リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

意識の力

2009-07-26 21:38:01 | 社会学の基礎概念
とゆうわけで、次です。社会学的現実。

 意識は自分はいくらでも変えられますが、残念ながら他人に対しては、意識にはなんの力もありません。意識は、おおもとの行為者によって外界に向けて表現され、かつ、表現を受けた行為者の将来に及んで、初めて力を持つものです。彼女きれいだな、と心の中で思っても残念ながらテレパシーは伝わらない。「君、きれいだね」という言葉を発して、その表現が聞いた女性にとって将来を変えることになるかどうか、そんな話ですね。
 以下の例題は、もっと散文的・政治的ですが。

 さあて、しかして、若人の意義、というのがありまして。
 その中でも特に、クビにならない学生さん達ですが、学生たちが何をしていようが、彼らのたとえば、大学という世界に限るのであれば、それ自体、何の影響もない妄挙ですね。妄想行動。
 しかし、それが社会的場面で暴力をふるうときに、この妄挙も意味を持つわけです。
 社会的場面とは個人個人の鑑賞者が、それは自分の社会だ、と思う場面のことです。
 サラリーマンだったら通勤の行き帰りの道とかね、自分が働いている会社、と同種の会社、とかですかね。
 そして40年前、それは実際に意味を持った。御茶ノ水や新宿を火の海にして、、、は、知らない人には大げさですね。石ころの山にして、くらいにしておきましょう。

 一般論としては、同様に、どんな馬鹿げた行為であっても、それが社会的場面だということにもなれば、それは意味を持つわけです。

 で、このごろは年寄りの悪影響というのもありまして。
 こいつら、クビになっても年金がありますから、若い奴を扇動して自分の思い通りの表現をするわけです。
 何をいっているかというと、直接には右翼共のNHK訴訟です。
 
 『25日に日本裁判史上初の8389人にも及ぶ「第一次NHK集団訴訟」の記者会見を行ない、26日の産経新聞の一面を飾った。
 「NHKの大罪」「NHK解体」と黒いTシャツに白抜きされた黒シャツ隊が一列に並び、山手線主要駅で無言の抗議活動を行なった。』
 許せねえなあ、神聖な黒シャツを。イタリアファシストの猿真似しやがって。
 イタリアファシストっちゅうのは年寄りやヤクザの遊びじゃねえぜ。
 とゆうのはただの感情で。イタリアアナキストとイタリアファシズムっちゅうのはまたいとこだからね。で、イタリアアナキストっちゅうのは、なんといっても穴キズムの一番の現実態ですし。
 
 それはそれ。
 なに、NHK問題なんてNHKにこそジャーナリズムのサガで、やましいところばかりなわけでね。右翼だからってバカなわけじゃない。世の中、狡賢いという言葉が昔からあります。ヤクザは誰が弱いかはすぐわかるもんです。
 いいたいのはそうじゃなくて、そういう地道な活動が世の中を変える、ということで。
 地道ったって、おとなしくデモしてりゃいいかって、そんなばかな、ですね。
 地道というなら、左翼も負けずに、右翼賛同者各個人別に3万円ずつの賠償金訴訟に持ち込んだらいい。自分が賛同した責任だね。(今回はまずいけどね。そのうち、味をしめて流行らせる奴が出るんだって。)ポイントは、世の中、大阪もんばかりじゃない、責任をわきまえるのがあたりまえだあね。もっとも最近は日本全国吉本化が進んでるけどね。
 
 だからさ、左翼内部で偉そうなイデオロギー闘争などといって、左翼内部の世界で何が起ころうが、左翼の奴らは痛いし死んだりもするだろうが、世の中は痛くもかいくもないのですよ。
 黒田も本多も中原もそうはいわなかったのかい。
 これには答が3通り。

1 知らなかった
    どうせそんなバカだと思ったよ。
2 知っていたが、組織のためにならないので言わなかった
    組織なんてそんなものだよ。踊らされて苦しむのは君だぜ。苦しまないアホも多いけどね。
3 何を言うか、隈のその立言が間違っている
    ほう、そうかい。君が、自分の頭脳で考えてそう思うんだね。
    ほんとにそうだね。

