リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

本当のことだけをいえる自由

2011-05-28 22:48:08 | その他
 こんばんは、いいことないですね。
 わたしゃ、家に屋根もありパンも買え、特に悪いこともないので幸せ、なんでしょうが。

 今日なんか雨で、昼休み、ラーメンを食べて会社に戻り、日も差さないうえに電灯が節電された真っ暗なオフィスで同僚がパソコンの明かりに向かっているのをみると、ほんと、文明ってなんなのか、って思いますね。

 なんのための電灯だよ。
 電灯もつかないのに一人前にパソコンや携帯を動かして。
 正気とは思われないねえ、、、
 
   いや、要するに、1000年前と同じく、みんな一生懸命いきてるだけなんだよね。
   パソコンや携帯の生産ラインが止まったら、それは「電灯のごとき」「小さな」問題じゃないんだよね。
   
   しかし、社会的な意義はわかるけど、アホだよね。電灯のほうが大事なんじゃないかい。
   世界2位3位という大資本主義帝国が、「電灯すらつかない」明治時代と一緒。
      照明もない文明ってなに?? パソコンにかじりついて。
        いえ、僕もそうですが。
      

 さて、と、本日は立ち読みでHさん(本当は広瀬隆さんだけど)(原子力評論家)の新刊を見て、おやおやずいぶん話が違うね、みたいなことで。
  いわく、火力発電は1、2割しか発電していない。
  火力発電所は数ヶ月でできる。
  発電所ではない民間発電機関で5000万キロワット発電できる、、、

 こういうのもねえ、、、
 Hさんがいうのだから根拠はあるんでしょうけどねえ。
  しかし、たとえば、発電所って(大きければ)半年ではできないもんですよ。
  それは現実は、そんなこといって、どこに作るねん、みたいな話から始まるものです。狭い日本、どこでも先住民が生きてますからね。
  
 困ったもんだ。
 もっときちっといえばいいじゃんかねえ、というのは、Hさんの生きてきた歴史を知らないんでしょうねえ。『まともなこといったら選挙なんか受かりはしないぜ(大衆はまともなことなんか嫌いさ)』、と自民党議員が言ったという、同時に立ち読みした曽根綾子著、談。Hさん、サラリーマンやめて30年、評論で生きるのは大変なんでさあ。
 
 と、夕刊に目をやると(朝読まなかった朝刊か)
 おや、吉見君もかっこいい肩書で、みたいなのりで(知り合いではありません。お互い興味もないでしょう)
 吉見俊哉という東京大学新聞研究所教授
 いやさ、なんかかっこいい部門名がついてたけど、要するに新聞研究所。
 が、『昔「力道山」を流した街頭テレビは下町文化』だって。『山の手にはそんなのはない』って、新聞研究所だねえ。
 
 その1 いわゆる山の手文化は山の手、すなわち麻布麹町にあったのではない。山の手には下町文化がない交ぜに存在していたのであって、その純化されたものは新興住宅地にこそあった。
 その2 ところで、新興住宅地、自由が丘駅には街頭テレビがあった。
   僕は自由が丘駅で力道山見たもんね。
   
 かなしいね、評論家。
 とゆうか、生活する、カネで真実を売るっていうのは哀しいことなんです。
 ということを、表現者である評論家本人は忘れてはいけないね。
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一人で作っただけのプラン

2011-05-22 22:14:58 | 歴史への視角
 こんばんは。土日連休時間をぎりぎりの休養で使用後、さて、最後はブログ作業でちょっと堅く過ごそうか、中身は途中まで昨日書いといたし、、と思ったら
 ああ、しょっく。消してしまった。ここの原稿。

 ここんとこデスパリットに生きてるもんだから。どうとでもなれで昨夜PCの電源をぷちっと消したとき、一緒に消えたもよう。

 いえ、テーマがわかれば再生可能なんですが、いったいなんのことだったのやら、、、大事なことでして、夢の中でも続きを考えていたのですが、、

、、、ひどいねえ、、、

  ああ、やっと思い出してきた。
  人は労働のような行為をするときに、労働ではなく、他人のことを考えた行為をしないと自分的に(権力状況の場合は相手の他人も)疎外状況に陥る、というテーマでね。
  
 国家官僚や、ワンマン社長や、いないけど「理想的な」政治家なんかが、「ああなればこうなるから、これは人にとってよいことだ」、と、何かプランをセットするじゃないですか。
 さてそれを遂行するのに、ただロボットのような人間ではその意図を理解していないので、結局いわれたことしか実現しない。有能なほど瞬時にその作業を終わらすが、じゃあ、それでよいかというとそうではない。たかだかのワンマン社長の一人の頭脳で何ができるものではない。結局、1人の人間による偏奇なプランでは、目的の「人」には混乱しか引き起こさないものだ。
 
 人が夢を見るようになって以来、すなわち一部の人間の労働が身体的要求水準から離れることができるようになって以来、人が考えるあるべき労働仕事というものは、そういうものではなくなった。
 人は労働を自分の力で「他人のために」構成する必要があり、かつ、皆がそうしなければそうでなければまともな結果は実現しない。
 
 日本のような共同体的な資本主義社会では、いままではそこそこにはこれを実現してきた。
 一方で、売らんがため。
 他方で、余裕のある会社に入った、食う必要もない若い世代諸君の感覚によって。
 労働仕事は「売れる商品」と「売り場」のありかたによって、ある程度「人間的な」という幻想をもてるところがある。あるいはあった。
  
 さて、これからどうなりますでしょう。
 
 これは、実は一般の人ではなく、社会主義者の諸君に向かって書いているものであります。
 官僚の計画など、すでに歴史段階としては人間の労働にはなんの関係もなくなったことが、先進資本主義によってバラされてしまったのだ。
 (だから社会主義はダメだ、などとは言っていない。それ相応に変質するといっている。結局、アナキストが述べたサンジカリズム(もっとも産別「個別」主義、みたいな形態かしら)にいくしかないのさ。)
 
   てな話でしたんですが、かいつまんだってこの長さ。
   そう、昨日の原稿はもっと長かったんだよね、、、
     反省するというか、そんなこといっても世の中が悪くちゃあしょうがねえなあ、と傲慢に総括するか、、、
  
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ある一夜の忘却

2011-05-15 22:44:42 | 断片
 こんばんは。思いがけずもう夜10時。
 実は昨夜はなにかと、半年前にできているはずの著作について社会性のない出版者のことなどで寝不足で。

 で、今までは家庭のよしなし事で頭を使ってますと、悲しいかな、中高年、ブログで皆様に言ったほうがいいことを忘れてしまいましたがな。
 なんだっけ?? 
 ほんとこういうことは私の日常ですが、そのこと自体、わたくしが解明すべき理論について、ちょっと本気さに欠けることを意味しますね。 
 しかし、それを非難されても。こういう状況でね、って、若い人はわかんないと思いますが、人生ってそういうもんなんですよ。
 肯定しているわけではありませんが。
 
 気を取り直して、そう、菅が悪戦苦闘してるな、って話題に近いことで(まだ思い出していない)。
 
 菅って、(私は悪口を言いますが)悪口いっても自分で(孤独で)よくやってると思いませんかね。私は、彼は嫌いだけど、そう思って。
 浜岡の原発止めたって話で、無断でやったって経団連の類が怒ってますが、そんなやつらに関係ない話ですよね。いままで自民党がいったほうがおかしい。いや、いったっていいんだけど、それが人民全員じゃなくて経団連だけだったろうというところがおかしい。
 ま、で、そうか無断でやったんだ、ってことで。
 大変だなあ、アメリカ合衆国大統領とも折り合いをつけなきゃいけないし。それって、国家的には(あたしゃ関係ないですよ)福島より重大だと思ってるだろうし。
 そんな、一人で苦労をした(やりがいのある)自民党党首は田中まででしょうしね。 
 だからどうっていうわけじゃなくて、個人としてごくろうさんだね、って思うってことで。
 
 で、なんだ、、、思い出さない。
 酔いが回りすぎか、、、いや寝不足。
 
    ほんとに心に引っかかっているの大阪ボスの国旗(じゃない、国歌)敬礼条例のことです。橋本っていったか。
    石原は、まだしも文化人だね。
    こういう権力を使うことには、人民は対抗権力を組織するしかないんですよ。
    わずかに説明すると、きゃつらは自分の(地方に分割された国家)権力を使って大阪の若い衆の行為の将来を提示してますからね。若い衆も自分の力が増えたかのごとく賛成驚喜したりする。
    じゃあ、って私のようなサラリーマンが「それは個人を束縛する(とか、わたしゃいいませんが「それではかえって世界国家たる」日本国家の将来に悪影響を及ぼす」とか、、、ああへどがでる)」っていっても誰も乗りゃしませんがね。
        
       で、無政府主義者は、
          テロしかない。
       わかりますかね、ここで、さっきと同じように1サラリーマンが述べることでも、生きている権力者・人民、皆に影響を及ぼすテロリズムは、一躍、現実的有効性を帯びるのですな。それがテロリズムというものです。 
 これは私の地が出たのではなく、社会学的理論結果で。
   ったって、こんな理論を説いてもしょうがないから、とりあえず展開しません。
   
      さて、再々度、今日の主題はなんだっけ、、、、思い出せない、、、
 
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一コピー屋氏の反撃

2011-05-13 23:22:01 | 断片
本日の夕刊は、ハヤブサの映画広告。

 はやぶさといっても海底人ではありません、て誰も反応する人いないね。
 プロレスラー以外は全て好みのハヤブサ、今回は宇宙船。 船じゃない自前のロボット機ね。
 地球へ向かうロケットをモチーフに、映画の広告。
 そのキャッチコピーいわく

 ”宇宙を旅した。碧く輝く地球に帰るために”

 ほんと、憤らなければ泣けてきますね。

 誰も「お前なんか帰ってくんな、燃え尽きてしまえ」
 とプログラムしたなんて思いませんな。
 ところがそれを知っている人間がいる。 知っていて、なおかつ映画を作った、プロデューサーとシナリオライター。
 
 さらにところが、そんな映画に反抗した人間がいる、コピー屋A氏。
 
 ”宇宙を旅した。碧く輝く地球に帰るために”
 帰ってきたよーー地球ーーー、、、遠かったよおーー、、、あっ、あ、体が、、、
 
 怒りが湧きますね。
 
 世の中、どんな世界にも、まともな人間がいるものです。クズの上司のお茶に鉛筆の削りかすを混ぜるOLとかね。
 よくやった、コピー屋氏。若い人は知らないでしょうが、OLのことは知りませんが、おじさん的反抗とはそういうものです。
 

   なあに、酔言、酔言。

   しかし、ウソは嫌いだ。

      しかも、人を殺しておいて、自分が栄光を得るような。
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最後の一線を越えた政治家

2011-05-10 22:44:20 | 歴史への視角
 こんばんは。私の好きな朝日新聞夕刊人生相談の明石哲也さん(ごめん、明川さん)、今日は、「人間、頑張ろうじゃなくて、何をすれば頑張らずに成果を上げられるか考えてみよう(僕なんかぐうたらでどうしようもなかったけど、好きなことは頑張らなくともできる)」、みたいな話で、へえ、そうですか、そういってくださいますか、みたいな感じでした。
 私なんざぐうたらで頑張ろうにも何にもできなくて、もう自分で情けなくって話にならない。
 ほんとそう言ってくださると、ほっとしますよ。

 そんなことを言うと、はたから「てやんでえ」といわれる私のようなおじさんでさえそう思うのだから、若い人はもっとなんじゃないかな。
 いや立派な人だ。
  この人のネックは家庭生活だと密かに思うのだけれど、そんなことを思うことに何の意味もないほど立派な人だと思います。 絶賛。

 それはそれ、夜も(私には)遅いのに書いてしまう情け無い外界。
 民主国家なる政体において、政治家の最後の一線とは何か、
 国家権力のロボットになるか否か、ということですな。
 政治家は権力の行使者となることで、人民から離れた「権力者」となる。
 それは主観的には権力の輝かしき自主的行使者であり、歴史の中では、歴史に抗すことも忘れて果てた、要するに名前のない権力者そのAです。
 で、オバマです。

 「(ビンラディンを殺して)大量殺人の加害者に対する仕打ちに文句があるやつは頭を調べたほうがいい」などと言ったという盗人猛々しい話。
 それこそヒットラーでも東条英機でもそこらのヤクザである右翼も、ゴロツキ左翼も、およそ権力(ないし対抗権力)の手先のみが語る言葉だ。
 権力者が権力を行使してよい理由は、その人間の感情が法によって抑制されているからなのだ。感情で動いていいのは、赤ん坊だけだ。
  
 当然だろ、あほんだら。
 頭に来たら他人を殺していいのか。
 それでよければ殺人被害者家族が泣いて喜ぶぞ。 さすがじゃないか、オバマ。
 
 もうキミの使命は終わったんだよ。もともとキミの使命はといえば、「有色人種がUSA大統領になる」そのこと自体しかないんだから。
    勝手に死ね。
    (ではなくて、論理上、お前も殺されてもしょうがないのだ、先に列挙したクズどもと同様。)

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現実適合論の右翼性と、自称左翼性

2011-05-08 21:57:15 | 歴史への視角
 こんばんは。 暑くてこれからの思考作業が思いやられる今日この頃。
 あの、窓のあかない(最新式の)電車というのは、どんな人が設計したんでしょうねえ、、、この設計決定に反対しなかった部下A氏は、「今ごろ私が反対していれば」、と反省しているんでしょうか。(首謀者B氏は反省なんかしてませんな。世の中、そういうものです)
 (なにしろ首都圏の電車は、冷房ナシで)

 さてと、世の中、「現実がこうだから」、なんちゅう発言は、わこうどの敵ですな。 とゆうのは昔からそう決まったことで。


 こうした、現実への反応は、その形態と機能で次の3通りに分かれます。

1 今の現実は矛盾がある。人間としてこうすべきだ(=自称左翼系)

 みたいなのははっきり言って嫌い。
 なにいってんだ、そのあと何が起こるのか、わかってていってんのかよ。
 
 と思いますな。
 
 だいたい、言ってる活動者本人たちは現実がどうかなどわかってないのですが、これを教唆する人たちは何が起こるかは知っている、知っているけれど、『そんなことは俺らとは関係ない、「君たち」とか「彼ら」なりの処理すべきことだ。』 
 みたいなもんでさ。
 
 それはそれで教唆本人たち的には論理的なんですが、そこが一般庶民とは異なるところです。
 (論理的、という意味は、本筋を指し示せば、それに合わない現実を変えるのは現実を作って保持しようとする人間の責任だ、という倫理論ですね)
 
 一般庶民は、「われわれみんなが当面している」この現実をどう変えるか、どう変えてくれるか、というのが、当然に返ってくるように身構えているものです。
 私は一般庶民なのでよく分かる。  
 学生さんは、もういい年なのだから、そういうことを少し考えた始めたほうがよろしい。
 
 ま、そんなわけで

2 そんなこといっても無理じゃないか(他称右翼系)
  とゆう人たちが大部分で。
  
  そんな人たちも2通りに分かれる、というか2通りにしか分かれない。
  
 (1)無理な中で現実的にベターなこの方向でけりをつけよう。
    これが第1ですね。保守も革新もすべてこれ。
      といって、その答えを計算できるのは国家官僚だけだから、官僚の勝ち。
    
    誰が勝ってもいいけれど、同じ価値観の下では、保守も革新も答えは同じ、なのですよ。
       違うのは、汚職政治家だけ。
       バカと利口はいますけどね。
    昔、新左翼だとか、昔、過激派だとか(あえていえば両者若干違います。フロントも中核派も同じっていう最近のわこうどの反応はどうにかして欲しい気が)、そんなことは何の意味もない。今となっては同じ政治家。これを「保守」と呼ぼうが、「昔左翼」と呼ぼうが、誰にとってもなんの意義も無い。

 (2)で、無理だからこういう現実的政策をとることを容認するが、それにはこういう前提がある。これを絶対的に確保しなければならない。
 これが第2です。とりわけ、原発作業員の身の安全のことです。できやしないから誰も話題にしやしない。自称革新政治家はくだらん資本家のご機嫌取りよりも、一人の作業員の行く末の安全を確保しろ。
 
 
 以上で、何をいいたいかというと(以下順次、前述に沿って)
 
 1 原子力発電はダメだよ、と、いうはやすいか、たかいか知らないけれど、原子力発電を止めて困るのは全人民だよ、ということで
 子供達やカンパ暮らしの過激派がいうのは分かるけれど、ただわかんないのは共産党だよね。何を根拠に、と思うけれど、党員激減で現実遊離が身についたのもあるけれど、実はあんがい、自分たち分くらいなら消費生活ルートがあるんだよね。
 
 2 (1)でわれわれ国民が原子力発電なくして暮らせるか、って、話。
   暮らせるけど、4割失業で、質実剛健暮らしになるってことだね。もちろん、金持の財産は分配してのことだけどね。で、「それじゃ革命になっちゃうから、いうのはやめよう、われわれはこのまんまでは暮らせない」、と発言することには何の意味もない   
   じゃあ、といって、実際のところ、金持の財産の分配化方策を表明しているのは、私のブログで小林良彰を紹介したくらいで他の誰もいってはいない。
   (小林良彰さんは慶応大教授の小林じゃないよ。同志社の小林)
   
   (2)こうした状況では次の価値観を明らかにしておくしかない。つまり、人間の命です。
   個々の人間の命、これが最高価値だ、ということを前提として突き出していく、それなくして原子力を擁護するなら、それは1年前までの、崩壊前までの歴史をなぞることでしかない。
   「大震災? たかだか人口0.1パーミルが消えただけではないか。日本は存続する。それでなんの不都合か。」
   これが2の(1)の態度です。
   
   そうではない。いや、そうだっていいが、私にはそうではない。
   原子力で豊かになってよかったね。
   でさ、それで自由になったのかよ。
   
   人間には、どんな人間にも、次の一瞬先の将来がある。これを確保していくこと、この事実を思い出させるのが人間の行為であり、人間の運動というものです。
   
   でさ、嫌いだけど、原発作業員のことを思い出してテレビで一応話題にしたみのもんたを、今回、評価しております。聴衆に受けなかったようでやめちゃったけどね。
  
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国会定数

2011-05-03 21:39:24 | 断片
 こんばんは。 連休とはいえ、ようやく引越し片付けも終わりかけで息をつく今日この頃
 朝日新聞によれば、自民党はこの震災時期に政権に入るのはいやだそうな。

(最近増えている読者様あて。ブログ始めのカテゴリーで「断片」と書いてあるのは酔っ払っていることを示す符丁でして、「読んでもためになりません」、ということも意味します。)

 情け無いねえ、、、わたしなんざ、政党の評価加減では
 今の自民党 <民主党 <昔の自民党 < ?
の順だけどねえ、ってどれにも選挙票はいれないけど。
 「この時期はイヤ」 なんて言は、要するに、
 「この時分、大衆受けのことはやれないさ。民主党で勝手にやってね。
 じゃあ、国政はどうなる?って、ほっといたって官僚がやってくれるさ、官僚はそのためのもんだろう」 ってことでしょ。
 って言ったって、自民党の誰も反論ができないのが更に情け無いね。そのとおりで悪かったね、かい。
 
 だいたい、議員の数が多いのって気に入らないね。公務員の多いのは、仕事減らせばいいのだけれど、国会議員なんざ減らそうにも元々仕事ゼロじゃん。官僚の作った議案に手を上げるだけ。いらねえ、って。
 でさ、衆議院議員は47 (中高年様へ。Yahooによる都道府県数です、、、そうだっけ?)×2=94人定数だよね。
 で、参議院が同数。(政策見本市で政党比例にでもしたら)
 これ以上いらんがね。 どうせいたって、ごらんのとおりクズばかり。
 
 何が一人で何票の代表権だね。地域を代表するなら、2人で東京都民1200万を代表すりゃいいのさ。鳥取も2人で代表する。代表ってそういうもんじゃないかね。こっちの自治会は世帯の人数が多いから2人じゃ代表できないんよ、なんて話、ないしょ。 あるのは、最後の多数決でいかに自分のところに有利にしようかというだけ。そんなもの、意見は拝聴するが地域の勝手にされてたまるか、というのが国家の立場というもの。
 地域は、自己の独自性を主張すればいいのであって、それを国家レベルで総合的に判断するのが国家というものさ。数が無きゃ主張できないなんて、小学生以下。
 そうした平等な地域主張があってこそ、地域の原発の有無を国家として決める、決めた、だから責任は国民全員で負う、ということじゃないかい。 (ま、今回、多数を占める東京的都市議員が、原発の性格の(危険性の放置という)全てを決めたといえないこともないし。 (といって、そこまで福島県出身議員を買いかぶってはいないけれど))
 
 ま、どうでもいいけど、地域2人というのは、一人じゃはずみで受かっちゃうのでその補完。
 参議院があるというのも、ほっときゃはずみの衆議院議員だけで政治傾向がでちゃうのでその補完。
 中高年の智恵だね。
 
 なんてことを書くんなら酔言などといわずとも、とお思いになるかもしれませんがそうじゃない。
 地域の代表、国民の代表というものはその体制に応じて決めるものなんでね。
 私のような無政府共産主義者には、代議員制度からして、まずは生産点の評議員、その職業的利害の代議員、一方での地域の代議員、等々とか、理念は別にあるもんで。
 じゃあ、これは、って、ウサ晴らし、ウサ晴らし。国家がお好きな人にはご参考までに。

 ったく。 国会議員は国家の代表として働けよ 
 
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「普遍的視点」の存在要件

2011-05-02 21:26:15 | 歴史への視角
 こんばんは。ひとさまとは違うんでしょうけど私は今日から4連休でとてもうれしい。
 お盆と正月に匹敵する、まさにゴールデンウィークで、って喜んでるわりに、なにするでもないんですけど。なんといっても、何かできる可能性はありますし。

 さて、きょうは、ビンラディンが殺されたって。
 いわく、「正義が遂行された」そうです。
 たく、バカどもが。毛唐がオバマが殺されてもおんなじこというんなら、評価しますけどね。
 人殺しが正義なら、誰が内ゲバを非難できるのか、って唐突ですが、要するに人間は経験を積むと類推が効いて賢くなるということですな。
 救われることに、9.11の日本人被害者の親が当惑して、「裁判で決着をつけるべきだ」みたいなことをおっしゃって。えらいですね。私ならとりあえず、「ざまあみろ、天罰だ」といってから「しかし、、、」と続けるところですが。
 
 さて、このたぐいのことは、うちの家人も言っていましたんで、みなさまにもおわかりのことでは、と、って、別にどなたさまをばかにしているわけではありませんが。
 
 本日のためになるブログ、ここで現れていることは、今日(こんにち)の都市化した日本人は普遍的に物事をみられるけれど、欧米のいなかもんとかヤクザとかは、孤立しているので普遍的には物事をみることができない、ということです。
 
 人が物事をみるのは、自分の将来の生活に関係がなければ、どれだけ「面白いか」、「賞賛と優越に関連しているか」ということだけです。どっちだってよければ、「さあ、お祭り騒ぎして憂さをはらそうぜ、さて、今日のニュースを聞いて、今回のその仕方は何かな」
 というわけです。
 
 「正義」なんて国家が賞賛するアイテムは、「国家」という絵に書いた価値を口にすればそれで済む、毛唐やヤクザに限ってしか、持ちはしない。
 普通の日本の社会人には、生きている隣人がいますからね。誰かが人を殺したっていえば、隣りの人間が殺されたと思う。「隣の人間が殺されてよかった、正義が勝った」、などといえるのは、キチガイだけですな。
 
 しかし、アメリカの広大な牧場や農場で、一日中お日様しか見ない人間やヤクザは、誰かが殺されたって当たり前だと思う、牛泥棒や、トウモロコシ泥棒や、シマ荒らしは、自分で殺さなきゃいけないですからね。「それは正義だ」。自分のことを悪く言うやつはとても少ない。
 
 かくて毛唐とヤクザは文明人が持つ普遍性を持つことがない。
 
 
   ただし、若い人たちが注意すべきなのは、こういうテーマは、ある種心理学でね、常に社会の表面現象に妥当するわけではない、ということ。
   社会科学のような、それ以前の問題が多すぎる科学の中では、例外的、局限的な問題ではあります。それ以前の問題とは、社会科学では、「自分の将来の生活に関係が」ある場合がほとんど全部だ、ということで。
   明日のメシに困ってりゃ、正義もへったくれもない、ということですね。
   
     でも、そろそろ、そんなことも、わざわざ中高年が若い衆にいわなくても分かりだす(不幸な?)時代になってまいりました。
   
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