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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

主義と存在形態

2016-12-30 13:38:44 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。さっそくですが、ぐち。
 いつもなぜか劣等品の入手という仕儀に相成るわたくしですが、本日は履き出して実質1ヶ月と10日のビジネスシューズ、ギラロッシュ ラロッシュ、(と書いてありますが、本物かは不明。ネット購入自体は、例によってここに靴キズのグチを書いた2年半前なので、もう記録がない(あのとき以降、結局デカキズのまま履いてた)。amazonと楽天でしか買わないのだけど)。
 ともかく、本日べろんと合成皮革がはげているのが家人に発見されました。、、、合成皮革って、クラリーノじゃないのね。よく安物のかばんにあるべろべろ剥げるやつだったのね、知らんもん。そんなのイトーヨーカドーだって置いてないぞ。ふつう合成皮革といえばクラリーノだろ。ともかくがっくり。来年早々どうしよか、キズのほうがまだましだ。
 
 というわけで突然不愉快な今現在。
 まずは昨日の新聞記事、生物学者福岡伸一のコラム。経歴をネットで見直してしまった。
 やっぱ実験化学の出じゃないんだよね。
 いわく、消化というのはバラバラに分解するものだ。たとえば自分の身体のコラーゲン不足だからとコラーゲンを食べてもアミノ酸に分解するから、他のアミノ酸を食べても同じこと、無意味。の由。
 わざわざ取り上げましたが、もちろん普通の説だよね、評論家の。
 しかし、その論理は素直に間違い。論理の短絡。レベル的には、「サラダオイルは固まらないから身体にいい」、その他の毎年ひっくり返る「栄養学説」と同じ。
 私は実証社会学の出。
 だって、そうじゃん、消化は身体の中で紙が燃えて灰になるように消えるのか? 違う。いわば、それは「燃える」のではなく「溶ける」はず。
 さて、世の中に「溶ける」といって溶液をかけたら綺麗になくなるものなどあるだろうか? いいや、ない。物が溶けるという現実は、ある部分は物体を残しつつ、少しずつやっとかっと溶液化していくものだ。これは当然消化管内でも同じと予想される。
 「じゃあ、どの時点で物質は体内に吸収されるのか?」
 この答えがない限り、上記の立言は成立しない。
 ある程度の化学組成を残していても吸収されるのであれば、その吸収物質は、他の「純粋アミノ酸」より合成しやすいのではないか? 合成しやすければ合成能力が衰えている身体の場合にはそのほうが利用されやすいのではないか?
 この「ないか」 の答えは知りません。私はただの社会学研究者。しかし、ここまで否定して、やっと上記立言は、ざっと見、成立するのです。
 福岡氏ともあろう人がこんな随筆を書くというのもくやしい。
 こんなの見たら、みんな、とりわけ知ったかぶりのネット住民が、口真似するじゃあねえか。

 まあどうでもいいや。
 本日は1年の締めなので、もう少しためになる話。 
 人は投企するもの。本日はもう40年前に歴史の淵に消えたこのテーゼを若い方たちにお知らせして、2016年を締めたいと思いおります。ま、「つづきのつづき」ですが、それもひどい題で。
 
 昔はサルトルを代表とする実存主義という思想がありまして、人はサルトルを知る者も知らぬ者も、否応なしに実存主義的に生きたものでありました。
 人は自分の将来を自己決定する。しなければならない。それ以外に人間の存在の仕方はない。人は社会の法や道徳に自分の行動をまかせてはいけない。それはごまかしである。
 他方、人の行為は自分の主観的意味であると同時に、外界の構成素に対する自分が感ずる他者にとっての意義でもある。しかして、人間の行為は目の前の人間との関わりであり、それ故に見知らぬベトナムの人間との関わりなのであります。
 この一連の自分への意味と他人への意義を持つ行為をもって「投企」といいます。
 
