リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

怒っていいなんて

2008-01-17 22:30:17 | その他
「人生はたいがい微糖だ」(たいていかな?覚え損ないなのか、今、気になってしょうがない)
ここのところ総武線にあるコーヒーのCM。

人生なんか、微糖だよね。「人生は甘くない」んじゃなくてね。苦いはずなのにも関わらず、甘い。十分甘い。こういう解釈をする人間は、可哀想かな、、、でもほんとは幸せでしょ。

今日の問題は、微糖は甘いか?
甘い。
なぜ?
人は一瞬に死ぬから。
そして、その一瞬の死で類を永らえてきたから。
生物が死ぬのには理由が要ります。一瞬の死には一瞬の激情が必要なのです。
人は、5秒間、微かに口を満たす甘い香りに生の全てを捧げられる。
横たわった中でも老衰ならぬ死を容認するには激情が必要です。
なぜわざわざ死ぬかは別として、一瞬に死ぬ人間は死ぬ理由を持つ。
微糖?
甘い。甘すぎる。戦いのような人生の中では、人は砂糖の白さだけで甘美を感ずる。
その夢に近い甘美の中で、人は死ぬことができます。
この一瞬を人類である個別者は看過することができません。
理由を問わず、この一瞬を生きていくことが生物学的な人類の定めになってしまうわけです。
この一瞬の怒り、これを大事にしなくてもいいけど、ただそれは老衰による棺桶への一歩。
もちろん別に老衰で死んでもよろしいんだけれども、働けるときには働くのと一緒に、生きられるのならそれなりに生きるのがみんなのためです。

てゆうかあ、
そんなことよりも、このように人間は昨日を引きずっていつまでも引きずり続けていなければ一生を意味があるようにはできない、っていうことで。

まだ、ずるずると引きずりそう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怒り

2008-01-14 20:17:16 | その他
 (前の記事と同日。同日に2つだとどういう表示になるのかな。 とにかく前の続き)

 さっきまで「職人オリンピック金メダル16人」という番組を見てまして、20歳前後のお兄さんが世界一の技能を披露してくれる、たとえば「0.001ミリの金属を削る」みたいな。
 それでさ、問題です。
 この世界一、16人の稀有の才能と努力の人たちは、東京学芸大学教授山田某氏の給料の1/2でも、給料を勝ち取れるでしょうか?
 とれっこないぜ。
 相手はたかだかいくらでもお代わりのきく東京学芸大学教授さまですが、あなたがたの「生産性」は、教授さまの1/2以下ですぜ。
 、、、ざけんなよ。なんの理論だ。 ばかやろう!
 以上、「怒り」でした。

 怒るとみんな逃げてくんだよね。寒いからね。でもいいよ。怒りを口にするほうが ぼくには、そして世界にも、大切だからね。

  (ps.じゃあ高い給料を取れりゃいいのかって、それはそれで別の問題ですけどね。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正義とは

2008-01-14 16:10:38 | 上部構造論
 昨日は、休みが続くので難しそうな本でも読めそうだと図書館の社会学コーナーへ。(いつもは気晴らしの本しか探さないのですが)
 ふとみると「希望格差社会」なんて本がある。「希望」という言葉に反応してぺラッと見てつまんなそうだったけど、隣の同じ著者の本へ。こちらにも中に「希望」という文字があり、さらに、「以前は機能していた学校制度のパイプラインから漏れが生じたのがフリーターだ」なんて趣旨が書いてある。
 『そんなことがあるもんか、そんなものを「漏れ」と呼ぶなら昔から漏れっぱなしさ。なんだね、昔は単純労働者はいなかったのかね、小零細企業は終身雇用だったのかね。この人はいったいどんな学校制度が好きだというんだい、帝大と高等小学校の2通りかね』 と思いながら週刊誌を借りる感じで借りてきました。

