リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

原理からの説明と、現象からの原理と

2024-08-31 15:54:34 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。こちら東京地方というより神奈川県、大雨ひどいひどい。台風通り道の方々の気持ちの一片がうかがえます。山の上なので洪水はいいのですが、通り道の擁壁沿いの家々が心配されます。今日はよさそうですが。みんな地主と不動産屋のせい。詐欺か未必の故意。
 電車・飛行機が動かないのも困りもの、なんでしょう、知らないですが。今日から土日で一般論ではよさそうですが、台風直下のお勤めの方々はお疲れさま。
 
 とはいえ雨さえ降らなければ猛暑も終わり、シオカラトンボなんかが8月らしく飛んでいました、ってもう8月も終わりか。
 トンボはわかりやすくていいです。関東地方じゃ、灰色のをシオカラ、赤いのをアカトンボ、でかいのをオニヤンマ、細いのをイトトンボと呼べば当たらずといえども遠からず。みんなそれぞれ「方言」で終わり。
 
 ところで、みなさまお米はあります? これもひどいねえ、うちの近くの2軒のスーパーは1軒はゼロ、パックご飯のみ。もう一軒で茨城の新米が出てました、5k3800円。わたしゃ午前中にいくから買えるのです。といってもコロナ以降、常に1袋予備があるので買いませんが(それも2人で1食、半合しか食べない)。
 というわけで代用品ソーメン、gooで好きな薬味ランキングが出てました。
 【5位:ごま】【4位:大葉】【3位:みょうが】【2位:しょうが】【1位:ネギ】
 だって。
 わたしゃソーメンに限っては
 【5位:ごま】【4位:ねぎ】【3位:紫蘇】【2位:みょうが】【1位:しょうが】
 だね。
 ソーメン以外はネギ一択だけど、ソーメンは味がないから。
 しかし本来庭に生えててタダのはずの紫蘇もミョウガも大枚払わないと買えない。ショウガは擂る(する)のがめんどいし(チューブのは薬臭いし)。一戸建てはいいなあ、、けど、都会郊外の一戸建てには庭なんかないけどねえ。

 さて、今日も特段、茶々を入れるニュースはありません。
 「大谷翔平、MLB史上初「43本塁打-43盗塁」の快挙!」(TBS NEWS DIG Powered by JNN)とのこと。それで満足。
 ひいきは勝ってなんぼ、自分のことと思うのがひいきだかんね。勝てばOK、負けりゃみたくもない。
 
 とはいえ、一つくらい社会的に。
「「新条件受け入れられない」 ガザ停戦交渉巡りハマスが声明 早期の合意は見通せず」(テレビ朝日系(ANN))(いまは小児マヒ接種休戦、ってうわべ)
 好戦ハマス。やつらがしゃべるたびに思う。
 10年後、たった一人のスパイのために1国が消滅したことが知れたとしたら、歴史屋は湧くだろうねえ、、穏健派最高幹部が消されたのだって、だれのせいだか分かるものか。
 まあ、世間の風潮に沿って、個人の妄想です、といっておこう。


 というわけで、今日の本題。いかにもオタクの極致。ふつうの方には関係ありません。
 いま言及するのはこれまでの隈のシステム対象的な提出作品と、今回の、「大衆視点の」作品との性格の違いです。

 行為理論の原理・原則を用いた立言には、登場人物の代表が、すべての規定性を負って動いてもらうこととなります。それはその社会事象に関しては第三者読者の行為に適用されるべき「真理」ないし「事実」ですが、その叙述自体は「ただの説明」です。国家支配者が焦点のシステム的な理論書のことです。
 
 他方、行為理論上の現象からの叙述は、その社会事象に登場する人物の種々の環境から、「その人間が使うはずの行為の原理と原則」を抽出して説明に供することになります。これは「立言の提出」です。一人一人の労働者の事実認知から書いていこうという次回作品のことです。

 両者とも文章中に現れるのは説明ですが、この焦点が、前者では「行為の原理と原則」の立言そのものである一方、後者では生きているはずの「人間」の行動からの新規の立言の抽出となります。 
  
 さて、これだけであれば1理論の形成過程の住み分けのようですが、実はこれが「1」理論にはなりえない。それぞれの焦点者は、その時焦点が当たっていないアクターを連れているからです。 
 何を言ったかというと、前者で焦点が当たっている支配者の行為は、被支配者の対抗のないまま説明されざるを得ない。
 被支配者の対抗は、別途、支配者の行為が確定された後で、第2の理論として別次元で活躍するアクターとして叙述されるのです、たとえば「社会運動」として。支配者はこの社会運動に対応する脇役アクターとして再登場します。
 
 これに対して後者は、被支配者の行動は説明されるが、大社会のシステム変更(つまり新聞・メディアに載るような社会の直接的な動き)を説明する次元では使われないのです。
 大社会の動きは、別途、被支配者の規定性が立言された後で、被支配者の規定性の異動として扱われる。