 「しかしそれは人間の普遍的存在形態ではないか? であれば、そうした指摘は何の意味もない。ケセラセラ、なるようになれといっているようなものだ。だって、どうしようがその結果生ずることは人間の普遍的形態の一つなんだから」 という疑問も出ます。
  
 しかしざんねんでした。それは絶対者の観点。
 絶対的評論者にとっては普遍的形態なら同じことになっても、本人にとってはぜんぜん違う。それを同じというのは「人は金持ちだろうが餓死しようがおんなじです。どちらも人たる普遍的な存在形態のバリエーションです」 というようなもの。
 それじゃあ生きるも死ぬも同じというだけ。はあああ????  てなもんですな。生きている人間の話ではない。
 
  私が言っていることは人と人との問題なのであります。
 「君はどうすんのかい?」という呼びかけこそが、実は、実存主義なのであります。
 「人は誰もが同じ生を持っている。」 「うそつけ、おんなじじゃねえや。俺はお前のようなプチブル大学生じゃねえ」 「いや、おんなじなんだ、で、君はどうするのかい?」
 懐かしい。
 ねえ、懐かしいよねえ、老人のお立会い。何一つ理解していない小熊英二に教えてやりたい。
 それは人間の普遍的存在形態ではありますが、現実はそれが疎外されている形態しか取れない。しかして、「これを取り戻すんじゃないのかい? 俺は知らんよ、君のことだから。でも君はどうすんのかい?」 これこそが小熊英二の知らない、1968年闘争の本質であります。
 なになに? 疑問がある、と。「なんで疎外されてるというんだ? もともと人間の普遍的存在形態を通過しているというなら、それでいいだろう?」 と。
 はい、いつまでたっても絶対者ですね。
 そうじゃない。誰も人間一般の話などしていない。
 「お前はそれでいいのか?」
 と問うている。
 
 「人間世界は意味の体系である。」。これは間違い。そんな規定は人間行為者本人にとってなんの意味もない。生きる人間にとって、世界は物質の体系でなければならない。
 が、一方、「人間は意味の体系なのであります。」
 そんな馬鹿なことはない? 人間は物質の体系だ? 不思議なことに、そんな規定は人間行為者本人にとってなんの意味もない。(もっとも、精神は物質に宿ることを知っていることは、健康な生活のためには不可欠ですが。今日、世界が暗いのは、昨日食べなかった野菜のせいです。ビタミンの欠乏。が、それは今日の本題ではありません。)
 人間が意味体系である、ということは、太るも痩せるもその主体しだい。その主体と状況のせめぎあいしだい、ということなのであります。
 人は他者とともに生きる。そう実存主義に書いてある。
 しかして、人は隣の他者に問いかける。
 「その他者」は、隣にいる彼の他人の言を聞き、自己の状況を認識し、状況の中で行為しつつ自己の中で意味を組み立て、状況の中で自己を現実化する。「俺はこのように行動する人間だ」
 かくして「その他者」は、状況の中で彼の他者と生き、彼の他者が生きる状況を生き、その状況が変遷する明日を生き、その明日が存する歴史を生きる。
 かくして「その他者」は、歴史の中で彼の意味を抱えて死んでゆく。それはプチブル学生であろうが中卒第3次産業労働者であろうと何も変わらない。
 それが実存主義であります。
 
 「ちょっと待てい。それじゃあ右翼も左翼も同じ価値だというのか」、とこれはサヨクの言。めんどくさいねえ、絶対者志望的落第者たち。
 だから、意味は主体に属するんだったら。
 人民を危機に追いやり、人間の歴史を捻じ曲げんとする右翼の生なんかに価値があるわけがないじゃないか。
 しかし、これは、ある個人の思う意味に過ぎない。
 ただ、過ぎないけれど、それのみが存在する意味なのだ。
 この意味が世界の中で「本当」かどうかを決めるのは、歴史による断罪か、神による最後の審判しかないのだ。あと、閻魔大王のお仕置きね。
 そんな個人だけが持つ意味になんの意義があるのか、といえば、それこそが社会を形作り、歴史を形作るものだからだ。
 それが実存主義であります。
 