 彼によると、努力が報われる想定がつくということが希望があることなのだそうで。その反対語は努力が報われない、ということになります。端的に言えば、一生懸命働けば、高収入が得られるというのが希望のある形態なのだと。
 そうじゃないでしょ。
 そんなもん、一般論にするなよ。
 (だいたい、このおじさんによればある人の給料が高いのは「生産性が高い」仕事だからなんですって。東京学芸大学教授の仕事は、東京学芸大学非常勤講師より生産性が高いのですぞ。なんだね、センセは何を生産してるつもりなのだ。米1石でも作ったのかい? 社会学史でよりよく教えられるから、週にかけもち10コマ教えている非常勤講師の4倍も給料をもらえるのかな?
 要するに、「生産性が高い」というのは「そいつにカネを出すやつがいる」の翻訳語なんですけどね。似てるからっていうだけでくっつけちゃ、「理論」の名が泣くわね。)
 まずは、一般論でいうと、報われるのは努力じゃなくていい、人は行為の将来が手に入れば報われる。「行為も努力でしょ」と呼ぶならそれでもいいが、そこで言ってる努力は、何ヶ月も何年もかけてする行為じゃないからね。一般論では、「恥ずかしいのを我慢してデートを申し込んでオッケーが取れれば」報われるのですよ。明日のデートを申し込めば、相手は受けて「くれるかもしれない」、それが希望でしょ。
 なに、努力が報われるって。なに、一生懸命働けば「高収入」が得られるって。
 俺らそんな風に生きていない。
 給料を高くする努力と、希望とどういう関係があるんだ。給料が安いのは、飯以外に食えないし、携帯以外に遊べないから絶望なだけでしょ。なに、給料を高くする努力って。努力は毎日してるじゃないか。毎日の仕事そのものが努力なんだぞ。違うか。それ以上何をしろというんだ。今と同じに毎日一生懸命働くから普通に食わせろっていってるだけでしょ。 
 いったい「高収入があたしの希望」なんてやつは、勝手にしろというもんだ。普通の収入をくれ。それに「希望」だなんて尾ひれをつけんじゃないよ。希望は希望さ。いつか人並みに暮らしたい。家族なんてあるのもいいじゃん。ゴルフって面白いのかな。それと「一生懸命努力すれば、高収入が得られる」と結びつけんな。

 でですね。不愉快なのが、この努力の経済語換算テーゼ。苅谷剛彦については前に著書でいいました。なんでいちいち人間の行為をカネに換算するわけ? そんなんだから希望がなくなるっていうのがわかんないのかな。
 生産性がどうのって、いってることは「単純労働者にはカネを払わないよ」っていうことだけなの。
 なら、そのとき、ある人間、ある若年労働者は「単純労働に仕方がなくついている人間」ってだけじゃん。
 なのにこの先生に言わせると、彼は「生産性が低い人間」なのだ。
 あんだよ、それって人格の否定じゃん。わけわかんないよね。あなた、弱いもんの味方のつもりでしょ。
 「労働者の生産性が低い」んじゃない。「単純労働で代替の簡単な職種についている」だけなのだ。それは社会の問題なのだ。代替を困難にするのが国家権力の役目なのだが、誰もそれを指摘しないばかりか、「派遣業法」だ。
 お前も私も同じことを言っている? じゃあ、同じように言い換えればいい。でも言い換えやしない。そこが評論家というものです。
 
 というわけで、評論事業とは何か。
 端的に言うと、世の中の正義にのっとって、自分の言いたい言説を広めることです。
 「正義」というのは、発言者の中で「この内容は、権力に保障されているぞ」という確信のことです。
 国家の法であれ、神であれ、社会が承認しているはずの道徳であれ、この内容が権力に承認されていなければならない。発言者としては、その権力や強制力の存在を認知しているということです。
 まあ、人間の場合、こういうのは「認知」というより「感知」に近そうですね。
 言説は何でもよいのです。しかし、それを乗せるワクというものがある。ま、土俵ですね。同じ土俵であれば考慮してやるよ、というワクのうち、権力から提供されたものが「正義」です。

