こんにちは。こちら東京地方というより神奈川県、大雨ひどいひどい。台風通り道の方々の気持ちの一片がうかがえます。山の上なので洪水はいいのですが、通り道の擁壁沿いの家々が心配されます。今日はよさそうですが。みんな地主と不動産屋のせい。詐欺か未必の故意。
電車・飛行機が動かないのも困りもの、なんでしょう、知らないですが。今日から土日で一般論ではよさそうですが、台風直下のお勤めの方々はお疲れさま。
とはいえ雨さえ降らなければ猛暑も終わり、シオカラトンボなんかが8月らしく飛んでいました、ってもう8月も終わりか。
トンボはわかりやすくていいです。関東地方じゃ、灰色のをシオカラ、赤いのをアカトンボ、でかいのをオニヤンマ、細いのをイトトンボと呼べば当たらずといえども遠からず。みんなそれぞれ「方言」で終わり。
ところで、みなさまお米はあります? これもひどいねえ、うちの近くの2軒のスーパーは1軒はゼロ、パックご飯のみ。もう一軒で茨城の新米が出てました、5k3800円。わたしゃ午前中にいくから買えるのです。といってもコロナ以降、常に1袋予備があるので買いませんが(それも2人で1食、半合しか食べない)。
というわけで代用品ソーメン、gooで好きな薬味ランキングが出てました。
【5位:ごま】【4位:大葉】【3位:みょうが】【2位:しょうが】【1位:ネギ】
だって。
わたしゃソーメンに限っては
【5位:ごま】【4位:ねぎ】【3位:紫蘇】【2位:みょうが】【1位:しょうが】
だね。
ソーメン以外はネギ一択だけど、ソーメンは味がないから。
しかし本来庭に生えててタダのはずの紫蘇もミョウガも大枚払わないと買えない。ショウガは擂る(する)のがめんどいし(チューブのは薬臭いし)。一戸建てはいいなあ、、けど、都会郊外の一戸建てには庭なんかないけどねえ。
さて、今日も特段、茶々を入れるニュースはありません。
「大谷翔平、MLB史上初「43本塁打-43盗塁」の快挙!」(TBS NEWS DIG Powered by JNN)とのこと。それで満足。
ひいきは勝ってなんぼ、自分のことと思うのがひいきだかんね。勝てばOK、負けりゃみたくもない。
とはいえ、一つくらい社会的に。
「「新条件受け入れられない」 ガザ停戦交渉巡りハマスが声明 早期の合意は見通せず」(テレビ朝日系(ANN))(いまは小児マヒ接種休戦、ってうわべ)
好戦ハマス。やつらがしゃべるたびに思う。
10年後、たった一人のスパイのために1国が消滅したことが知れたとしたら、歴史屋は湧くだろうねえ、、穏健派最高幹部が消されたのだって、だれのせいだか分かるものか。
まあ、世間の風潮に沿って、個人の妄想です、といっておこう。
というわけで、今日の本題。いかにもオタクの極致。ふつうの方には関係ありません。
いま言及するのはこれまでの隈のシステム対象的な提出作品と、今回の、「大衆視点の」作品との性格の違いです。
行為理論の原理・原則を用いた立言には、登場人物の代表が、すべての規定性を負って動いてもらうこととなります。それはその社会事象に関しては第三者読者の行為に適用されるべき「真理」ないし「事実」ですが、その叙述自体は「ただの説明」です。国家支配者が焦点のシステム的な理論書のことです。
他方、行為理論上の現象からの叙述は、その社会事象に登場する人物の種々の環境から、「その人間が使うはずの行為の原理と原則」を抽出して説明に供することになります。これは「立言の提出」です。一人一人の労働者の事実認知から書いていこうという次回作品のことです。
両者とも文章中に現れるのは説明ですが、この焦点が、前者では「行為の原理と原則」の立言そのものである一方、後者では生きているはずの「人間」の行動からの新規の立言の抽出となります。
さて、これだけであれば1理論の形成過程の住み分けのようですが、実はこれが「1」理論にはなりえない。それぞれの焦点者は、その時焦点が当たっていないアクターを連れているからです。
何を言ったかというと、前者で焦点が当たっている支配者の行為は、被支配者の対抗のないまま説明されざるを得ない。
被支配者の対抗は、別途、支配者の行為が確定された後で、第2の理論として別次元で活躍するアクターとして叙述されるのです、たとえば「社会運動」として。支配者はこの社会運動に対応する脇役アクターとして再登場します。
これに対して後者は、被支配者の行動は説明されるが、大社会のシステム変更(つまり新聞・メディアに載るような社会の直接的な動き)を説明する次元では使われないのです。
