リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

イデオロギーの根拠と総体としての人民の行動

2022-08-13 11:30:38 | 歴史への視角
 トップページ変更も兼ねまして、こんにちは。怒った次の日が定例更新日、なかなか学習能力が高い。
 東京地方、今日は突然湧いた台風、まだ雷が通っただけですが、夕方にはひどいって。
 せっかくのお盆なのにね。田舎帰りくらいしかできないね。
 
 皆様におかれましてはふるさとなどお帰りですか?
 ふるさと、いいなあ。わたしも故郷にいきたいなあ、ないけど。
 古里って、山でウサギを追うんだよね。川で小鮒を釣ったり。いいなあ。
 わたしの実家があったとこは目黒区でアスファルトしかないし。
 母方の幸手に行っても、ウサギなんかいないし。川はあるけど秘密の葦原が今ではまあ(間投詞)きれいな観光地。
 ちなみに「こういうとこが故郷では?」と思った旅行先は八王子東浅川の川沿い、狸くらいはいそうだし。

 知らないけど、当然、自分のふるさとにはそれぞれの良さがあるんだろうね、「よさ」というよりもっと強い、昔の言葉でいえば「根拠地」っていうかね。畑のくにもあるし、田んぼのくににもある、そんなことどうせ目黒区の人間にはわからないけどね。
 先日テレビつけてたら「子供にふるさとを作ってあげたくて(この田舎に)移住してきた」なんてひとがいたよ。生活能力が高いね。
 わたしも作ってもらいたいものだけれど、俗人的都会人としては、電気にプラスして、水道や(プロパン)ガスも欲しいとは思うんだよね。

 さてなんか面白いネット記事を探すと、MSNニュースで
 「指の形であなたの性格が丸裸!あなたの指はどの種類でしょうか?」Tips and Tricks
 「性格の秘密は薬指と人差し指に隠されています。あなたが本当はどんな男なのかを知る事ができます。そう、これは指の長さと男性のテストステロンレベルの関連性を研究した物なので、このテストは男性にのみ適用されます。このテストではA、B、Cの指の種類が紹介されています。
 A:薬指が人差し指よりも長い
おめでとうございます、Aの指を持つ男性はハンサムな男性です。チャーミングで誰とでも仲良くなれます。一方でちょっと攻撃的な面があり、素早くリスクを取る傾向にあるでしょう。また、仕事においても薬指が短い人よりも早く出世できるでしょう。」

 だってさ。こんなものは褒めて書けば当人納得してくれる、、、しかし正しいかも。って。
 
 関係ないようだけど、今週、小林清志さんという次元大介の声だった人が亡くなった、というのでテレビニュースを見てました。去年最後の次元をやったというが、おい、うそだろ、って。同じく円楽が病気だというニュースが出てて、新しい円楽って誰だっけか、と思って顔を見ても声を聴いても分からない。知らないはずがないのでウィキペディアを引いて、ようやく、ああ楽太郎かと納得。何を言いたいって、年齢がすべてを変える、、、
 人の振り見て我が振り直せ。
 どうやらわたしも昔の知り合いには顔を見せないほうが良いようです。
 
 以下、政治的な話。
 ところで、ねえ、見た? ペロシとかいうのが中共の反対にもめげず台湾に行って、そこまではいいけど、それで中共が怒り狂ったか予定の行動か、台湾封鎖的軍事行動に出て。いいよ、そこまでは。しかし、さぞアメリカが介入的海上行動に出るか、と思ったら、バイデンが言うには、中共との緊張は避ける、なんて。耳を疑ったよ。なにそれ。ほったらかしかよ。軍事包囲された台湾はどうなるのさ。
 というところで、これはウクライナとおんなじ構図。
 であればこれは同じアメリカの意図である、と思うのが、どんな人間も一緒。アメリカにとってはいざこざがあったほうがいい。北方領土に対する日本支配階級の認識のようなものだ。
 この意図で学生が思いつくのは、
 1 よっぽど軍事産業の排出物が余ってて消費されなけばアメリカは立ち行かない。
 2 他にあるか、ったら、「体制としての西東」をもう一度、作ろう、ということでは?
 それはお互いさまで、ロシア、中共、アメリカと、自分のテリトリーが不安定すぎる。西は西、東は東で確立していたほうが、トップの権力者は安楽していられる。作りすぎの武器を好きな時に捌(は)けるし
 アメリカとしては、ウクライナと一緒で、台湾はいらないんだよね、ありゃあそれに越したことはないけど。同様に、日本もいらない。ありゃあそれに越したことはないけど。どっちにしたって、大陸間弾道ミサイルを途中で迎撃するなんて無理と知れてるから。
 裏で中ロと手打ちがされてんじゃないか?
 
 アジア人は正直すぎる。毛唐が他人のことを考えた歴史があるか。
 帝国主義者や他称覇権主義者を信じたほうがバカ。これも世界認識です。昨日の名残で下品ですが、若人には御自分の上品な単語能力に合わせて、理論にセットすることをお薦めします。
 なお、これは隈理論ではありません。わたしが理論を作るなら、そっからとっかかる、と思うだけ。
 
 では次の政治を標題にします。
 社会状況確認でK派のサイトを見てみたら、相変わらずの威勢だけのデマゴーグに交じって「北井信弘」とかいう人の悪口が書いてありました。知らない人ですが、なんか分派した人のもよう。興味が湧いてそっちのサイトをみてみたら、「松代秀樹」という別名が。これは昔見た名前だ、(昔は)ふつうにまともだった片桐悠という人間とペアじゃん。なになに、現主流派のウクライナへの主張は第二インターナショナルと一緒だって? そうだろ。誰がみたってそうだろ。よしよし。今のK派のサイトは若きKのことをわかってないよな、とうれしくなりましたよ。他人たちのことではありますが。K派は嫌いだけど。嫌いなりにKの「プロレタリア的人間の論理」は打倒対象的愛読書だからよく知ってるんだ。
 
 とはいえ、こんな分派を作るところが悪しき福本イズム。良い福本主義なんてないけど。
 頭があれば考えてごらんな。すべてのイデオロギーはそれを正しいとしたい人間の存在理由でできている。これはマルクスの唯一の社会科学への貢献だから、マルキストなら知っているだろう。
 革命はそんな利害の集積と交錯の中から生まれるんだぞ。考えが違うから一緒にやらない、あるいはケンカする、あるいは殺しあうで、雑多な利害の塊である革命を集合できるものか。初めの集積がなければ、そこから頭一つ抜け出すこともできないんだぞ。
 もちろん、統一戦線を組む必要はない、しかし、歩みは同じでなければ絶対に革命なんか起こらない。
 こういうのは公安のほうがご存じだね。
 ケンカしてる間は人民の多様な利害が集約されることはなく、集約されなければ取捨選択されることもない。政府ご安泰だからね。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後段

2022-07-02 15:54:22 | 歴史への視角
 項目を変えました。
 さて本日の雑音情報。
 以下は「戦争推進者」カテゴリーのようだけれど、そうではありません。
 腹は立ってますが、順々にきちんといってきましょう。
 例のK派が調子に乗ってウクライナを賛美して「プーチンの最大の〝誤算〟は、ウクライナの軍と人民が、、、かくも勇敢に・かくも強固にロシア軍に立ち向かうとは想像だにしなかったことにある。」だのとのたまっております。「軍」だと?? Kが泣くよ。「軍」てなんだ? いったい何をもって「人民」以外に肩入れのアドバンテージがあるというのかね。つい口が滑ったって?
 まあそこまでで黙っとりゃ許してやってもいいが
 「死を賭して戦っているウクライナ人民にむかって「抗戦放棄」を〝勧告〟するなどというのは、帝国主義国で牙をぬかれて安穏としている自称「左翼」の傲慢と腐敗いがいのいったい何であるのか!」だと。
 ところでお前のおかげですでに何万もの人民が死んでおるのだが、お前は何をしたというんだね? デモだ? デモの自己満足で人間が殺されてたまるか。
 で、何をやるんだって? 口先男たちが。
 「全世界の労働者人民は、いまこそ殺戮者プーチンを怒りの炎で包囲せよ! そして台湾を焦点とする戦争勃発の危機をうち破る反戦闘争を創造せよ!」
 へ! 口先男が。文学で戦争に勝てりゃ誰も苦労はしねえや。

 もちろん問題はこのような口先のはなしではありません。
 彼らやその他の権力主義者たちが、「国家」を人間の命よりも大事にする心的構造を取り上げています。
 帝国主義者やスターリニストとそれ自体どこも変わらないにも関わらず、彼らは自分がデモに飽きるまではそう言い続けるわけです。いつまでも飽きないのは一部の職業幹部だけに過ぎません。
 「人民の命? そんなものはウクライナ国家のためなら要りはしない。」
 彼らは帝国主義者やスターリニストと同様に、人民は国家に命を捧げろというのです。
 いってない? じゃあなんなんだよ、偉そうに「俺は日本軍国主義のために死ぬのはまっぴらごめんだ」という口をふさごうと百万言を費やしているではないか。それが「自称「左翼」の傲慢と腐敗いがいのいったい何であるのか!」!! ウクライナはお前らのそんな理想の国家だったのか。
 
 わかりる?
 自分の命を保つための国家が、もちろんそんな「国家」など存在しないのだが、そのために命を失う本末転倒。もちろん国家は支配者だけのものであり、人民の命など守る義務はありません。人民だけの片思いです。
 
 さて、ここまでは戦争推進者カテゴリー。こんなことはもちろん馬鹿に言っても無駄なのです、彼らの賞賛と優越は「国家」に掌握されているからです。もちろん「革命」に掌握といってもいい。同じことです。人民が自分の幸せを作るための革命に「人民自身の」命を捧げる。なんて自己矛盾か。なに、矛盾なんかではない。彼らが欲しいのは人民の幸せなどではなく、世間に浮かんでいる賞賛と優越だけなのだから。しかも、ほんとうに命を捧げるのならまだ許せるが、言い飽きたらそれでおさらばです。
 これは馬鹿に限らない。日本への侵略者に対しては、「われわれ」アナーキストでさえ戦いたくなるし、戦うかもしれない。国家の支配はわれわれ人民の生活すべてを掌握しているからです。自分の家族や友人を殺されて黙っていられるものか。生活すべてと同時に(?)他者からの賞賛と優越も一に(いつに)ここにかかっている。おめおめと逃げ隠れしては賞賛も優越も消えてなくなる、それは馬鹿が自己反省もなく思う「国家」からの賞賛と優越ではありませんが、観念上相互交換されるものなのです。
 だからといって、他人を戦争に引きずり込んでてめえはどこも痛くもないくせにさも偉そうなラッパを吹き鳴らしてふんぞりかえっていることを許せるものではない。お前の親は、子は、戦争で死んだのか、飢えて見知らぬ土地をさまよっているのか。それを平気で、いったいそれでも自称左翼なのか。
(と、ここまでいっても馬鹿には違いは判らないような気がするので追加します。
 「戦う人民が欲しいものは家族の安全であって、国家の名誉なんかではない。家族が生きていける土地の保善であって国家領土の保持なんかではない。」ということです。
 そんなことは もちろん主体的に生きている人間であれば他国民でもわかる。
 それがわからない奴を呼ぶのに馬鹿以外の言葉があるだろうか。いいや、ない。)

 にもかかわらず、これがアナーキストが必ず闘いに敗れる構造であり、他方、アナーキズム思想が決して負けはしない、人民が手放すことのない永遠の思想であることの証左なのです。
 本当の闘いの勝敗は、支配者に自分をなぞらえ得た人間の数によって決まる。人民大衆が「我こそは支配者たらん」と思い込んだその人間の数によって決まる。
 馬鹿には矛盾ではないが、アナーキストにはたいした矛盾です。
 しかし、それが「歴史」というものなのだからしょうがない。

 あ、これは左翼初心者の子どもたちに言っとかないとね。歴史というのは歴史に敗れる人間を含めて歴史なのです。明治革命にどんな貧農が役割を果たしたか。明治末期のどんな貧農の行動が大正デモクラシーを呼んだか。もちろんすべての解放行動は破れた。そして、破れてなお歴史が進むのです。それは流れに乗って自慢げなマルキストたちには決してできやしない役割なのです。そして、主体的な人間というものは、たとえ破れようとも、自己と人民の自由を目指して闘うその側につくしかないのです。
 笑っちゃうKの著書に「逆流に抗して」なんちゅう本がありますが、おっしゃるとおり。こうして破れた、それが人民を前に進ませるのです。あるいはそのとき、多少ですが人民を前に進ませたのです、その頃は。今じゃ(今も)K派の諸君は自分たちが支配党になるつもりみたいですけどね。どこにそんな歴史認識の余地があるものか。これが笑わずに済むのかね。
 
 *********
 
 来週は七夕。「ああ今年は天の川が出るかも、、天の川は無理でも織姫彦星は出るだろ」と思ったけど、やっぱダメっぽいね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナショナリズムの前提条件

2021-03-13 11:42:05 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、雨。ここんとこずいぶん降って、一時は近くの小池も干上がりそうでしたが、ずいぶん戻してきました。これだけ降れば草木も文句はないでしょう。
 もう雪は降らないってことでいいかな。今年は雪かき当番なので。早起きして雪かきするのが嫌。いつもは雪見で好きなのですが。
 
 ところで忘れてましたが、3週間くらい前にメールくれて、返事が来ないという方はいないですよね?
 windows10に無理やりインストールした”windows live mail” がなぜかエラー起こしてどうにも直らない。なんかwindows10を更新したんですかね、しかたないので急遽office付属の”outlook”に変更したのですが、多少時間がかかってて。
 outlook、ほんと使いにくい。メールソフトもどんどん悪くなる。
 ところでIME、「急遽」って何かね。「急拠」でもんだいないじゃん。
 
 で、なんでもコロナ・テレワーク用補助金って10万円以下のパソコンにしかつかないって?
 そりゃひどい。
 皆様におかれましては、ノートならcorei5以上、SSD付きでないと不満が残るでしょう。それにOFFICE付けたらどうなるか。OFFICEは後付けでも10万は無理だな。
 わたしはデスクトップ(液晶無し)なのでメモリー8GM、corei3(デスクトップ用のほうが早いそうな)ですが、SSDなしで不満。購入後半年もすればディスクが詰まってきて立ち上げも更新もいらいらする。office付きで9万弱ではありましたが。まあ前のよりましだけどね。うちのでテレワークなんかできんのかな。テレワークはしないけど、テレ飲み会ってどうかね、面白いのかな。
 
 さて、福島10年も過ぎました。ところで「福島」と一般化していいのかどうか、だれも失礼だからいわないけどどうなのかねえ、福島も広いし。
 で、富岡。ほかのブログにありましたが、googlemapが効くんだねえ、すごい。一通り眺められるの。市街地まで行けばなんとなく昔の面影は見られるからそれもすごい。まあ部外者が感想を言うと怒られそうなのでやめますが。
 わたくしごとですが、市内でここに引っ越したのもその時。なので10年間の感想というのもありそうですが、ない。勤労仕事をしないこの数年、ほとんどゼロ。やはり人間働いてないといけません。
 
 さて、本日のお題のとっかかりはマンガの代わりに借りた佐藤優「はじめての宗教論・左巻」。この「マンガの代わりに」という接頭語は定期的に注釈がいるかね、「マンガのように文学的な」という褒め言葉ではなく、ただの「気晴らしに」という意味です。
 まあこんな特殊な書物が「はじめての」じゃ若人は大変。 
 しかし意味不明ではなく、佐藤優らしい良品。ほんと同時に借りた岩波講座現代とか、存在意義ないし。同著投稿者本人たちも、「業績岩波1編」以上の意味など自分でわかんねえんじゃないか。もう岩波要らねえよ。もともと存在意義があったのは岩波全書の時代だけさ。
 は、置いて。
 佐藤氏、イデオローグらしく、ナショナリズムを「宗教」とかいって、異教的讒謗 を続けている(読み方は「ざんぼう」ですが、覚えなくていいですよ)。もちろん「リベルテール=無政府主義者」を標榜している隈もナショナリストなんか嫌いだろう、とかお思いでしょうが、あにはからんや、というのが本日の趣旨。
 おにいさん、そりゃ違いますよ。
 佐藤氏のように何でも引き付けて大きく理解することは大事ですが、社会科学概念は順序を踏まないと間違えます。
 (1)まず、主張としてのナショナリズムはどの国家内構成員にも生じます。国家間のいさかいがある限り、観念的には結論される主張なので、このいさかいの周辺者は必ず考えるわけです。これに対置される個人重視の主張も、国家権力に脅かされる人間が必ず生じますので、その当事者が主張するところです。これは、対置はされますが、成立次元の違う主張です。いずれにせよ両者とも、ただの意見です。
 (2)ついで、国家権力者がイデオロギーとして流布したい国家主義があります。
 この存在には、かならず、そのイデオロギーによって叩き伏せるべき対象勢力のイデオロギーがあるのです。つまり、国家の分裂が存在要件なのです。いいかえれば、生理的条件の確保をめぐる闘争が存在要件なのです。ここでこれへの対抗イデオロギーは、国家を挙げた変更イデオロギーと、個人主義イデオロギーとです。このとき前者は主張されないナショナリズムです。
 
 イデオロギーの外観を取り除いたナショナリズムの本体は、暴力の行使をめぐる隣の人間との共有志向です。それは国家暴力と隣組で組織されることもありますが、それはただの暴力の組織化の1形態です。
 この主張されないナショナリズムの主体は人民です。国家が分裂しているときには、人民は自己の暴力「力」を国家に集約されるのは拒否します。そこで何と呼ばれようが、民衆の暴力は民衆の「うち」において集約される。ミャンマーを見ればわかるでしょ。その口では国家を唱えようとも、彼らの暴力の共有先は、隣の人間です。民衆の暴力はそれ以外に存在もしようがない。なぜか? 国家から離れた瞬間に、民衆は自分が殺されてしまうからです。自分が殺されて満足な仕様の下でしか民衆の暴力は発揮しえない。 
 ここでは初めに民衆内部での暴力の行使がある。次いで、その共有態勢がある。それが国家にとらえられるのは決して偶然でもないし、さらに重要なことは、国家の陰謀でもない。国家さえ困ったことに、民衆が自分たちで暴力を集約してしまうのです。
 
 ということは隈三部作の結論でわかることなのですが、しかし結論として書かないと普通分からない。し、全体社会論の次元からその結論はでない。人間の実践選択の場面に読者を引き連れていくことで、ようやく読者に理解される問題とその解読なのです。
 というふうに次回論究の宣伝を脱稿1年4か月前から続けるのはいつもどおり。ま、分かりにくいのもいつも通りですが。
 
 なお、キリスト者にお教えしますが、結局、聖書を基準にする限り神の真実は明らかにはなりません。たかだか人間が自分の都合で書いた叙述(しかも特定すぎるやつらが書いたそれ)ですよ、そんなもんに神が表れるものですか。神は天にいる。しかし天は宇宙ではない。それさえわからないやつになにがわかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イデオロギーの機能と価値

2021-02-13 15:16:11 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、3月4月並みの陽気だそうで。寒がりとしては、これで春では2月が戻ってきたらどうなるものか。
 こういうときは思い悩むよりは早くその恩恵にあずかったほうがよろしい。明日あたり「探梅」にでかけたいものです。探梅だってさ。いい言葉だね。朝日新聞のコラムに書いてあった。

 先週は心が潰されてこのブログもすっ飛ばしまして失礼しました。頭脳の容量オーバーのなせるワザです。
 飛ばしたといってもどうせ大したメモはなくて。
 ほかの人が言わないニュースでは、こんなのはいかが。 
 「多目的トイレ」の名称やめて」 
「国土交通省は、建築物のバリアフリー設計指針を4年ぶりに改定する。障害者ら向けのトイレは「多目的」「誰でも」といった名称を避け、利用対象を明確化するよう求める。一般の人が使うことで本来必要とする人が利用できない事態を防ぐ。」(共同通信) 2021/02/04 。

 もちろん取り上げた意味は不明でしょう。趣旨は「おお。偉くなったもんだ」。
 ちょっとイヤミだけどね、リベラルのはしくれの私ですが、こういう勝手な言辞は好きじゃない。
 もともと多目的トイレという名称は、「障害者用」では逆差別という風当たりが強いからつけた名称です。って、わたしゃつけた当人じゃないけどね。
 「どなたでもどうぞ、使えますよ」と触れ回って障害者の便宜を図ったのに、それを今となって「健常者が使うからそれやめて」じゃ、名前を工夫して制度を右翼議員の非難から守った人の立場がないじゃん。
 ひとこと、長年の制度が定着して、とか障害者の権利が守れて役目は終わったので、とか言ってほしいよ、わたしゃ関係ないけど。人間同士だからね。
 
 憎まれ口ついでに女性問題も。
 森喜朗。こういう老害人間がシンプルに許せないのはわたしの個人的事情。こいつらは生涯の敵なのだ。が、ここではそうではなくて、「男」の言語概念の問題。
 わたしなど、よく、「男は言をたがえるな」とかって表現を、口に出さなくとも頭の中で飛ばすわけさ。小学校で教わった竹之内誠蔵先生は鹿児島県人だからね。 
 もちろんそんなイデオロギーは、要するに江戸期武士官僚=プチ・ブルジョワ知識人固有の道徳です。そんなこといってたら、昭和の民間資本家・労働者連合は生きてはいけない。
 とはいえ、プチ・ブルジョワの特性とは、人間の本質的特性です。自由に生きることが可能な範囲の広い人間階層の特性。
 たしかにそれは表面上の言葉に過ぎませんし、当人が窮地に陥ればそんな信条は跡形もなくなるわけではあります。言ったが勝ちのイデオロギー。もし仮に跡形があるというのなら、それは「良心的」資本家・労働者が生きたあとに残し跡形と一緒ではあります。9割の人間は、多少は正直ですから。
 ま、ともかく、支配社会でかような箇所に使われる「男」なる用語は、その社会での最高道徳に位置するわけで。
 つまり、世間の美味しいところはすべて「男」に取られてしまっている、この状況の反映です。そのこと自体は嘆かわしいところですが、しかし、当該センテンスの意味するところは普遍的なものです。
 「男ならがんばれ」
 「男なら泣くな」
 すべて「人間」にとって必要なものです。
 この文言の示す価値を、差別の名で押し流してはいけません。
 
 もともとこういう事情は権力の偏在のなすところです。権力の大小、というか、すでにここまで歴史が続くと支配と被支配の問題といったほうが正しい。
 支配者は自己の支配の安寧秩序のために、武力行使の代わりに、武力を背景とした役割設定とその役割の保持が必要なわけですが、この保持のためには「弱い」者は助けないと死んでしまうし、あるいはその社会で「人間」扱いされる階層であれば、彼ら「弱い者」の協力も必要です。それにはこの支配階層者による援助行為が「当然でなくとも当然な」イデオロギーが必要だ、というわけです。それは社会において「当然」であってはならない。つけあがられると自分の地位に関わる。といって、ないわけにはいかないのだから、それは「不平等を前提とした当然」というイデオロギー下でなされなければならない。かくて、男はあくまで「人間的価値」を担い、女はあくまで助力の対象でなければならない。
 それはあくまでイデオロギー上の問題であって、イデオロギーは社会的事実の存在によって、時間をかけて廃棄される。しかし、イデオロギー憎さにその実体を流してしまってはならない。

 というわけで、そのうち遠からず私なども、別の意味で森・川淵化扱いされてしまうんだろうねえ。それもしょうがないけれど、しかし、処世の真理は一つです。もとより、処世の方法に過ぎませんが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史における庶民の意識(久しぶり)

2020-04-04 11:00:02 | 歴史への視角
 こんにちは。今日はいい天気なので少し明るい。ほんとにコロナコロナで気が滅入る。どんどん画面の入力文字も見えないし。ぐちブログになってしまう。
 とはいえ、春、久しぶりの休日天気で、気晴らしの花見にはいい日和。いつもいいますが、多少葉っぱが出たほうが春らしいし、散る花びらもきれい。歩ける範囲でまだ間に合う桜を探すのも一興かと。
 
 こんな春らしい写真ニュースもあるよ。
「北海道恵庭市にある農業と環境のテーマパーク「えこりん村」で、羊の出産がピークを迎えている」「2日時点で約400匹が誕生。さらに60匹ほどが今月下旬までに生まれる見込みだ。柔らかい毛に覆われた子羊たちは、母羊を追いかけて乳を飲んだり干し草に寝転がったり。獣舎内でもかわいらしい鳴き声が響き渡っている。」(読売新聞)
 なんて楽しそうな子羊と、なんて誇らしげなお母さん。幸あれ、ねえ。ほんとは幸ないともいえるけど、でも、たとえ短くともねえ。
 暗いか。
 
 暗いついで。
「一般的に使われる使い捨てのマスクをすると、ウイルスはマスクの外に出なかったとする実験結果を香港大学などのグループが発表」「空気中を漂うような飛まつの中からも、ウイルスが検出されなかった」(NHK)
 なにをこの期に及んで。今まで「マスクは大きな飛沫だけ防ぐから、ないよりマシ」とか言ってた医者たちは、あれは何? いやもう長年知らされてます。医者の口はみんな受け売り。聞いて意味があるのは彼や彼女の「経験」だけ。科学のかの字もありゃしない。
 もちろん、こんなニュースだって眉唾だけどね。
 で、アメリカ国民もマスクをつけるって。巨大な買占めがさらにいっそう。もうカネのない国はおしまいだね。食料自給率以外に「マスク自給率」もカウントするようにしないとね。
 
 日本じゃアベがマスク配るってったらさんざんな評価のもよう。まあ総額200億円プラス配達料50億円、プラスその他人件費等、つったら、1軒200万で1万5千世帯分ほどにもなろうから、悪口もしょうがないね。
 ただ、じいさんが子や孫にマスク配りたがるのであればそれはそれでモラリスト的にはいい気持ちもするんだけどねえ、もちろん私費でね。税金は爺いの持ち物ではないぞ。でも気持ちはそんな気持ちだろうねえ、囁いた官僚も家では買いたいけど買えないんだろ。

 志村けん氏がなくなった件。志村氏、私はコント以外は知りませんが、あまりいい思いもないところ、みなさんが弔辞的に褒めてらっしゃる。まあ喜劇界じゃあ権力者だろうから、と思っておりましたが、ふと反省するに、やっぱり頑張った偉い人だったんだろうねえ、と考えを変えました。不肖モラハラシスト隈は、50年前彼がテレビに出た瞬間から見ておりますので、彼の必死さというのは痛々しく焼きついている、なのに、それであの笑いかよ、ウソツキにもほどがある、との思いが続いておりました。
 ところが彼的には生涯必死さを続けたようです。それで生涯を遂げれば、それは人は帽子を脱がなくてはならない。偉い人だったのだろう。「冬の蝉」(さだ)かね。
 私が帽子を二重に脱いでいる田崎真也氏に似てるしね。顔が。

 さて、コロナの間を縫うように話題を見つけて本題。
 このコロナ騒動を佐伯啓思が朝日新聞で ”こんな余裕のない社会じゃだめだ、市場主義や効率主義はどうしようもない” といっておりました。市場主義? 悪いのが資本主義本体っていえないところが小者だけどね。佐伯って、経済学者で自称真正の「保守主義者」ね。しかし、「市場でやりとりする」からじゃないだろ、資本家も労働者も資本によって行動を制約されているからだろ。それは市場主義ではなく資本主義本体だ。経済学やっててそんなの知らねえとはゆわせない。単におれはアカじゃないぞと表現しているだけだ。 
 は、いいとして、余裕問題。「昔だって資本主義だぞ、なんで余裕があったのだ? それは「市場主義と効率主義や過剰な情報文化」がなかったせいではないのか」てな非難。
 はい、違います。それは後進日本の賞賛と優越のせい。ということは権力の源泉のせい。
 実際私の知ってる50年前は、公務員はおろか、大企業でも中小企業でも、余裕というのはあったのですよ。もちろんこれら3者で現象形態は違うけれど。
 公務員:幹部の俺はお山の大将、だけど金じゃなくて国や地方のために身を粉にして仕事をする、お前らも俺を見習え。やるときにそうやれば、後の時間はどうでもいい。
 大会社:みんながんばってやってくれれば生活は保障する。幹部も平もそれは一緒。待遇も一緒だし、仲良くやろうぜ。
 中小零細企業:よしわかった、おれが親だからな。大企業と比べたら待遇は悪いかもしれないが、しかし俺だって親だ、俺の責任で決してわるいようにはしないぞ。
 こんなこと本に書いてないしょ。どうですか社会学者のだんな、わたしゃ自称労働社会学徒だけどそんな論文読んだことないぞ、もちろん「温情主義」「家族主義」っちゅうのはあるけどね。しかし、その本体は別に温情ではない。「親」といっても「家族」から導出される主義でもない。その本体は生産共同体の長が取るべき態度であり、価値基準であり、従って、賞賛と優越の問題なのだ。
 ま、これも戦前から50年前までで、今じゃ違うからいいんだけど。
 ともかく、この論理が生活の隅々に蔓延したところでは、もう死ぬほど働かせる理論はない。いわく、余裕。悪の代表、トヨタは別として。
 で、この3様は順番なのだけれど、これには欠けたものがある。農民です。農民は別か? いや農民こそが余裕の本体。
 公務員の上に「地主」が来る。というのがわかんないと、あなたが社会科学徒ならいまいちだぜ。後進日本で一番偉いのは地主。貴族院の構成は? 大地主の財産を引き継いだ地域支配者である華族等と、地主が送り込んだ帝大出の官僚と地主そのもの。すべてが、地主(財閥資本家もいますが)。
 地主ってそもそも働く? いいや働かない。地主は結果として支配のシステムを全うすればそれでよい。
 ここで、権力者地主が労働管理者の尻を引っぱたくという構造はゼロなのです。
 もちろん労働管理者は資本主義の論理で働くし、労働者は更に別の資本主義の論理で働く。にもかかわらず、資本主義は同じ基準において、余裕を持てる、のです。地主と一緒に正月を祝い盆を祝い、親が死ねばそれは大変だ、ゆっくり休めと休みも「くれる」、子供が病気「で妻も寝てたら」わかったよ、後は社長の俺に任せろ」ということになる。「ことになる」のは恣意だけれども、要するにそれが可能な体制を企業体も常に常態で持つのです。もちろん公務員なら監査もその通り行われるし、議員の監視も同等です。この権力的公務員に大企業は合わせるので、問題は必死についていこうとする中小零細企業だけ。現実としてしわ寄せの来る中小零細に相当な格差が生じた、というわけです、過去ね。しかし、農民の権力上の衰退と資本主義の全般的危機による世界競争の激化は、資本主義に論理上本来の効率本位主義をもたらした、というわけです。
 実証で示せ?
 お暇な方がどうぞ。実証はそれに身を投じた方がやるべきで、やらなかったのを理論家のせいにしないように。
 って、尻、まくってるね。
 自分に良いようにばかり書いてる? モラハラだからね。しかし、そうだからこそ、それぞれがそれに合った人生を自分の人生として選ばなければならないんだよ。たとえばどうしても悪いのは市場主義だといいたければ、保守主義者ではなく、資本家の走狗といわれることを容認する、それで本人がよければ他人のことだからそれでよし。

 と、こんなふうにケンカ腰だと、明日後悔するのね。下品だからね。
 ま、このブログのレベル的には最低限の範囲内でしょう。

 
 (注)「市場主義」は市場の機能で生産と消費を調整すること。辞書に書いてある。資本主義とは資本の本体である利潤を労働者(と自分)の行為を犠牲にしてひねり出すこと。従って市場主義には社会主義もありうるが、資本主義には社会主義はない。あたりまえだ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主体性の原型(元)

2019-11-30 20:47:56 | 歴史への視角
 こんばんは。東京地方は晴れですが、風が強くて正月よりも寒い。明日から12月ですが、今年の晩秋は日本中天気が悪かったらしく、いったいいつ紅葉が見頃だったのか不明。今日は日中、駒沢公園あたりをうろついてましたが、紅い葉はなかったのは残念。でも師走を控えてか、あちこちずいぶんの人出でした。

 さて、世間話、
 「白浜町のアドベンチャーワールドで飼育されているジャイアントパンダの「彩浜」が28日、屋外運動場にデビューしました。」(テレビ和歌山。
 1歳3ヶ月だって。シャンシャンちゃんよりちょっと落ちるけど可愛いね。
 それに比べてびっくりなのがアメリカから中国へ送還のパンダ(ベイベイ氏)、「人気者にお別れの日 米のパンダ 中国返還へ」(FNN.11.20)。まるっきりあの可愛くない映画「カンフー・パンダ」そのままのお顔じゃないか。4歳だって、歳のせいなのか食べ物のせいなのか飼育員の心のせいなのか。
 
 ここんとこサザエさんの歳が(加藤みどり)80歳と聞いて驚いたところ、(マスオさんは、声が変、と思っているうちに(ときどき見るの。)声優が代わってしまった。83歳)ルパン三世は「カリオストロの城」の頃の人はもう誰も残ってないんだって。大好きなのに、声が違うと見る気がしない、、って話が長すぎてもたないだけだけど。なんでも今の若人も長い映画はもたなくて、映画見ながらスマホいじってるんだって? 私も若い。
  
 「政府、、は29日、ウェブの閲覧履歴がたまる「Cookie(クッキー)」と呼ばれるデータについて、第三者に提供すると利用者個人が特定される場合には、利用者の同意を取ることを提供者に義務づける方針を明らかにした。」(朝日)
 といっても、同意しますか? と尋かれればふつう、「うん」というしかないけどね。
 わたしなど政治団体はぜんぜん信用していないので、ネットニュースを見に行くのにもクッキーはブロックしていくのだけれど、最近C派に逆ブロックされてた?のが以下。今見れるけど。みなさまもお気をつけ。まあいいけど。
 「変形労働時間制は、、、労働者の健康と生活を守るために、対象者や対象期間、労働日ごとの労働時間を労使協定で締結することが導入に際して義務付けられている。」「ところが今回、労使協定もなしに自治体の条例で教員に導入するというのだ。労使協定は当該労働者との同意を必要とするが、条例での導入はこれを必要としない。労使対等を原則とする労基法を踏みにじるものだ。」
 おっしゃるとおり、法理論上、こういうことをしちゃいけないのだよ。代替制度がないからね。基本の基の字。今の東大じゃあそんなことも習わないのかねえ。
  
 「兵庫県尼崎市の路上で27日夕、指定暴力団神戸山口組の古川恵一幹部(59)=尼崎市=が射殺」「現場から発砲後の空の薬きょう15発と、不発だった実弾13発が見つかった」(神戸新聞)
 自動小銃だってさ。威力の強いマシンガンのことね。こんなのが一般人に手に入るようじゃ、時代が変わるね、半分不発というのは密造かもしれないが。政府は自衛官要員をもっと欲しいようだから、貧しい人民は徴兵されて、自動小銃に慣れた革命部隊は銃撃戦も辞さず、か。資本家もアベには気をつけたほうがよいぜ、必ずしも味方ではないぞ。
 それにしてもそんなもんの撃ち方、どこで練習したのかね。韓国かな。そのうち横浜IRでも射撃ができるようになるだろうね。もうカネのためにはやりたい放題だね。 

 というわけで本題。
 最近知ったこと。迷信って、その人の生活が怖いからその怖さを薄めるために主体的に作るんだって。
 といっても意味不明。
 神の祟りというのは、せめて、祟る行動を明確に決めて、しかし、そのタブーさえこなせば、あとの日常は神様が助けてくれる、という積極的な救いのストーリーだ、という趣旨。
 だからして、祟りのある生活というのは、なんら近代人に劣った精神の産物ではなく、やむにやまれぬ合理的精神の発露である、と。この迷信を取り払うのは近代的精神ではなく、恐怖することなく今日も明日も暮らせる生活だ、と。
 知ってた?
 たとえば平安貴族は、カロリー量しか取り柄のないアルファ化米と乾物の防災備蓄食料のような食生活と、道端に放置された貧しい人民の屍体に囲まれた生活で、30、40までしか生きない明日のない生活に恐怖する。そこで迷信でもそれを定めて、そのタブーを避けるようにするしか運命と折り合いをつける道はない。
 たとえばロシア農奴は、寒さと飢えの中でしかし、やはり生活は続いていく。暗い冬の夜の魑魅魍魎は神父しか助けてくれない。だからせめて神父の言うことは聞く。
 たとえば炭鉱労働者は、暗闇の中で1秒後に起こるかもしれない落盤を逃れるすべはない、できることはヤマの神を怒らせないから、と決めたことだけだ。
 これはさ、十分に主体的な行為だと思ったことです。誰も批判を言う権利はない。生活に恐怖のある間は。
 さて、だから、というわけです。
 じゃあ、平安貴族は、あるいはなんだらかんだらは、すべて主体的な人間なのか、といわれるとそうではありません。主体的行動とは、それをやりだした人間、それを助けた人間、この人たちに係ることなのです、あとは乗っかっているだけ。社会事象は常に、主体的な人間によって創造され、それが必要な人間によって維持される。この必要は、もちろん環境的要因によって生まれ、これと人間行為の原理と原則が交差したときに、主体的な行動が発現する。
 さて、ついで、この過去主体的であった行動の維持は、新しい環境の必要の下で、しかしそのままでは変化はしない。新しい主体的な行動によってのみ変化の契機が発動し、これに、生活の恐怖ではなく(生活の恐怖は運動を作れはしない。それは生理性の原則に反する。)、賞賛と優越に乗った人間によって運動化され、その結果過去の行為慣習は捨て去られる。
 これがプロトタイプの主体的行為の全容です。
  
 というわけで、最近初めの一歩を教わった人だけ書いておきましょう。森崎和江「奈落の神々 炭鉱労働精神史」。何ページだよとか言われると困りますね。こういうのは読解力だから。
   
 次回論究、ようやく構成もできて、ここんとこの最後に近い迷いが、例によって、どこまで悪口を少なくするか。そもそもマルクス経済学の批判が発端なのだから全文批判で出来ているようなものなのだけれど、ご存知のようにどうも人をばかにするくせがあって、批判というよりは全文悪口。悪口を消すと中身も消えるという。例回は軽いイヤミに直して上程してるのだけれど、最近はそんなに殊勝な心になれるほどいいこともなくて。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚無に対する主体性(続々)

2019-10-14 15:02:24 | 歴史への視角
 (前回と前々回の続きです) 

 ここまで、宗教もダメ、思想もダメ、だまされるんじゃないよ、と、いかにも述べてきた風です。それでは取り残されて労働者人民は何をしたらいいのか、社会学の勉強でもしろというのか。
 そうではありません。
 私にはネットウヨのリベラル批判からは彼らの歯軋りが聞こえます。「ちくしょう。ちくしょう」と言っている。何をそんなに悔しがっているのか。「誰か助けてくれよお」と確かに聞こえる。わたしは長生きしてるからね。
 述べたように思想が迫るものは「思想を語る彼ら」からの賞賛と優越です。それでよければ私の関知するところではない。彼らの中で仲間として賞賛と優越を得てゆけばよい。
 しかし、それはただで手に入るものではない。その代償は、彼らの気に入る行動です。
 何度も言うようだが、それでよければそれでいいのです。とくに子供たちはそれでいいのでしょう。
 しかし、思春期を過ぎた人間は自己を持ってしまっているものです。年寄りやブルジョワジーの手先である口先男たちに対して、それゆえの「ちくしょう」の言外の罵声のはずです。
 
 「ちくしょう」というこの疎外を満たす満足は、大人になってしまえば、自己から出て行く行動の成就によるもの以外にはない。 
 もちろん、超自我の持ち主のような少数派はどうでもいい。初めから勝手に行動をしているのですから、本人の苦労度のいかんを問わず、一般的に論議するのはムダです。(私のことですが。) 何それの行為をしたからといって心の中の「超自我」が賞賛してくれることもない普通の人間にとって、自己の自由を保障する賞賛と優越は、自己が新たに社会関係を結ぶ平等な、行為共同性を同じくする、そんな人々との間の賞賛と優越しかない。
 すなわち、自分の生理的状況を改善する事実認知と、それとフィットする限りでの新しい人々との共感です。決まりきった修辞で言えば、新しい明日の認知です。
 残念ながら人との認知詳細は、次の瞬間に引き継ぐ。それまで裏切り、裏切られ続けた人々との記憶は、決して行為主体の新しい明日を導きません。現実には導こうとも、人はその認知を拒否します。ですから、相変わらず正義漢面した人間の言など、はなから聞く耳は持たない。これは正義漢の方々には理解不能でしょうが、それは正義漢の方々が社会学を勉強していないせいです。本来、高校で習うことなのですが、優秀な社会学徒は高校教師にならないのでしょうがない。
 それはともかく、「どうせ人間たちなどこんなもんだ」と思ってその日暮らしをしてきた疎外された人々は、新しい未来と新しい人々の間で自分の新しい未来を形作る。この過程の提示が「論理」というものです。「存在するものは合理的だ」などと知ったかぶりをしている人間は、この新しい論理の恐ろしさを知ることはない。そもそも人間は全てです。正義漢だけが理想の人間であったり歴史的主体であったりするものではない。一人の人間は、彼個人の主体において、社会の歴史のトータルなのです。ただ、その前提さえ備わったなら。あるいは、誰かが備えてくれたのなら。
 
 じゃあ、その未来とは何か。その生理的状況の改善とは何か。そこで仲間となる人々とは何か。
 それはとりあえず、論理そのものの問題ではありません。そこから先は私の口を出すところではありません。彼らは私とははなはだしく違う。そこから先は彼ら自身の思うようにすればいい。あるいは彼らの中の先覚者が、率先して広めればよい。
 このように、人間は誰もがトータルです。私は彼らは嫌いですが、しかし、彼らは友達ではないにせよ、「仲間」なのです。マルキストを仲間というのなら、ネット右翼も当然仲間なのです。
 願わくば、歴史の仲間たちが虚無に面してせっかく生を享けた一回限りのその自己を失わぬよう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思想に対する主体性(続)

2019-10-14 14:53:19 | 歴史への視角
 こんにちは。台風ひどかった。近くでも川の水が溢れたり大雨が低地に溜まったりで浸水。何十年か前の災害状況が再現されています。昔起こったことはまたいつか起こるんだね。危険な堤防。危険な埋立地。昭和まで利用されないで残っていた土地は、戦後にどんな立派なビルが建とうとしゃれた家が建とうと危ない土地。若人は、いくら安くても関わっちゃあいけないな。ニュースの福祉施設の陰には新築住宅も多いと思うぞ。古くから居る周りの人は教えてくれない、というか教えられないからね。自分で情報処理しないと。
 昔、近くの多摩川で堤防の端の家々が一部堤防の不備で流されたことがあって、大学の講義で学校教育論を受けたとき、担当の教師が新築の家を流された当事者だった。自分でルポ記事も出したみたい。と思ったらネットに名前も出てた。横山十四男氏。本職は日本史なんだね。
 多摩川の本堤防も、高さぎりぎりでよく持ちこたえているのが不思議。経験値なのかねえ、これからもっと高くしろっていったら膨大な事業だけれど。山の一つや二つ消えそう。
 まあひどいのだけれど、千葉の安房地方の直撃じゃないというのがせめても。

 それにしても日本の一年は災害ばかり。このままでは本題に行き着けないので、目先を変えなきゃ。今日は体育の日なんだよ、知ってた? これはどうも国家の秘密みたいで、朝日新聞をくまなく見たけれど、第1面の日付欄に一箇所、12ポイント活字で書いてあるだけだった。
 というわけで、ラグビー。ニュース映像だけど、(昨日に限って)かっこいいトライだったですね。ずうっと昔見たラグビーの動作紹介試合みたい。あれ(複数)は自慢できる。ファンの方は地味にお祝いしてやってください。
 
 と日常に戻って、予告の続き。
 「主体性」の問題とは本質的には前回記載のようなものですが、現実ではそれは少し彩られる。
 
 主体的に社会に立ち向かおうとする行為主体は、その手前で立ち止まる。「そんなことやったって無理だ」「何で俺がそんな無駄なことを」。
 これが第2の「主体性問題であり、かつまた、現実には、多くの人間が自己の意思を自分で見つめられるようになった時代に、哲学者・思想家が第1に直面した(であろう)焦燥の状況です。つまり「社会の中で」主体となる姿勢です。
 人は自分さえ生きている限り社会のことを考える必要はない、とはいえます。これが本来の主体、即時的な主体です。にもかかわらず、人は社会の中で、他者を考慮に入れた際、その社会に抗することが求められる、ことが必ずある。これが第2の主体性です。
 正しく言えば社会は、人間に対し、その人間の服従とその人間の決起の2通りを別々に求めてくる。社会は他の人間を介してその要求を行う。支配者の小頭は服従を、運動活動者は決起を。
 これへの対応は、服従を取ろうが決起をとろうが行為主体にとっては主体性であることに変わりはない。文句をいう奴には「勝手なことをいうな。俺が選んだのだ」というものです。
 にもかかわらず、服従はさておき、社会に抗する決起は、これを行為主体が行わなければ社会はどうにもならない、常に要求があるにもかかわらず、常に誰も行わない、究極の対応です。これを社会は「主体性」と呼びます。いわば、社会からの呼びかけです。これは呼びかけであることをみれば分かるように、社会の賞賛と優越を含んだ価値行為です。
 これは「自主的」に似ていますが「自主」に含まれる率先性は期待されていません。ただ、「お願いだからやってくれよ。お前がやらないとどうにもならないんだよ」という問いかけへの対応の要請です。
 他方、服従者は社会にとって主体ではない。自分だけの行為をしても、社会にとっての行為しない主体は石ころと同じです、もちろん支配者も直接の当事者たる支配の小頭も、抵抗しない人間は石ころです。そのままほっておけばよい。もっともこの石ころは自分たちのために果実を生成してくれるわけですが。
 
 この事情が社会科学に、賞賛と優越を伴ってイデオロギーとして侵入するわけです。
 科学にとってその「するための意義」は行為主体にとっての意義です。したがって行為主体が自分のためだけに生きていてもそれは科学にとって差し支えない。科学は彼のために彼の役に立つ立言を提供する。
 この普遍的な事情に、しかし、社会は人間を介して、それ以上のことを他人に要求する。社会科学は、社会のための行為をすれば代わりに賞賛と優越を与えよう、と行為促進のイデオロギーを供給するというわけです。イデオロギーを追加すること自体が悪いわけではないが、その申出自体は科学ではありません。追加はいいが、隠して混ぜてはいけない。たとえば主体性論争とは、戦争推進哲学者からも推進される非科学だ、ということをまず認識しなければならない。が、その認識は行為論的社会学以外にはできない。さて、認識した上で、この要求をほっておくかどうかは、逆に科学の名において拒否できる問題ではなく、行為主体が逃れることのできない対応だ、というわけです。
 
 で、まだ続くから不思議。
 たたみこむように、次は、虚無に対する主体性(続々)。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教に対する主体性(正)

2019-10-12 12:59:41 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、右(東)からの風が山地にぶつかってすごい雨。これで風まで来るのは願い下げですね。「願い」って、安房地方を通過していいかといわれるとそれもあんまりで。
 困ったもんです。
 まあ、今日は買い物はありません。
 
 でも、この雨でアレルギー元のカナムグラの花粉も全滅かもしれない、こちらは願いたいものです。花粉ひどくて。
 春にもいいましたが、ぜんぜん効かないアレグラ、まだ10錠以上残っているのでよせばいいのに飲んでみました。が、完璧に効かない。悪化する。ティッシュの山。なんなんだろうねえ。
 それにひきかえエスタックイブは神のよう。1回で1日もつ。ただ、胃が重くなるのね。
 
 さて、ニュース。
 ノーベル化学賞、おめでとうございます。どうもお歳が誤記ではないか、と思いましたが、企業研究者で、若いときの他の幾つもの研究は失敗のし続けで大変苦労したそうな。苦労は髪の色に反映するのね。対して、気を使うと髪の量に反映します。企業研究は命を縮めるということで、大変です。褒めてないのでお名前は略。

 柳家小三治、一昨日の朝日新聞。
 落語を磨き上げるとは「自分や人の生き方に、何をどう感じて生きていくことかってこと」若いもんは「誰かが評価してくれるだろうって期待してやっている。そんなことより自分が何をしたいのかが大事だぞ」とご発言。
 そう思うぞ。小三治だもんな。もう落語家も少なくなってしまった。笑わし屋ばかり。
 
 では、早々に本日のお役立ち情報。本題がつまらないから全体を短く切り上げようと。
 某左翼もののブログをみたら、不用品処分のお役立ち情報が出てました。以下、彼の言。
 「断捨離で埼玉県のG社に不用品処分を依頼 電話で荷物の内容も伝え「軽トラック積み放題」で1万5千円の定額のはずが、当日現場に来てから 3万4千円で冷蔵庫など3点しか引き取れないという。定額じゃないとしても相場の倍。ふざけんな!」「G社に電話 説明を求めたら、会社としての説明は一切なく、『で?どうして欲しいの』と鼻で笑った。」「運送業経験者の友人が、不用品引き取り業者はネット情報は全く信用できない カオスの世界とのこと。比較サイト、口コミサイトも信用できない。電話帳で選んだ方がマシらしい。」
 そうなんだよね、みなさまお気をつけください。左翼だからそれなりに応答できても、女性一人暮らしとかだと悔し涙で支払っちゃうよね。
 そこで、どうしたらよいか。
 1 引越し等の機会であれば、不動産屋に紹介をお願いする。
 2 本気の断捨離で山のように出たら、「仏壇も引き受け、ちゃんと仏壇供養をします」と明言しているところ。これは私の世間知で、「一事が万事」の応用です。
 まあどちらも値段はそれなりでしょうが、儲けようと思えばリスクも出ます。
 
 というわけで、普通の方はまた来週。今週中の次回はつまらないのの続き。
 本題。
  前々回、「労働者の最後に残った自由は感受性」と述べましたところ、絶対理解されないかと思いますので、ちょっと真意を述べておこうかと。
 
 まずは、思想を述べる者なんてなあ、いい加減なものです。左翼思想家とか牧師とか僧侶のことです。やれ主体的に歴史に身を投じろだの、やれあれしちゃいけない、これしちゃいけない、我の教えに背けばその身は滅びるであろうとか。てめえらは安全な場所に居て言いたい放題。かたや労働者人民は「悪」に手を染めない限り生きてはいけない。それでいいといっているわけではなくて、人間のトータルの世界が来るまでは、労働者人民は決して満足できるはずもないのだ、といっております。本当の神仏の民や、プロレタリアートの魂にとって、人生の真理は、言いたい放題の自己満足にではなく、悪に手を染めざるを得ないそのくやしさに、あるのです。
 個人の思考上で作り上げた偉さだけを述べるなら、寺院や教会やセクトのアジトでやっていればいい。自分でカネを稼いで明日を生きなければならない世界の人間は、お布施や寄付金やカンパでのうのうと暮らしている連中のいうことを聞く必要など、かけらもありはしないのです。
 
 人間の主体性とは、すなわちある個人が生を享けて、その生を自分のものとして死んでいく、その意義とは、不労所得者がもてはやす自称善意などには関わらないことは、わざわざ親鸞を持ち出すまでもない。毎日、悪を行わなければならない人間が、ある一瞬に、しかし、溜めに溜めた正義を行うことで決まるのです。もちろん、世の中にはその正義を行うその一瞬前に生を終えることもある。それがどうだというのか。人間の主体性は、そっくりかえった坊主や牧師や思想家の言にあるのではなく、今日は腰を曲げ頭を下げながらも「明日こそ正義を行うんだ」と決意した人間の心の中にあるのです。
 人間にとって、自分の感ずる「意義」とは、何の規定性もないゼロの意義などではない。人は感受性によって将来を見据え、それを実現しようとする自己と、その将来の実現を阻害する「社会」とを認知する。人とは感受性なのです。
 感受性といっても何の規定性もないわけではない。社会の中の感受性とは、人にどうしてやると喜ばれるか、あるいは人にどうすれば自己の威厳が確保できるか、そうした人への賞賛と優越なのです。
 
 すなわち人間は、他人の中で生きることなくして人ではない。
 端的にいえば鉱山奴隷は、ひたすら自己の力を振り絞りこき使われてくたくたのまま明日を迎え、そうしてただ単に堅いパンをかじり濁った水を飲んで若い命を終える。これを人間とよんでいいわけがない。どんな良心的な同情心溢れる宗教家であろうと、ここに主体性があるといってはならない。
 しかし、鉱山奴隷は疑いもなく人間です。
 人間には一瞬の正気の機会がある。岩石を削り運び、いくら死ぬほどに疲れても、翌日の夜明けには、「俺はまた働くのか。ここには家族も友もいないのに」と考え、絶望する。この感受性こそが主体性です。そのときに「奴隷主をぶっ殺してやる」と思わなくとも、その苦渋の感受性の一瞬こそが人なのです。彼は今日死ぬであろうが、そのとき彼は神や仏の前で胸を張って、「俺は死ぬほど生きてきた」と言えるのです。もちろん疎外された支配者が作った神や仏は、自分が無視された人間の事態を認めはしないでしょうが、現実の神や仏は彼を天国や極楽に連れたもうのです。なぜか? もちろん神仏は自分だけの審判や往生のことしか考えない牧師や僧侶よりも偉いからです。神や仏が作ったのは個人ではない。被造物は人間総体であり、自分だけの救いや成仏を考える者の救済は、自己矛盾なのです。
 
 という人間の事情は、行為論的社会学にとって、理論の原点です。
 人間は自己の意思があり、行為は意思の通りに行われる。しかし、その意思どおりに動けばそれで自己の将来を実現できるかといえばそうではない。なぜか? 人間の身体的確保や価値の確保は、社会の論理に従って行われるからです。行為の社会学とは、個人と社会の二元論、ただし規定性でつながった二元論の形態を採る以外には存在できない。
 この社会の拘束性の理論的認識こそ、トータルとしての救いの論理の認識なのです。

 で、「思想に対する主体性(続)」もありまして。「1」と「2」なのに題が変わるブログ。ま、どうせつまらないので後ほど。
 それにしても雨が横殴りになってきて、困った。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賞味期限超過+α

2019-08-31 14:33:13 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、秋の長雨が始まったようで。なんか夏休みが終わった気がしますが、ここらの子供はもう今週からランドセルしょって授業してて、可哀想にね。子供の頃は夏休み終わるのは淋しかったですね。高校の頃は学校が始まってうれしかったですが。

 さて、今日はたいしたことがありませんで。まあ悪口の種はいろいろメモしましたが、引用して貼り付ける量に引き合う意義かというと、それもくだらない。
 先に役に立つことだけ言っておきましょう。
 
 その1。
 明日は防災の日、貯蔵缶詰の点検もなさることでしょうが、去年の暮れにご報告したアキモトのパン缶、最後に残っていたものを食してみました。製造後、58ヶ月です。ちょっと化学物質の味がしてきました(本当は賞味期限37ヶ月)。まあこの辺が限界かもしれません。胃腸への影響ではどなた様も無事かと思われますが、肝臓や神経系に毒かも。わたしはどうせ先が短いのでかまいませんが。
 なお、先日パン缶追加品を買いましたが,amazonから買うと、口コミ通り、残りが2年2ヶ月(26ヶ月)しかありません。お気をつけください。防災フェアで、東急ハンズとかで買うのがいいのでは?
 
 その2。
 カップヌードル3月12日賞味期限、先週発見。たかだか5ヵ月半超過、と思いながらも、ネット情報ではすぐにもまずくなるようなことが書いてあって、私らしくもなく躊躇(ちゅうちょ)。開けてみてやはりもともと得体の知れない加薬は気持ち悪いので捨てて、麺だけ食べました。麺だけならぜんぜんオッケー。つゆ? 捨てました。
 ついでに一緒に見つけた6月12日期限のスーパーPB(日清食品製造)。これは(別の日)余裕で食べましたぜ。塩辛くて味はいわないとして、多少化薬が硬いくらいでつゆも問題なし。
 というわけで、結論はやはり評判どおり、カップ麺は期限後3ヶ月は越えないようにしましょう。
 
 その3。
 食べ物ではありませんが、アースノーマット。他と併用してたので4年目に入ってましたが、これは使用期限表示なし。なんでも3年以上OKなら書かなくていいそうで。で、うちのアース、蚊も気分が悪いようで隣の部屋等に逃げはするようですがどうも不安、と思っていたらつけてて刺されたので、買い換えました。そしたら刺されなくなったから違いがあるようです。4年経ったものは私は勧めませんよ。
 その際知ったのですが、エアコンて換気されないって知ってた? 昔エアコンを持ってた友人から「換気で真空になるのでドアが開かなくなる」ときいたので「そうか」と信じてましたが、実は換気されないって。初めて知りました。殺虫薬品も部屋に充満するので、お気をつけください。
 
 あとはくだらないなあ、、、感想のメモはあるけど、「バカ」か「よかったね」なので、今日はここまで。それではまた来週。
 
 というわけで、以下は個人的感想。まずは引用。 
 「アフリカ南部モザンビークで、日本の農業支援事業が小規模農家の土地収奪につながっているとして、アフリカ開発会議(TICAD)に合わせ北部ナンプラ州から来日した農民団体代表コスタ・エステバオさんが見直しを求めている」
 「エステバオさんが被害を訴えているのは、ナンプラ州で国際協力機構(JICA)が進める「プロサバンナ事業」。JICAは、モザンビークの農民について、小規模で技術も伝統的なものに限られ、生産性は高くないと考えている。JICAによれば、「適切な農業技術の導入により生産性・生産量の向上を図る」ことが事業の狙いという。」 
 「現地では小さな農家の土地が収用され、ブルドーザーで整地されては、輸出用の大豆農場に変えられている。「モザンビーク政府は各種国際フォーラムの場で『いくらでも土地はあるので投資してほしい』と外国に呼び掛けている。しかし、余っている土地はない。土地をめぐる紛争さえ起きている」と主張。」(時事通信)
 
 こうゆうの知ってる? 社会学の若い人は知らないでしょう。歴史学や地理学のほうがわかるはずだと思われますが。
 ときどきここでも書くように、封建以前や後進国の包括国家というのは「国家」じゃないんだよね。これは宣言だけ国家。「領域宣言国家」と個人的に呼びますが、実は支配権力者が掌握しているのは領主層だけ。「反抗するなら武力を送るぞ。『剣か、それともパンをよこすか』」という低劣な脅しで下位の領主(首長・族長)を掌握しているだけの国家なのです。そしてこの低劣な脅しが、全部人民にそのままパスされる。こういう自称国家では人民はいい迷惑で、何一つ見返りのないまま、常に「国家」によって生産手段を取り上げられる。
 他方、資本投下国家人民は、「あの後進国を助けて金持ちにしてやった」「文明国にしてやった」と、英雄気取り、善人気取りをする、というわけです。
 これが資本の原始的蓄積であり、現在は後進国での原始的蓄積の基本です。原始的蓄積は別に「羊に食われる」ばかりじゃないのです。
 ということが、さてどれだけの読者にとって当たり前なんだろうか、というのが個人的な問題。実はこの手の事情は、私の次の論考原文では既に前提なんだよね。前提だからわざわざ書かない。私の論の本体ではないから書くだけムダだもん。
 のだけれど、これは教科書に載ってないので参考文献がいる、ともいえる。しかし、植民地に毛の生えたような時代はともかく、こうした新しい話題を扱う日本の書物はどれも、JICAの兄弟のJETRO・アジア経済研究所製なので、個別地域の刺身のつまくらいにしか載っていない。個別地域じゃ説得力が薄く、もう少しまとめて書いてもらえば参考文献に載せやすいのですが。だいたいこっちは当たり前だと思っているのでわざわざ参考文献に引くのもいやだ。
 というわけで、このレベルの文献はネグっちゃおう、と思っていたところ、ちょっと反省がいるかと言う気がもたげてきて、面倒この上ない。
 ま、感想というより、ぐちかな。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治方向の変え方

2019-07-27 10:30:26 | 歴史への視角
 こんにちは。いよいよ暑くって。朝起きてから(6時半)ずうっと青空。雨とどっちがいいのかねえ。といっても日本中天気が悪そうで、旧盆の里帰りのない私としてはこの時期の土日はいつも海水浴とかの時期でしたが、そんな人はアウトですね。
 隅田川の花火もここんとこずっと土砂降りを(テレビで)見せつけられていますが(昔は旅館のテレビで見ていた)、もう時期変えたらいいのにねえ。もう東京も亜熱帯だし。
 
 さて、ニュース。
 最近はNHKニュースももう半年くらい天気予報が主要ニュースで。大衆をバカにしてるね。世の中お天気と吉本でできているそうな。
 「東京都内で発生する自転車事故が近年、増加傾向にある中、都は自転車を利用する都民に損害賠償保険の加入を義務付ける方針だ。」(産経)。へええ、まあいいことだけどねえ。小学生のガキったら歩道歩いてても突っ込んでくるもんね。しかし、私ももう自転車の免許返上かな。
 と思って神奈川県を見たら(県民なので)、もうこの10月から義務化施行だって。知らねえぞ、そんな話。広報ちゃんとしろよ。私が知らずに誰が知ってる?
 ともかく、マジどうしようか。自転車ないと図書館行けなくなるし、、、楽天の自転車保険は年1,620円だってさ。ところで火災保険の特約とかについてるのもあんだって? ほんと自分ちの保険条項も知らないし。。。 

「日本たばこ産業(JT)は24日、明治から昭和40年代に掛けて登場した「わかば」「エコー」「ゴールデンバット」の3銘柄を10月以降、在庫分の販売をもって廃止すると発表した。」(産経) 
 えええ、で、伝統の煙草3つが、、、日本の文化をなんと心得るのか。みんな死ぬほどまずいけどね。しかしこういう風潮は、口には出さねど苦々しく思っています。出してるか。人間なんてみんな偶然生きてるだけだぜ。タバコをそばで吸われたくらいで死ぬならおいらもう死んでらあ。命冥加(いのちみょうが)な諸君はなんと思って生きているのか、、、
 あ、吸う本人は六十で死ぬから。よく見当を数字にするな、と言われるけどね。
 
 国民民主党代表「玉木氏は25日放送のインターネット番組で、改憲について問われると突然、「私は生まれ変わった。議論を進め、首相にもぶつける」と宣言。」(時事通信)
 玉木には(参議院)選挙の前に生まれ変わるという矜持(誇り)もないのかねえ。まあそういう奴だけどねえ。なんでも一事が万事。
  
 そういえばこのたびは選挙良かったですね。れいわ新選組とかN国1名当選とか、国会やNHKも少しはまともになるでしょう。N国も1名ってとこがまともで。どうせ国営放送は国営放送で、なくなるわけもなし。
 自民党も支持が下がったって。気持ち的に多少はましですね。
「自民党の得票率「全有権者のなかで占める得票の割合を絶対得票率というが、1950年代末には40%をこえていた。それが70~90年代初頭には30%台前半まで下がり、90年代からは20%台に突入する。いまや比例では17%だ。」(これは長周新聞)
 小選挙区制がなきゃもっと面白いのにね。村山富市(社会党)の野郎のせいで自民党にさえできなかった制度ができちゃった。まあ、政治家なんてそんなもんだ。いまだに連立で権力をにぎって政治を改良したいなどと言うやつらがぞろぞろ。誰がなろうとやることは歴史的に決定されているのだ。玉木も後10回は生まれ変わるだろう。
 
 ではありますが、実は野党のやれることはいろいろあります。当面の経済も外交も無視でよいのですからね。議員数は取れなくとも外部からなら操作できるのに、やり方さえ知らない。アベの取り巻きは知ってそうですが。
 というわけで野党系に教えてあげましょう。
 もう「露払い政党」の時代です。本当に労働者・失業者の利害を取り上げて、対決すべき本道を世に出しましょう。妥協は玉木に任せる。ともかく民衆は誰も本道を知らないのだから。
 昔、黒寛がやろうとしたそうな。生まれてなかったけど(うそ)。今回は林紘義がやってたね。一回であきらめるなよ、選挙ほど地道の運動が実を結ぶものはない。林は1回じゃない? もちろん候補者は変わってはならず、政治家としての魅力は必須。プロ政治家として当然。人間は理屈じゃなく人につくものだよ。理屈じゃないといっても主張はなんでもいいってもんじゃない。なんの問題でも左翼っぽいことを評論するんじゃなくて、一貫して労働者・失業者の明日の理想を、目に見えるように、世間に広めることがポイント。人間は理屈じゃないが目に見える像を出す。政治党派は評論家集団じゃないし。
 もちろんこれは露払いのイデオロギー闘争だから、選択肢の提出だけ。施策が実現しなくても悩まないでよろしい。実現なんてしっこないし。目に見える未来を、選択肢として民衆が知ってしまうのが政府資本家の恐れること。
 露払い後に本当の大衆の党が、変化した変革の常識の中で、果実を取得すればよいのだから。
 世間なんてそういうものです。
 聞くところではまだ社民党が国会に残っているそうな。いい子ぶって八方美人してないで、必死に理想状態を説いたらどうかね。といっても社民党にはそんな理想がないからしょうがない、というわけだ。要するにどこの党派にもないんだけどね、社会福祉政策以外。俺等にはある? うそつけ。理想状態ではなくて、反論状態しかないくせに。そんな腹の足しにもならない反政府反論に恐れ入る大衆など居るものか。『明日』、『何を』、『どう』すんのか、そうしたら失業者のオイラは「あした」助かるのか。それを言えなくてきれいごとの抽象的なお題目を並べてたって、わたくしだって票は入れてやらないよ。それじゃあ政府だって資本家だって何一つ怖くはないのは今を見れば分かる。反論党派は自前の政治党派じゃなくてただの助っ人業。政府も、扇動で反政府行動が暴力的になるのがめんどいと思うだけ。
 私が褒めた「れいわ」はどうだ。「れいわ新選組からは、重い障害がある2人が当選した。共に大型車いすや介助者が欠かせず、国会の受け入れ態勢作りが急務だ。」(朝日)、立派なものだ。
 話は社会に釘を打ち込むかどうかだけだ。抽象的なきれいごとなど害でしかないんだ。
 もうそういう時代だ、ということです。 
 
 じゃあやらない? どうせなんのやる気もないことは先刻ご承知。そうでない方々がどこかにいるなら、ということです。 
 エラそうに。てめえでやれよ、って? 私は活動家ではありません。どうせ分からない人々に教えてあげただけ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「今日も歩まざるを得ない」歴史

2019-06-08 13:56:09 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、梅雨ですってねえ。まだ若い皆様におかれましては、「いっそ梅雨」というのも楽しいものです、のはずです。ハナショウブ、アジサイというのは梅雨しか咲きませんし、そんなのって少なくとも東京方面は楽しむに事欠きません、じゃなくて地域欠きません。いつか書いた気もするけど、私は鎌倉、明月院ではなく、東慶寺の花菖蒲、紫陽花が好きでした、と過去形。もう何十年も行ってないからね。お寺もまだあるか知らないけど、奥の墓も梅雨は暗くてよし。
 ところで、ふと、思い出して検索しても、全容が分からない絵描き歌。
 『六月六日の参観日、雨がざあざあふってきて、あられもポツポツふってきて、たてたて よこよこまるかいてちょん、、、、あっというまに たこにゅうどう』
 「、、、」になんかはいると思うのだけれど、各種各様、みんな勝手なことかいててわからない。勝手ったって、地域差でしょうけど。といっていまどきはテレビで習うようで。
 
 さて、今朝のyahoo巻頭写真は気持ち良さそうに空を飛ぶトキ。
 「環境省は7日、佐渡トキ保護センターの野生復帰ステーション(新潟県佐渡市)から、国の特別天然記念物トキを計20羽(雄14羽、雌6羽)放鳥し、全羽がケージから飛び立ったと発表した。」(時事通信)。
 「カモメに飛ぶことを教えた猫」って知ってる? ルイス・セプルベダという人の本。川崎では中学校で劇団四季の劇としてみるもよう。
 書き人不明の要約、「不運なことに油まみれの波に飲まれてしまったカモメのケンガーは、最後の力を振り絞り卵を産み、太った黒ねこゾルバにその命を託す。ゾルバは知合の猫たち、そして人間の力を借り、(そのヒナの)フォルトゥナータに飛び方を教えることに成功する」。絵本のように気持ちが良くてよろしい。
 〆のゾルバの言葉。「飛ぶことができるのは、心の底からそうしたいと願ったものが、全力で挑戦した時だけだ」、それも自分たち周囲の者の役割を否定する非論理的な言葉だけどね、まあ絵本というのはそういうまとめ方をするものです。絵本好きな人にはお奨め。

 ニュース。「自民党の小泉進次郎衆院議員が6日付の自身のブログで、党から厳重注意処分を受けたことを明らかにした。小泉氏は6日の衆院本会議で全会一致で可決された丸山穂高衆院議員に対する「糾弾決議」の採決時に退席。「みんなで糾弾するということに自分の中では腑(ふ)に落ちなかった」と記者団に述べ、国会の対応を批判して…」(朝日新聞)
 えらいじゃんか。一人だけ退席。というより一人だけしかいないってとこが議員も地に落ちてるね。付和雷同、尻馬に乗る、長いものに巻かれる、こんなもの政治的意見以前の態度だね。
 まあ、「小泉も他人事じゃないだろう」という意見もあるようですが、ともかく、その他大勢が情けない。それじゃあ、「正しくない」なら地獄に落ちよと責め立てるネットいじめっ子集団と、どこが違うのか。 
 ま、本題が長いので、終わり。
 
 本題は、借りた本が興味深かったので。「立ちすくむ歴史」喜安朗/成田龍一/岩崎稔/の鼎談、変な題だねえ、題付けの理由が本には見つからないが。
 内容は、歴史学者の歴史観の推移について随想を語り合うだけなのでどうでもいいのですが、結論もなしにしゃべられてもいらいらするだけなので、ここで正しい立場を披露しておこうと。
 
 まずは、「事実」とは何か。
 「事実」などというものは、そもそも論からすれば、五感に表象された環境事象の変更に過ぎない。つまり、本来は何か確固とした物体や具体物ではない。これをいかに「事実」と呼ばれるものにするかは、すでに、当該受け取り手と、受け取り手の表現を聞いた他者との、ある意味観念的な、問題である。
 が、だからといってこれを「言語論的転回」などというのは、恣意的な評論作業あるいは遊戯に過ぎない。この社会関係で重要なのは、使った言葉ではなく、指示された環境のパーツであり、その環境のパーツへの過去の両行為者の事実認知であるからである。

 たとえば街角で赤ん坊を抱っこした女が胸から血を流して倒れた、女はもう息をしていない、これが日本語でいう「事実」である。しかし、この直前に銃弾が飛んできて女の胸に当たっているとき、これを生活者であれば、女は殺された、と言う。さらに銃弾の銃が兵士によって持たれていたとき、女は兵士によって殺された、というだろう。さて、これは事実だろうか? 実は兵士の意図としては女の後ろで吠える狂犬を狙ったのだ。しかし、女が兵士に殺された、という話自体は、世に語り継がれる「事実」である。
 ここで女が兵士に殺されたことが事実かどうか、は、歴史にとっては問題ではない。それが「言葉」でしかないから問題ではないのでなく、すでに歴史はこの認知の下に先に進んでいるからである。人間の関係というものはそうやって進んでいく。「そもそもそれは事実か」は、歴史ではなく、兵士という個別の人間存在の問題であり、彼の家族や友人の問題である「にすぎない」。つまり、個人の誇りや刑法や軍法会議の問題でしかない。
 こうして、語られる歴史としての事実はそもそもは「事実」などではないけれども、生活者としては、その語られる事実が「真実の事実」として扱われて不都合はないのである。、
 
 さて、ところで、ここで進んでいく歴史は時系列としての歴史にすぎない。時系列としての歴史によって語られることは、その次に生ずる出来事の「納得」である。この女はガザの住民であり、兵士はユダヤ人であったとき、人はこの事件の後に起こったガザ地区の暴動を納得することができる。こうした性格の「歴史」が時系列の歴史であり、基本的に歴史家が「その提示も歴史学の大きな部分だ。」「いやそれこそが歴史学だ。」と認め合うことだろう。
 さて、それらが歴史学である。そして決して社会科学ではない。
 そもそも歴史は、歴史家が思っているような、自分が自分が書いた本で表わしたかったようなものではない。それは、人間にとって、時間的に過去と認識された一連の事象ということ以外にはない。それは一連以上のものではなく、その一連に行為論上の意味があるかどうかがその行為者の事実認知に関わるだけである。もちろん、「全歴史を通した意識」などはあるはずもない。「その長い数個なり数十個なりの連なる歴史の結果が集約された結論的事実」以外には、行為論上で意味をもてないからである。
 歴史学が人間の科学と融合するのは、それが他の現実に有効な因果連関の提示に貢献するときである。すなわち、大塚久雄(がとった態度)である。別に大塚久雄が正しいといっているわけではない。その方針が科学と歴史学の融合だといっているだけである。正しくなければ反論すればよいし、それが可能なのが科学のとりえである。