 権力の源泉は、自分たちの制約主体ということですね。これにはいくつかあります。
 
 まず国家的中央武力権力。「的」というのは国家とつるんでる経済権力も含む、ということで。
(隈の体系では、いわゆる国家権力が武力を条件としていることを際立たせるために「武力権力」と呼ぶことが多いです)
 これは政府権力を引き回す代議士やその取り巻き、あるいは経済組織高官や評論家、さらに経済権力を引き回す経済組織の配下たちとさらにその取り巻きの大企業予備軍、みたいなところですね。

 ついで、共同体内的権力。
 発達した資本主義では地縁的な共同体はありませんが、社会組織の内部にはたくさんの共同性がある。食品製造会社で、「これ店頭に並ぶ頃には消費期限切れ、、、あ、ラベル変えちゃうんですか、だめですよ」なんていえない。原子力研究所で、「この新発電所の建築設計図のいいかげんさはなんですか。これじゃいつかパイプ崩れちゃいますよ」とはいえない。それは昔、厚生省で、「3年で電算化なんて無理ですよ、どんだけデータがあると思ってんですか。閣議決定だ、って、、、そんな無茶な。大体でよけりゃやれますが」といったのと同じです。別に社会保険庁の肩を持つ気はありませんけどね。まあ日頃の行いが悪いと誰も助けてくれませんな。
 
 次に、昔でいう宗教組織というのがありますね。
 これは2つにわかれて、第1に、権力上の知の操作。
 つまり、権力の維持には知識を操作しなければならず、この操作人が少なければ少ないほど、この権力は強くなるわけで。
 たとえば帝国大学が日本で1つの時は、卒業生は「末は博士か大臣か」でした。まあ、そうなると帝国大学以外にも知識の源泉は必要で、知的操作に関わる人間、その他の学士や学生崩れや文筆業は、権力者モドキと認定されます。
 第2に、これら3つの権力の伝達。
 知は、権力の伝達に伴う賞賛≒「教養」として、大衆がこれを知り活用することに、賞賛を内在させます。
 
 最後に、宗教的認知そのもの。
 まあ、信仰というか倫理的確信というか。私のような裸一貫ではこれ以外にありませんな。私の観念が正義であることには何の根拠もない。どんな権力者もお前が正しいとはいわないし、ウチの社長もいうわけがない。根拠ゼロ。でも「これが正義だ、正義は勝つ」といえるのは、理論上、神がいるんだ、ってことになります。だからって、別に信仰であることに何の後ろめたさはありませんね。ひがみぐらいはあるかな。
 
 ともかくも、評論家というのは、これらのどれかに乗る必要がある。そうでなければ、論は売れない。売れない論を説くのは評論家ではない。格差の是正を主張するときに、二昔前までの評論家は必ず「労働組合の組織化」も挙げたものです。「単純労働でも労働者の代替が容易でなければ労働条件は低くしにくい」ことは教授ともなればだれでも知っている。ちょっとぐらい言ったら? 今日の現実には空語に近くても、やってる人は力づくんですよね。
 でも無理でしょうね。それは 『同じ生産性なのに、あら不思議、給料が上がる』 ってことだから。センセの論理が成り立たない。
 って、あーあ、私の正義は勝つかなあ、、、
 

(注)山田昌弘「新平等社会」文芸春秋、2006.
 それにしても山田の背景議論はひどい。「では、なぜ生活水準の格差が生じるか。ここでは、家族や国家、そして、資本所有などの影響を除いて、純粋に自由な経済活動の格差によって、生活水準の格差が生まれるメカニズムを示そう」(→イチローの所得が高いのは、イチローが多くの人を喜ばせるからだ)
 って、資本所有の影響を除いて何がいえるんだね? イチローの所得が高いのを明らかにしてどうするんだね?
 まあ、社会学者だから正直にちゃんと前提を書いているところが良いけれど。社会学者の8割は人がいい。それはいいが、読んだ若い人たちは、そんな前提など目に入らない。「ああ、大銀行のサラリーマンの給料がいいのは生産性が高いからなのね。あたしは信用組合の派遣社員だから生産性が低いのよね。しょうがないわ。」
 そうなんですか? 山田先生?
 まったく。マルクス系経済学者は、ジニ係数などを使う現代社会に少しでも知見がある人なら一目でバグが割れてしまう危うい議論(橘木(マル経ではないね)))などしていないで、基本的なところで議論の最低限を作って欲しいものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーヒーブレイク・その3