大社会の動きは、別途、被支配者の規定性が立言された後で、被支配者の規定性の異動として扱われる。
上記の問題は、これまでの隈の叙述に沿っていえば、社会学で決して1つにはならない「個人と社会」の記述矛盾の反映です。
なにを今さらわざわざ、と言うと、これがサルトルの『弁証法的理性批判』の挫折の根源だな、と思って。
そもそも神の視点で社会など分析できやしないのに、分析できると思い込んだ哲学者が悪い。要するに、哲学者には社会に「解明課題」がないからね。論理のつじつまさえあえばいい。
いや、せっかく人間の行為を自由への「投企」とまで言ったのに、つぶれちまったのはなぜだろう、と思ったわけです。それでもサルトルは、50年前のよすがとして、参考文献にいれるものかしら。
(ひとりごと。こんな風に、若い時の「よすがとして」で本の末尾を終えた随筆(か、「あとがき」)ってなんだったっけ? 北杜夫? なつかしいなあ、そんな感傷家の本を読んだことがあるってことが、、)
そういえば定額減税で、去年の住民税わずかだから、一人4万円きたよ。そりゃ「いいこと」だけどなんか変なんだがなあ、、ごまかされてるような、、
p.s. 全部追伸みたいな内容ですが、まあまあ。
酒を飲みながら「博士ちゃん 夏の祭典」なるテレビ番組を見てましたら、子供が選ぶ昭和の歌のランキングをつけるという趣旨のようで。
そんな趣旨はどうでもいい。そこに尾崎豊が出てて、芦田愛菜という25歳前の若人が、自分の生涯を懸けて尾崎豊の評をしていたのに感心。ああ、高校倫理教師になってたら、ずいぶん感動的な人生を過ごせたと思うなあ、、と。25歳過ぎたら、人間は別の人格だからね。
ところでそしたら中尾明慶という人が、そこは尾崎が自分の弱さを何とか克服しようとして歌ってたと思う(趣旨)と述べて、ああ、そりゃあそうだが、とこれも感心。
といって感心して終わらないところが、隈。
しかしね、尾崎は強いんだよ。この中尾という人には弱い人のことがわからない。評価になれてないから世間の「文言」にもたれかかってしまう。
弱いというのは私のことだよ。しかしね、弱い人と強い人とは圧倒的な世間に対峙したときに対応の仕方が違う。たったそれだけのこと。
そんなことをいっても役に立たないけどね。ただ、ある人間の気持ちは同じ他人にはわかっても、その表現された言葉の内容が正しいわけじゃない。
電車・飛行機が動かないのも困りもの、なんでしょう、知らないですが。今日から土日で一般論ではよさそうですが、台風直下のお勤めの方々はお疲れさま。
とはいえ雨さえ降らなければ猛暑も終わり、シオカラトンボなんかが8月らしく飛んでいました、ってもう8月も終わりか。
トンボはわかりやすくていいです。関東地方じゃ、灰色のをシオカラ、赤いのをアカトンボ、でかいのをオニヤンマ、細いのをイトトンボと呼べば当たらずといえども遠からず。みんなそれぞれ「方言」で終わり。
ところで、みなさまお米はあります? これもひどいねえ、うちの近くの2軒のスーパーは1軒はゼロ、パックご飯のみ。もう一軒で茨城の新米が出てました、5k3800円。わたしゃ午前中にいくから買えるのです。といってもコロナ以降、常に1袋予備があるので買いませんが(それも2人で1食、半合しか食べない)。
というわけで代用品ソーメン、gooで好きな薬味ランキングが出てました。
【5位:ごま】【4位:大葉】【3位:みょうが】【2位:しょうが】【1位:ネギ】
だって。
わたしゃソーメンに限っては
【5位:ごま】【4位:ねぎ】【3位:紫蘇】【2位:みょうが】【1位:しょうが】
だね。
ソーメン以外はネギ一択だけど、ソーメンは味がないから。
しかし本来庭に生えててタダのはずの紫蘇もミョウガも大枚払わないと買えない。ショウガは擂る(する)のがめんどいし(チューブのは薬臭いし)。一戸建てはいいなあ、、けど、都会郊外の一戸建てには庭なんかないけどねえ。
さて、今日も特段、茶々を入れるニュースはありません。
「大谷翔平、MLB史上初「43本塁打-43盗塁」の快挙!」(TBS NEWS DIG Powered by JNN)とのこと。それで満足。
ひいきは勝ってなんぼ、自分のことと思うのがひいきだかんね。勝てばOK、負けりゃみたくもない。
とはいえ、一つくらい社会的に。
「「新条件受け入れられない」 ガザ停戦交渉巡りハマスが声明 早期の合意は見通せず」(テレビ朝日系(ANN))(いまは小児マヒ接種休戦、ってうわべ)
好戦ハマス。やつらがしゃべるたびに思う。
10年後、たった一人のスパイのために1国が消滅したことが知れたとしたら、歴史屋は湧くだろうねえ、、穏健派最高幹部が消されたのだって、だれのせいだか分かるものか。
まあ、世間の風潮に沿って、個人の妄想です、といっておこう。
というわけで、今日の本題。いかにもオタクの極致。ふつうの方には関係ありません。
いま言及するのはこれまでの隈のシステム対象的な提出作品と、今回の、「大衆視点の」作品との性格の違いです。
行為理論の原理・原則を用いた立言には、登場人物の代表が、すべての規定性を負って動いてもらうこととなります。それはその社会事象に関しては第三者読者の行為に適用されるべき「真理」ないし「事実」ですが、その叙述自体は「ただの説明」です。国家支配者が焦点のシステム的な理論書のことです。
他方、行為理論上の現象からの叙述は、その社会事象に登場する人物の種々の環境から、「その人間が使うはずの行為の原理と原則」を抽出して説明に供することになります。これは「立言の提出」です。一人一人の労働者の事実認知から書いていこうという次回作品のことです。
両者とも文章中に現れるのは説明ですが、この焦点が、前者では「行為の原理と原則」の立言そのものである一方、後者では生きているはずの「人間」の行動からの新規の立言の抽出となります。
さて、これだけであれば1理論の形成過程の住み分けのようですが、実はこれが「1」理論にはなりえない。それぞれの焦点者は、その時焦点が当たっていないアクターを連れているからです。
何を言ったかというと、前者で焦点が当たっている支配者の行為は、被支配者の対抗のないまま説明されざるを得ない。
被支配者の対抗は、別途、支配者の行為が確定された後で、第2の理論として別次元で活躍するアクターとして叙述されるのです、たとえば「社会運動」として。支配者はこの社会運動に対応する脇役アクターとして再登場します。
これに対して後者は、被支配者の行動は説明されるが、大社会のシステム変更(つまり新聞・メディアに載るような社会の直接的な動き)を説明する次元では使われないのです。
大社会の動きは、別途、被支配者の規定性が立言された後で、被支配者の規定性の異動として扱われる。
上記の問題は、これまでの隈の叙述に沿っていえば、社会学で決して1つにはならない「個人と社会」の記述矛盾の反映です。
なにを今さらわざわざ、と言うと、これがサルトルの『弁証法的理性批判』の挫折の根源だな、と思って。
そもそも神の視点で社会など分析できやしないのに、分析できると思い込んだ哲学者が悪い。要するに、哲学者には社会に「解明課題」がないからね。論理のつじつまさえあえばいい。
いや、せっかく人間の行為を自由への「投企」とまで言ったのに、つぶれちまったのはなぜだろう、と思ったわけです。それでもサルトルは、50年前のよすがとして、参考文献にいれるものかしら。
(ひとりごと。こんな風に、若い時の「よすがとして」で本の末尾を終えた随筆(か、「あとがき」)ってなんだったっけ? 北杜夫? なつかしいなあ、そんな感傷家の本を読んだことがあるってことが、、)
そういえば定額減税で、去年の住民税わずかだから、一人4万円きたよ。そりゃ「いいこと」だけどなんか変なんだがなあ、、ごまかされてるような、、
p.s. 全部追伸みたいな内容ですが、まあまあ。
酒を飲みながら「博士ちゃん 夏の祭典」なるテレビ番組を見てましたら、子供が選ぶ昭和の歌のランキングをつけるという趣旨のようで。
そんな趣旨はどうでもいい。そこに尾崎豊が出てて、芦田愛菜という25歳前の若人が、自分の生涯を懸けて尾崎豊の評をしていたのに感心。ああ、高校倫理教師になってたら、ずいぶん感動的な人生を過ごせたと思うなあ、、と。25歳過ぎたら、人間は別の人格だからね。
ところでそしたら中尾明慶という人が、そこは尾崎が自分の弱さを何とか克服しようとして歌ってたと思う(趣旨)と述べて、ああ、そりゃあそうだが、とこれも感心。
といって感心して終わらないところが、隈。
しかしね、尾崎は強いんだよ。この中尾という人には弱い人のことがわからない。評価になれてないから世間の「文言」にもたれかかってしまう。
弱いというのは私のことだよ。しかしね、弱い人と強い人とは圧倒的な世間に対峙したときに対応の仕方が違う。たったそれだけのこと。
そんなことをいっても役に立たないけどね。ただ、ある人間の気持ちは同じ他人にはわかっても、その表現された言葉の内容が正しいわけじゃない。