こんばんは、みなさまお元気で?
私も元気です。なかなか他人様のご希望のようには病気にならなくて。
まあ、憎まれ口ですが、本日もコーヒーブレイク。
本業はくだらないレベルですが進んでおりまして、本人そこそこ満足なんですが、他人様には意味不明、というところで。
例によりまして、図書館から借りた写真月刊誌
「日本カメラ」の9月号のフォトコンテスト
(今の今まで「アサヒカメラ」と信じておりました。図書館もいろいろ掛け持ちするもので)
カラープリントのコンテストがありまして、フツウの入選作で目を引きましたのが
汚い台所の流し付近がパンフォーカスで写っている小さい写真。
入選作レベルなので名刺大くらいしかありません。
なんじゃこりゃと思ってキャプションを見ると
『母の日』。ん?
さらに選者の解説を見ますと
『カーネーション。これが100本のバラよりも美しく輝いています』
なんぞという趣旨が書いてある。
そういえば画面の上部、流しの上にある窓辺の棚に、コップに入った小さな赤い花が。
なるほど、カーネーションが汚い流しにね。
それはそれで納得。気持ちはわかるぜ。解説者は四つ切くらいの大きな写真で見てるから、画面で唯一綺麗な赤い花が目に入って、作者の趣旨を素直に受け止めたんでしょう。
私だって言われれば、そうだな、と思う。
もともと人間の目というものはそういうふうにできている。
しかし、解説者は『輝いてます』といいましたが、ほんとに輝いているものは写真中の赤いカーネーションではなく、それを贈られた者という他人の気持ちであり、他人の気持ちとセットになった過去の出来事であり、過去の出来事とセットになった自分の気持ちです。芸術なんてなんでもそう。
とおもったけど、これはもしかすると日本人だけの事情かもしれない。
私という日本人にとって、芸術と宝石とは違う。
宝石は見て美しいもの。芸術は見て感動するもの。
従って、芸術と技術とは違う。どんなに技術がなくとも、感動するものは感動する。
ヨーロッパ語じゃ、芸術も技術もアートですからね。毛唐には分からないかも。
(マイクロソフトIMEには「毛唐」なんてないんだ。ぜったいATOKにはあるよね)
全て、日本語でいう芸術で輝くものは、映し出されたものではない。その中の心です。
私は趣味の部類ではあるけれど、その輝くものが好き。
およそ人間として生きているのなら、カゼを懼れてひたすら他者との交渉を絶つよりも、さらに人間としての出来事を増やしたらどう?
マスクしたやつと真剣に付き合う気にはならない。
なんて、またここに戻ってしまった。
知事橋本がんばれ。(そういえば、吉本興業はヤクザの「興業」じゃなくて、一般人の「興行」だってね。しらなかった)
そりゃ橋本は経済界の手先かもしれないが、ウジウジしないで一般世間の評判をものともせず政治決断(=もう大阪は平常どおりです、って)をできるやつはほんとに少ないものだ。
とゆうわけで、しかし、錦織謹造さん、見た人間がキャプションや解説で気がつかされるのではいけない。
そのために写真機には絞りというものがあるのだよ。わずかにアウトフォーカスで形を残しながら乱雑な台所を周囲に納めつつ、カーネーションを写しとめなければ。
(その2 でもそれがやなんだよね、おじいさん。流行んないからね。最新式機材もってね。
でも、流行んないのが嫌なんだったら、もともと明治センチメントな題材はよすんだね。
流行るのが好きなら、荒木のように叙情のない叙情を写す。
あなたの年代には無理だけどね)
私は流行で表現するやつは嫌い。
私も元気です。なかなか他人様のご希望のようには病気にならなくて。
まあ、憎まれ口ですが、本日もコーヒーブレイク。
本業はくだらないレベルですが進んでおりまして、本人そこそこ満足なんですが、他人様には意味不明、というところで。
例によりまして、図書館から借りた写真月刊誌
「日本カメラ」の9月号のフォトコンテスト
(今の今まで「アサヒカメラ」と信じておりました。図書館もいろいろ掛け持ちするもので)
カラープリントのコンテストがありまして、フツウの入選作で目を引きましたのが
汚い台所の流し付近がパンフォーカスで写っている小さい写真。
入選作レベルなので名刺大くらいしかありません。
なんじゃこりゃと思ってキャプションを見ると
『母の日』。ん?
さらに選者の解説を見ますと
『カーネーション。これが100本のバラよりも美しく輝いています』
なんぞという趣旨が書いてある。
そういえば画面の上部、流しの上にある窓辺の棚に、コップに入った小さな赤い花が。
なるほど、カーネーションが汚い流しにね。
それはそれで納得。気持ちはわかるぜ。解説者は四つ切くらいの大きな写真で見てるから、画面で唯一綺麗な赤い花が目に入って、作者の趣旨を素直に受け止めたんでしょう。
私だって言われれば、そうだな、と思う。
もともと人間の目というものはそういうふうにできている。
しかし、解説者は『輝いてます』といいましたが、ほんとに輝いているものは写真中の赤いカーネーションではなく、それを贈られた者という他人の気持ちであり、他人の気持ちとセットになった過去の出来事であり、過去の出来事とセットになった自分の気持ちです。芸術なんてなんでもそう。
とおもったけど、これはもしかすると日本人だけの事情かもしれない。
私という日本人にとって、芸術と宝石とは違う。
宝石は見て美しいもの。芸術は見て感動するもの。
従って、芸術と技術とは違う。どんなに技術がなくとも、感動するものは感動する。
ヨーロッパ語じゃ、芸術も技術もアートですからね。毛唐には分からないかも。
(マイクロソフトIMEには「毛唐」なんてないんだ。ぜったいATOKにはあるよね)
全て、日本語でいう芸術で輝くものは、映し出されたものではない。その中の心です。
私は趣味の部類ではあるけれど、その輝くものが好き。
およそ人間として生きているのなら、カゼを懼れてひたすら他者との交渉を絶つよりも、さらに人間としての出来事を増やしたらどう?
マスクしたやつと真剣に付き合う気にはならない。
なんて、またここに戻ってしまった。
知事橋本がんばれ。(そういえば、吉本興業はヤクザの「興業」じゃなくて、一般人の「興行」だってね。しらなかった)
そりゃ橋本は経済界の手先かもしれないが、ウジウジしないで一般世間の評判をものともせず政治決断(=もう大阪は平常どおりです、って)をできるやつはほんとに少ないものだ。
とゆうわけで、しかし、錦織謹造さん、見た人間がキャプションや解説で気がつかされるのではいけない。
そのために写真機には絞りというものがあるのだよ。わずかにアウトフォーカスで形を残しながら乱雑な台所を周囲に納めつつ、カーネーションを写しとめなければ。
(その2 でもそれがやなんだよね、おじいさん。流行んないからね。最新式機材もってね。
でも、流行んないのが嫌なんだったら、もともと明治センチメントな題材はよすんだね。
流行るのが好きなら、荒木のように叙情のない叙情を写す。
あなたの年代には無理だけどね)
私は流行で表現するやつは嫌い。