2008-01-09 22:46:17 | コーヒーブレイク
マイ・フェイボリット・シングその3


ぼくの中に
ぼくの中にどこまでも突き出た堤防
朝焼けの大淀川
…………(中略)

そのすべてを 今静かに消そう
…………(後略)

        嵯峨信之

詩どす。
全部載せられたらいいんですけどねえ、、、
覚えとらんとですよ。覚えてないけどその文言が持つイメージだけが残っている。

そんなフェイボリットシング。

近しすぎる知人は、なんだ、おまえが詩といえば中原中也だろう、って。
はあ、そおなんですけどお。
中原中也は"趣味"じゃないす。私の1/3。今私がこうしているのは彼のせい。
私が愛唱した昔って、評論家が「なかはらなかや」って読んだ時代どすえい。
今じゃ大書店の詩コーナーの平積みの1/4は、なかはらちゅうや。今日見てきたからね。
  自由が蔓延してきたんだねえ、リベルテールの中也、、、おっと、ほんとに自由が蔓延してたら憧れもなく売れないか。

ま、今日の主題はそうじゃなくて、
詩でこのコーナーを埋めようかな、と思ったときに浮かんだのは、「汚れちまった悲しみに」じゃなくて「大淀川」でした。
その間には詩人なんていくらでもあるはずなんですけどねえ。
歌うたいでは田村隆一。個人的な趣味の小野十三郎。私の愛唱歌の吉本隆明。
でも、そんな人たちは思い返して出た名前。
私の中で瞬間に出るべき詩は、中也でなければ「大淀川」
というわけでフェイボリットソング。
嵯峨という詩人は、私のように自信満々で、なんもかわいげのない詩しか作らんので、詩集は買ってないのです。そんな詩は、私の、必ずしも運命が微笑んでいない青春の慰めになりませんで。だいたい、昔見たときは、この詩は彼の詩集に載っとらんかったとです。
他に好きな彼の詩はない。
とにかくそういうわけで、今、ここに転記しようとしたらぜんぜん入手できない。
ので、覚えているところだけをアップしたという次第。
覚えてないのに第1推薦というのも不思議なものですね。
どなたさまか、知ってる人は空欄を教えてくださいませ。

 ********************
  ここのトラックバックは本物です。
  へえ、トラックバックとはこういうものか、という感じで。
    なにしろ初心者でして。あと2,3個いただけたらイメージがつかめそうな、、、

その2:と、書きまして、その後、次のトラックバックも本物です。
    いいなあ、詩関係者は。

    おかげさまで、なんとなくトラックバックというものが分かってきました。
    おかげさまついでに、2個、飼っていた商業コメントを消します。
      だけど、なんで『虚偽意識』にばっかりエロコメントがつくんだろうなあ。
      すげえつまんない評論なのに。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダイヤモンドの価値はそれに投下した労働力か

2008-01-03 21:54:48 | 賃金・価値・権力
 明けましておめでとうございます。

   シンプルですがなかなかよい挨拶言葉ですね。
 
 今年はお正月出勤あるかと思いましたら、なんなくなく、家族が忙しいので今日もネットサーフィン。どうもふやけてしまいます。
 で、これは、ほんとは、おとそブレイク。
 ブレイクにくだんないことやんなよ、と? ま、おっしゃる通り。
 でもなんか景気づけにネットを巡ってくと、どうもこの問いに対応できる人間も少なくなってきたようで。
 
 ダイヤモンドの価値はそれに投下した労働力か?
 ちゃいまっせ。そんなもの偶然大きいだけで1ケで何億もしますがね。ダイヤモンド掘りに失敗する人間の労働力分合わせてももうちょこっと高いでんがな。
 ま、そこまではいいですね。でも、にもかかわらず、資本主義社会の商品の価値、つまり価格の基準は、商品を作った人の労働に見合うのです。
 ということなんですが、ねえ。分かってない。
 近代経済学の人が分からないのはいいんだけど、「マルクス? 知ってますよ。だって私マルクス経済学者」みたいなのが分かっていない。
 観客の一般の方々はさておき、くちばしの青いお子さん方や宇野弘蔵の孫弟子の人たちに教えてあげますが、(その他の左翼の方々には言っても馬の耳なのでいいませんが)商品の価値は、それを作った者が買い取らざるをえないから量れるのですぞ。これを宇野の労働価値説というのです。
 宇野の不肖の子孫の方々さん。それ以外は、たとえば子供の論議の「じゅようときょうきゅう」の価格理論など、現実社会では存在しないし、その他の価格理論の派生形態も、商品の価値を量ることなどできないのです。そう先生がおっしゃったでしょ。お弟子のお孫さんたちは宇野を離れて他に何を知りたいのかね。資本家の真似をして、余り金のお手玉(金融理論)に参加したいのかね。
 ダイヤモンドが投下した労働時間に見合わない分だけ高いのは、これを買う人間が労働者ではないこと、あまつさえ資本主義国家人にも限らないことによるだけです。
 生活必需品は、これを労働者は買い取らないと死んでしまう。従って、それがいくらという単位だろうが(パン1枚10円だろうが100万円だろうが)、同じ単位の値段の賃金を得ざるをえない。資本家も払わざるを得ない、というか商品の値段をそれに合わせざるを得ない。しかし、労働者は、それ以外に資本家の取り分と生産機械の取り分を作り出している。これは労働者には返って来ない。よかろうが悪かろうが、資本主義社会はそうやって動いていく。かくして労働賃金は彼らの生活必需品分と等価となり、商品総価値は資本家分を含めた生活必需品額と生産機械額と等価となる。これが資本主義経済学における価値の基礎だ。資本主義経済ではそのように「価値」が特殊に規定されているからこそ、資本主義の法則性が生ずるのだ。(詳しくは隈の本へ。「自由と靴」なんかがいいかな)
 従って絵画には価値なんかない。あるいは幽霊のような価値がある。
 従って家庭労働に価値などない。あるいは、カネなどとは交換できないかけがえのない「人間にとっての価値」がある。ああ、、、もう基本。
 それよか、宇野の孫弟子さん。たとえばマレーシアと日本の価値の差の量り方を教えてくれよ。現状分析がしごとなんでしょ。マレーシア労働者が入手さるべきロックミシンが日本に輸出された場合、それによりマレーシア人が入手した日本円は、理論上、マレーシアでの必需品の生産労働時間と日本での必需品の生産労働時間を反映すべきだが、この間の夾雑物は何か。
 結局、世界経済はどこかへ収斂し商品の価値も世界的に外見的にも収斂していく。(賃金で入手した決まったカネで買える物が世界的に同じになっていくってことです)、その地点の探り方、っていうかね。何が問題かっていうと、同じになっていくはずなのに同じにならない要因度が知りたい、っていうか。資本主義が包摂していない、遊牧民の入手金で買えるものは工場労働者の賃金よりはるかに少ない。それを均一に近づけるものはどういう権力構成か、っていうことなのだけれど。こりゃずぶずぶと話が難しくなっていく。この辺でやめておきましょう。
 
 お正月からこんなこと書いてるのも因果だねえ。
 まあ、アルミサッシとあったかい日差し、身近な人たちが比較的健康である限り、幸せですよね。
 皆様、本年もお体を大切に。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする