これも前回の続きではあります。
前回は、社会の中で、主に資本主義的生産関係から生ずるイデオロギーについて、そんなもんにかかずらあう必要はないが、そこから自立するためには、権力からの自由が必要だ、と書いたところです。
さて、それに対して、共同体それ自体にイデオロギー的圧力が存在する場合が多々あるものです。
しかも、この場合、ちょっとニュアンスが違う。
生産関係から生ずるイデオロギーは、個人が自分の社会的役割に応じて心ならずも、状況に応じた社会操作であるのに対して、こちらは、権力をかさにきた権力行使のイデオロギーです。
生産関係を統括しているのが、共同体という統一関係。これから離れると、そこでの消費が得られなくなるのが共同体です。
まあ、資本主義社会では、相当程度「名残り」というものになってはおりますが、それにしても村八分は大変苦痛になる。町なかならいいですけどね。
で、そこでの権力が、イデオロギーの源泉となり、共同体のおじ(い)さん、おば(あ)さんたちのよきオモチャとなる。
実際のイデオロギー使用者は、素朴に「よかれと思って」他人に共同体的価値観を発している場合が多いんでしょうね。
そんな共同性からの脱却は難しい。やっぱ人間は、ある程度ですが、「類的存在」というものがありますね。共同性を形作る契機をなくなさなければいけない反面、共同的つながりを確保しなければならなくもある。それは本来、人類にとって、広い地域の中での家族的なつながりであったかもしれませんね。
まあ、といって、権力は権力。アナーキストの敵です。
かくて、現在、モデルとして考えるべきは、本来は、パブのような、消費の過程において、語らうために会って消え、そしてまた会う、というつながりであり、
また、それだけでは生きていけない。第2に、消費物資の獲得過程において、つまり、職域、ないし家庭消費上で、作業上のダベリングや井戸端会議に想定される、仲間的つながり、と考えざるを得ないところです。
余暇の遊びに、仕事の手抜き。こんなことを確信をもって勧められる人間て、日本人1億2千万の中で、私以外にはもう何十人もいませんよ。
でも、これらは10万年前からつい数十年前まで、どこの資本主義(勃興期)社会でも行われていたことです(中層以上勤労者なら)。
今の若者は、みんな資本主義イデオロギーに浸っちゃってるんでしょうねえ。
イデオロギーからの脱却のためには、「金儲け」は敵なのです。
前回は、社会の中で、主に資本主義的生産関係から生ずるイデオロギーについて、そんなもんにかかずらあう必要はないが、そこから自立するためには、権力からの自由が必要だ、と書いたところです。
さて、それに対して、共同体それ自体にイデオロギー的圧力が存在する場合が多々あるものです。
しかも、この場合、ちょっとニュアンスが違う。
生産関係から生ずるイデオロギーは、個人が自分の社会的役割に応じて心ならずも、状況に応じた社会操作であるのに対して、こちらは、権力をかさにきた権力行使のイデオロギーです。
生産関係を統括しているのが、共同体という統一関係。これから離れると、そこでの消費が得られなくなるのが共同体です。
まあ、資本主義社会では、相当程度「名残り」というものになってはおりますが、それにしても村八分は大変苦痛になる。町なかならいいですけどね。
で、そこでの権力が、イデオロギーの源泉となり、共同体のおじ(い)さん、おば(あ)さんたちのよきオモチャとなる。
実際のイデオロギー使用者は、素朴に「よかれと思って」他人に共同体的価値観を発している場合が多いんでしょうね。
そんな共同性からの脱却は難しい。やっぱ人間は、ある程度ですが、「類的存在」というものがありますね。共同性を形作る契機をなくなさなければいけない反面、共同的つながりを確保しなければならなくもある。それは本来、人類にとって、広い地域の中での家族的なつながりであったかもしれませんね。
まあ、といって、権力は権力。アナーキストの敵です。
かくて、現在、モデルとして考えるべきは、本来は、パブのような、消費の過程において、語らうために会って消え、そしてまた会う、というつながりであり、
また、それだけでは生きていけない。第2に、消費物資の獲得過程において、つまり、職域、ないし家庭消費上で、作業上のダベリングや井戸端会議に想定される、仲間的つながり、と考えざるを得ないところです。
余暇の遊びに、仕事の手抜き。こんなことを確信をもって勧められる人間て、日本人1億2千万の中で、私以外にはもう何十人もいませんよ。
でも、これらは10万年前からつい数十年前まで、どこの資本主義(勃興期)社会でも行われていたことです(中層以上勤労者なら)。
今の若者は、みんな資本主義イデオロギーに浸っちゃってるんでしょうねえ。
イデオロギーからの脱却のためには、「金儲け」は敵なのです。