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意識による美

2009-07-26 21:36:11 | 断片
 こんばんは。東京地方は突然夏でしたね。

 さて、予告モノの前に、前座で。
 日曜日夜には、日曜美術館の再放送をやりまして、今日のゲストが高村薫。
 知ってる人は知ってる、おばさん推理作家。
 私よりは年上の評論が面白いおばさんですが、そんな言葉を写真にしたようなお顔だったのですが、
 なのに、おっとびっくり、15歳くらい若く見えるヘアスタイル、ファッション、化粧なんでしょうがお肌のつや。
 すばらしい。なんでも、気持ちですね。金かも、という気もありますが。
 カネがあってもその気にならなけりゃ使いませんやね。
 
 本日は、ちょっとびっくりの夜でした。
 
 なんつってね。こうゆうのに興味ある人は次のには興味ないやね。
 もうAB型で、人に悟られず気を使うんだよね。

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落ちぶれ果てても

2009-07-25 22:24:54 | 断片
 こんばんは。
 お客さんが多いと、なんでも埋めなきゃと思ってしまう小心者で。

   止めて下さるな妙心殿。
   落ちぶれ果てても平手は武士じゃ 男の散りぎわを知って居ります。
   行かねばならぬ、行かねばならぬのだ

 仕事帰りに朝日の土曜版を見ると、そのような。

 ほう、知らなかった、三波春夫「大利根無情」。よい歌じゃん。ヤクザ同士の喧嘩に肩入れして死んだ剣客、平手造酒(ひらてみき)、ちゅうやつで。

 落ちぶれ果てても俺らは人間じゃ。
 男の散りぎわは、知らなきゃあね。

 こんなの古いんきゃ?
 古いんじゃなくて、昔からなかった、って説さえ出そうですね。いまどきの世界では。
 でも、そんなことないすよ。40年で十分すぎるくらい変わる。変わった後では、想像もできない事態となる。昔は確かにあった。って、はずですけどね。なに、自分だけありゃいいんだわさ。

  でも、世の中皮って良くなったのは食糧事情だけのような気がするのは、気のせいだろうか。まともな(古い)感性は今どこに、、、
  と、シンプルな、酔い話。

   なお、あしたの話題は、もうちょっとお客さんが限定される話ですので、つまりませんよ。、、、、なんて小心者、、、
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詩の中のリズム

2009-07-20 21:52:50 | コーヒーブレイク
 こんばんは
 ほんの少し前に新緑が始まったなと思っておりましたところ、もう世の中夏休みですね。樹々も黒さを増して、っていわないか、とにかく月単位でとんでゆきます。やっぱ処理容量の問題でしょうね、若い人はいろんなことできていいよね。
 もう泳がなくなったんで、メリットのない夏がすぐ終わるのはよいですけどね。

 とゆうわけで、今日もコーヒーブレイクにします。

 3,4回前の短歌屋さんの悪口で、じゃあ、どんなんならいいんだ、ということもあるかな、と。
 先週、新聞に岡井隆の短歌が出てて、ほら、うまいやつはうまい、とおもったのでひとつ。

   部屋に突つ立つ時一対の火の鳥を腹中ふかく羽ばたかせおり

                 岡井隆

 新聞のはちょっと爺さんぽかったんで、全盛期のにしました。(1928年生れ)

 ちゃんと日本語でしょ。
 ポイントは、、めちゃめちゃ字余りだけど、リズムを持っていること。
 振り返って7月4日付の石井辰彦という人のを見直していただくと、途中で句点つけて(マルつけて)歌を途切らせてんでしょ、わざと。彼氏、それが得意なんだって。(だいたい意味不明だし)

 ほんとうは、リズムの存在が歌のアドバンテージであり、弱点です。
 短歌とは、リズムによって、人に伝え、記憶され、いつか復唱させるコミュニケーション道具なのです。反面、リズムに流されてしまうこともあるわけですが。
 リズムを否定するなら五、七、五、七、七を書く必要はない。いくらでも好きに言葉を連ねたらいい。
 わたしゃそれは時間の無駄に思えますけどね。そんなもの、人を知らなければ次の瞬間忘れられてしまう。要するにブログで「今日は金もないし体も疲れ切ってたけどなんか気分が高揚してね、ほら、一間のアパートじゃん。でもさ、これからバイトへいくぞって、立ち上がってみるとさ、、、云々かんぬん」ま、読むのはいいけど、そんな他人の話、5分後は絶対覚えとらんぜ。
 文科系の人はご存知でしょうが、言葉で、人に自分が悲しいことを分からせようとするときは、読者を自分と同じ立場に連れて行かないといけません。そうでなくて『僕は悲しい』というだけでは、『そう、それは可哀想ね』と応えられるのがせいぜいです。
 読者を悲しい地点に連れて行く。ふつうはそれに、最低31文字かかる。それで詩の最低限は短歌形となる。
 例外が、人間の生きている様を直接詠む17文字、山頭火や放哉。これは自分が死ぬほど生きていないと表現できない。
 しかし、歌はうたうことで他人が自分になる。
 「悲しいね、ああ悲しいね、悲しいね」
 こんな17文字詩は、読んでるうちはバカですが、自分でふと口に上らせればそれはそれで自分の歌になります。「悲しいね、ああ悲しいね、、ほんとに悲しいね、、、だれだっけ、この作者、、、」みたいなもんですが。(ちょっと極端ですが)
 書くほうではそのうち膨大な蓄積を持つようになるから、40,50(歳)にでもなれば自分の言葉か他人の言葉かも忘れてもう書き放題。さいきん、ベテラン歌人や「詩」人が歌試合みたいのやってるでしょ。なにを表現したいの? 自分の学識? ばかなことやめたら、と思いますけどね。
 いずれにせよ、次から次へと湧いてくる気持ちを書き留めるには、都合がいいのが定型詩(短歌、俳句、ソネット)なのです。

 歌は、詩でも同じです。
 長くなりますが、古い抒情詩を批判したとかいう戦後詩を見てみます。

   「パウロウの鶴」

  剛よい羽毛をうち
  飛翔力をはらい
  いつせいに空間の霧を
  たちきり、はねかえし
  櫂のつばさをそろえて
  数千羽という渉禽の振動が
  耳の奥にひびいてくる。
    (略)
       長谷川龍生

 2月3日付で、比喩の話に使った鶴の詩ですが。声に出していただくと、各音が響くようにできている。


   「佃渡しで」

  佃渡しで娘がいつた
  〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
  そんなことはない みてみな
  繋がれた河蒸気のとものところに
  芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう
  ずつと昔からそうだつた
  〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
     (略)
       吉本隆明

 これはさらに日本語的です。
 戦後詩もやはり、歌だったのだ、というところです。

 といって、あるいはそれだけに、普通に聞こえる言葉でも、イメージが日常的だと、よい詩になるのは難しい。
 記憶にとどめられた具体的な事物が浮かび上がりすぎる。浮かび上がったものは次の1行で消さなければならないが、それが消せない場合、最悪となります。


  「石動」

  この間は酔っぱらいにからまれた。東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。東京学芸大学前からは、東京学芸大学の学生が乗ってくる。そうだろ、そうに決まっているだろって。そうですね、そうですね、って私。蛇骨原という駅を通ってきたら、蛇の骨が乗ってくるんですよね。石動(いするぎ)からは、重たい石が。青土駅からは、まっさおな土が流れ込んで、列車の中はずいぶんと混雑した墓ができそうではありませんか。

      中島悦子

 私の知らない人ですが今年のH氏賞の受賞者です(昔からある、現代詩の芥川賞)。
 これは散文のようでもリズムがある、けれどこれでは、読者である私は、その詩に入れない。
 私は、東海大学駅は知っているからそこの学生諸君のイメージが涌き、次の学芸大学で云々には、なんのエッセイかと理論モードに陥るだけです。そして、最後に、なんだ笑い話か、で終わる。

 これはネットで作者に好意的な読者が彼女の作品として載せているので、ほんとに全部でこれなのかもしれないけど、作者の名誉のために、これは初めの1連であって、まだ先があることを祈るだけです。

 それに対抗する安直な方法が、先に紹介した何某の記号の羅列方式。それでもできのよいのを書く人はいます。
 、、、って、きれいな詩をあげたかったんだけど、見つからなくて。
  いや、あることはあるんですよ。ま、そういうことで。

 と、ゆうわけで、詩人を名乗る人は、読者をちゃんと君の世界へ連れてってくださいよね。
 それ、案外わかってないんじゃないかな。自分で語れればそれでいいんだ、ってね。
   ま、いいけどね、自己満足なら。


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医者の功名心か、新聞記者の卑怯か

2009-07-14 22:21:08 | 断片
   なんかちょっとやばいなあ、観客多いよ、、
   みたいな。なんでもいいからアップしとこうかな、みたいな貧乏根性も、、、

 てなわけで、かいつまんでいうとですね、例の朝日新聞に、「インフルエンザの感染増殖力は、季節性インフルエンザより強いことが実験で証明された、これは問題だ」っちゅう記事がありまして。

その1 バカか。いやバカだ。
    そんなもん実験しなきゃわかんねえのか。それでも医者か。
その2 それを発言して、どんな影響を社会にもたらそうというのか。お前の医者の高給で、派遣停止になった派遣社員の給料を払うとでも言うのか。
その3 それよりもなによりも、そんな当たり前のことを新聞に麗々しくのっけて、それで、その後の進むべき道を指し示そうともしない、おまえ、朝日新聞の誰だ!

 医者がいい加減なのは誰も追及しないさ。昔からね。みんな命を救ってもらった負い目があるからね。それをいいことにふんぞり返ってたってとりあえず医療費(診療報酬)が高くなるだけだから、この際は目をつぶってやろう。しかし、なんだ朝日の記者、お前無責任すぎないか?
 記事に載っけて、後は読者次第だって? そりゃ詐欺師もいいとこだぜ。記事にした時点でもうお前の責任なんだよ。お前は、一体何をしたくて記事にしたんだ? もっと派遣を首にしたいのか???  (ちょっとわかんない人は、すいませんが2ヶ月前の当ブログをご覧下さい)

 で、実はわたし的にはこれは医者の口先問題の追いうち(被害者)で。

 AEDって知ってます? 心臓発作起こした人に、一刻も早い処置を、って一般民間人が死にそうな人を助けるために備える装置です。かなりの企業が持ってるでしょ? うちも持ってますが。
 それを、今日、「機械が正常かどうか毎日毎日検査しろ」だのという厚生労働省のお触れが出まして。
 あほんだら、どこの世界にそんなヒマな奴らがいるんだよ。企業の善意でようやく日の目を見た制度だってことがわかんねえのか、厚生労働省に巣食う医者達よ。
  (相手は厚生労働省の文人官僚じゃないことに注意。
  (文人官僚は責任をもちたくないからハンコ押すだけね。

 もともとAEDなんて使う機会はないの。
 日本全国津々浦々、設置してあるからって、そのために生きた奴は1年に数人いるかどうか。なんとかいう華族がケースになったけどね、高級施設に高級看護体制ってことだね。
 その中の1人を機械が狂ってて死なそうが、そんなもん、扱った善意の人間のせいにされてたまるかよ。そんな心配な機械なら、みんな宇宙に捨てて、大気圏で燃やしたらいいさ。
だいたいこいつらときたら、医者でもない人間が医療行為をするのは問題だ、などど抜かしてAED設置を止めさせようとした連中だしね。
やめだやめだ。全部捨てちまえ。

 もういいやね。今まで、こいつも1千億くらい売れて、労働者の給料になったんだから。

 、、、こんな話でも1時間近く過ぎた気が、、、 (「断片」カテゴリーってほら、酔っ払いの) ここんとこ、仕事は余裕とはいえ、、、 次回は20日にしましょ。
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言語構制と自称生得説

2009-07-13 21:31:42 | その他
 こんばんは。なんか、自分が書いてないときに訪問者が増えるとプレッシャーで。

 ここはこんなつまんないサイト、じゃないブログですよ、っていっとかなきゃあ、みたいな。

 さて、題にあります「生得説」っていうのは、「生まれつき」ってことで、「生後取得説」の略ではありません。逆です。
 要するに、人間の言葉なんて生まれる前からこうなることって決まってるんだ、というわけわかんない議論です。チョムスキーっていう人の話ですが、有名な人なんで知っててもよいかと。
 さらに、めんどくさいから一緒に言えば、こういうのを、ドイツの哲学者カントの派生形態、っていいまして。
 どっちもくだらない話です。(カントなんて、どうでもいい、完璧に暇つぶしにしか役に立たない人ですけど、この人を改めて批判するのはもっと時間の無駄なので、一緒にしておきます)

 言語っていうのは、人間が使うものですから、子供に教えるものです。
 これはキュウリ、これはリンゴ。
 言語で指示してもらわないと、子供に食料を与えるほうだって困りますから、いちいち名前を教えます。
 さて、この時に、普遍的な教授状態があります。

(1) 教えるものをなんとか指示する
(2) その名前を幼児に伝える

 これが教授の普遍形態です。
 ヘレンケラー伝記にありますよね。
 (1)まず冷たい水に触らせる
 (2)「これは、」ウォーター

 かくて、その限りで、言語の構制は一致します。
 しかし、それは生得的なのではなくて、教授方法の基礎が不可避的なだけです。
 ライオンの親子にだって生ずる教授方法、それは後天的な言語取得です。


 なお、言語学世間じゃ、わけのわかんない神話もありましてですね。
 「仮主語が存在するのは欧米のなんとかかんとか、、、」とかね。仮主語って it のことです。
 "It's raining" っていうでしょ。Itは何も指示していない、こりゃ変だ、って話です。こんな話で本1冊くらい簡単に書ける妄想もできます。

 そんなもん変でもなんでもない。
 日本語だって、外は雨、今は雨、っていうでしょ。人間が生きていれば、まずは、あるものをなんとか指示し、それに意味を加えるのです。そんなものは生得的=先天的ではありますが、それは言語の問題ではない。行為の問題です。
 ライオンでも犬でも、生きていれば、他者に伝えるイメージの展開法則に過ぎません。
 難しいか。
 つまり、どんな動物も、まず、獲物を発見して、しかして、食う、という生得性です。

 あなたが学生なら、
 そんな動物行動をあえて言語活動に結び付けざるを得ないユダヤ=キリスト教文化
 や、
 そんな誰だってお里が知れるはずの西欧文化に、知らんぷりして追随すれば学者がやれる日本文化
 について研究したほうが、人間の資産的価値を作ることになります。お勧めですね。
 
 
    、、、なんてことは、今は考えていません。目下の課題は、次回論文にて、国家論をどう目次化しようかという。
    これがなかなか難問です。

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いろいろな歴史

2009-07-10 22:06:26 | その他
下記のトピックはちょっと前に埋め草で作ってたもんでして
ほんとの今日のショックは、残業で帰った朝日の夕刊。
死産が分かってた子供が産まれて
お葬式ふうじゃなくて、花を飾られて遺体を渡されたって。

私はそういうのを知らないから言うんだけどね。
なにが一番幸せに近いか、って、違うか、不幸から遠いか、かな。それも違うのは分かるけどね。とにかく

産まれてお葬式をするなんてどうにも救われないけれど
確かに、ともかくも、お祝いをされたいよね。

ちがうかしら。
もちろん
わたしはそういうのをしらないからいうんだけどね。

 
   (日本中近世史の間引きを近い記憶におきながら)

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プロ倫論争

2009-07-10 22:00:18 | 社会学の基礎概念
 ごく最近気づいたのですが、ウェーバー学者の間で揉め事が起こっているようです、というよりも起こってまして、羽入辰郎という人と折原浩一派という対決で。ウェーバー学者というのは、社会科学者ではなく、偉い人の業績をなぞることで学者の給料が出る人のことです。もちろん、それも大事で、世の中、「語り部」が必要であることは先に述べました。

 羽入さんという人は、初めて知ったのですが、なかなか面白いウェーバー学者で、「プロレタリアリズムと資本主義の精神」、違うか、「プロテスタンティズムの倫理と云々」略して「プロ倫」というウェーバーの主著が、いい加減極まりない、という。この人は社会学者ではなく、倫理学者で、ウェーバーのそのいい加減さが許せない、という趣旨です。
 これに怒ったのがウェーバー崇拝の折原とその一派で、気違いなんでしょうね、羽入を学者の世界から放逐する、という勢いで (いや、悪口じゃなくてほんとなの。これで過去、社会人だったんだから信じらんないね)。

 私などのように、社会学プロパーで、18歳のおりから大学のゼミで、日本語ではありますが、プロ倫を読ませられてた人間にいわせますと、羽入さんのケチは何を今さら、みたいな気がしますが、ウェーバー学者の土俵で、生意気を極めた折原一派をやっつけるところが非常に面白い。
 同じウェーバー崇拝でも、大塚一派は、学問的に意味のあることを言いますので、それを反駁すればいいから簡単なんですけど、折原のようにウェーバーの殻に閉じこもってやがると、批判する箇所も理由もないし、ただ、生意気さが気に食わないだけでね。
 『学問とは何か』(2008年)という本書、お近くの図書館においてありますから、漫画を読むくらいならこちらをどうぞ。面白いものです。買うこたないけどね、高いし。

 ただし、ほんとの『プロ倫批判』というのは違いますよ、ウェーバーに肩入れする社会学者は羽入のような話を聞いても痛くもかいくもない。プロ倫の社会学上の位置付けは、「その論拠のいい加減さにも拘らず、指摘したもん勝ち」というところにあるんです。ウェーバー学者以外の社会学者は、『プロ倫』がいいかげんなことくらい昔から知っている。にもかかわらず、意義がある。逆に、ウェーバー嫌いな私にも、羽入氏の説に社会科学上の意義があるなどとは思わない。
 だからこうゆう論争は全くの他人事。なんだ、折原というのはここまで馬鹿か、と思えればそれでよろしい。そう、ウェーバー批判より、折原批判だね。
 折原の弟子も、多少は師匠よりもましなんでしょうが、相手がウェーバー理論の社会学的意義ではなく、ウェーバーの行為を問題にしてるのに、それがわからない(ふりをしている)んじゃ、馬鹿の弟子はバカだ、としか言われようがありませんね。とはいえ、ボロくそにして的確な指摘。救いようなし。もちろん折原浩の頭がいいなどと思っている人間は弟子以外にはいないでしょうけど、そこまで世間にばらす必要もないかな、と思いますね。ま、折原の自業自得ですけど。

 なお、社会学というのは羽入が説くような訓古学ではありませんから、若人は、どんどんウェーバーのようにアバウトな社会理論を発表してくださいませ。社会学で問題なのは、説く言説が、現実の因果連関に適合しているか、否か、それだけです。
 ウェーバー学者のやつらって、どこをどう思い違えているのか、「ウェーバーは厳密だ」、とかいうんだよね。アホか。ウェーバーは気が小さいからあら捜しされないような言葉遣いをしただけさ。中身はホント、いい加減。
 ってことを告げられなかった社会学徒の鬱憤をはらしてくれたってとこです。社会科学者は、社会も知らない連中の相手をするほどヒマじゃないからね。
 もっとも、大塚久雄は利口な社会経済学者だから、知らんぷりしてウェーバーを現実に合わせて(ひん曲げて)いる。ま、社会科学者にとって、エライ過去人の使い方はそんなもんです。自分が何を説いているのかこそが問題ですから。

 またなお、ネットで検索される方は、ネットで見つかった説はみな折原の弟子のバカが書いてると思ったほうが良いです。どこが見分け方かというと、『ウェーバーの主張はそうではない』、という書き方ですね。羽入は『ウェーバーの主張』などは問題にしていない、ウェーバーの手続を問題にしているのです。矛先を誤魔化さなければ太刀打ちできないウェーバー理論礼賛説は、それだけでウェーバーの弁護を放棄しているわけです。というよりも詐欺師ウェーバーの弟子らしい所業ですかね。
 なお、たしかにウェーバーの主張は、そんなケチで崩れるわけではありませんが、ただし、そこから先は私のような社会科学研究者が徹底して批判している領分ですから、安心して「バーカ」と思ってください。
 さらにまた、羽入氏は折原浩をいかにも新左翼のように揶揄して書いておりますが、それが揶揄だと気づかない人は多いはずですので、新左翼の名誉のためにいっておきますが、折原が新左翼や全共闘だったと思っている人間は、100人、過去新左翼100人のうちで、社青同のうちのさらに2人、ブントのうちのさらに1人、計3人くらいだと思います。念のため。 

で、ためになる結論

1) この論争で折原とその弟子が、大馬鹿をさらした

2) だからといって、現存の社会学研究者においては、ウェーバーの重要な位置は、何一つ変わっていない。いわゆる反面教師というやつではあるが。

3) しかし、これからは気の小さい学者の卵は、おいそれとウェーバー礼賛はしなくなるだろう、これは学問の進歩ではある。学問の進退は、なんら真実の問題ではなく、賞賛の有無に還元されるのだ。

羽入「倫理論」への付) しかし、羽入氏はバカにするけど、大学紛争時、折原のような一介の「当時若人」の大衆が3年もがんばるのは大変なのだよ。それを自己反省もなくやったやったと喜ぶ本人が、ばかというよりコドモなだけで。
 羽入という人は、それを語るに見合う以上の苦労をしたんだろうけどね、でも、羽入氏にはいろんな支えがあったに違いないさ。人間が耐えられるかどうかは、倫理の問題じゃないのだよ。体力や性格の問題に過ぎない。人間て、耐えられるものは耐えられるし、耐えられないものは耐えられない。羽入君もまだまだ子供だね。(っていうのは間違いであっちが年上にしておこう。)

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ほんとのコーヒーブレイク

2009-07-04 22:06:00 | コーヒーブレイク
 こんなこと(下記)をいいたかったわけじゃないのですがずいぶん時間と文量を食ってしまいました。

 ほんとはもっと浪漫的に、ひさしぶりにギターをボンボンと弾いた話で、、、
 んん? ボンボン??

 今日のヒマな夕べのために3週間前に取り替えたばかりの万全の弦が (人前で弾く方は、弦は2週間で取り替えてね)ボンボンと鳴る。おかしい、、、
 おかしかなくて、指が痛いから、弦をフレットの上で押さえてただけで。

 悲し。指痛いし。
 といって指先固めに毎日弾く気にはならないし。
 おじさんになりたくないね。

  今日の収穫は、やっぱり若き日のさだまさし。
   『線香花火』、歌詞がつっかえて歌えませんでした。
    私も人生が止まってますね。彼は、止まる歌を作れただけで、他人にはそれでいい。
    (今がどうであろうと。っていうのはいいすぎ?)

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朝日新聞文芸記者の悩み

2009-07-04 22:02:15 | 断片
 仕事的に長かった先週・今週が終わり、くつろごうとして見る朝日新聞夕刊に、今夕は谷川俊太郎の「詩」がのっていたんでしょうが、名前を見て通り過ぎました。
 わたしは人間として冷たくもあります。ダメなもので人生を費やしたくない。

 と、思ったら、今日は、中西進の万葉和歌評も載ってました。
 中西がするダバ評にはいまだになにがなんだかわかんないので、最終確認に見ました。
 結論:このおじさん、万葉集に入れ込みすぎて、懐疑の塊になっているな、、、
 歌の何を見たらいいかわかんなくなっているんですね。
 心で見ないで文学を論理で突き崩そうとした自分の学問の集成的敗北。
 と、思って、同情しました。万葉集時代の背景をどう評に取り込もうか悩んでるんですね、 いい年をして。まあ、まだまだ悩むだけお若くて、よいかも、と思ってます。
 でも、もう次回、私は見ません。あほんだら。

 アサヒの文芸欄、こんなふうに、詩に、万葉集、いろいろあることはあります (ちなみに俳句も載ってましたが、問題ない俳句で。問題とすれば1級品でなかったことで、まあ読まなければ済む人の悪口はいいません。)。

 ですが、朝日には更にこの他、短歌添削なるシリーズもありまして。
 石井辰彦とかいう人なんですが、これが死ぬほど訳のわからない添削を下す。
 原文は、もうチリ紙交換用にセットされた夕刊なんで、どうしようかな、ちょっと探すか。
  はい、ずいぶん探しました。未発見。でも努めは果たした。
 で、この添削がひどい。もう見て「なんじゃこいつ」と思ったのは2回目(読んだのも2回目)なので自信を持っていいますが、せっかくの中原中也賞でもあげようかという女子高生(イメージ)の元歌が、ただの駄作。
 おいおい、おまえほんとに短歌作家かよ、と知らないので検索したら、以下、こんなやつ。

 かたくなに 子を愛で痴れて、みどり子の如くするなり。歩兵士官を

        石井辰彦

 こんなん、なんかいいか?
 いいっていやつは、ただのうそつきじゃん?
  ま、しらんからクエスチョンマークをつけとくけどね
 
 いいんだ、別に下手がどうでも。この私見2回目の中也賞の人には、下手がなんか言ってもめげないでね、というだけで。あたしゃ下手のなんか見ないから。

 しかし、さ、ここまで変なやつらを紙面に集める記者(責任者)っておかしすぎないかい?
 絶対、心身症だから。
 よくて、時代に合わない自己世界探索者。
 もう40過ぎて、高給アサヒの給料も溜まったろうから、シンプルに退職をお薦めします。
はためいわくだぜ。

 もちろん、悩むのは良いことで、その結果を次の仕事に生かしてください。
 高額の貯金と培ったコネクションはあなたにバラ色の未来をお約束しますよ。
 そんな苦労のないやつらに記事の行方を掴まれている低賃金階層は、更に救われっこない、という気が湧いて嫌気がさしました。

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