 まあ、相対的観察者の立場から言えば、上記の状況が人間の主義になるということは、支配者=宗教者の道徳や教義から、生きている人間を守ることになる。個人のただの生き方に、社会的に優勢となる「価値」を与える、ということではあります。
 いやさ、社会学者というのは何か一つ余計にいいたいんでしょうね。
 だいたい、ここをいわないと、じゃあなんでそんな結構な主義が消えたんだ、という展開にならないし。
 じゃあなんで? 
 意味の収奪。資本主義は人間の持つ意味を収奪する。
 
 
 今年もともかくも明日でおしまい。今年はわたし的には賃労働社会から消える手続き、だったかも。そう思えば淋しいことではありますが。
 救いはわたしゃまだ生きてるだろうということで、そうなると論理上、では今年は新しい社会への入会手続きだった、ともいえる。こういうのを論理といいますね。
 問題は、それが実現しなければただの嘘という。
 ねえ。
 皆様も良いお年をお迎えください。
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つづき

2016-12-24 11:40:02 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、例によって1ヶ月違いの温かさ。湿っぽいけど。
 あったかさとは別に、ようやく血圧も元のようになってきました。1ヶ月以上かかりましたが。会社にもうつ病の人とかたくさんいますが(なのでアルバイトが引く手あまた、というわけで)、これは自分の力ではなんともならないのだから可哀想です。
 ともかく昨日は休みで助かりました、年の瀬ですからね。
 この10年ばかし不規則勤務で天皇誕生日はあまり貢献してなかったですが、やはり休みはよろしい。天皇退位しても休みが残ると思えばそれもせめてもの人民への貢献です。って、退位後も残んだろね。
 
 さて、世間では糸魚川大火。なんといっても命が消えなかったのは良かった。
 糸魚川は最近4回くらい在来上下線で通ってまして、糸魚川出身の知り合いがいるんで意識して見てて、そんな繁華街、車窓から見えなかったがなあ、と思いましたが、駅の向こう側(の見えないところ)のようですね。 なんでも街中に消防車6台しかない、とか。東京じゃあ2キロちょっと四方程度の管区ごとに4台はいますがな。もちろん、すぐに隣管区からも来るし。
 地方はカネないんだよね。ほんと、おかしい。必須支出もできないんだから。もっと地方税を国税化して、国から交付し直すべきです。そんなことサヨクはいわないけどね。だいたいなんも考えてやしない。
 
 で、考えてみると、東京にいて長生きしてますと、日本全国どこで災害が起きても、誰かしら関係者がいるような。そう思うと、なんとも、なんとも、という感じですね。
 原発の富岡、地震の熊本、神戸、秋田、新潟中部栄村、三陸諸町、噴火の大島、三宅、大したことない桜島。ただ、沖縄は身内が引っ越してしまってもういない。
 一極集中、若い人は、昔から、東京がいいやね。
 人間てそういうもんだし。

 他のニュースは、エイベックス松浦社長 労働基準監督署からの是正勧告に“反論”てのがありますね。いわく、
「そもそも法律が現状と全く合っていないのではないか」「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。」
 ばーか。好きでやってるって誰が決めるんだよ。
 そんな資本家野郎の犠牲者が出るから、現状を変えるためにわざわざ法律があるんじゃねえか。みんながやりたきゃ法律なんて作るわけねえや。
 と、これでは一般論ですね。若人は「そんなこともあんじゃないの?」と思うかもしれない。
 そこでもう少し言うと、中年前までは好きでやっても40の声を聞くとそうもならない、というわけです。まあ、「お年」ですね。
 さらに、昨日までは課内仲良くやれたので何もつらくなかったが、課長が変わって締め付けるのでいっぺんに面白くなくなった、でもやらないとしょうがないのでウツになる、というのもあります。こんなのは自分が偉い資本家どもには絶対に分からないことでね。
 しかし、社長も労働者も同じ日本人な日本。こんなやつらと同じとはいわれたくない。いい加減にして欲しいもんだ。
 
 さて、この辺で「つづき」に。
 みなさまがどこまで分かってくれるのか分からないので、つぶやくように続きを書きますと、
 サルトル的独我論からすれば(哲学者千人中999人は「サルトルは独我論ではない」、とかいうでしょうからご注意)、次に控えるのがフォイエルバッハテーゼ。人間は社会的諸関係の総体である、というわけです。これは独我論と2択のようですがそうではない。独我論的状況とは、すべてが外にある状態なのです。自分のものではない状況について、これを社会関係の総体、といわれてしまえば、認識存在する外界を、それはお前のもんじゃないよ、といわれたわけで、そりゃごもっとも、ということになる。とはいえ、そこはマルクス主義に任せて、じゃあそこから行為主体はどう外界を扱うか、と展開させたのが「弁証法的理性批判」です。未完ですが。中身の展開、間違っちゃったからね、未完もしょうがない。まあ、資本論が未完なのと一緒。お互い様だね。
 
 さて、ではフッサール・ハイデッガー流では状況の取り扱いはどうなるか。ここに鬼頭英一という九州大学教授だったハイデッガー哲学者の論文があります。いわく「全体的な状況と部分的な状況が区別されることになる」。(隈注:いや、ならない。) いわく「私の内心」の状況と「私の外界」という状況がある。(隈:いや、ない。) いわく、事実的状況と投企されたる状況が云々、いわく自由になる状況と自由にならぬ状況が云々、エトセトラエトセトラ、、、
 隈:なんだなんだ、いったい何が言いたいのだ、と怒るか悲鳴をあげるか、は読み手の性格による。
 こんなふうな絶対者視点など、本来の現象学に生ずるはずがない、といっても言いだしっぺがフッサールじゃあしょうがない。「バカどもが」と、これもつぶやくしかないですね。
 もちろん、ここから由来する現象学的社会学など、ただの社会心理学の派生形にすぎません。
 
 と、先に役立たずのつづきを書いてしまったので、酒飲み用、役に立つブログ。
  
 世の中、年寄りでないと知らない、変わってしまった過去の知識も多々ございます。そういうことは知ってる人が、あるいはまた、記録に残せる人が、知らない若人のために書いておいたほうがいいのではないか、と。
 当方、おかげさまで生きながらえて最近誕生日を迎え、貰ったウイスキーを呑みまして。オールドパー12年。う~ん、いまいち。
 さて、世間でネット情報で受け取れるのは若人の言のみ。
 で、私は昔の(父ちゃんが貰った)サントリーオールドもオールドパーもしっかり味を覚えているので、若人がネットで、今の酒を飲んで感心せず、昔の伝説のオールドパーを、「あれは吉田茂他が褒めてたから有名なんだ」というのを見ると、そりゃひがみ根性だ、としか思えません。
 なにが違うって、まず度数が違います。今は40度ですが昔のスコッチは43度基準。(サントリー)角だって43度(か42度)だった時代、この度数はきっちり味に反映します(角の43度は反映しない。そもそも今と作りが違う)。昔のオールドパーは今のようにマイルドではない。一口に言って、昔のは重いのです。ズシっという感じ。二口目にいうと、匂いがもっと燻製。今のは薄めすぎ。で、そこの辛さをマイルドにして香りもマイルドにすると、昔のシーバスリーガル12年の味になるのです。ま、40年前ね。
 スコッチは聞くところによるとブレンダーがしっかりしてるそうなので、変わったのは度数だけでしょう。
 と口で言いながら、これは私とっては、からかいの言。ま、お客さん相手だからね、商売人と同じ。
 友達にだったら「バカやろう。毛唐なんて口先ばかりだ、偉そうなこといって、やることはサントリーとおんなじじゃねえか」。サントリーオールドの見る影もない変節もひどすぎ。
 ってことは日本人も口先だろうって? 違います。サントリーは40年前から、自他共に認める作り酒、勝手酒。偉そうなことはいいません。おかげさまで日本人は安くウイスキーを楽しめるのです。サントリーは誠実で偉い。ま、今回は、パーの話。あ、そうだ、昔はパーもシーバスも12年以上なかった、といっておかなければ。
 