 「なんだそんなことか、お前の持論は聞き飽きたぜ、これで気が済んだか」と思われたら、それではまだまだ聞き足りてない。
 ここまでは歴史学であって歴史ではない。世間は寝言を言ってふんぞり返っている老若の歴史学者ばかりであるが、歴史は決して歴史学者のものではない。生きている人間のものである。歴史とは我々であり、死んだ我々の友であり、あるいは敵のことなのだ、まあたまには親の場合もあろうが。
 生きている人間は生きている限りにおいて、自己の歴史を持つ。まあ上述の学者たちは遊んでいたから、そんな基本的な70年世代の認識を持っていないだろうが。まあ、若人の皆さんに伝わらないうちに、都合の悪い過去を振り捨ててエリート街道へ走った学生諸君らが悪いともいえる。ともかくそれは「立ちすくんで」などいられない、今日と明日の「我が事」なのだ。「今日も歩まざるを得ない」歴史なのである。
 元に戻って、この「歴史」の構成素は、時系列の出来事ではない。
 それは出来事の意義であり、出来事を担った人々が持った意味であり、それを我が物とした行為主体の存在意味である。
 出来事を担った人々の意味は時系列で叙述できる。しかし、出来事の意義は科学でなければ解けない、それなしに人は歴史を我が事とすることはできない。過去の出来事を因果連関で把握しそれを未来への過程として捉える、しかして自己の次の瞬間の行為の未来を因果連関の過程として捉え直す。この二重の因果連関を把握するのが、社会科学なのである。

 ここで念のため初心の方に語っておきますと、世の中に「無色透明の事実」などというものはないのと同様、科学の意味や意義は、常に行為主体の志向性と共にあるのです。無色透明の意義などというものはない。ある研究に意味がある限り、その研究には行為主体の明日歩むはずの志向性が伴っているのです。
 当然、歴史とは、研究者(としての個人)が対象から掘り出し、切り出して、再構成したものです。この研究対象の運命は、営為を行う人間が人間である限り免れることがない。研究者(としての個人)は対象の性質を選び提出することで、歴史を自分と自分に連なる他者のために構築する、それ以外に道はないのです。
 と、ここまで言えば隈の著作の読者には、「そういやこいつの本はそうだ」と思ってもらえるでしょうが、次作品はもう少し強調して提出しようかと思うところであります。
 結局、まともな学徒が提出する作品は、一生をかけて螺旋的に同じところを回るしかない、と思われます。武市健人にしても西田幾多郎にしても宇野弘蔵にしても。
 
 (P.S.世の中には「歴史的な過去」と「実用的な過去」の区分け、みたいな話があるんだって(ヘイドン・ホワイト)? そんな文学者と並べられてもおぞましいので一言言っておきますと、それは事実の否定による科学の否定であり、プロパガンダの称揚による科学の抹殺です。歴史家たる者がそんな戯言に踊らされるとは世も末ですね。書物は流行に乗って売れりゃあいいのか? なお、川崎市の当該書はずっと借りられてるんで読んでいない、本橋哲也(東京経済大学教員)氏の書評よりの感想。ところでこの氏の書評も混乱している。「「真実」の呪縛から歴史を「抑圧された他者」の領域へと開くのである。」だと、冗談じゃあねえよ。真実の呪縛ってなんだよ。人間が生きることは真実の問題じゃあねえよ。真実は真実。構成が歴史家の都合で変わるだけ。いかにウソに見えようと構成素は真実。かたや、本橋氏には「他者」であろう私やアポリジニの生は、真実であろうが虚偽であろうが余計なお世話だ。それは一つしかない私たち自身という行為主体の譲り渡せない生なのだ。ってこれじゃわかんねか。われわれ被抑圧者は他人様に哀れんで取り上げてもらう必要などこれっぱかりもないのだよ。私もアポリジニも仲間と共に生きている。そのわれわれを自分の歴史学に組み込みたいのなら、それは歴史学者その自己の問題(でしかないもの)なのだ。10年前だってやれば勝手にできたのだ。まあ、本物の歴史学者はわかっている、つまらないことだが。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想像的社会史歴史学への感想

2019-06-01 13:11:25 | 歴史への視角
 こんにちは。ようやく暑さも収まり、今日なんかはちょうどいい気候です。ずっと曇りですが、暑くもなく都会のイベント周りなんかにはよさそう。まあ田舎は青空でないとね、新緑も終わり加減、よくいえば「緑も深まった今日この頃」というか。
 
 さてニュースは、「シャンシャン返還、来年12月に=中国側と協議、1年半延期-小池都知事」(時事通信)だとか。思春期くらいまではママと一緒にいたらいいのさ。ほんと、シャンシャンちゃんは太っても、いつも楽しそうにしてていいなあ。この笑顔が凍るような目には合わせたくないやね。
 
 他ある? みんな同じ感想しか出るはずもない可哀想なニュースばかり。そんな感想を言ったって昨日は戻ってきやしない。
 といえば、わけわかんないマスコミみたいなやつがいるって。川崎殺傷事件、「一人で死ね」とツイッターで当たり前の直反応をしたら、お説教だって? 直反応のツイッターの世界で出るはずもない異論が出ること自体、待ち構えてたとしか思えないやね。とにかく何か他人に言いたいんだよね。言いたきゃふつうに仲間内で言ってりゃいいじゃねえか、偉そうに。わたしはお友だちなど数少ないけど、みんななんか言える仲間っていないのか? それじゃ寂しいね、私以外。
 
 とゆうわけで、本日も本の感想。
 矢木明夫という古い人がいて、「身分の社会史」という本を出しているのですが、何しろ集館性図書館体制?は閉架書架と一緒で、予約で取り寄せないと中身が分からない。で取り寄せて見てみたら呆れまいことか、身分は自然的条件に由来する、などと書かれている。具体的要件には性別と年齢としか書いていないところがアナウンサーですね。さて、ではアナウンス原稿は誰の? と思ったら、それが私の敬する中村吉治先生のもよう(マイクロソフトは「治」も出せない。もうATOKは伝説だね)。
 「先生」ったって習ったことはありません。習わなくてもいいの。本で教えてもらえば先生。どっかで勉強の仕方さえ覚えれば、(教授になろうとしない限り)大学も行かなくていいしさ。
 ともかく、自分でおどろいて調べました、私のバイブル、中村吉治「日本の村落共同体」。古代の章はどうせ子供のおとぎばなしなので読んだことがなかったのですが、読んでびっくり、さすがに性別と年齢とは書いてありませんが、共同体は組織だから自然に身分が生ずる、などと書いてある。ちょっとおまちなさいよ、だ。
 中村氏について言えば、結局名主にはわかりはしないし、矢木氏について言えば農村さえ知らない都会っ子なのでしょう、農村で男女と年齢で物事が動くと思ったら、それは知性以前の問題。問題は中村氏だけど、これも、(あえて思考実験で支配武力がない時代とした上でいえば、)共同体組織の問題ではなく、共同体成員の環境への対応問題であり、かつ、個別の行為主体の問題です。たとえば、この3年日照りと冷害で作物ができない、そのできない過程で自分の家に食い物がなくなったらどうするか。弱そうな家を襲って食料を強奪するしかない、といって強奪(だとリンチで殺されちゃうね。窃盗)の事実が起こった村でこれをほおって置いたらみんなが困る、さてどうするか。あるいは同じ状況で隣村のやつらが一斉に襲ってきた。さてどうするか。こうした環境での出来事とそれへの対応が、初めて規範を作るのであり、それを守る武力を作る。自分だけいい思いをしようとした者は下層「身分」を作られ入れられ、征服された隣村人も「身分」を作られ入れられる。
 仮に、思考実験上、当初がゼロ水準であれば、この環境とパーソナリティという2種の要件のみが新しい水準を作る。(本当は違います。当初の環境の中で肉体の統合力=武力が発生し終わっている。)
 さて、ここまでは理屈の問題であり、それゆえに実は知性さえあれば人間には「問題」ではない。問題はここから先で、そうした状況をどう表現すれば今生きる人間の明日に貢献しうるか、ということなのです。
 そんなもの、「自然的環境条件だよ」や「人間のサガでどうしようもないね」ではほんとうにどうしようもないのだ。やる気のない講壇アナウンサーや名主の子はそれでよいかもしれないが、生活者はそれで済ませるわけにはいかない。それがわれわれの人生なのです。
 さて、この事態は、「生産共同体にはそれ自身で矛盾がある」と規定して初めて、明日の人間社会の作成に貢献できるのです。「生産共同体は、ほおっておけば必ず起きる環境的危機において同じ仲間を自分の犠牲にする状況が生じてしまう。構成員の人柄によっては起きないかもしれないが、起きると思ったほうが良い。この自己内矛盾の存在によって、『だから』、事前に○○の環境を整えなければならない」として初めて、それ以降の人間の幸せが生ずるのです。百歩譲って、性別や年齢で身分が生ずるというおとぎばなしが正しいのなら、性別や年齢が身分を生じさせない共同体包括理論を出す、それが学者の務めです。

 さて先に進んで、中村氏の古代想像はいい加減で、突然、組織上でしか発生していないはずの共同体内の「身分階層」なるものを中央古代政権が乗っ取ってしまうのですが、もちろん、これは誤りで、その時点では既に武力的地域支配が、「中央」ならず、近隣10kmの「クニ」で起こっているはずのものです。が、今日のテーマではないし、くだらないので無視します。
 ほんといままで古代の章を読まないでよかった。世の中には立派な人がいないと生きていて虚しい。年取ると他人の化けの皮がどんどんはがれてくる。私のエンゲルスも無理やり褒めているようなものですが。お互いさまだ? それが事実でも、それもこれも虚しい話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「国家所有」という巨大な虚偽意識

2019-04-07 17:31:39 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、昨日は強い南風で桜の花びらが蝶のように舞ってました。風の音が怖いのが難。まだ花が強いので、今日も十分残っています。今年は小学校の卒業式と中学校の入学式は、両方とも桜で飾られたことに気づきました。

 さて、ひさびさにためになるブログ。ちょっと余裕を戻してきました。
 隈のお料理ポイント。「ごはんに合う」とは何か。
 御想像のとおり、旨みと塩。しかし、これがなかなか具体的には理解されていない、だろう、と。
 たとえば、カレー。みなさまは本格インドカレーレシピではライスと食べないはずです。いや、俺は食べる、って、これは理屈ね。インドカレーレシピには塩など入っていないはず。しかし、ナンやチャパティと違い水っぽく容積の大きいライスは、塩なしでは到底食えません。ご家庭でスパイスから作る本格インドカレーが不味い理由です。いやうちのは美味い、って、だから理屈。ココイチのは入れすぎですが、カレーには塩。高血圧用の日本カレーなど存在してはいけない。それでも食べるならご飯の代わりにスーパー販売の塩入りナンで。なのでこわいのがカレーうどん。これ、塩分最悪。 
 同様に、注意したいのが麻婆豆腐。こちらは本物の豆板醤やら甜麺醤やらを入れて作ればよろしいのですが、瓶詰めの豆板醤エキスにしろ味噌を混ぜればよいだろう、と思ったりすると間違い。中国味噌は塩分が白味噌の2倍以上あるから米にあうのであって、白味噌と豆板醤エキスでは到底ご飯用には足りません。いくら唐辛子や花椒を追加しようがダメ。
 塩の威力は大きいのであります。
 
 というわけで、今日は終了。
 本日は明日で、桜花は十分あるけど、もう世間は花見というより新緑の候。以下は、柄の悪いお客様用。  
 
 さて、興味は無いのですが、いちおう、元号が令和だって? みんなほめそやして、平和だねえ。「どうせお前なんか使わないだろうからどうでもいいだろう」というとそうでもない。税金と病院の書類では使うんだね、これが。でも使いそうな市役所系は使わずにすみます。進歩だね。まあどうでもいいのですが、みんなどうやって年の換算をするんだろうねえ、スマホなしで。
 で、生意気じゃございませんか、「「令」の字形、下の部分「マ」でもOK」(毎日)だとか。平和部族が。なにがOKだ、余計なお世話だ。日本人が日本語を使うのに許可がいるのか。(ま、ここは「欧米人」でもいいが)
 まあせいぜい安倍配下は「和シム」がいい。何がビューティフルだ。令はオーセティックだよ。「お墨付きの」というのが正しい訳だ、権力によるお墨付きの和。漢学者はよく教えてやってくれたまえ。
 
 ああ、悪口言い飽きた。
 それで本日が明日なのは、いろいろと仕事ができたのはそれとして、下記の文でテーマ設定に揺れたせいです。
 そもそもはしばらくぶりにひっくり返した副島種典の「社会主義経済学研究」。副島氏は今の柄の悪い人は知らないかもしれないが、まあ良心的な社会主義経済学者。その人が「広義の経済学」論でエンゲルスを批判している。まあこれまでは関係ないのでスルーした箇所だけれども、現段階で見ると「それ違うじゃないか」と思って。思ってエンゲルスの原文に戻ると、「あれこっちも違うじゃないか」と。で、皆様のためには物事を整理したほうがよろしいと思ったわけです。
A) 世の中には「もっとも広い意味では」という経済学規定がありまして、特に旧来のマルクス主義者の間で昔から論議になっております。エンゲルスが反デューリング論で展開した”昔から今までの社会の発展段階を研究する学問が経済学”という論で、これをマルクス主義者は未来まで引っ張ろうとするのです。この結果彼らの間では、「経済社会構成体」とかいう、ただの現象用語が一人歩きする。現象用語なのだが響きがカッコよすぎるから素人はなにか深遠な意味がある学術用語だと思ってしまう。で、素人はそのまま政治活動家になってしまうからいつまでもその誤解が続く、という事態が生じました。これは、「ウクラード」がただの制度組織という現象用語なのに、歴史家はなにか意義のある本質規定だと思ってしまうのと一緒です。といって、両者とも何の規定性も持っていないものなので、既に死語ではありますが。 
 ともかく、この広義の経済学なるものの存在が、ただの過渡期であるはずのソ連邦経済体制が「社会主義体制」として研究者からお目こぼしとなる事情の、重要な基礎となるわけです。
B) これに対して狭義の経済学が「資本論」で、宇野学派の副島氏は資本論を原理とし、社会主義経済は別に主体的に切り開くものだ、というわけです。エンゲルスは狭義と広義を一緒くたにしている、と宇野経済学らしく不満を述べております。実際、ソ連邦経済体制を非難できたのは宇野派(とその影響下の新左翼)くらいなのだからしょうがない。
C) しかし、本来、諸規定は過去の経済事象からも汲まなければ資本主義の歴史的規定が一般的真理になってしまうわけで、そんな馬鹿な話はありません。この点エンゲルスは原理的には正しいのです。
D) のではありますが、しかし、本来は、デューリング氏が原理的には正しいから話が込み入ってくる。氏いわく「奴隷制や賃金隷属制のような制度は、ふたごの兄弟として暴力による所有をともなうものであって」と正しく指摘しているのに、資本論に誤魔化されたエンゲルスは、「暴力は搾取を保護するだけのもので、その原因ではない」「(搾取の土台である資本と賃労働との関係は)純経済的な仕方で、まったく暴力によらずにできあがったものだ」などとのたまう。困ったものだ。もっともそのくらい入れ込んでないと資本論第3巻などできようも無いのだから、禍福はあざなえる縄の如し。

 とまあ、ここまでが整理。結局4つともみんな悪い。って、隈がE)になってるだけではありますが。しかしここで「 E)」を叙述すると、到底終わらないし、ここでは必要がない。
 これらの4つの議論というのは、まだ見ぬ先の未来の体制をどう規定するか、ということに集約されるのです。デューリング氏は「暴力さえあれば可能だ」と言うし、エンゲルスは「いやこれは経済的必然だ」と言う。スターリニストは「現在出現している現実の社会主義国家を尊重せよ」と言うし、宇野派は「いや、それはこれから主体的に苦闘して作り出していくものだ」と言う。まあ、困ったものだ。現実はどれも自分のいいようには動かないし、経済的必然として動くわけでもない。どう動くかは隈は既に三部作で述べたのでそっちを見ていただくとして、ここでは過渡期体制と見まがうものがどうしてできたか、その最後の瞬間について述べておこうかと。それでこれらの4つの議論は空しく散るので。まず何もかもなくさないと、未練がましく言い続ける人たちもいるでしょう。
 
 というわけで本日の題、『「国家所有」という巨大な虚偽意識』。
 もちろん国家所有は法制度だから、上部構造とはいえ虚偽意識ではありません。が、この概念を使用し言語伝達する人々にとって、この概念によって頭脳構成されるものは「国家所有」という国家の派生観念に他なりません。
 それでいいじゃないかって? だめです。国家所有というイデオロギーが、現実での発現以前にその当事者たちに伝えたのは、権力者たち、すなわち国家と地域の武力権力者と、国家権力者によって私有権を付与された資本家と、農業的共同体権力者という、それぞれの私的所有者の権力と権限を自己の物とする、という巨大な私的所有の変換作業だ、という認識です。もちろんそれは、武力性がゆらぎ、国家範囲の一部とはいえ権力者の統治地域における圧倒的人民が統一しうる場面においては、可能です。 
 この連続性により、「革命」という社会の転覆が、スムーズに歴史上実現したのです。
 すなわち、革命に参加した当事者は、自己のやることと、将来に現れる制度が、明確に自己認知されていたのです。革命や新世界の青写真などは要らない。これまでの権力者の姿に、自己を投影すればよい。これが未来の姿へのなんの議論も無く、その手順だけ意思統一すればよかったボルシェビキの勝利の根幹なのです。これはもちろん、経済過程だけの問題ではない。といって政治家の意図の問題でもない。さらにこれだけの結果で社会主義体制となるはずもない。そして残念すぎることに、政策当事者の苦闘的努力でどうなるものでもない。圧倒的人民の質の問題なのです。

(P.S.その後、富岡裕が「社会主義経済の原理」(1977) の中で同様に、国家所有という虚偽意識と批判しているのを発見。ちょっと驚きました。そういう時代には、トロキズム関連の教養というのがあったのだろうか、、、)
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開明的支配者の存在の謎

2018-11-17 16:29:13 | 歴史への視角
 こんにちは。今週の土曜も、一部日本海側のほかはなかなか小春日和。東京地方の黄葉は来週でしょうが、桜紅葉は今日が限界かな。もう全部落ちてしまいそう。
 
 さて、2週、オタクものが続きましたので、本日は感想集。
 「シャンシャンが13日、親離れの準備を始めた。」「野生のパンダは群れを作らずに単独で生活する習性があり、1歳半から2歳で親離れをする。」だってさ。そうかあ~? 野生なんだから時々は淋しくなったら会ったりするんじゃないかあ? ひどいことをしやがる。世の中悲しいことばかりだね。悲しいと嬉しいは、対義語じゃないやね。物事の裏と表。最後の記念に二人でつくねんと上野の森を見ている写真をここに貼ろうと思ったら、著作権がどうのこうのというそうだ。なんだっていうんだ、貰った先の名前書きゃいいだろうが。そんなに金が欲しいか。金の亡者たちめ。
 しかし、関係ないがどこの世界に他人の子をつかまえて呼び捨てにしていい、という文化があるんだ、って日本のことしか知らないが、「ちゃん」をつけろ。そんな文化は埼玉、千葉の封建地主・本家にしかないだろう、幸手、あったし。もうなくなってたらごめんよ。
 
 「日ソ共同宣言を基礎に平和条約の締結交渉を加速させる方針で一致」(TBS)
 北方領土はウヨクの親玉のアベの責任で始末しろよ。左翼が何やっても低脳のウヨクが文句つけるからな。

 「アムネスティ・インターナショナルは12日、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相に授与していた人権賞を撤回すると発表した。イスラム教徒少数民族ロヒンギャに対する迫害やメディア弾圧を阻止しなかったことに「大いに失望した」と批判した。」(共同通信)
 当然だ。遅すぎたさ。
 
 悪口ばかり。
  
 アベと河野がパプアニューギニアに行って、「理数科教育の質改善」のため「供与額12億円の無償資金協力」をしたそうな。12億ばっかでケチくさいけど、あげる金だから借金を押し付ける中国(こういうのを植民地化といいます)よりは良心的だな。
 ところで故佐原真教授によると、パプアニューギニアの一部では50年前まで50万年前からの旧石器(だけ)を使って暮らしてきたそうな。さらっと書いたけど、すごいよね、50万年間変わらず暮らしてきたって。ホモサピエンスかどうか知らないけど。(温帯地域に発した)この数千年の暮らしの変化、って、あってよかったものなのか、ってふつう思うわね。
 もっとも生産共同体の常で、女は50年前も当然虐げられていたそうだから、結論的によかったというのはたやすいけどね。
 
 まあところで河野太郎だけど、こっから本題ふう。
 世の中というのは、ボスには思想がある、が下士官にはない、ということです。
 国家支配者とその下士官たる、日本でいえば国会議員もそうだ、とは思ってましたが、いやはや、大臣でもそうなようです。
 資本家は、「自分と自分の会社の社員のため」という心地よいイデオロギーによって、破産の手前までは動くし、実際それが可能です。他方、資本家事務管理者階層は、資本家が経営する会社のために働くことが自分と自分の家族のためになるであるから働くわけです。資本家って誰だ、というと、統計じゃあ役員も資本家に含まれますが、大企業ではそうじゃないと思ったほうがいいでしょう。いくら自社株を持っていても、サラリーマン重役は社長を狙うサラリーマン。だから「資本家階級」なるものが一本だと思うのは限定的に正しくもあり正しくもなし、ということになります。
 この酷似している2通りの社会位置の差は、資本家は、「そもそも自分がやりたいのだ」という主体的行為であり、資本家事務管理者階層は、「やれば賞賛され自分の生理的・優越的位置の確保に至れる」という、あまりにも異なった動機にあります。『思想の如何を問わない、ということが、悲しい下士官の定め』という形式社会学的定言が、資本主義社会での定言となるわけです。
 それは資本家事務管理者階層だろうが、国会議員だろうが、事務次官の栄光が消えた将来の官僚職だろうが、前衛党員だろうが、同じです。下士官は下士官。形式社会学のいけにえです。その役割は、家族持ちであるにもかかわらず、競馬場で大枚はたいて負け馬券をびりびりに引き裂いてウサをはらす一般大衆と同じです。優越が毎日消えていく、悲しい定めの人々です。形式社会学はこうして、人間に不変的な倫理の番人を務めることができるのです。もっとも封建社会でもそうかといえばそうではない。それがたかだかの形式社会学、という意味です。
 
 というわけで、本日は「真理によるイヤミ構成」、あるいはただのウサ晴らし、でした。気晴らしにネット見てると、登場人物を知ってるだけに、満腔の不愉快におそわれるんだよね。
 
 といって終わると皆様の時間の無駄。たったそれだけの情報提供ではいかにも後味が悪い。
 別に、支配者といっても常に自分の意見を通せるわけではないこともいっておきましょう。こっちのほうは大切です。
 つまり、シンプルに自分の武力で支配を支えられる支配者と、そうではなくて、対抗しあう勢力の間で綱渡りで政権を維持しているボナパルティックな支配者とは違う。
 彼らが選択する利害については、普通に歴史家が想像するとおりで、唯物(タダモノ)的に誰にでもわかる。しかし、思想の表現というのは2通りの支配者で異なって現象するのです。
 充分な武力をつかんだ支配者にとって、自分の福祉がその社会での正当な福祉です。いかに自分勝手なことであろうが、彼が一番えらいのだから。が一方、綱渡りの支配者は、自分を支える階層のトータルな福祉が自分の福祉です。この後者の支配者は、後代の歴史家が見れば「開明的」な思想表現を展開します。
 自分の支持者が分裂的であるならば、逆説的に支配者は自分の賞賛と優越をフルに押し出すことができる。自分の利害がプラマイで消える、そんな状況が歴史に出現します。プロシア、オーストリア、スウェーデン、その他一昔前の後進資本主義的エトセトラです。日本もこれにいれるべきなところ、幸か不幸か、自分の支持層があまり分裂的でないのが島国という自然的要因、というべきで、「開明的」の美辞は付与されないのは残念でしたね。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする