リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

連帯を求めて孤立を恐れず

2013-09-29 20:33:51 | その他
 こんばんは。東京地方、ようやく涼しさが定着したようです。世の中に涼しい季節と暖かい季節があるのは、年寄りには幸せの源ですね。
 なんて思うと、世の中に暑い季節と寒い季節があるというのも、(いくばくかの金さえあれば)10歳以下には幸せの源。
 どっちが偉いかって、やっぱ年寄りは死ぬしかないですね。

 さて、昨日は休日出勤でダンボール運び。どうもダンボールから離れられませんが。
 わたしなんざご想像のとおりの非力ですが、案外これが得意で。力のある同僚たちは、終わってからどこそこの筋肉が痛いなどというのですが、なんのことやら(筋力はどうでも体力がないので疲れはしますが)。それもこれも剣道的自主運動のおかげかと。負荷などないも同然の自主運動ですが、怠け者なりにね。
 というわけで本日の役に立つブログ、どうせガタイの劣悪なあなた。
 力の発揮は腰ですぜ。要は腕や足の力がどうでもそれで体重分はこなせますということですね(体重数十キロの運搬力なり打撃力なりは保証されているという意味)。そっから先は、スピードやら、力の集中度やら、周辺の質量の相乗やら(相手の体重や、剣道なら刀の重さや)の問題。

 と義務を果たしておいて、安心して役に立たない話題。
 ふっと頭をよぎった生き方のテーゼ。「連帯を求めて孤立を恐れず」
 こんな哀しい単語連しかよぎらないのも、残念な定めとも感じますが。

 ま、ともかく、このテーゼ自体、当たり前ですね。当たり前でない人は今日来たあなただけ。別にあなたを排除しようというわけではなく、これはアナーキストの基本だということで。
 しかし、アナーキストのあなた、「だよね」、って同意して発言できるのはあなたがた若い人だけ。世の中そんなもんやおまへんで。
 これを初めていった谷川雁、37歳、37でなんもわかるもんか。

 連帯には2通りの意味があるねん。(孤立はシンプルに孤立だからね、ごまかさんどいてよ。吉本喜劇から昨日首になった奴が今日は孤立かって、そんなわきゃねえぞ。いかに吉本だって、仲間はみんな人間だろ。おそらく。)

 まずは、普通の若者が思う孤立的「連帯」。
「わしゃこっちがいいと思うねん。まちがってっかもしれんけど。でもわし、生きて生きて、こっちを選ぶ。おみゃあとは分かれるけど、道は違うが同じことだな。またどっかで会おうぜ」
   何語だ。
 しかし、哀しいかな、40歳過ぎの世界はまったく違う様相を呈してるんですね、これが。
 「敵はぶっ殺さないと示しがつかない。まあ、はたで見てるみんなが軟弱ならいっぺんに評判が落ちるので殺しはしないが、それにしてもまともに生きていけると思うなよ。」
 こういうのは関西系言葉だとどう書くのか。
 ともかく世の中そういうものです。
 にもかかわらず「連帯」のごときものは存在する。これが歴史の不思議。
 しかし、あるいはしかも、その現在的な根拠は、若者の世の中知らずの他者との同一生的信念ではなく、利害関係的戦術にある。「けんかしちゃあかん、あんな野郎共でも、とりあえず役に立つ。」
 わかるかなあ、わこうど、あなた。
 世の中そんなもんですたい。
 
 しかし、さらに面倒なことに、歴史はそういうものではない。「戦術的現在」などなにほどのものか。歴史とは、こざかしい戦術で左右できるものではない。 
 本質的には違う賞賛がすくい取った若者の分裂が、つまり、K派やC派やS派や、今は亡きB派の左翼たちが、本質的には同じ利害の中で手を結ぶ日が来る、 
 これが本来の
 【連帯を求めて孤立を恐れず】という文言なのです。 (か、どうかは知らないが、谷川雁は、マルキストにいわせりゃアナーキストだそうだからね、わたしもそう見てあげよう、というだけですが)
 裏切られ続けるしかないアナーキストが信ずるのは、左翼たちの外交的微笑ではなく、この歴史の真理のみ。
 
 というわけで、この文章をご覧の社会科学関係者に今教えてあげているのは、そうした、賞賛と利害の違いです。
 世間は心のように動くわけではない。
 しかし心があるから動く。
 そのうえ、何十百千人もが犯罪者となり被害者となり。そして何十万人が裏切り者になり。残った者は傍観者200人中の私。
 ではあってもそのスローガンに変わりようがない。
 連帯を求めて孤立を恐れず。
 恐れて何ができようか。
    って、うなづいた若い君、3行前に4通りの人々の種類をあげたけど、比率は10対1対1000対2人だよ。そして君が「1000」に入らない気は私にはしない。君の頭がよければよいだけ。もちろん君のことなど知らないけどね。
 要は、自分で試してみない限り、うなづいてはいけない、ということだ。
 
 最後に、ネット検索すればすぐわかるように、このテーゼを2番目に言った奴の言はまだわかりやすい。
 『連帯を求めて孤立を恐れず。力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する』
 正しくて正しすぎるが、どうだろうか、そう言った君。あ、先輩かね、ま、同じことだ。君に疑っているわたしの心はわかるだろうか。


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理系のしあわせ

2013-09-21 21:47:47 | その他
 こんばんは。ほんと、暑い3ヶ月を何もしないで過ごしますと、毎年のことですが、「俺はタダのクズの言い訳屋になったんじゃないか」 と疑心暗鬼にとらわれます。そんなときに涼しいとやっと自分にホっとします。おりゃうそつきじゃねえぞ (ちょっと論文を進ませている、という謂い)。  
 この前もちらっと述べましたが、いよいよこのブログも7年目に入りました。
 なぜ初七日とか7年目の浮気とか7があるかというと、5はそれはそれで存在感があるからですね。
 じゃあ、6は、って6を述べるときは7を使えるんですよね。したがって、数字は奇数のみ大事にすればいい。
 1年目1周忌に、2年目は3回忌。3回目は3周忌にすればいい。4は縁起が悪いからお味噌だけれど、使いたかったら3と5で工作できる。
 いやこのブログも6年過ぎたというだけですが。それじゃなにもめでたくない。7回忌。
 それでも私が始めた時はgooブログも90万個しかなかったですが、もう190万個あります。gooも伸び悩んでますけどね。ケチケチgooも(私のような先進派はみんな)もうやめちゃうかな。やめられてから反省したって遅いですぜ。わたしゃやめたらもう2度などやらん。 

 さて、ここんとこ、同情せざるをえない現実が多々目の前を通り過ぎ。
 その中で、私の基準では不幸には該当しない方々が交じっているのを見ると、そんな方々にはもう少し自分の幸せを自覚してほしい気もします。
 なんであたしが、って反論はあれど (あなたのことではありません)、生きてる限り、他人には、相対的に扱うしかないとですよね。
 なかなか、平等に公平になるというのは、それに意味があるのかないのかは別として、むつかしい作業です。

 というわけで、本日の話題は、関係ありませんが、命題の立て方、
 ってなんだ、って、わかんないよね。
 じゃあ、言い換え。私とかがなにかを発見した時の社会の仕組みの述べ方。
 
 いや、次回配本の本は、研究者じゃなくて普通の人あてなんで、なかなか苦労してます、ってほんとは苦労しそうなんで立ち止まっているだけですが。
 苦労は嫌い。ってえらそうだけれど、私は苦労が嫌いな、読む人であるあなたの味方ですよお、、、って誰も偉くないか。
 
 さて、苦労しないのが数学者やらという理学系研究者。彼らは数学のような稚拙幼児語で語ればそれで済む。幼児語だからどんな外国人にも容易に通じる。うらやましい、、、
 
 数学なんて偉そうにいうけど、内実といえば加減乗除のこと。アホでもできる、はずですがね。
 いやその加減乗除もできないお前(私)はどうしようもない愚鈍だ、というのはそれでそれで、そうだっていいんですけどね。

 自分のことはどうでも、微分だ積分だ、行列だ、って、結局内実は、加減乗除でしょ。
 「いや、もっと高度なものがある」、ってったって、自分で数式を定義してこさえた「数学」はあるだろうが、結局、それ、自分が加減乗除だけを駆使して作った定義じゃないの。
 現実に当たらざるをえない工学は別として、純粋理学の95%の努力なんざ、お茶飲み話さ。
  
 ところがところが、独創的な社会科学というものは、その定義を、口で納得させないといけない、これが一苦労。
 そりゃ説得能力がないんだ、といわれればそのとおりで反論する気もないが、ともかくそういう言語能力がないとかの理由で大変なのさ。
 かくて、よっぽど議論を単純化するかなあ、という退嬰的な思いが、考えの多くを占めています。

 ここから先は、ほんとに内輪の若き研究者へのグチ。

 例として、下記のような立言があったとします。ちょっと長いけど。(わたし的には、こういうのがふつうの書き方なのですが)

「およそ思想の機能というものは、他人に自由を与えることであり、それ以外にはありません。
 人は評論家の言により、それまでの社会の思想――それによっては自分に自由を与えられない思想から、その呪縛から、脱することができます。
 新しい思想により、賞賛と優越的自由が与えられるわけです。
 賞賛と優越は、科学によっては与えられない。
 周りの噂話によっても与えられない。
 それを与えられるのは権力者、ないし、権力者へ対抗し得る権力を持つかのごとき、「攻撃的な」思想だけなのです。
 では、社会科学の役割とは。
 それはそれまでの思想の誤りを発見し、それまでの思想の権威を貶めるところにあります。そしてさしあたり、思想上では、それ以上のものではありません。
 もちろん、中には新しい世の中を指し示すことがあるが、それは大思想家の社会科学に限られるというわけです。」
 
 さて、これで内容を判かれと思うほどわたしゃ傲慢ではありませんな。読者の方々は、あるは17歳にして生涯の傑作絵画を描こうとしているし、あるいは18歳にしてアメリカ実証主義の虚妄を突こうとされている。中には16歳にして、明日にもM町のターミナル駅前で新曲を披露しようと今はくつろいでいるかもしれない。ほとんどが社会学プロパーであるはずもない、っていうか社会学プロパーだってわからないかも。
 
 そこで、これを説明し直さなければいけませんが、あにはからんや、ここに加減乗除をどう突っ込んだって、ご覧の「明日のさだまさし」には理解できませんやね。そこが社会科学の哀しい定めです。
 色がつくと分かりやすいんですけどね。以下、( )を追加。
 
「およそ思想の機能というものは、他人に自由を与えることであり、それ以外にはありません。
 人は評論家の言により、それまでの思想――それによっては自分に自由を与えられない思想から、その呪縛から、脱することができます。
 (思想は人に正しいことを示すことで正当性を確保する、と思うなら、それはそうではない。正しくても間違っていても思想は思想として社会で機能する。その機能とは、支配社会においては、その社会で被支配下の人間に、その支配を覆すための彼らの行動を、文言で示すことだ。
 「正しいのに機能しない」、とは、思想とは人間個人の行動をつくものであるからだ。人間はまず食っていかなければならぬ。社長の悪口をいえば首になる人間が、どうして正しかろうが社長の悪口をいう人間居同調できようか。
 「正しくないのに機能する」というのも、同じ理由である。可愛がってくれる社長の敵である会長を貶める思想であれば、某会社部長は、容易にその思想を受け入れる。
 社長が総理だろうが係長だろうが天皇だろうが日本が誇る思想家、、、そんなのいないな、、、隈だろうが、理屈は一緒、、、)
 
 、、、ああ、もう疲れちゃった、ばかばかしい。
 ( )内って、初めの1行の後半、半分の説明ですよ。これで8倍あるんです。全部だったら1行の16倍 (「他人に自由を与える」って部分は説明してませんがね)。空しい。
 もっと続ければ、1冊の本について、あと16冊いるってことに。
 実は『行為の集成』ってそんな本なんですよね、、、かなしい。他人に分かるわけないやね。
 
 圧倒的に空しくなってきた。隈、実は歴史を駆け抜けすぎた男、、、
   どうだっていいやな。
 本題は、理系は学問が簡単でいいという話で。
 
 他国の社会科学も知らない日本人が見たら難しいかもしれませんが、それは幸いなことに外観にすぎません。だからどんな社会科学者ならぬ日本の文学教授でも思想家然としていられるわけで。
 フランス思想なるものは、どう美しく御託を並べられるかで評価されます。
 したがって、異国の読者は、美文の内容空虚な「論」を読んだら、あ、こいつはフランス文化県民だな、とわかります。
 ドイツ思想なるものは、どう文章を体系立って響かせるかで評価されます。
 異国の読者は、初めに聞きなれぬ概念定義をしてその概念に沿って空虚な論が展開されている「論」を読んだら、あ、こいつはゲル万か、と分かります。
 アメリカ科学なるものは、数字を並べて何かを述べることで評価されます。
 なので、意味は明晰で単に現実と引き比べて間違っているだけの話は、ああ、アメリカ人の与太か、と分かります。
 
 哀しいけれど、私にはみなさまという若い読者がおられますので。
 千万人といえども吾行かん。
 いやさ、世界人民、70億人といえども吾行かん。
 わたしゃ孟子の700倍偉い、ということですね。正確にいうと70億人のうち1億分の1人は私の読者とみなして、全体的には1騎当億で行きませんかね。(あ。これ計算むずかし)
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分析理性の汚名

2013-09-14 21:18:28 | その他
 こんばんは、最高気温はまだまだ暑くとも、夕方には多少の物思いの感覚が戻るときもある今日この頃、私の場合、物思いと理論思いはパラレルで。
 とはいえ、物思いに青春の感傷がなくなっているのとパラレルで、理論思いにも「許さじ」の気迫がなくなりつつあるのも、寿命というものでしょうか。
 なんでも縄文以前の男の人間(の骨)で60歳を越えたものはないそうで。もう最終コーナー回ってますね。それでも50歳を越えると分かることって多々あるものです。年寄りは大切に。

 さて、本日の役に立つブログ。

 (その1)調味料用カレールー。
 ジャワカレー辛口というのを初めて買いましたが、どうも味が分裂してて。スパイスオッケー、材料は? なかなか豊かな味が。しかし、まとめると、これはいったいカレーか?
 ハウスはザ・カリーでしたっけ、それはうまくできているのですが、これはどうも。
 私の場合、カレールーは添加調味料なので、味見、シビアです。
 おなじようでも、ジャワカレー中辛はそんなことないので、もの足りはしませんが、この辺で我慢すべきかもしれません。または、バーモントカレー中辛。別の意味で味がちょっともの足りませんが。
 S&Bは、同じ意味でゴールデンカレー中辛で、妥協するしかないような。塩辛くて困りますが。
 全カレーにしてもディナーカレーの旧バージョンは秀逸でしたが、最近のは落ちたとしかいいようがなさそうで、、、
 
 なんてことはいいのですが、このように、個別の味はよくできているのですが、それをまとめ上げるとトータル矛盾だらけで分裂するということがあります。
 実は自称他称の社会科学的認識というのが大部分そうで、そういう実態を持って、近代分析理性の誤謬という非難が、あります、というか、昔はありました。最近は人生にいいかげんだからそういう論議にはなってないでしょうけど。
 
 さて、ここで若い人に注意しておこうと思ったのは、社会科学的認識というのはいやでもなんでもそういうものだ、ということです。
 人間の知性が欲しているのは、人間個人の行為の中では個別的な行動の解であり、しかしこの問いは個別的でも大きな状況の中で、どのようなことができるか、という問いの解なのです。
 「個別的」というのは、決して、恋愛やら老親介護やらの解を「同時に」満たすものが必要だ、というわけではない、ということです。それは満たせるものではなく、また満たす必要もありません。
 
 ところで、じゃあ、人間の科学というのはなんでも分析して、その限りでの解を出す、そんな「分析理性」でよいのか、というとそれも違う。
 第1に、勝手に現実にありえない前提を設定して、その解を作る試み。
 こんなものは無意味です。
 近代経済学のモデル理論なるものですね。こんなクズみたいな自称経済学があるから、分析理性が批判される。
 
 第2に、勝手ではない現実の前提を基礎としていても、その解を全ての現実に当てはめようとする試み。
 現実にカネを儲けるのに最適な行動解を解明したといって、その限りでの解など、恋愛や老親という目の前の「私」の行動によってしか解が生まれない問いには、なんの解にもならない。
 
 つまり、分析理性のいい点というのは、人間にとって道具になる、ということです。
 巨木を切るには、斧や鋸がなければ切ることなどできはしません。
 だからといって、斧や鋸で親のオムツを変えられるかというとそんなことはない。 
 道具で悪いのは、人間を道具にすることだけです。道具自体は人間の生に必須なものです、ね。
 
 分析理性とは、このように決して他人に非難されるものではない。
 非難すべきなのはこの道具を物神崇拝していた人間(この場合大学教授)の生きるあり方だけなのです。
 私はかのように分析理性の崇拝者ですが、山本義隆さんが東大闘争以後、分析理性について述べたものは読んだことはありませんが、どのようにお考えなのでしょうかしら。
 
 理性の投入対象は2つの前提のなかの1つの現象であり、それ以外にはない。
 それは第1に現実の中の、第2に、部分的な、現象である。
 
 (その2)
 というふうに涼しいと、なんでも頭の中を通り過ぎることができます。
 さて、これも重要なことですが、干しシイタケの芯、または茎。
 皆様、どのように処理されておられますか?
 1 即、捨て。
 2 硬いけど混ぜて食う。
 
 以前勤務していたところのラーメン屋さん、ちゃんと貧乏人に配慮できるラーメン屋さんで好きだったのですが、ラーメン屋さんてそういう心意気の方多いですよね、そこのオマケのスープがなかなか美味しい。
 中身はなんだ、って、これがシイタケの茎の細切れとネギの細切れ。それに茎の戻しダシと中華ダシの素と少々のごま油(と思われる)としょう油2,3滴 (具材は炒めてから水を入れてね)(最後、塩・コショウで味を調えて)。 
 まあ騙されたと思って作ってみてください。ちゃんと一局の料理です。
 わたしなんかシイタケの葉っぱ(傘)より、茎のほうが大事なくらい。こりこりして存在感があるんだ、これは葉っぱにはできないことです。
 
 
 (その3)
 タンスの中、ぐちゃぐちゃだな、と、どうにかしようと思ったのが、ワープロのインク。
 なんかもったいなくて置いてあるのですが、広くない家の、そのまた狭い私の占有所にずっとあって(机ってないんで)、ワープロの現物は既になく。
 こんなもん、捨てちゃえと思いながら、でもまだ使ってる人がいるかも、そんな人にあげよ、とまずは検索してみたら、びっくり、現在yahooオークションで値段ついているところ。へええ、そんなもんかね。
 
 ということで、ここのお客様限定、
 ブログ開設7年目セール、タダであげちゃう、郵送費出せなんていわない。
1 CF-Pアール120K
2 Rダブリュ-201A
3 casio type イーW
4 type-イーW M8
(ネット検索にかかるとオークション出品者に悪いんでカタカナ。ここのお客さん限定です)
 一時、子どものとかで、6台くらいあったの。
 期間 2014年2月1日まで。
 それで処分してしまいます。
 ご希望の方は隈のアドレスにご一報ください。
    kokohahazusite-kumaeijiro@mail.goo.ne.jp
(kokohahazusite-は取って、メールしてください。スパムのロボット対策用です)
 なお、なんでもgooが無料メールは止めるというので、このアドレスは3月10日でなくなる予定です。ご注意を。
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中島みゆき - エレーン

2013-09-09 21:19:54 | 断片
 初めて聞いた。中島みゆき、エレーン、、、
 
 やはり、男最高峰さだまさしより、私に近い、ただしこちらは私よりも上よりに。


  違うことをしているようでも、本人は同じ事をしていると考える、そんな心のコミュニティの存在は、本当に自分で生きているものたちにとっては、常識と思う。
 
 

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民主党9条改正案

2013-09-08 09:00:49 | 歴史への視角
 そら出た。日本軍だ。言ったとおりでしょ。
 ってよろこんでちゃいかんな。
 (あら、yahoo見出し、消えちゃった。
  「民主党の枝野幸男・憲法総合調査会長が憲法9条の改正案をまとめた。武力行使に歯止めをかける自衛権や国際貢献の要件を記し、必要最小限の集団的自衛権行使を認める。」  これで自民党とさらに右にシフトして妥協でおしまい。「自衛のための組織」でなく、「自衛のための軍隊」に変えてね。)

 右翼のバカや左翼教条主義者にはわからないだろうが、これが歴史というものです。
 中身はかんたんな話です。
 国家武力は、その経済的基盤の確保に全力をあげる。
 被支配人民も、被支配の根拠である経済的基盤の確保に、しぶしぶ、あるいはお祭り騒ぎで、乗る。それが状況で現実の姿を変える。
 それだけ。
 それが「被支配」というものです。
 そして、資本が軍事に体制として組み込まれ、どうにも動きが取れなくなるのが、これからです。とはいえ、この時点で笑ってちゃいけませんな。

 「枝野は革マル」? (まだ検索見出しに出る)
 それはそれは。ごしゅうしょうさまで。


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素人のギョウザの焼き方

2013-09-07 21:54:35 | その他
 こんばんは、東京地方、あと少しで秋。
 ともかく、最低気温23度というのが東京地方の知的活動の水準に違いありません。あるいは本質的には気温27.5度以下の時間がどれだけ確保されるか、ということですが。室外27度なら、西向き1階のアパートでもだいじょぶですよね。

 さて、まだ暑いので、朝日新聞とっといた話題3点。

(その1)
 菊池浩吉という氏。朝日新聞社の賞をとったとのこと、おめでとうございます。「ガンの原因の1は、免疫低下だ」説の科学的証明をなされたとのこと。
 まことに自称「医学博士」が、「ガン免疫は人体内部の展開だから免疫機構に引っかかるはずはない」、と本をもってのたまう今日この頃(あなた、大衆に人気の近藤先生(その他)のことですぜ)、人民大衆に、『ガンは免疫攻撃の対象だ』という主張をアピールできて、とてもいいことです。 (おめえら自称博士はただの「じじいメディカルドクター」MDのくせに、うそつくんじゃねえよ。)
 すいませんが私は学問上ではきっぱり差別主義者です。医者学ごときが、何が博士だ。
(もちろん本当の内科・外科(・小児科)(に限っての)の医者につきましては、私は頭を下げますよ。彼らは(学位などないほうが多いですが)本物ですから。そんなことは、他の世の中での人間存在と一緒です))

(その2)
 まだいっているアベ消費税論。うるせえよ。
 要するに
 「これまで国費をつぎ込んだら、いい目を見た国民層が一部地域にいたろ。こんないいことに国費をつぎ込むんだから、消費税を出せよ」
 っていうことなのですが、いったい自民党はいつから国家社会主義になったのか。前からだというのは分かりますが。
 それならそうでちゃんと明言しなければ、こんなものが資本主義だと思う(50歳以下の)子供たちはまだたくさんいすぎですよね。
 嘘は嫌いだ。

 ちなみに誤解ないようにいっておくと、「国家社会主義」というのは資本家のために国家財産を分配する機構のことです。
 これをもって『ケインズ主義』とか評するタダのアホが大学教授をやっている場合が多々ありますが (もちろん新聞記者の全部がそうですが)、夏休みに宿題を完結するような高校生ならご存知なように、乗数効果も考えないただの資本投入は、どこもケインズ主義ではありません。ただの国家による資本投資、そのまんまです。今から150年前の理論です、というのを証明するヒマも気もありませんが。

(その3)
 津田幸男。
 朝日新聞にわざわざ投書して、「日本語でカタカナ語を使うのは日本語を貶めるからやめろ」、という実に低レベルの論理にもならん政治イデオロギーをくっちゃべっています。
 過去の英語席巻否定派と比べ、なんと醜い論旨のことか。
 いったい、日本語のうちで、どこが日本だから日本語だというのか。
 日本語というものは日本語トータルでしかありえない。分解したらみな中国語じゃないか。(昔,米原万理がよくいってた)。 ここ千数百年、いやさ、つい百年前まで中国(語。夏目や森を参照。) の文化的属国だったことも棚に上げて、なにをいってるんだバカ。
 津田なんとかとか日本語風の名前を名乗ったって、朝鮮人の子孫が中国語をもてはやしてるだけだ。もっとも津田は中国人に見えるけどね。はっきりいえば、「吾が日本国において、朝鮮人が率いる日本人におもねって中国語を称揚する中国人」 という笑い話にもならない話だ。(こういうからかいを書くから誤解されるんだね。私はアナーキスト。)
 くだらん。
 数年前は、当該も、もちょっとまともな本書いてたけどね。こういう奴は飼い主に鎖で引かれた犬同然で、世間がもてはやしてくれるだろうと思うと、つい研究者の立場も忘れて、優越的自由に浸ろうとするんだよね。ここの読者には居るはずはないけど、ここ以外の世の中どこにでも、生まれつきそうゆう奴っているんだよ。わたしなんぞそれを悟ってやっと10年だね。自分の行動で(自分の発想にかけらもないので)わからないことはわからないものさ。ま、当該本人もう年で、学問やめるのかもね。
 
(注:過去の英語グローバル否定者はすべてといっていいくらい、「世界(言語)平等論だった。だれも日本がどうとかなどいいやしない。政治調子に乗りゃあがって。クズが。
 ほんとに筑波大というのはろくでなししか飼っていない大学です。
 だれかそうでない人を知ってますか? 知ってたら教えて欲しいものです。)

 さて、そういう悪口はおいて、役に立つブログ。本日は,素人向け,「ギョウザ作り」の本質。

 わたくし儀、生まれてから15回くらいギョウザを作りましたが、一度しか成功したためしがない。
 もうあきらめて、この2年くらいギョウザは冷凍ギョウザしか焼かなかったのですが、図書館の料理本で
 1 野菜は必ずあとからサクっと混ぜる
 2 素人は茹でた後で焼け。ひっついても油で焼いてればそのうち取れる。
 という偉そうな一般論アドバイスが書いてあって。
 そうか、これこそギョウザ料理の本質かも、と挑んだ今夜この頃。
 
 ウソ。
 茹でた後じゃ完璧にひっついちまうよ。こんなにひっついた過去はない。全部,底取れ。
 底が取れるということは
 1 底の焼き味も
 2 底の油等の味も
 3 底の舌ざわりも
 一切合財消える、ということです。どんな調味料を使おうがどんな高級食材を使おうが、これだけは絶対に避けなければなりません。
 
 ギョウザの素人様、今日の収穫。鉄、ステンレス、または劣化したテフロン加工のフライパンの場合、ギョウザを作ったら初めに焼いて、ころころ転がせるのを確認して、「おもむろに」茹でる。(ま、そのあと油足して焼くけど)。(12個づつで2回目はそうして、ま、成功)。
 これが私のギョウザ40年の決算。15回だけだけど。プロはどうでももっとおいしいのを作っとくれな。でも素人様は、よくよく吟味するように。 
 もっとも、「野菜だけは(肉と揉みこまずに)後からサクッと」 は、確かにほんとっぽいです。

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独立する「倫理」

2013-09-01 17:09:53 | 歴史への視角
 こんにちは。まだくそあついきょうこのごろ。
 それでももう秋で、今日は朝、窓を開けたらアオマツムシが飛んできてパソコンにへばりつきました。もちろん雌ですが。(なぜ、もちろん?)
 いや、なんの虫か分からなかったんですが、小学校から使っている学習小事典では、アオマツムシは1.5cmと書いてあるし、こいつは3センチもあるからカメムシの仲間ではないか、とか。
 例によってネット検索で、体調2~2,5cm、写真はこれ、と明快にそれとわかりました。
    しかし、3cm以上あるのだが、、、
    この前来たゲジゲジも、優に5cmあったし。栄養がいいのかなあ、、、
 
 さて、本日は、下部構造に独立する「倫理」とは何か。
 ここんとこ、笑止なウェーバーの話題とかありましてね。ウェーバーって『職業としての政治』
 
 まあ、一般論からいえば、道徳や倫理というのは『賞賛と優越』の問題で、要するに評価の問題です。
 人間自分の問題ではありはしない。下部構造に直規定されている、人間として口に出すのも恥ずかしいような羞ずかしいような内容です。
 いわく、「心情倫理」などといい、要するに自分の内部の評価基準がよしとすればそれでよいという。
 一方「責任倫理」といい、結果が他人からいいといわれればそれでいいという。
 こういっちゃなんですが、情け無い話ですね。
 すべて行為は、自称自分、あるいは他人による評価次第で決めるわけだ。
 ネット検索すればこんなのしかでてこない。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51797599.html
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51503469.html
 何を言ってんだ、馬鹿野郎。
 ほんとに何も考えず言葉を当てはめるやつら=評論家というのは、世間ですわりがいいんだろうねえ。
 精神的苦労もしねえでうらやましいよ、といえば、こいつは常套句のつもりで「おれは前みたいなエリートじゃねえ、庶民と同じ苦労人なんだ」、というかもしれないが、残念でしたね、わたしゃどこもかしこもエリートじゃないんで、そんな悪口はかすりもしない。
 知るはずもないから教えてやるのだが、前衛的右翼や左翼のコアは、池田信夫が言うような他人の評価で動いているわけではない。もちろん、私も展開したように、運動の大雲影は、大衆人池田と同じ感性と認識で動くのだが、しかし、そのコア、中核(「中核派」ではない)、要するに前衛は、そんなもので動きはしない。もちろん、かの「時代」になにもできなかった池田に分かるはずもない世界のことだが。
 
 本当は上記両者で折り合いがつかない中でどう生きよう、と思う(悩む)者が、本当の倫理者なのだ。
 人間は、社会の中で生きていることを確認しつつ、それが「自分だ」ということまで認識する。
 すなわち、自己の行為がこういう結果を生む、あるいはこういう結果と同時にああいう結果しか生まない。それを認識した上で、さあ、お前という自分はどうする、という問いかけに答えるところが人間のありようなのだ。
 そこで、自分のであれ他人のであれ、評価を選ぶことなど、やむをえないとはいえ、他人に偉そうにしゃべってこれが私の「倫理」でござい、などというのは頭老人ボケじゃねえか、といわれてもしかたのないことだ。
 まあ、そんな人たちばっかりだからシンプルに唯物史観が適用されて社会がわかりやすくてよいのだが。
 
 しかし、あるべき倫理とはそうしたものではないことが唯一60年代の日本で確認されたのだ。
 すなわち、『主体性』。
 
 下部構造に抗し得る倫理とは、「評価されることを選ぶ」のではなく、「耐えることを選ぶ」という事態なのだ。
  
 自分の満足と行為の結果など、そんなもの、折り合いがつくわけがない。そんなことはやってみれば分かることだ。 池田などにやれるはずもないが。
 そこで問われるのは、それではお前は何を我慢するのか、という問いかけだ。
 自分の道徳観に合わない行為か、不十分な行為結果か、それともその全部か。
 この選択は社会の道徳ではない。自分個人が引き受けなければいけない「自分の中での罪」なのだ。
 そんなもの我慢してどうする?
 そんな場所から生きていく。それは他人の評価(そのもの)ではなく、自己が選んだ現実をどう変えていこうか、という投企なのだ。
 「投企って何? 人間なんてみな存在者なんだから、そんなの普通の人間が普通にしてることでしょ」 
 違あう。
 
 わかるかねえ。図式化。
 1 心情倫理・・・結果はどうでようと私は私の信じた道を。それが私の心の神の評価だ。
 2 責任倫理・・・結果次第だ、どんな汚い手を使おうが、結果が他人によければいい。それみたことか、民衆が拍手をしている。
 そして
 3 本来の倫理・・・こうすれば、ああなる。そんなことは分かっている。では、私は私の良心の範囲内でそうすることができるのか。そうしたことに耐えてゆくことで自分にOKを出すのか。日々とは、その問いかけの答えである。 
 そこにはすでに他人の評価を期待する余地はない。自分自身の頭の中で、危ない綱渡りをしていくほかはないのだ。
 きれいごと? 美的麗辞? レトリック?
 疑うやつはやってみれば分かる。そこには具体的な他人の評価が入る余地などありはしない。
 もちろん、疑うやつにやれる仕業ではないのだが。
 
   昔も似たことを書いたけどね、こういうのは本になっていないので(「知性の反乱」くらいさ。その他の自称主体性論者など、ただの社会道徳家=社会評価懇願主義者にすぎないので注意。)、ときどき私が書かないと、日本でさえすでに分かっている人間など残っていないかも知れなそうだしね。
   
コメント
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