 ずいぶん長くなりました、本日はクリスマスイブですね。
 この数年、めっきりクリスマスらしくなくなりましたが、今日は豪州牛に600円ワインで何か作ろうと思いおります。
 
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状況内と世界内の差

2016-12-17 11:03:09 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、今日はいったん真冬もおさまりそうですが、昨日はさすがにコートを着て出勤、コートなしでは体調を崩したのではないか、と思われました。この林、ほんとに葉が散ったっけ、と思われた緑色の窓の景色も、2週間で黄色から落葉、すでに枝の間は青空だらけです。
 
 さて、赤旗では、
 ・日露首脳会談 領土問題進展なし
 わたしゃアベも進展させようなんて思ってないと思いますけどね。どうせ要らない領土、しかし一方では右翼バネの重要な契機をそうそう解決などできない、でしょ。それよりカネが重要。カジノ以上に儲かりますし。
 
 ・オスプレイ墜落 沖縄で怒り広がる
 ほんと、操縦士資格のある人間が操縦して落ちること自体、「機体に重要な欠陥がある」証明で、なんの言い訳にもならない。
 
 よくわからんのが解放
 ・「年寄りはお国のためにさっさと死ぬ義務がある」とエセ文化人がいったそうですが、ここは見出ししかないのでわからない。中身のあるC派を見習うべきですね。これじゃ誰も来ないぞ。来てるけど。
 ともかく曾野綾子は「死ぬ義務があるので死にます」と遺書書いて自殺するのがほんとだね。もっとも、大事な口先女、右翼なんてそんな程度だって世間に知らしめ続けるのもよいこと。
 関連で(なんの?)、朝日新聞で神里達博という千葉大教授が、高齢者ドライバーの事故率はそれほど高くない、メディアのやらせ報道だ、という趣旨の論が。ばかいっちゃいけない。中年ドライバーが病院の玄関や歩道の散歩者に突っ込んでくるか、って。突っ込んできたら当然精神鑑定だろうが。あっちでもこっちでもそういう理不尽な事故を起こすから免許を取り上げるべきなのであって、普通にスリップ事故や過登載横転事故を起こします、というのなら誰も問題にしやしない。
 生活したこともない机上の空論家はいつの時代も笑い者。
 
 さて、本日も、日常勤務の虚しさのため以上です。
 、、、それもまずいな。これではいつまでたっても役に立たない。
 おまけで、お料理一口知識。料理に使う日本酒とワインの違い。
 それは西洋料理と和食との違いではない、ようです。素材の味を崩さないのは、なんといっても日本酒。アルコールが必要で、でも素材の味をそのまま味わいたいときは、日本酒がおすすめです。アルコールが必要な、脂肉のマイルド化、チーズの溶解(フォンデュー)等、ですね。理屈でしょ? でもどこにも書いていない。家人がロールキャベツにワインを入れて悔やんでいました。
 
 というわけで、以下はごく一部の老人向け。
 前回は少しからかった題をつけましたら来た方が増えたようです。これはとてもくだらない現象ですので多少反省しつつ、今回いつも通り人気のなさを追求しようと思ったところで、この題ならわからないでしょうか。状況内存在と世界内存在の違い、というかサルトルと他の現象学論者の違いですね。(ヤスパースは関係ありません)サルトルのほうが偉いから、ただの「違い」じゃなくて、「差」。
 最近の人はサルトルなんて知らないのでしょう、ぜんぜんネットに引っかかりません。現象学といえば心理主義社会学になってしまう。まあ「大学で教える教目である」ということ自体、そういうものですが。一般人がなぞって使えなきゃしょうがない。なので、今回に限ってお年寄り向け。
 
 だらだら言うのは当ブログではありませんので、結論を。
 サルトルの現象学受容というのは、存在論なのです。独我論。
 対して、フッサール以下の現象学論者は、認識論。非科学的観念論。
 
 サルトルは自分という主体しか認めなかったので、それにも関わらず存在するかのごとき自己の周囲について、「状況」というカテゴリーを立てて、その中にある主体という観点から全てを構築しようとしたわけです。それは「世界」などではない。存在しているのは自分だけなのだから、そのほかに考慮できるものは自分と関わる限りでの環境情報、「状況」なのです。だから息が詰まって吐き気も起こる。
 
 他方、ふつうの現象論者の関心は、真理あるのみ。これは真理だ、と民衆に告げればそれで生きていられるのです。ただの学者ですから。この場合、自分以外に存在するはずなのが、「世界」です。「世界内存在」というのは哲学者フッサールの弟子、ハイデッガーの言葉。世界とは自分の持つ状況ではありません。「他の人間も存在している」自分の周囲です。我はこのうちに存する、と何の根拠もなく言い放つ。観念論です。
 
 それじゃサルトルのほうが観念のお化けではないか、と若い方はお思いでしょうか。
 そこがサルトルの徹底したところ。状況のトータルは何によって知られるか。哲学的観念論議ではない。観念論議は空虚である。哲学は死んだ。状況のトータルは、状況が存在することを仮定した社会科学、マルクス主義によって知られる。
 かくて、サルトルにとって、現代の唯一の哲学はマルクス主義なのです。
 (もっとも認識が(サルトルにとって存在しないものであるべき)外界から反映されたという「エンゲルス的」反映論は、決してこれを認めることはできない、というわけです。)
 サルトルも哲「学者」だったらもう少しネットに残ったかもね。
 
 こういう論は別にオリジナリティを主張したいのではなく、昔あったと思うんだけど、この間(かん)、古い本をずいぶん探したのだけれど出てこない。たぶん、雑誌論文のまま消えてしまったんだろね。こういう論じゃ哲学者にはなれないからね。
 で、参考文献(参照文献ではない)に書けないので少し困っているところです。
 もしもどなたか先行文献をご存知でしたら教えてくださいませ。
 この間、この辺、と思ったのは市倉宏祐さんという人だけ (この人についてネットでバカが「学者としての素養ゼロ」とか書いている。ま、そういう事情です。バカには分かるはずがない)。いい人だったようで、最近まで生きていたとか。今見たら福田和也が尊敬していたような。まあ福田もただの右翼でもないからいいか。
 
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「である」ことと「する」 こと

2016-12-11 09:24:45 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。昨日の夜もひどい北風でしたが、じっと我慢してかいだ風はさすがのすがすがしいにおい。雪国の人も積もった雪の上を吹く風のにおいは自慢なのでは? 聞いたことはないですが。
 ところで、土曜日は何かと用があることが分かりました。前はどうしてたか記憶はありませんが。
 なので、日曜日更新を基準にしたいと思いますのでよろしくお願いします。
 
 というわけで、ニュースその1。
 パククネがなんとかというニュース。
 これは質問ですが、あれセクハラと思いませんか? とくに男の衆。
 大統領が男だってもあんなふうな仕方で攻撃しますかねえ、韓国人。
 わたしほどの明哲にして透徹した目をもって見ますと、あれは明らかに女差別だ。シンプルにいって弱いものいじめ。転んだ者に対しては安心して背骨を蹴りつける、というやつです。普通は踏み越えるだけですが。まあ差別の事例の常に従って、「女も女」ですけどね。ただしこれも差別の常により、差別する側の言い訳にはならない。 
 なんか不愉快だ。民主主義派韓国民衆。
 
 ニュースその2。
 差別解消推進法案、共産党1党のみ反対。
 被差別運動など何一つやらなくなって10年。被差別民個人への反対だけはやめない、という、底の底はいまだにまっさらクズの党。もっともこれは別に日共のせいではなく、それがパルタイというものです。反日共の人も反省するように。
 
 というわけでたいした報道なし。日常、通常業務で人生を費やしていると虚しいので、本日は若干社会科学を。
 参照図書(という名のケチづけ権威図書)に使えるかと『「野党」論』という吉田徹の本を見ましたら、「(与党が)適切な権力の用い方をしているかをチェックすることが、野党の果たさなければならない、第一の機能です」 云々と書いてありました。
 へっ。機能!
 
 世の中、丸山真男では「ありません」が、「である」ことと「する」 こととはえらい違いです。
 たとえば、「それはその機能である。」という規定と「それはそう機能する。」という規定は、全く異なるものなのです。
 同様に、「それはその構造である。」という規定と「それはそう構造化する。」という規定も、全然異なります。
 あるいは、「それはその役割である」という規定と「それはそういう役割を果たす」という規定は、土台からして違います。
 なにであれ、行為者たる研究者が見出した状態は、その前提条件の様態をとりあえず括弧に括れば、「それは○○する」という表現となり、その前提条件の様態さえ正しければその表現も正しいのです。
 一方、その動きを、その世界が抱える前提たる諸条件を外した『名称を振っただけの不分明なモノ (=これを自称「研究者」は「構造」と呼ぶ)』 について、たまたま他の研究者がある条件の下で見つけた社会事象の関連性 (これを本当の研究者は「機能する」と呼ぶ) をこの不分明なモノにくっつけて「構造構成素の機能」なり「構造構成素の役割」その他、以下同文、と呼ぶのが自称「研究者」だ、ということです。
 すなわち、各種状態を「常態」として普遍化することと、ある現象の性格を言葉によって説明することとは、全く異なり、かつ、前者の論は原理上全て誤りだ、ということです。
  
 若人の研究者の皆様、くれぐれもそんなものに引っかからないように。
 
 なんて書こうとして、ふと標題が思い浮かんだわけでして。表題はもともと、「これが本当の民主主義へ向かう根本態度だ」 っちゅう意味なわけですな。
 しかし思えば、丸山の(教科書登載で)有名なこの標題の発想というのは、もともと私が昔、本で読んだのと同じ弁証法解釈ではないか、と。
 具体的にいうと、これは後期戦前の左翼論壇の弁証法認識の丸山的自家消化だと思われます。三木清とか戸坂潤の遺産のことです。大正デモクラシーに引き続く論壇、あるいはヘーゲル右派的国家主義の論壇というのは、弁証法なんて当然の世界ですから。
 これも、さすがに誰も気づいていないポイントだろうと、自分で満足。アホ護教者と自力主義者の違いですな。もっともわたしゃ丸山なんか評価してませんので最低限しか読んだことはありませんが。
 なお、若人は本ポイントはただの思いつきであることにご留意ください。年寄りはどうせ読んでもわかりませんから気になりませんが。
 
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老化

2016-12-04 11:32:30 | その他
 こんにちは。昨日は所用で。バイト開始のため、人並みに用事が土日に重なります。
 バイト再開で一番心配だったのは、、、さあなんでしょう。「1日中座っていられるか」 です。家ではずっと座椅子でごろごろしてたもんで。おかげさんで?それもオーケー。ほっと一息。
 (唐突ですが、せっかく一息いれてもじゃまするやつもいて突然不愉快)

 さて世の中はいかがでしょうか? あんまりニュース記事の記憶はございませんが。
 今yahooを見たら、原爆ドームにイルミネーション、とのこと。「原爆ドームを「観光地」として発信」。観光用に楽しくするようです。批判には「鎮魂の場にふさわしい明かりにした」と応答、とのこと。要するに風化ですね。
 広島人さえ慰霊の念が持てないようではどうしようもない。なにが世界遺産だ。
 しかし、関係者が死んでいくということはまあそういうものです。
 
 赤旗ですとカジノ法案、委員会通過。アベが調子に乗ってるのは確かなようで。
 ま、記事によると、「推進派がカジノ解禁の「経済効果」をことさら強調していることについて「その正体は国民から所得や貯蓄を巻き上げることで、新たな価値や技術の発展を生み出すものではない」と述べました」、と。そやそや。
 もっとも私は国家があほからいくら巻き上げても興味ないのですが、あほでもなんでもその結果一文無しが続出するのは耐え難い。そんなもんとその家族を助けるために、社会の労働力と精神力が無駄に費されるわけだ。あと、自民党と一緒に暴力団が儲かるというのも許せんが。
 まあそれに近い批判はみんながいうので、これもよし。
 
 特になさそうなので、本日の宗教コーナー(そんなものはございません)、人間が老いて死ぬ理由。死なないと増えすぎて地球が破裂する、というのはあるとして、なにも老いて死ぬこともなかろう。青春を長くして直後ころっと死ねばいい、とも若い方なら思われるところですが、そうでもない。そうなると「不運な人生」は長くなるし、「自分の人生」はなくなる。
 前者はよろしいですね。残念ながら世の中、運が悪くない人間に対して運の悪い人間の差は大きすぎます。300年前、砂糖プランテーションの労働者だったとして、お前は70歳まで元気に搾取されたいか、といえば、わたしゃ嫌ですね。捕まって奴隷船に積み込まれた運の悪い人間がいる一方、そんな時代でも、アフリカの部族首長の王宮では、王が遊んで暮らしていたわけです。
 で、本日のテーマは後者。死ぬまで元気だと、人間には人生が残らない。
 運の悪くない人間にとっても、「若い頃の、かけがえのない、友だち」や「若い頃の、かけがえのない、記憶」こそが、その人間の人生じゃないですかね。60歳過ぎたら、まあどうでもいいとはいいませんが、それはオマケですがね。
 これが「若い時」が3つも4つもあったら、あれも記憶、これも記憶、「懐かしい」ヒマなんてありゃあしませんがね。他方、老化があると、いったん認識した悲痛は、そのまま持ち越される。そんな悲しい人生もありますが、でも全てが上書きされて忘れ去られる人生というのはなんなんだろう、と思いますね。それこそ、「あ、きみの人生ここまでね」「ええーーッ、なんでえエー、もっと遊べるじゃん」てなもんですね。これじゃなんで生まれたかわからん。
 それならその分、もう一回生まれ変わって生きればいい。
 ただ残念なことに、わたしはもう二度と子供時代はやりたくありませんが。
 というわけで、結論。人間よくできております。まあ、とりあえず、昔いた人のいなくなった場所は淋しくて嫌なんだけどね。
 
 で、話が老人なのでやめて、本日の役に立つブログ、若い写真趣味者用。
 先日読んだ田中長徳の本に、「画面が大きいと空気感が出る」というテーゼがありました。35mmより6×6、そしてそれより4×5インチ、という具合。
 この理由が本には書いてなかったので、追加です。
 空気感とは何か、で検索すると宗教的な発言が多くて困っちゃうでしょう。
 ほんとうはシンプル。
 空気感というのはボケ度のことです。
 ピント以外がボケているのでそこには「何もない」。これが空気と呼ぶ理由。
 したがって、画面が大きければレンズの焦点距離が大きくなり、ボケて空気感が伝わる。
 もちろんこれは相対的なものですが、ただし、同じ写真を大きさにすれば必ず焦点距離の大きいほうがボケている。
 焦点距離を比較して短い写真から長い写真に右から左へ視線を移せば、それまで見えていたものがボケて、そこには相対的に「空気感」が生じる。どこにもピントがあってなければしょうがありませんが。
 というわけで、この結果で現代に生ずる問題は、デジカメの値段の高さ。
 私の持っているようなコンパクトデジカメだと焦点距離5.7mm。いくら開放f2.8でもどうにもなりません。フルサイズ一眼なんて買えないしね、欲しくないけど。
 
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