 上記の問題は、これまでの隈の叙述に沿っていえば、社会学で決して1つにはならない「個人と社会」の記述矛盾の反映です。
 
 なにを今さらわざわざ、と言うと、これがサルトルの『弁証法的理性批判』の挫折の根源だな、と思って。
 そもそも神の視点で社会など分析できやしないのに、分析できると思い込んだ哲学者が悪い。要するに、哲学者には社会に「解明課題」がないからね。論理のつじつまさえあえばいい。
 いや、せっかく人間の行為を自由への「投企」とまで言ったのに、つぶれちまったのはなぜだろう、と思ったわけです。それでもサルトルは、50年前のよすがとして、参考文献にいれるものかしら。


(ひとりごと。こんな風に、若い時の「よすがとして」で本の末尾を終えた随筆(か、「あとがき」)ってなんだったっけ? 北杜夫? なつかしいなあ、そんな感傷家の本を読んだことがあるってことが、、)

 そういえば定額減税で、去年の住民税わずかだから、一人4万円きたよ。そりゃ「いいこと」だけどなんか変なんだがなあ、、ごまかされてるような、、

 p.s. 全部追伸みたいな内容ですが、まあまあ。
 酒を飲みながら「博士ちゃん 夏の祭典」なるテレビ番組を見てましたら、子供が選ぶ昭和の歌のランキングをつけるという趣旨のようで。
 そんな趣旨はどうでもいい。そこに尾崎豊が出てて、芦田愛菜という25歳前の若人が、自分の生涯を懸けて尾崎豊の評をしていたのに感心。ああ、高校倫理教師になってたら、ずいぶん感動的な人生を過ごせたと思うなあ、、と。25歳過ぎたら、人間は別の人格だからね。
 ところでそしたら中尾明慶という人が、そこは尾崎が自分の弱さを何とか克服しようとして歌ってたと思う(趣旨)と述べて、ああ、そりゃあそうだが、とこれも感心。
 といって感心して終わらないところが、隈。
 しかしね、尾崎は強いんだよ。この中尾という人には弱い人のことがわからない。評価になれてないから世間の「文言」にもたれかかってしまう。
 弱いというのは私のことだよ。しかしね、弱い人と強い人とは圧倒的な世間に対峙したときに対応の仕方が違う。たったそれだけのこと。
 そんなことをいっても役に立たないけどね。ただ、ある人間の気持ちは同じ他人にはわかっても、その表現された言葉の内容が正しいわけじゃない。


 
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個人倫理学

2024-08-24 21:00:12 | 賃金・価値・権力
 こんばんは、またお会いしました。
 今日の先のアップロードが内容薄いせいというわけでもなくて、まあ本論は下記。
 こりゃ視点が違うから分かりにくい、今日はやめて、まずは端っこをメモしたから、これをふくらましてどお~んと出せばちょっとユニークだぞ、と思ってましたところ、今日ミュージックフェアのアルフィーをみて、なんだ、われわれに共通のテーマだったか(もったいぶることもない)、ということが思い浮かんで。まあ同じ世代で。
 結局大したことじゃないんだけど、しかし、誰も口にできない、その「哲学的」根拠を与えればいいし、与えなければならない、というわけで。

 元はといえば、稲葉振一郎「社会倫理学講義」。
 稲葉という人は発想が一緒なので稲葉三千男(という社会評論学者)の子供かと思って昔一旦注目したので知ってましたが、まあ、そんなもん(以下)。ただの道徳論じゃん。そこまでひどいとは想定外。
 
 彼氏曰く”「社会倫理学」の「社会」なんてとっちゃっていい”。
 馬鹿あいっちゃあいけないよ。てめえの都合で言葉を変えるな。
 彼の発言はすべての倫理学の伝統を引いて、体制内道徳学です、教授だから生きていかなければいけない。社会体制内の、そこで自分だけが何とかイニシャ(イニシャティブ)を取ろうという、体制内闘争。闘争といえば聞こえがいいな、評論。
 ここでさ、いままでの当ブログの相手は死んだ人(の弟子)とか痴呆症の人(の弟子)とかで、書くほうも躊躇するものですが彼氏はだいじょぶ、元気。
 
 さて、社会道徳などどう引っくり返したって「真理性」根拠などありえない。あるのは「正当性」の根拠だけです。この根拠は簡単。今の世のなかではこれが大事といえばよい。しかし残念ながらそこに優劣はつかない。「政治学的」評論闘争が生ずるだけです。そんなもん、2分考えるまでもない。
 
 しかし、モラルには、道徳には、倫理には、それ自体で正当性の根拠が生ずる。「私」です。「行為主体」です。「行為主体の行為」です。
 何でそこそこいい年の人間がそこまで思いつかないかなあ、、、
 でもわかってます。70年闘争で箸にも棒にもかからなかった10歳下。何十年経ってもしょうがない。もうろくしてもアルフィーのほうがまし。アルフィーには自分のモラルがある。いや、われわれの世代には自分各々のモラルがある。何が社会倫理学か。

