商業化」の必然というものです。
 そもそも「賃金」は生産過程では完結していないのです。商品が売れて初めて賃金は実体化する。それが労働価値なのです。労働価値は商品が売れない限り、空手形となる。労働が実現すればその所有者であるプチ支配者はそれを享受すればいい、しかし、より安く売らない限り、社会に飽和した必需品の労働価値は実現しないのです。そこに、天才エンゲルスが当然だが強調した、資本主義の動因の主要因としての「競争」が成立することになるのです。「競争」は決して本質の派生形態ではありません。それこそが資本主義という労働の収奪機構の原動力なのです。この1国内的資本主義の原動力の根幹が必然化すること、それが本来の「資本主義」と「古代資本主義」なるものを分かつ第1の決定的差異なのです。

 ポイントの第1はこう。ポイントにしては長いけれどしょうがない。
 さて、第2は、って、長すぎだよね。次も初聞きな話なので混乱させそうで、また来週。

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滝沢克己への好意的修正(その2)

2018-12-15 10:52:12 | その他
 こんにちは。東京地方も突然寒くなってしまいました。体感気温は真冬。でも朝の最低気温は真冬にはさらにあと数度下がります。通勤の方はごくろうさまです。
 
 さてニュースは、「カローラが3ナンバーに」。何言ってんだ、って、それこそ戦後50年、ずうっと残っているチープな高級車、軽自動車を除いて下から2番目に安いレベルでそこそこな質を提供する、という日本自動車会の誇りであるあのカローラが、ブルジョワの3ナンバーに! 3ナンバーって「でかい」って意味だけだけど。わたし的には自分の文章内で、セルシオと比較して貧乏人の車の比喩で使ってたので、もう昔の本は意味不明になるし。賢明な若人は自動車など買わないから爺仕様になるんだろうね。高齢者はみなさんお金持ちで結構なことさね、オレはまだ50歳だ? はい、じゅうぶん高齢者。戦後は遠くなりにけり。この流行言葉さえ遠いね。
 
 ニュース話題は、社会的影響では辺野古埋め立てなんだろうけど(辺野古、MS-IMEで変換されるほど影響があるんだ。IMEの基体はアホなくせに)、わたしゃ左翼なんで言っても意味ないので。けど、県単位で反対しているのに強行とは地方自治の否定だね。それでいいのかね民主主義信奉者の諸君は。
  
 次はちっこいけどおったまげの社会情報。東京に西東京市、という市があって、ま、田舎の合併村だけど、そこの「図書館の駐輪場を有料化するという前代未聞の計画」「共産党市議団が、市議会では唯一、値上げ・有料化計画に反対」(赤旗)
 駐車場じゃないぜ、バス代も出ない人間が使う駐輪場。びっくりぎょうてん、どんな脳天パーの市だろうか。この市にはグーグル地図上、駅前スーパーのある駅なんか1駅(半)しかないから貧乏なんだろうけど、市長の月給99万円、ボーナス500万円だぜ。たこ。まあそんな住民しかいないんだろうけど。共産党議員も定数の15%じゃね。
 (と、共産党もこんなとこで応援されてるとはご存知あるまい)
 なお、図書館法上、図書館は無料で開放しなければなりません。ま、法の趣旨だけどね。法を作った戦後も遠くなろうとしている。
 
 次。漫画の代わりに借りた田川建三「キリスト教思想への招待」。相変わらず合理的な論で心良い。
 しかし驚いたことにあの狂犬のような人がすっかり丸くなって、ああもう68歳(執筆時)だったんだね。これなら昨今の喧嘩を知らない若人でも読めそう、教養のためお薦めです。若人が『批判的主体の形成』(1971)なんて読んだら驚いてひっくり返っちゃうからね。
 もっとも田川が「古代資本主義」を資本主義だ、と言い張る箇所はいただけない。言い張るだけならまだしも定義の問題ともいえるが、「それは違う」という経済学者を本書で根拠もなく馬鹿にしているのはブーメランだぜ。これじゃ江戸時代後期も資本主義だ、って話だ。本人はそれでよかろうが、何の意味もない。本件は山のように批判展開してもいいのですが、本日は先週の続きがあるのでパス。山になるし。来週でもやろうか。田川の良い点は日常行為の合理性追求であって、社会科学に関わる点ではないのでご注意。

