リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

視えるものの差

2018-05-12 10:01:48 | コーヒーブレイク
 こんにちは。寒かったり暑かったり。
 さて本日の簡潔ブログ、写真撮影論。
 心調の調整のため、白黒写真の撮れそうなデジカメのカタログ等を眺めていて気づきました。(この前も言いましたが、富士フィルムがモノクロフィルムの生産をやめたそうで。で、デジカメのカラーを無彩色にするだけだと白黒はだめなんだそうで。)私は白黒写真は嫌いのようです。
 若い頃は印画紙プリントをしてましたので、そこそこ愛着のある自分の作品もあるのですが、それは単なる偶然。そんなものは撮りたくない、あるいは撮りたくなかった。そんな画面には今は過去の懐かしい淋しさしかない。方や、非作品的な昔のカラースナップの自分にとっての意義といったら。これは生涯級の傑作ばかり。生涯ってもういくらもない自分の一生ですが。
 結局わたしは写真家ではないのね。当たり前だけど。違うんだから。
 何が違う、って、撮りたい発想が違うんだね。自分の表現など、写真でしたくないし。
 と、これは図書館にあった山本まりこというカメラマンの本。やたらハイキーにして色温度上げて、で写真を作ってるのをしげしげと見て(そこそこ心地良い)、あ、これは私はしないぞ、と思って。わたしはそんな世界に生きた覚えはないし。
 
 結局わたしはこの世界が好きで、ぼーっと安楽に浸っていたいだけ。その中でずっと浸りたいものがあったら写真を撮る。これは写真家諸氏とは完璧に違う立ち位置というものでしょう。良い写真家は必ずテーマがあるものね、花でも虫でも鉄道でも戦争でもまあいろいろ。しかしわたしは、自分の風景から離れた花や虫や鉄道や戦争やその他いろいろには興味がない。
 と思うとカメラもピントが合ってカラーで写ればなんでもいい(いまどきは安いものほどピントが合う)、というわけだけど、まあこれには使い勝手というものもあるね。
 
 というわけで、役に立つブログ。若き穏やかな芸術愛好家の読者諸賢にあっては、べつに自分が芸術家になる必要はないと述べました。私の好きな熊谷守一、30年間自分の家の庭だけ見ていた、という、芸術家というのはああいう志向を持った人間だね。
 以上、本日も早々に店じまい。本日のテーマは、マイフェイボリットシング、「生き物のいる風景」でした。

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