 モラル、道徳、倫理。
 それは、人間の自己の形成結果です。それゆえにこそそれは諸個人内に普遍的に存在しうるのです。といってもその内容が普遍的なわけではありません。それは行為主体それぞれに属する事項です。ただ単に、それが行為主体に普遍的に属し、自己の行為において守らなければならない、という点で、存在として普遍的なのです。 
 自己の形成とは行為主体の自由の形成であり、自己権力の源泉です。だから、人間Aの自己の生存のために、モラルが必要なのです。道徳でなくて悪かったね。しかしそれは道徳なんぞを越えて、人間の次の一歩を規定するのです。
 じゃ、道徳とほとんど変わらなく響く?
 ちがいます。それは人間の次の一歩、すなわち一歩の連続である行為主体の死ぬまでの人生を、形作るしかないものなのです。それが人間Aの人生なのです。

 で、これは行為全てに当てはまるものなので、ここでついでにいいましょう。
 疎外。
 それは、自己の形成への阻害です。この視点からいって、疎外とは自己の自由の欠落なのです。それは行為主体にとっては「反モラル」です。「だから」その状況は排さなければならないのです。「ならない」といってもそれは自己に対する「当為」ではない。社会に要求する「社会がなすべき当為」なのです。
 
 以下、すべて。
 次回作すべてについて描けば、さすがにどんな人間だって分かると思って。
 何が分かるって?
 ウクライナの、ロシアの、ハマスの、イスラエルの、人民の悲劇です。
    上記、順番にご注意。
 
 わたしはアナーキストですから、最良のマルキストの友だちです。
    、、、最良? ふん、そんなやつら、どこにいるんだ。
 
 
 
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もう次は白露なのに

2024-08-24 10:52:16 | 断片
 こんにちは。処暑も過ぎましたけど、暑いね。お勤めご苦労様です。東京地方、天気予報は”明日は涼しくなる”というけれど、いつもうそ。これが不思議に冬はいつも”明日は暖かくなる”というんだよね。どういうつもりか。ここんとこ収まってた直射日光による気持ちの悪さがまた復活しました。
 
 4日前から夜になるとマンションの外廊下でけたたましい虫の声が。階上の排水竪管みたい。なんじゃい、と思って調べると、アオマツムシ。
「明治の頃に中国からやってきた外来種でしたが、今では日本の鳴く虫として定着しています。樹上性で、木の上の方から「リーリー」と鳴いているのを聴かせてくれる昆虫です。」
https://insect.design/battamoku/matsumushika/aomatsumushi だと。
 いや、旺文社の小学習図鑑にもそう書いてある。 
 ほんと、知らなきゃ「リーリー」と鳴くと思うわね。
 違うさ。「フィリリリリリリ、、、、」と喚きたてるのさ。「リーリー」というのは、まあふつうツヅレサセコオロギでしょう。
 これが息もつかずに何時間も鳴いて(身体で鳴くからできるんだね)、止んだ後夜明けにこんどは疲れた風に休み休み鳴く。すごいもんです。なのに昨夜は消えてしまった、死んじゃったとしたら文字通り壮絶。中国産はほんとエネルギッシュだねえ。よく早朝からガビチョウ(という中国鳥)が来るのだけれど、うるさくって寝てられない。
 ただマンションのそっちがわにはメスはいないと思うのだけど。
 世間では1匹1000円で売ってるようですが、みなさまにおかれましては決して買わないように。夜うるさくて到底眠れません。
 
 さて不思議なことに、私儀、べらべらしゃべりたい(けどくだらないんで相当捨てる)時と、何を聞いても何も思い浮かばない時がありまして、今週は後者。

 高石友也が死去とのこと。昔の歌手ね。
 何を歌った、って、ほとんど他人の曲。それがほんとの歌手ってもんかもね。
 いずれにせよ68,9年を生きた偉大な歌手でした。彼がさ、日本国中に、既成文化エリートの貶めを広めたんだよ、って私の日本語下手だけどね。
 高級学歴? 丘の上にちっぽけの同じ色の家を同じように建てることさ。高層建築? あれは基礎穴を作った俺が建てたんだよ、他の誰でもない。
 そりゃほとんど他人の(ほとんど自由アメリカ)の曲だけどさ、それを(日本語にして)ひっさげて叩きつけたのは高石。
 褒めてる? いや違う。そんな時代の流れのこと。
 でも思うに、歌手って一時偉大であればそれで役目を果たしたとおもうんだよね、それ以降どうなったところで、偉大は偉大。
 ま、決して褒めてないけどね。
 
 ところで自由アメリカ、偉かったね。その時の白人の理想主義を今のアメリカの類推でしか見れない奴らが評価するのは全然間違い。偉かったんだよ。なぜって、その頃黒人はアメリカ国民じゃなかったからね。知らない間は罪ではない。
 
 という上記の2行を理解できない人間が社会科学を云々するのはちゃんちゃらおかしいさ。
 
 軽く、
「兵庫知事「残念な思い」 県職員4割がパワハラ「見聞き」のアンケに」(毎日新聞)
ざまあみろ。それにしても異常なほど厚顔なのだが、だいじょぶな人間か?

 軽く、
「立憲代表選、野田元首相が出馬に向け調整 枝野前代表に続き」(毎日新聞)
「野田氏は19日に党の若手・中堅グループや所属する千葉県連の有志から、代表選出馬を要請され」だと。
 情けねえ、立憲。
 自民党なんか「俺が俺が」と全員が息巻いてるのに、どうぞおさきに、か。
 まあ若人には権力志向がないだけましとも「みえる」だろうけどね。世の中そういうもんじゃおまへん。
 
「チャイルドシート着用、身長150センチ未満に 来月中旬に基準見直し 死傷事故増加受け」(産経新聞)
   (8月18日、チャイルドシートではないシートベルトで7歳と5歳の姉妹が交通事故死)
 対応が迅速だから誉めてやろうと思ったら、「当初は来年から実施する予定だったが、前倒しした。」とある。
 その1 誰か死ななきゃ動けねえのか。ばかやろう。これ下っ端のせいではない。幹部のせいだ。
 その2 にしても、諫言するまともな若年キャリアはいたのだ、そのキャリアの歴史について、「そいつのこの年齢」にかぎるけどね。そいつが参事官になった頃には腐りきってた、ってぜんぜんいつものこと。
 え? 中堅幹部が世間の評論を気にして注意しただけ? あなた、あなたは人が悪すぎる。世間知らずのぼんぼんは、子供のうちはいいひとなのだよ。いくら自民党が非難されようと、上級公務員のせいにはならないからね。もちろん、それでいいのです。

 などなど。でも感想のない時は新しいこと考えてるときだから、嫌いではありません。


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「偶然性」は社会科学上存在しうるか

2024-08-17 16:15:03 | 賃金・価値・権力
 標題は、ほんとは、「心の中で副題変更」。

 こんにちは。東京地方、昨日は大雨、だけど30度未満。わたしは晴れ男なので大雨とは関係ありませんが、湿度100%でも30度以下なら許す、と思いました。家人は土砂降りの中を歩いたようですが、それでも暑いよりましと言っていました。すばらしい30度未満。
 今朝ベランダに出ると昔の夏休みの匂いが。気温を調べると朝なので30度。真実の夏は30度以下と知りました。
 ま、いいや。
 もう8月も半分過ぎ。季節モノ食べた? 今年はスイカを2回。初め、流行りの容器入り切り身でいまいち満足せず、次に8分の1切り身。やっぱ皮付きはいい。おすすめ。
 でもスイカって嫌いな人いるんだよね、うちの子とか。そういう人はメロンも嫌い。まあ安上がりでよい。もう新潟産も終わりの時期なので、好きな方は今のうちにどうぞ。
 
 今朝のニュースで若人はスマホのSNS情報で、世間の情報を入手するそうな。私のようなパソコン派だとわからないけど、考えてみればそうかも。新聞なんてないだろうし。
 
 というわけで、今日はニュースのお知らせ。
 「蛍光灯の生産を2027年末までに終了へ LED照明の普及がさらに加速へ パナソニック」(FNNプライムオンライン)
 水銀規制のため(という名目)、2027末で、製造も輸出入も禁止だとか書いてある。
 アパートなんかどうすんだろうねえ、、器具タダで替えてくれんのかしら。
 うちの和室の丸形蛍光灯も本体スイッチが壊れてるんで取り替えたいんだけど、もう今はLED電球が切れたらその都度本体も取り替えるんだとさ。なにそれ。どうせ捨てるんじゃ選ぶ気にもならない。まあ、うちの場合はLEDより住人のほうが先に死ぬかもしれないけど。

 今年はサンマ安いって。
 「値段200分の1に! 店では1匹80円「大漁で大きい。オススメは刺身」北海道で“サンマ初水揚げ” 競りで1キロ626円! 2023年14万400円を大きく下回る」(北海道ニュースUHB)
 そりゃうれしい、イワシ並みじゃん。150円でも買ってあげよう。
 刺身がお薦めだってさ。しかし、脂っこくって1匹はむりだな。寿司飯で2ケなら美味しい。
  (後日P.S. 3日経ってスーパーに来たよ。1匹400円、スマートなやつ。ばかいっちゃいけないよ。
   もちろん生産者も小売業も、そんなもんだけどね。)

 最後はうさばらし。
 岸田が総裁選出ないって。ニュース見てたらひとりでしゃべってた。
 それはいいけど、しばらく聞いてたら自画自賛が噴出。まるで売れない市井の社会学研究者のようじゃないかい? 売れない研究者は自分で褒めるしかないが、岸田なんぞおべんちゃらに囲まれてたくせにまだ足りずに自分におべんちゃらをいうのか。


 というわけで本日の題は、次回作の副題変更。
 といってもなんども変更するとみっともないから、こそっと。
 
 前がね、「― 体制内視点の経済学論理を突破するために」
 ちゅうんだけど、腰が引けてるね。ここは積極的にいかないと中身がわからないところ、
 しかして
     「― 個人内視点の学的体系のために」
 にしようかと。こそっとというのは、ほんとは「自己内視点」なんだけど、それだと遵法的な今の若人には「ただのわがままか」と思われそうなので、薄めといてどうか、という迷い。
 
 なんだ、「個人内視点」て、って「反体制内視点」のことで、なにも変わってはないんだけど、もう構成上ど~~んと打ち出そうかな、と思って。もう何回か書いてるけど、序論展開的には唯物史観変更からいっちゃおうか、と。
 で、この標題はなんだ? と。
 「客観的な歴史の必然法則」の必然というのは個人問題、と昔ここで言ったところ、そういえば偶然という奴はしらないな、と九鬼周造「偶然性の問題」を初めて読んだら、あ、関係ねえや、とわかったのでちょっと書いておこうと。
 

 さてそこで、必然性の反対は? 偶然性?
 ちがいます。
 必然性の反対語は、主体性です。
 九鬼周造京都帝大教授が、必然性の対語は偶然性だ、とかいうもんだから、迷惑この上ない。おかげで見当違いの論稿がネットを席巻する。なにが迷惑って、こっちも一言ぐらい言及しないといけないじゃないか。
 ほんとの相手は昔々のスピノザ様だよ、まだ本売ってるのがわけわかんないことだが。
 皆さまにおかれましては1950年以前に生まれた人間でスピノザを云々するやからは、まず、眉に唾をつけるのがよろしい。その人は時代を生き損なっている。
 「スピノザ? 普通」。なんちゅう1960年以降生まれなど問題外。まあそれは時代そのものだがや。
 
 元へ戻って、スピノザという奴は
 「スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている」。(wikipedia)
 細かい内容はいいの。視点の問題だから。
 要するにおなじみ、「神の視点」。不可能だろうが可能だろうが、私は問うてみましょう、「そんなんこと誰が決めてんだ?」
 これは根本的な問いだから、皆様覚えておいてほしい。
 「誰が決めてんだ?
 答えは2通り。
 「神」。
 「いや決まってない」。
 
 さて、ここで、皆様が問いかけた人物は、まず1通り目、信仰者であれば「神」というし、白人無神論者であれば、「神はいないようでいて」とかの聞くのも無駄な口先論議を繰り広げる、結局何を言いたいのか。
 ついで2通り目、ユダヤ教徒マルクスやプロテスタントエンゲルスであれば、左翼におなじみの「必然性に追随する自由」論を繰り広げる、なんのことはない、「奴隷の自由」じゃ。
 
 というわけで、バカはほっといて、真実を論議しましょう。
 われわれ嘘つきに散々痛めつけられ殺された世代にあっては、必然性も偶然性も同じ穴のムジナです。
 必然性とはクリスチャンの論議であり、偶然性とは、それはどうにも肌に合わないという仏教徒の論理、どちらも身も心も売り払った奴隷の論理です。
 というと、神様や仏さまに失礼です。「俺らはそんなことはいってはいない。人間どもが勝手にこさえた話だ」。
 実際、預言者隈はそんなことはいわない。
 ま、それはおいて。
 
 生きる基準は「私」です。生きているのは誰か知らない、しかし「私」は日々存在している。世界? そんなものは知らない。しかしわたしには日々環境がある。かくて本来の哲学者、たとえばサルトルにとって必然性も偶然性もない。
 あるのは自己の自由。
 そして自己の投企。自己が自己の未来はこれと決めて、そこに自己を投げ込んでいく。
 それで必然性もない、といっちゃうところがただの哲学者ですが。
 
 ずっと昔書いたんですが(2008-06-08)、その頃の人たちはどうせもう生活に追われてるんでしょうね。
 つまり、行為主体にとって、私のなかの歴史は必然でなければ「ならない」。ならないとは世界に対する当為です。「世界は私のために当然そうならなければならない」。行為主体にとって、観照である「必然」など、「神様が設定くださるのを見て楽しむ「必然」など」、そもそも存在しません。机上の空論、あるいは神への責任転嫁にすぎません。
 世のインテリゲンチャの99.9%、あるいは西欧文化の信者たちは、もうこの根本的時点から「哲学体系」と、人間の思想体系とは異なることを知らなければならない。人間にとって必然は自己の不可分のものとして存在する。自己が見つけた一瞬先への動作です。この世界とは、その瞬間にできたばかりの他にはない確立されたトータルです。
 で、序論にいれようとしてるのですが、例によって長くてしつこくなるのがいや。 
 知ってるやつにはこのぐらい(以上)書かないといけないし、といって、ふつうの人たちには「何言ってんだ、余計なことを」ということになる。たしかに余計なことだからかえって難しい、そもそも長く書きゃあ高くなるし、読む人も減るし、ってそんなことを続けた30年。

 ところでさあ、九鬼氏、なぜクリスチャンが浄土宗で墓に入るのかね? 
 面白くありませんな。自己の自由は、あっちにもこっちにも自己をほおれる自由ではありません、自己の必然としての自己だけの自由ですぜ。
 
(p.s. どうでもいいからp.s. せっかく元の諸メモを次回作用に構成しても根がいい加減だからダブリの多いこと。悲しい。こればっかりはどう態度を修正したらいいのかわからない。でも、構成したのは目が悪い頃だからね、、、うそ。ダブリはいいけど、消えた中に大事なのはなかったのだろうか、、、
 いや、人生、そういうものです、昔っからそうさ。そんなことより今年は蚊が多い。耳元でうるさいぞ、お前。蚊も暑い東京地方になれたのかもね)。
 
(p.s.2 今日は月齢7月14日のはずが、台風一過の夜空ではお月様ずいぶんはんぱ。満腹まであと3日はかかりそうな。
 みんな「月なんか」ってバカにしてお供えもんしないからね。じつは地球のすべてを月が仕切ってるって知らないんだ。自分がバカだね。
 以上、オカルト隈でした。)

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オカルト(番外;無限次元の数学体系)

2024-08-10 12:53:50 | オカルト(途中から)
 こんにちは。お盆ですね、東京以外。ことしは脳老化のため、近くの盆踊りの期日に気づく余裕がなく過ぎてしまいました、暑いし。どうせ踊りはしませんが、生活が貧しい。
 地震だ、台風だって障害が多い今年ですが、里帰りのある方、万全のご注意を。途中で電車止まったりするからね。冷房も止まるし。トイレ混むから乗車前に必ずトイレへ。台風は仙台―鶴岡ラインでのろのろ進むとのこと。
 
 東京地方、まだ涼しくならない。台風通れば暑い空気連れてくるし。外でりゃ体べたべた。
 みなさま宅にはお風呂ある? 東京地方、今月から銭湯550円だってさあ。たまんないね。クーラーある? 昔は涼しいとはいえ、学生の時は、私の実家の部屋にも友人下宿にもクーラー(や、バス)なんてなかったけど。貧乏が基本の大学だったし。苦学とは違うけどね、なんて他人のこと。なに、実家暮らしの私だって風呂はあるけどたてるのは週に2,3回だし、クーラーなんか、居間にはあったけど、みたいなもの。
 早稲田に移って驚いたことには佐藤慶幸ゼミの友人の家に、夏休みの自主研究会でいったら居間のように広い勉強部屋にクーラーがあって(大きなステレオもあった)。
 元気してるかな? 逗子の高台の中村哲也君。いい人だったなあ、同じくドロップアウト組。私のお友達はみんないいひと。神奈川県で中学校の先生して退職、までは知ってます。

 ところで話は変わるようですが、今年は珍しくお中元にたくさん缶ビール貰って。これ、地震とき飲めるんだろうか? 飲めればラッキー、カロリーもあるし。
 ネット情報じゃこうさ。 
「《お酒は水分補給の代わりとはなりません》
ちなみにお酒が大好きな方であれば、アルコール飲料を備蓄しておけば、災害時の飲料水の替わりになるのでは!?という淡い期待を持たれるかもしれませんが、水分補給にはなりません。」
「アルコールには強い利尿作用があります。また飲酒により体温が上昇し、発汗するためさらに水分を失います。そのため、飲酒すると脱水傾向となります。例えばビールは1L飲むと、1.1Lの水分が失われると報告があります。しっかりと飲料水は備蓄しておきましょう。」悪口だから、出所はいわない。
 だけどね、
1 利尿作用って、我慢すりゃいいじゃん。
2 ビールごときで発汗なんてするもんか。
 ビールの問題点は、いったん飲んで胃腸に入った水を、引き連れて体の中に入れてしまうこと。だからバリウム検査の後なんか「決して」ビール飲んじゃいけないよ。死ぬよ。
 しかして、その後、体内の水分はどう使われるか、、、 理屈上、1,2回腎臓を通った後はただの水分として扱われても不思議はないんだけど、そんなこと考えてる医者(やホラ吹き)なんかいやしねえ、、、んだろうねえ、、

 さて、オリンピック。今年はやけにオリンピックが目立つのは私の脳老化のせいだろうか(勉強に専念できない)? それとも売り物がなくなったマスコミのせい?
 まあいいけど、ここで疑問。
 須崎優衣とか、阿部詩とか、その他泣き崩れた女性たち。実は単に体調が悪かっただけだったりしない? 
 誰も何も言わない、ということがありえないじゃん、生理の影響は30日あれば3人は犠牲になるでしょ、犠牲とはいわんとして。ともかく女性の1割は調子悪いんだよ。そりゃそれぞれ苦心してその時期をずらそうとしても。トップレベルの勝負じゃ必ず負けるでしょ。
 で、ここで、なぜ誰もそれを言わない? ただの一度も聞いたことがないよ。自分のことしか考えないガキ男やくたばりぞこないの爺いたちの言いたい放題をほっておいて。
 言えないんだね。(個人の結論です。)
 こんな世の中でいいのか?
 わたしは倫社の教師だから、あした都立高のガキ男予備軍にお説教だよ。他人の事情を考えろ。いや、教師じゃないんですが。

 さて一般感想は明るく締めよう。長崎平和祈念式典
「平和祈念式典にイスラエルの駐日大使が招待されず、、、について、長崎市の鈴木市長は報道陣の取材に応じ、「決して政治的な理由で招待していないわけではない」として市の立場を改めて説明しました。」(NHK)。
 そらそうだ。政治的なんかじゃないさ。人間の思いが詰まって成立した式典に、鬼畜など招待する余地は、人間的な理由で、ない。
 やったね、長崎市長。

 というわけで、本日は旧盆なので、恒例のオカルト、番外編。「無限次元の数学体系」
 
 物理学者にいわせると、世界の次元が6つやら7つやらとかあるんだとさ。人によっちゃ10やら11やら。こりゃ、隈も及ばないオカルト。
 ちぇ。そんなはずがあるもんか。あさはかな現代人の数学脳ではそうだというにすぎない。
 人間に次元など数えられはしない。あるいは、自分の数学のつじつまが合わなければ100次元だって作れる。これは正確に言えば、世界に「次元などない」。
 人が「次元」を口に出すと、その時点で次元が実体化してしまうので、人間の貧しい脳の想像力ではそれ以上飛び立てないのだ。せいぜいが、次元を図形化して見せて「さあどうだ、わからんか」というにすぎない。そんなんでわかるもんか。
 まあくだらないったら。それで何がわかるんだ? そんなものは「説明」に過ぎない。百でも2百でも作れる説明。
 「量子論」が自然科学を標榜したいなら、ある定式は別の現象にもあてはまるべきであり、その他の現象が予測されなければならない。
 
 じゃあどうしろと?
 さてそこで、です。新しい数学体系を作る。
 どうやって?
 いちおう素粒子という擬制までは数学者の脳でも把握しうるのでしょう。
 なので、木の数やリンゴの数で代数体系が作られたように、素粒子の動きそのもので、数学が作れるはず。
 その数学は、現象しかとらえられはしないけれども、しかし、現象を「次元」概念に頼らず、直接に数式で表すことで、別の現象の動きにも適用できる。
 木やリンゴの加減乗除ではなく、素粒子1+素粒子1は、現在の与件の中では、素粒子マイナス1である。
 これが基本式(の趣旨の比喩的表現)。
 物理学はこの与件の設定を行う。
 それができないのは、現行数学の原理というものがいかに幼稚だったか、というだけに過ぎない。

 以上。
 預言者隈の天才は無限だね。これに努力が伴ったら、世界はもう壊されてるね。

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哲学者の二重の夢

2024-08-03 17:28:15 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。お暑うございます。外で勤労されている方はくれぐれも無理なさらず。結局誰も得しない三方損。仕事が遅れるように見えても、結局のところあとで誰も困らない方法です。
 ほんとめげたくなりますが、去年のようではなく、一昨年のように涼しくならないとも限りません(東京地方)、と自分に言い聞かせて。
 
 パリは涼しい、ってね。
 オリンピックも出だし面白い試合ばっかりだった。
 女子サッカーのシュートとか、谷川、北川と胸のすくラインを飛んで。
 阿部詩氏は負けちゃって号泣してたけど、それも人間という一過程。これが大事なのだよ。兄ちゃんだってそう生きてきたさ。わたしゃ倫理教師じゃけんね。教師じゃないけど。
 けど、ここんとこいまいちな展開ですね。体操やら終わると、もういまいち。いつもそうな気もしてきた。
 昨日は飲み屋で柔道見てましたが、男女の重いやつ。なんだかねえ、お疲れさまというしかない。重い人は柔道いらないじゃん。
 今日は早川氏が負けちゃった。あんな魔術みたいな女子卓球で勝ちも負けもないと思うぞ。
 思うに、負けて悲しむより1回戦目勝って喜ぶほうが健全じゃないかしら。
 
 などなど。
 コラム記事。
「「馬鹿げているわ!」女子トライアスロンの出場選手が“セーヌ川汚染”に注目発言!「私はヤクルトを飲んだ」と珍対策も明かす【パリ五輪】」(THE DIGEST)
 ベルギー女子代表選手、下水が大挙して流れ込んだセーヌの水飲んじゃったってさ。
 そりゃヤクルト頼みが正しい。珍対策ではありません。
 (p.s. 後日。選手入院したもよう(ヤクルトとは別の同国選手と判明)。大腸菌中毒のもよう。菌が特定できれば抗生物質を。しかし、できないんじゃん? 種類多すぎて)

 ところでオリンピックで見ないテレビも見るところ、
 サントリー天然水のCM、『大自然を味方に』篇 、かわいい。
 ジャガイモのようなガキが長野県白馬村の山道を駆け回るの。
 いいなあ、、俳優は「地元の子ども」だって。地元っぽい。
 柔道女子の金のさ、角田夏実氏、八千代市(千葉県)の人々が応援してたけど、あの顔はやはり白馬とか新潟(糸魚川)・長野系だよねえ、取り残され縄文人的な。動いた人たちは酒田以北へ。文献はありません。熊襲の末裔(まつえい)の直感ね。
(p.s. 登坂絵莉:富山県高岡市出身、顔のつくり似てるしょ?
    北アルプスから富山の石川県境まで、アイヌ地名が残ってるんだよ)
 
 話を変えます。
「「冷やし中華」に「〇〇」をかけると『なしでは冷やし中華食べられない』セブンイレブン近畿エリアでは当たり前「今まで人生損してた」6割が知らなかった」( gooいまトピライフ)
「コンビニで冷やし中華を買うと、、、東海地方などではマヨネーズをかけて食べられることがあるそうです。」
 そうです。ポイントは、マヨネーズ。
 そうだろ、愛知だよな、と思って、念のためネット検索。
『三国一 西口店【新宿区】|東京うどん日和 - テーブルマーク』なるサイトに
「今や一般的なメニューとなっているサラダうどん。 40年ほど前に、こちらのお店の先代が考えたのが始まりだ。ヘルシーな食が重要視され始めた時代、試行錯誤の末に ...」
 なんて書いてある。ウソ。
 なぜウソか。47年前、池袋駅東口地下の立ち食いエリア(今のチェリーロードが狭い道で、脇に立ち食い広場があった)のソバ屋で食ったから。うどんと生野菜とマヨネーズ汁。立ち食い天うどんと同じ値段。きっぱり「サラダうどん」というメニューだった。何十万人の年寄りが知ってる事実。
 いや、サラダうどんは名古屋のソウルフードだと思っているのですが。

 ところで、米の値段が上がってるのは外人がたくさん来て安いコメがなくなってんだってさ。わたしとこも、2等米だか3等米だか、かけらの多いブランド米、いくら特売日を待っても2000円じゃ買えなくなってしまって困ったけど、まあ飲食店繁盛ならご同慶。
 と思えば「小麦粉」のラーメン屋の倒産が過去最多、って。原料の値上がりだと。
 これははっきし言って味で勝負しようというのが無茶というもの。わたしゃ町中華のほうが好き。

 さて、今日はそんな飲み屋(というと怒られる、小料理屋)の世間話だけれど、いちおう変わったことも書かなければこのブログの存在意義がない。
 というわけで、話は『群盲象を撫でる』
 タイパの関係で「ひばりデンタルケアクリニック」様のブログから引用。こちらには他意はございません。感謝だけ。https://www.hibari-dcc.com/blog_/2019/09/25
 それは「意味としては断片的な情報で全てを理解したと間違った考えを持ってしまう、とのこと。始めの「群盲(ぐんもう)」とは、複数の盲人との意味。後半の「象を撫でる」とは、象の事を評する、との意味になるとの事。複数人の盲目の人が象に触り、一部触った情報のみで象のすべてを知ったかのように語る、という意味になるのだそうです。一部の情報のみで判断するべきでない、といった教訓」。以上、なんかの教科書で見たことありません?
 さて、この話は本当か、というわけで。
 他意があるのは加藤茂の『ひとは自我の色眼鏡で世界を見る』。この話を引いて、さも人を馬鹿にして見せるから、てやんでえ、これだから哲学者は、何も知らねえ、と思うところ。
 この話は社会で生きるということを知らない人間が、どっかに落ちてるだろうと熱望する真理へのあこがれで作った話です。人間が生きるということは実はどこにも落ちてはいない。だから当然、人間が生活する世の真理とは全くかぶさるところのない話です。目の不自由な人は哲学者など何一つ恐れることはない。ただ「バ~カ」といっておけばいい。われわれ生活者の真理は象の鼻が杵のように振られて自分に悪さをするかしないかということであって、動物園で象を見学する小学生の網膜画像が真理なのではない。あるいは象の足が杵のように彼の腹の上に落ちてくるかこないかが世の中の真理なのであって、動物園で象を見学する小学生の網膜画像が真理なのではない。
 もちろんこの哲学者氏は現象学を知っているから「トータルの像」なんか手に入らないと思っていよう。その結果、世界は夢だと。
 そりゃあなた、初めから哲学者の夢。「哲学的真理」なるものへの憧れと、白昼夢の二重の夢。
 世界は生活世界なのだ。シュッツを読んだだろうが。いや、「でしょうが」。
 概念は世界に一つではない。カテゴリーも世界に一つではない。なぜそんな当然の事実を悲しむんだ?
 人にはそれぞれの生活上の真理がある。それぞれの真理が社会全体になるとどう動くか。この歴史的現象の規定性をとらえることが社会科学としての真理なのだ。

 ところでこのかん、すぐ腕やら足やらがかゆくなるのは、蚊やダニだけじゃなくて、汗のせいな気がする。

(p.s. カテゴリー、その他から社会学に変えました。社会学は人間科学の帝王だからね。)
(p.s. しつこく追伸。昨日睡眠が少なくて、脳が中途半端。
 で、「最高だと思う関東の海水浴場ランキング!」なるgooの特集が目に入り、変。
 だいたい設問がいい加減だ、から私みたいのがひっかかる。 
 子供連れには、1位、伊豆今井浜。もっと小さい子には、2位、伊豆外浦。友達と行くなら伊豆九十浜(子連れはセイフガードに注意)。要するに、島を除けば伊豆下田近辺がいちばん。なぜ30位までで載ってない? 波荒やら下水浜やら。ほんとに行ったことあんのかねえ、、、)

 
 
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