 さて、役に立つ情報がないね。前回の続き、オタク系だけど、別に難しくないので行ってみましょうか。
 
 本題は【原点における「歴史」の認知】 
(その2)ったって(その1)の題と違う、というわけだけど、何しろ題に字数制限があるもので。
 
 前回は、「神が我とともにある」と心に決めると必ずいわゆる「良心」が発生すると言って、その意義について話したところ。宗教教義は全部デマだけど、「神が我とともにある」と思うかどうかだけはただの決断、というわけで。で、そこにもうひとつ発生するものがあります。「個人における歴史観念」です。これによって、人生に豊かな意味が生ずる。「私が死んでも彼がいる」「彼女が死んでも私がいる」。死んだ彼らの生は引き継がれ、私の生も引き継がれる、という認知関係の成立です。
 
 人は、誰でも死というものの存在にたじろぎながら、その事実を受け入れざるを得ない、かと思われます。さてそこで、その人が神がいると思えば、この死の認知はそのままでは終わりません。人間は、基本、納得してないし。かくて、宗教はその将来に、「神の審判」だの「極楽と地獄」、要するに「あの世」を組み込んで成立します。要は、死をなんとか合理的にする、というわけです。
 いわゆる宗教でなくとも、神は心に共にある、と思った場合、死の認知は、宗教と同じく、「既にその概念の中に将来を組み入れた」事実認知とならざるをえません。これが個人の内部に生ずる歴史観念です。
 自分は歴史の中で生きている、という自覚。
 ”友よ 君の涙 君の汗が 友よ むくわれる その日が来る”(牧師・岡林信康)。(わたしゃ自称左翼もクリスチャンも信じていない)
 それこそが被支配人民と同じく生きているというイデオローグ、すなわち俗流唯物史観の果たした歴史的役割なのです。
 
 (ちょっと余談) ところがやりすぎたんだね。世界では人民を率いる前衛が一番偉い、と、めいっぱい学的組織で権力をふるってしまうもんだから、「ちょっと待てよ、本当に生きて歴史を作ってきたのは被支配人民だぜ」とアンチテーゼが起きる。網野史観だね。まあアンチテーゼの出現理由はいくらでもあるが社会的にはそれがどう社会の本流となるか、というわけで。あちこち起源のこれが、俗流唯物史観と権力が組み合わさった諸国(アメリカはもとから埒外(らちがい))では全世界的に勃発するわけで、しかも起きただけではすまない、国家の武力減少と資本主義の緊張の激化で、すっかり学術組織の主流を取られてしまう。網野はマルクス主義に立ったアンチテーゼだったのだけれど、アンチテーゼにジンテーゼができるヒマもない。ジンテーゼは極東国日本の一在野の一社会学徒が『「上部構造」の社会学』で確立はしたが、この時代、上部構造である学会の流行は、学者の賞賛しか求めることはなくなった。テーゼのないアンチテーゼに意味はない。かくて、歴史学は無意味の巣となった。ま、ドキュメンタリ-テレビ番組は意味などなくても面白いからね。しかし、じゃあドキュメンタリを見て終わる一生に意味があるか、といえば、神は「意味などない」とのたまうわけだ。見るだけで、自分の行為に関わらないからね。というわけで、もう歴史学も人材不足でおしまいさ。年寄りがこたつで読んでくれるかどうかが最後の糧秣(りょうまつ=食料とマグサ)のゆくえ。歴史学者は自分の仕事の人間的意義をちょっとは考えたらどうかと思いますが、ここまでは余談。
 
 元に戻って、俗流唯物史観にも、人々に人生の意味を提示するという大きな役割があったんだ、ということですが、そうしたことを考えさせるきっかけは、神(であれ仏であれ)が自分と共にあれば、必然的に生ずる、というわけです。(その1)と同じ。それは宗教教義の如何を問わない。キリスト教であれ仏教であれ同じ。ただ、神(あるいは仏)がいることにするか、いないことにするか、この2択の個人内の決断の結果です。 
 
 役に立たない? でもさ、若人は、こういう感覚はわかんないでしょ? 私は若いときわかんなかったなあ。何しろ居並ぶ左翼理論家が、みんな「歴史」「歴史」ってわめくのさ。実存主義者さえ「人間は歴史内存在だ」とか言うのさ。ほんと意図不明。だけど、みんな年寄りか、クリスチャンか、マルキストだったんだね。そう思うと不思議さが解けませんか?

(P.S. ただ、滝沢克己はこんなことは思っていない。彼は「明日が来るなんて幻想だ」派。ね、前回も言いましたが他人にお勧めにくい人間。要は彼は本質的に西田幾多郎の正統の弟子なのですよ。正義を聞くのも無駄、キリスト教を聞くのも無駄。西田と同じ存在論的無の哲学なのだから。瞬間と永遠の哲学。「正統な弟子」と「正統の弟子」の違いってわかりますか? 「正統な弟子」は権威に裏付けられた外見。「正統の弟子」とは、「知らないだろうが彼こそ、他にはいない本当の弟子」の意。)


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滝沢克己への好意的修正

2018-12-08 11:34:53 | その他
 こんにちは。日々気温が乱高下する東京地方ですが、トータルとしては暖かいもよう。
 最近、暮れに忙しい職業を知りました。税理士と古本屋。税理士はそんなものでしょうが、古本屋さんも大掃除で本を大量に片付けるから出張だらけなんだそうで。風情のある話ですが、古本屋も少なくなってね、目黒区なんか10軒足らず。それでもいいほう。150万人都市川崎市に至っては全店舗数8件。ブックオフは別だけどね。ここに引っ越す前に行ってた古本屋も今年ウェルパーク・ドラッグストアになってしまった。
 
 さて、本日のニュース。
 「水道法改正法案成立」。えーー! 常に事前コメントを心がけているのに、どこに隠れてやがった。しかも審議なしで可決だと。アベ、やりたい放題だな。
「事業の運営権を民間企業に売却する「コンセッション方式」を導入」(産経)だとさ。
だから、どうやって利潤出すんだって。人減らしと水処理の手抜きしかないだろうが。そんな水飲めるか。俺らミネラルウォーターなんか買う金ないぞ。とまで書いたら、水道料金、値段を上げるそうな。あ、さいですか。
 しかし公明党はどういうつもりなんだ。そんな経営に片足突っ込んだ人間なら誰だって知ってることもお経読んでると分からないのか。
 片足突っ込んだ、っちゅうのは私ね。でも「片足」っていうのは、アタマのことだよ。アタマは突っ込まないと組織と話が合わなくて排除されるからね。その結論を実行するかどうかが残りの片足さ。私は残りの片足を踏み出したことはないぜ。
 そんなの左翼なら当然? いやいやいや。若人にはもう一回リフレインしておかないといけないね。「いやいやいや」。
 というわけで本日の若人に役に立つブログ。就職しても経営に突っ込むのはアタマだけ、を心がけましょう。
 そんな標語なんの役に立つんだ、って、そりゃ良心というもののありようの知識だね。良心のない人間は、ただの資本家だよ。もちろんそれがいい人はこのブログには決して来てはないからね。ここに来るぐらいの人はだいじょぶ、これからも良心は失わないはずのところ、両足は突っ込まないように、という老爺心。その一方、隈は片足だけは突っ込むことを期待するよ。年寄ると悪い社会でも子供がなんとかうまく生きてって欲しい気になるから。

 というわけで、あとのニュースは、ついで。
 「低所得者を対象に保険料を最大9割軽減している特例措置を、来年10月にも廃止する方向で検討に入った。年金収入が年168万円以下の高齢者約740万人が対象になる。法令で定める軽減幅は7割だが、現在は税金を使ってさらに安くしている。」(共同)
 試算しましょう。9割減額は基礎年金収入のみの家庭だから、老夫婦2人で160万円で生活している農家は、1人8000円、2人で年額16000円の保険料増で、消費税が8%から(10%ではなく)11%に上がったのと同じことになります。賛成の方は御覚悟を。公明党も助けてくれません、
 と、このくらいには事前報告をするのがいつもなんだけどなあ。
 なお、記事の見出しが「医療費軽減廃止」とありますがこれは「保険料」のこと。医療費ではありません。

 次、「防衛省は、陸海空3自衛隊を一元的に指揮する「統合作戦室」(仮称)を設置する方針を固めた」(産経)。まあ上ばっか見てる口先野郎では戦争ができないと気づいたんでしょうね。現場と密着した人間が偉くない組織はつぶれる。国会(議員)が良い例だ。
 
 さて、今日の本題。滝沢克己のインマヌエル。宗教の話なので、興味のない方は、また来週。もう気温は平年並みで落ち着く(=寒いまま)のようです。お風邪など召しませぬよう。
 
 で、昔、滝沢克己という哲学的(・クリスチャン的)宗教者がいまして、良心的な上に、行為主体の主体性をよく理解している人なので、敬意を持って遇するわけですが、(なので「好意的修正」は「行為」の誤変換ではありません)、借りた本の後ろの出版社PRに田川建三批判本があるというので面白そうなので借りてみました。題:「聖書のイエスと現代の人間-田川建三「イエスという男」の触発による-」。中身:う~~む、なんだかねえ、という感じ。これだから滝沢は普通の人には勧められない。
 話は変わるようですが、滝沢克己をウィキペディアで引くと、大変優れたまとめが書いてあります。彼は神と人間は下記のような3つの関係にあると考えた、そうです。 
 ・不可分 神がこの世界でまぎれもなく働いている。
 ・不可同 人間と神は同等ではありえず、神の前では人間は無に等しい。
 ・不可逆 神は絶対的主権を持っており、神から人間への啓示はあっても人間が自分の意志で神へと至ることはできない。
 えらい、よくそう断言できました。私がウィキペディアを褒めるのはこの10年で2回目でしょうか、このまとめはとてもよい、といっても本当かどうかは知りませんが。なにしろ彼の著書は、読んでいくとすぐに聖書に紛れ込んで、どうみたってクリシチャン主義。 
 ところで上記まとめの3点は別に宗教ではありません。「神がいるとしたら」の論理的あるいは合理的結論です。まあ、神がいるなんて主張だから宗教でもいいや。で、彼氏、なんでも「唯一普遍の宗教」を唱えたそうな。ところが、「それで終わればいいのに」、結局キリスト教にいってしまうんだよね。だから、そっから先はわれわれ一人ひとりには関係がない。
 ところで、問題は「それで終わ」ってよいか、という点で。
 
 「論理的結論であるのなら、それは論理じゃね? 論理など人間の生に意味があるはずもない、=行為論的意義があるはずないしょ。それで終わったら意味ゼロ」という、いかにももっともに聞こえる疑問があるでしょ?
 ところがそれは違うんだなあ。神がいる、と言った瞬間に、同時に行為の正しさという概念が生ずる。まあ良心だね。崇高なものからの賞賛、強いものへの畏怖、なんだっていいのですが、次の将来の行為には「正しさ」が関わらざるをえない、ということになる。かくて、人は各人の各人にとっての正しさの下で、それに従うかどうかは別として、自分の生を生きることになる。
 めでたしめでたし。
 キリスト教であれ仏教であれ、そんなものは誰かが勝手に作ったものだ。うそだと思ったらカトリックの教義の変遷といったら舌が千枚あっても足りない。同じくプロテスタントのセクトの多さといったら新左翼なんか逃げ出すほど。どれか一つが正しいということはその他の全部は神の名を騙って(かたって)人民を惑わす、神をも恐れぬバチ当たり共だ。もちろん実はその全部が神の名を騙っているのだが。それ以外に論理があるのか?
 さて、それではならない。人が神の名を騙らずに神とともにあるためには、宗教教義ではなく自己の命ずるままに行為をしなければならないのだ。自己には、神が出現した瞬間に、原点が発生する。
 ほら、そこでとどまれば、滝沢の正しさのままに「唯一普遍の宗教」が発生している。
 
 というわけでさ、滝沢が田川建三とやりあうだとかは、ただの趣味の論評合戦。「あの雲は羊の群れに見える」「バカだね、あの雲はイワシの群れだよ」。それだけの話。もちろんヒトは他人とバカ話をするのが楽しいからね。
 再度、めでたしめでたし。
 
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身分制度と階級構造

2018-12-01 10:35:27 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。おやおやもう師走。しわす、ってなんだろね。坊主が走るなんてわきゃあない。他の月と比べて異質すぎるやね。正月の反対なら、「〆め」とか「出来上がり」って意味のはず。まあいいや。来年はお正月もないので気が楽。
 
 さて、本日はなにか起きたかな、とyahooをみたら、「とっくりでのお酌は注ぎ口を使ってはいけない? 驚きの飲み会マナーにネット騒然」などという見出しが。なんてばかったれなんでしょう。やってごらんよ、こぼれた酒でテーブルべちゃべちゃ。飛び跳ねた酒で部長の自慢の絹のネクタイは復活しません。注ぐ本人の意思と液体の意志が齟齬をきたすからね。本日の役に立つブログ、とっくりに注ぎ口があれば、そこを盃に向けること。
 
 あ、終わっちゃった。
 まあ世間話。大阪でまた万博だって? いいねえ大阪は。お祭りの余裕があって。国税使わないでね。
 ところで愛知万博って知ってる? わたしゃ知らない。まったく記憶なし。2005年、仕事がひたすら忙しかったし。大阪だって知らないが岡本太郎がいたからね。他のことは知らない。父ちゃんが50年前いってシャーペンを貰ったのをくれたので、まだたまに使いますが。melcom 7000 pilot と書いてある。昔の日本製品は良かったね。
 
 羽生選手が休業だそうな。よくモチベーションが続くよね。プルシェンコへの敬愛が大きいと思う私。人生、偉そうに先達を全否定してると虚しくなるからね。フラワーボーイのボロゾフくんもよかったよね、もっとも弟に抜かされそうだけど。
 
 赤旗には、共産党が「国保引き下げ政策国保料(税)を構成する「均等割」と「世帯割」を廃止して、負担をぐんと下げる提案」をしたとのこと。おう、いいじゃん。小池書記局長は本物だからねえ。

 他方、yahooのネット遊びでは、どっかの誰かが「最低時給1200円にって、算数のできない日本の政策議論が困る それ「月給21万円」のことですよ」なんて見出しが。続けて
「それはサラリーマンで言うならば額面21万円に過ぎません。社会保険料などもろもろ引かれて17万ちょっとの手取りで、結婚し、子どもを儲け、育み、自らの老後に備えようという気持ちになれるのか、というのは、政策に携わる人はもちろん、いまを生きる現代日本人全員がよく考えていくべきことなんじゃないかと思うわけです。」(山本一郎。1973年生まれ。作家、個人投資家。) ま、さ、態度はそれはそれでいいとして、なに驚いてんだよ、って気がしますよね、私のお友達がた。算数もできないって、できなくたって、それただの現実じゃん。東京985円の最低賃金は日本人値段だよ。それに、時給1200円なら23万越えるのはざらじゃん? 週休2日でない会社なら低賃金じゃあもっと働くさ。わたしゃ正社員だったけど、時給1200円ていいよねえ? 評論するならよく勉強しろよ。

 さて、本題。今日も長い。
 ここのところ読書は怒涛のように不作な本ばかり。過去のいい本は読み終えてるしね。で、プロ-マルキストの本を2冊続けて読んだら(プロ-は「ひいきの」ってゆう意味ね)(渡辺雅男「市民社会と福祉国家」、山之内靖「システム社会の現代的位相」)、両方とも手に手を取って「現代は階級社会に見えない」とかおしゃべりしてるのね。マルキスト系者が見えないんじゃ、若人に見えるわきゃないねえ、と溜め息ひとつ。
(山之内のはシステム論者(メルッチ)の受け売りだから無視するとして。渡辺は、)なんでも世界は階級社会と市民社会との2側面があるんだそうな。市民社会は平等なのだが、現代ではこの市民社会が危機を迎えてるんだと。は~。何語を聞いているのかおじさんにはわかんないよ。
 2つも側面もある社会なんか、社会科学には要りはしない。相互行為論と一緒さ。2つ作った瞬間に融通無碍。因果連関は評論家しだい。したいほうだい。法則性など何一つ掴めやしない。規定性に2面はあっても現実に2面はない。規定性の2面はそれぞれに展開できるが、現実の2面なるものをそれぞれに展開すれば出来上がるのは精神分裂だ。
 世の中というのはシンプル。ある個人について規定性がのしかかる、「情を立てれば、義は立ち辛く」。そんなことは、普通の人間であれば、誰でも知っている。「こっちをすれば得だけど、それをしちゃあケダモノだ」。けだものさん失礼。
 利害が貫徹する中で、ケダモノになりやすい奴と善良な諸君が、認知上の葛藤を繰り広げる。それだけの話。
 さて、それだけの話が成立するために、前提があります。利害関係の存在の如何はシンプルですが、その次。人情はどう発生するのか。ケダモノにはなりたくない、という前提はどう発生するのか。これがマルキストには理解できない事情です。 
 この人情の範囲を「行為共同性」といいます(隈理論)。オレとあいつは同じ将来を持っている、という認識であり、この認識の下に、同情ないし仲間意識が生じる。この事情が身分制度を映し出します。

1 身分制度と階級構造
 領主の官僚である侍同士には同じ将来があります。しかし、侍と百姓・小作人とは同じ将来はない。従って、米さえ自分の倉に湧いてくれれば百姓がどうなろうが侍の知ったことではありません。知ったことではない上に、百姓はこれに対抗することができない。 
 第1に、侍の持つ武力です。もっとも武力を過大に見積もってはいけません。たかだか民衆が自分と同じ境遇者と協力すればどちらが強いか分からないほどの武力です。
 第2に、それよりもその後に百姓に生ずる生産手段の喪失が問題なのです。反逆した小作人であれ奴隷であれ、その先に生きる手立てが見つからなければ、武力の有無に関わらず、死ぬわけです。
 これが江戸時代の身分制度です。この身分制度と別に、階級構造としての領主階級と農民階級が存在し、この2概念がほとんど二重写しになっているので誤解も生ずるわけですが。
 といって、もちろん身分制度の基礎は、それぞれの気持ちの持ちようなどではありません。現実に対する事実認知なのであって、その現実とは、階級が生産手段の私的占有に基づくのに対し、身分は生産手段の権力者の手による再配分の固定化が決定します。人は、生産手段の占有者に、彼らの収奪の場としての生産手段を与えられ、そこにしがみつかざるを得ない。
 
 さて次の時代。初期資本家と労働者とは同じ将来を共有していません。資本家にとって、どうせ来週は工場に来るか来ないかも知れやしない週決めの人間です。いや人間であるかどうかも怪しい。そんなやつが路上で飢え死にしようが、オレに何をしろというのだ。これが資本主義初期の身分制度です。若人には誤解があるかもしれませんが、自由主義期資本家にとって、労働者は「同じ人間」ではなかったのです。
 同じ人間ではない上に、第1に、資本家の武力はヤクザやウヨクによって自前のものとして存在していました。第2に、もちろんこの時代も、労働者に自前の生産手段はありません。
 で、この場合にも、別に階級構造としての資本家階級と労働者階級が存在し、これがほとんど二重写しになっているので誤解も生ずるわけです。
 つまり人間の目に見えるもの、すなわち行為者が自分たちの行為の中で具体的に現実化していく事実認知は、(すべて)身分制なのです。そしてこれを決定づけるものは、それぞれの行為共同性です。階級構造など、そもそも目には見えないものなのです。
 
 長いね。やっと本題です。
 
2 団結による事実認知の累積、あるいは平面状の行為共同性の拡大
 ではなぜ現代では身分制度さえ目に見えないか。
 理屈上、行為共同性が隔絶していないからです。ではなぜ隔絶していないか。権力者の手による生産手段の再配分は、資本主義社会にあっては固定化する必要もないからです。誰が資本家になろうが権力者の知ったことではない。その必要のなさを、過去の無産階級は着実に突いた、というわけです。もっとも「数打って当たった」だけでしょうが。
 すなわち、武力的闘争。 
 貧困大衆の団結は、階級闘争によって生まれた、と美文調でよく言いますが、その実態は、理論上、もっと散文的です。あるいはなんら哲学的・形而上学的論議の問題ではない、というか。
 人は、同一と事実認知できる環境において行為共同性を認知します。自分と同じ境遇の人々が行う「闘争」事象も同じ。しかし、これに直接貢献するのは、闘争への参加ではなく、闘争の「存在」なのです。闘争なんか参加しようがしまいが関係ない。たとえ貧困大衆の一部しか参加しない闘争であっても、その他の大多数大衆が彼らと同じ位置にあると認識すれば、闘争的団結はその役目を全うするのです。これは理屈を敷衍しただけで、評価の問題ではありません。それが常に普遍的に運動がもたらす役割です。
 ここにおいて、労働者は階級となる。
 ここにおいて労働者階級は肉体的合同の力を得る。
 権力者はあわてて弾圧し、その弾圧に成功しますが、その事実は弾圧を超えて残る。方や資本家という階級と、方や労働者という階級が存在する。権力者も資本家も、触りたくない階級の存在を確認する。
 こうして、階級的妥協が始まる。権力者の事務官僚は資本家を説き伏せ、国家に秩序を復活させる。

3 行為共同性の上下間の同一化の発生、あるいは市民社会の成立
 といって、階級構造は変わりはしませんから、誰にとっても全ては身分制度のセットのし直しでよい。それが事実なのは、さっき見たプロ-マルキストの言にあるとおりです。権力者は「あなたも国民です。でも愛国心はもってね」と適当にまるめこめばいい。資本家は「お前は仮にも課長なんだから」「お前は正社員だろ」「お前は4月から正社員にするって社長に言ってあるから」。生産手段の強制的配分の面目躍如というわけです。生産手段のない労働者には2択しかない。押し付けだろうがなんだろうが自分の生産手段を確保するか、革命で負けて死ぬか。
 民主主義? 議会主義? 名称など何でも良い。労働者が、そこにいる何百人かが自分たち「労働者階級」の味方だと思いこんでくれればそれでよい。これにより、権力者と資本家と労働者は、見かけ上の行為共同性を共有する、これが「市民社会の成立」なるものです。
 見かけ上というのは、基底に階級構造がありますから、いつでも変化してしまう、という意味です。
 その後の武力上の安定も権力者の事実認知のさなか。武力と引き換えに、自称労働者の代表が政策決定に関与する、かのごとき外見を呈する。権力者はそれで一向にかまわない。国家武力のうち警察機構は極小化される。いざとなれば名称はなんであれ「軍隊」があるからそれでよい。これが、わざわざ新理論などということもない、隈の『行為の集成』に書いた立言どおり、どこにも謎のない平凡な社会過程です。
 ほんと、私はこんな平凡な事態を明らかにするために生まれてきたのではない、が、こんなことさえ分からずに死ぬ大学教授も恥ずかしくて死にたくなるのではなかろうか。

4 再度、闘争へ
 さて、このまま終われば平和でよろしい。私は平和が好きです。
 しかし、世界規模での資本主義は、「資本主義制度内資本家にあたる先進資本主義国の労働者」には、いつまでも楽させてくれない。すでに中進国労働者は蜘蛛の糸のすぐ下に迫っている。かたや資本家はいつまでも楽だ。とりわけ彼らの行動は、階級構造に沿って利害追求をしなければならないから、日々賃金は削減される。こうして支配者層と人民の間の行為共同性は化けの皮がはがれてゆく。大衆には見えなくなっていた身分制度が、新たな装いを持って大衆の生活を覆う。

 はい、おつかれさま。
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