リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

トピックなし

2021-11-27 16:42:47 | 断片
 こんにちは。東京地方、いよいよ秋深し、というか、もう遅いか。寒いのを我慢して外に出たら、桜の葉はもう散ってました。イチョウの黄色さは最盛期。
 今週は2年ぶりの1泊旅行へ。コロナ、間に合いました。美味しいもの食べて温泉へ、湯舟はえらい小さかったけれど。これで1年は持つでしょう。しかし有名観光地より山の中や海のはたのほうがいいな。贅沢というものですが。 
 それにしても、次の場所への移動時間計算でいっぱいいっぱい、お土産選択の余裕がありません、悲しいね。
 
 話が変わるようですが、youtubeでみなみらんぼうの「コートにスミレを」を聞いたら頭にこびりついて。
 ”コートにスミレの花ひとつさり気なく差せば、、.”  季節外れ。こういう頭のこびりつきを行動の「保続」というのだそうな。認知症の母が何度答えても同じことをいったりしたのがそうか。結局、頭が小さくなってるのでしょう、困った高齢者です。
 
 わざわざ書くほどのニュースでもないですが、「原油価格が高騰する中、日本政府は11月24日、アメリカ・バイデン政権の要請を受けて石油の国家備蓄の一部を放出することを正式に発表」(NHK)
 思うにcop26って地球温暖化対策国際会議、本当は化石燃料をなんとか持たせよう、という趣旨じゃないのかねえ、、。西洋人が南洋の小島の住人や北方の氷河国の住人のことを考えるなんて認識はないよ。その言い方は西洋人差別だって? じゃあ彼らは少しでも過去や現在の行いを自己批判したことがあるのか? 差別されて当然だろう。
 まあそれはいいとして、だからcop26は温暖化を名目にした化石燃料の節約だと思うのですね。
 そこで今回、なに、石油備蓄分放出って? 資本主義の世の中では高ければ買わないというのが行動規範なのだよ。せっかくの節約のチャンスなのにこの機会を使わない法はないでしょう。
 灯油が高けりゃ寒くて凍える、って、だからそういう各論反対じゃあ何が何だかわからない。困った人には困ってない人から金を回す。それがいやなら冬場のイチゴ収穫はあきらめて、果物に石油は使わない。等々。それは私のせいではありません。私はcop26に賛成でも反対でもないって言いました。cop26の賛成者は石油が足らなくならないように消費システムをチェンジするべきなのさ。
 
 さて、本日もトピックなし。
 朝日新聞、今日は、人と会わない今こそイメージチェンジの季節という特集、なるほど、もうそろそろわたしもそういう御年かも。といってツイッターはやだね。
 
 ここんとこ数学の方法論を読んでるのですが、えらそうに数式が光の波を明らかにしたとか書いてあるのね。
 原始人だよね。
 光の、あるいは量子の、どこが波だっていうのさ。そんなことを言いたくなるから数学など害にしかならない。光というのは瞬間の強弱であり、だから運動ではなく、ただの力の状態だよ。
 これはオカルトじゃなくてね。もっともこの年でできるのは評論に過ぎませんが。
 別のはなしのようですが、脳の中の動きも神経組織間の受け渡しじゃなくて波だという説があって、これはまだ状況証拠がだせそうだよ。
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ほとんど埋め草

2021-11-20 14:22:53 | 断片
 こんにちは。ベランダで年越しの小さなシクラメンが咲き出しました。東京地方、今日もいい天気。次第次第に樹が色づいてきてます。といっても大方のモミジとイチョウはまだ先。
 きのうは月食もゲット。この辺りのこの時期だから珍しくはありません。しかし、天の川というものを見たいものです。東京郊外では、大昔でさえ無理やり見えたことにするとかそんなレベルでした。

 さて、ニュースのストックがほとんどなし。今ネットを巡ってもなし。最近(旧)新左翼が大衆から遊離しすぎていてなにも心に響かない。まああちらも困ってんだろうけどね。
 赤旗は自分の宣伝ばかりでコメントのしようもない。
 ブログで論じたりお知らせしたりしてた人たちもどんどんツイッター派になって、気晴らし以外のなにがしたいのか全然わからない。
 我が世も末だね。
 
 でさ、「100万回生きたねこ」って絵本あんじゃん。で、朝日のコラムの天声人語が。覚え違いの書名がテーマの「100万回死んだねこ」という本を紹介してました。
 思うにこの二つはちょっとだけ意味が違う。
 わたしだって生きることなら、100万回はないが、物心ついて、2万回は生きたぞ。私は必ず夢を見るので、5万回はくだらないだろう。毎朝毎朝、あ、今日も生きてると思うことと、「あ、今日も生まれた」と思うことの違いは、前世の記憶の有無でしかない。ところで、件(くだん)のネコ絵本は、ネコが記憶を持って生き返っていく話だから、私の毎朝と同じなのだ。
 それに対して、わたしゃ死んだことはない。少なくとも記憶にはない。えらい違いだ。
 というわけで、「100万回生きたねこ」、ふつうの人間の生活の本です。今日の日を明るく暮らしましょうね。また新しい明日が来るし。
 
 メモってたニュースはこんなの。
 「オーケー、TOBを再提案 関西スーパー統合中止の場合」(JIJIコム)
 オーケーって知ってる? すごく安いスーパー。ちょっと質は悪いけれど、子育てにはとても助かって、一目置いていたOKストア。
 しかし、ここんとここれさ。みにくいなあ。情けないなあ、OKってそんなもか?
 と思って調べたら、「2016年には、大株主である三菱商事出身の二宮涼太郎が社長に就任した」(wiki) 
 ああ、そんな話か。と納得しました。醜い資本家たち。いつものわたしの「昔は良かった」ってやつ。
 
 つぎ、「<音声入手> 「月45時間を超えても構わない」 ワタミ執行役員が“残業要求”で厳重注意」(週刊文春)。
 偉いねえ、、週刊文春。労基署もまっさおではないか。取材もしない新聞とはえらい違いだ。といっても買取り情報だろうけど。ともかく。訴訟も怖がらず紙面に乗せるところが偉い。ジャーナリズムのカガミだね。
 もっとも自分が週刊誌の標的になった、とかこれからなる、なんてことがないからね。
 
 とか、埋め草ですね。
 ともかく頭に引っかかっていることが(いろいろ)あると、記事が引っかからない。
 引っかかりの一つがサルトルの志向性。
 個人から社会に繋げるのに、なにか観念的規定性ってあるのかしら、と、わたしも「学徒」のはしくれだから先達の仕事でも確かめるか、と、まずは竹内芳郎の「サルトルとマルクス主義」を借りて。サルトルの「弁証法的理性批判第1巻」の解説のようなもの。しかし、今二くらい分かってないよな、と、もやもやしながら他の本を探すのですが、これがない。まあ市立図書館にないのは時代遅れだからしょうがないとして、国会図書館の蔵書検索にも引っかからない。おっかしい。わたしは高校生の時そういう題の函入本を本棚に持っていたのに(中身は難しくて皆目わからなかった)。
(p.s. とても後日、わかった。寺沢恒信「弁証法的論理学試論」。わかりやすいとか口コミ書いてるやつがいるよ。へ。)
 しょうがないからよくまとまっている永野潤「図解雑学サルトル」というのを借りてきましたが、おやおや。永野という人はサルトルのことをよく知っているようですが、残念ながら知り方が違う。あらすじじゃん。これなら竹内芳郎のほうが、本質的。
 というわけで困って。
 そんなの原典に当たれ、なんて言いめさるな、これは第2巻が翻訳されていない。厚い(はずな)のに。ほんと、誰も何もわかっちゃいない。
 まあ大した意義のある疑問点じゃないんだけどね。できればサルトリアンとしてサルトルのどこが間違ったか、きれいにしたいと思って。しかし、もやもやするなあ。
 多少でも知ってる方宛てに書くと、疎外的自己から溶融集団に移る、その契機を、次回作品の最終章の「共生」までもっていけるかどうか、という話で。
 もっていけるなら学術的視野が広くなるし、持っていけないなら。別の独自的契機を提出する(だけ)というわけで。
 
  さてそうこう書いているうちに友人から喪中欠礼のハガキが届きました。もう11月20日。
 、、、うそ? そうなのね、今日土曜日。昨日ホームポストに行かなかったのね。
  ともかくわたしも書かなきゃ。
 
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新規社会科学理論の本来的策定法

2021-11-13 11:41:41 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。太平洋側いい天気が続いて、お仕事で悔しかった方も土日も晴れでよかったですね。東京地方は山茶花も散り出すものがでてきて、もういまいち。椿やらバラなんかは枯れた花びらも風情ですが、どこが違うものか。思うに枯れたら用済みだから落とそうと仲間はずれにする根性だと、その心が表れるんではないか、と。(山茶花は椿と違って花びら毎に落ちる)。じゃあバラは? といわれると困りますが。バラの花びらって落ち方違うよね。
 
 世間話。当方、子供のころから飛蚊症で、目のごみは気にもならないのですが、一昨日風呂に入ろうとすると、突然目の中を真っ黒なトンボが飛んで。ぎょえ。
 飛トンボ症はまずいですぜ。パソコン液晶画面の横筋どころじゃない。目をつぶっても見えるのですが、そのうち消えました。デカすぎて重く、瞳の下方に沈んでしまったんだろうか? その後しばらく目を開けたくありませんでした。やだねえ、網膜剥離とか。まあここまで目明きで来られたので、慰めにはなりますが。
 
 さて、本日はオタク話なので、その前にごく一部の方あて、ためになるブログ。
 鶏のレバニラ炒めにしようと最近のレバニラ炒めのレシピを検索しますと、だれが言い出しっぺかは知りませんが、「レバーを揚げ焼きしろ」と書いてあるのばかりです。知ったように、じっくり焼くのは臭みが出るから手早く揚げちゃう、とかも書いてあったり。
 理由なんかどうでもいいですが、みんなが言うのでやってみました。揚げ焼きね。片栗粉をつけて「レバーが浸る位の油で」なんて書いてあるのがあるぞ、なるほどね。えい、と投入。
 バチバチ、、、え? 嫌な予感、、、バッチンバッチンバッチン!!! 油の噴水。
 冗談じゃない。すぐあきらめて火を消しました。イカフライじゃあるまいし。レバニラごときで台所掃除なんか御免。
 「事前によく拭いたか」とかいわれたくない。鶏レバーなんか拭いたって水だらけ。事前処理で水で臭み抜きしてるし、ハツを切り分けてあるから中身出てるし。自分で作ったことあんのかね。
 豚なら大丈夫だって? 知るかそんなもん。書いてないわい。
 ちなみに出来上がりもカリカリしております。レバーが好きな人に言わせるとカリカリであること自体、失敗作とのこと。
 お勧め。鶏のレバニラは検索上位に惑わされず、油大匙1~2杯くらい(フライパンの大きさによる)でじっくり火を通すことをお勧めします。その際片栗粉はタレからみ用に小さじ1杯混ぜるくらいで。
(p.s. その後、豚レバーでやりましたら、たしかに跳ねませんが、しかし全部カリカリになりました。それでよければ。)
 
 では本題。先週の補遺(ほい)。
 先週は大澤真幸の「主客図式に替えて四肢的な構造連関」推しの論に対し、いや主客図式(=二項図式)こそが社会科学の正しい方法と述べたところ。
 いつも言ってることですが、このへんで長いですが具体的にご説明しようか、と。

 さて、主客図式というのは何を指しているのでしょうか?
 押さえておくことは、客体は主体の視点によっていかようにも変わる、ということです。この関係は動かしがたい前提です。
 もちろん客体にそれ固有の論理などはありません。にもかかわらず、人間行為者にとって、客体は客体の過程を動くとみるしかないのです。なぜ? 客体の動きは行為主体の意思を反映しないからです。まず、行為主体はその操作可能性によって客体を判断するしかないし、ついで、それが自己の意思通りに操作されないのならば、その客体に生じている変化は「客体における変化」なのです。これが「1項」ではなく「2項」図式である所以です。

 なお書きでもう1点。客体とは主体のもとでの客体ですからこれを見る視点はいくらでもある。これが片面ですが、もう片面では、そうは言っても見る主体は人間ですので、これを見る視点にはいくらもないということです。
 この構制をどちらにはき違えてもコミュニケーションは成り立たない。
 さて、これを前提として話を始めます。

 まず「研究者」を設定しましょう。
1 問題の始まり

 彼の疑問は、仮に、「なぜ派遣社員である私の給料は正社員の半分なのか」というものにします。
 人は言うでしょう、「それは会社の都合がある。これは経済関係の問題だ。」
 「そうじゃなくて、なぜ派遣社員だと正規社員より安いのか」と問い直します。
 人は「それは日本の文化の問題だ。」と答えます。
 「いや、それでは困っている私への答えにはならない」
 といえば人は「それはあなたの都合であって、わたしに言われても困る。」というでしょう。
 
2 解決の始まり

 さて、ここででてきた「経済関係」「日本の文化」について、それが現実に存在する意味を、研究者は「それぞれ」勉強して解明しなければなりません。。
 と同時に、困っている「私の都合」なるものも解明しなければなりません。
 これらは絡み合っていることは容易にわかるのですが、それでも「それぞれについて」勉強しなければならないわけです。

 そうすると、経済関係の中に個人の要素が多大に存在していることも、文化の中に個人の要素が多大に存在していることも、わかってきます。もちろん、「わたし」のなかに、経済や文化の要素が多大に関与していることがわかります。
 その場面場面について、その場面を構成する要素について勉強しますが、それらの勉強は「個別に」なされなければならりません。

3 解決のきっかけ

 さて、この場面場面の研究で、ある簡単にわかる場面があった時、おや、この場面の経済の要素はもしかして「私の要素」とこのように関連してないだろうか? と知る瞬間があるでしょう。
 
4 解決の進展

 この時に描かれた「枠組み」にそって、彼は全体を振り直して、すべての場面にこれを適用してみます。
 「あれ、これって、みんなに当てはまるのでは? ということはそもそも社会と私ってこういう法則の「どちらも一部」なんじゃない?」

 こうして、2項対立は解消されるのです。

5 仮解決の検証

 さてところで、話はここで終わるわけではありません。
 「ところでこれ本当かしら。順序だてて考えてみよう。これが弁証法だな。
 テーマは派遣社員私の現実で、順序だてて論じた結果、この現実が最後に現れればよい。」

 さて「まずは主体的に派遣社員である私の問題から出ると、派遣社員と労働者だから、労働者は経済的に最低賃金になって、派遣て言うと、、、、あれあれ、、 経済関係の論理から「派遣」の現実が出てこないぞ? 
 いや、これは何かが違う。「派遣」は経済関係では解けないんだ。では、最後に何が出てくるんだ???
 それじゃあ保留にしてあった「文化」か? 文化についてもう一回考え直そう。

 というふうに、弁証法は論理なのです。弁証法で返していけば、最後は正しい論理が現われる。
 (p.s. 弁証法論理の作り方は、去年の当ブログ「方法としての弁証法」シリーズ参照)

こうして研究策定過程を箇条書きにすれば、
1 あるテーマは、自分の思い込みによっては解けないことに気づく。その理由を押さえる。
2 その理由について、あるテーマがどういう様相を呈するかを確認する。
3 その様相を構成する一つ一つの項目について、「こうだろう」「いやこの場合違う、それはこういう理由だ」と考えあわせていく。
4 ある項目について、その規定性を思いつく。
5 その規定性をすべての項目に当てはめ。その様相がそもそもの「理由」を構成するかを考える。
6 そこに必要条件がそろっていると思ったら、現実の初めの一歩、「この場合、主体的個人」に戻って、そこでも規定性が貫徹しているか、その規定性が一つではなくすべての様相に妥当するか、を確認していく。
7 そこで論理の行き止まり(破綻)があれば結論の現実の、これが現実と認識した内容が間違っている。もう一度考え直し、改めて、導き出した新規定性により、「この場合、主体的個人」からもう一度確認作業を続ける。

 このような過程を通るはずです。客体で2×2×2の8項、これに主体の観念性と身体的前提の×2で計16項の視点の行き来が繰り返されるというわけです。
 やってみればお分かりのように、たった2項目の適用検討でさえ、講義授業の片手間でできる気配りではありません。頭の中で思考実験し続けていくわけですから。しかもその「2」を「4」にすることなど、仮に天才ができてもそれを目の前に出されて読める天才はせいぜい世界で数人、そんな理論は理論ではありません。なぜか。第1に、皆様お察しのように、理論の存在意義は他者に伝える点にあるからです。伝えられないものなどに理論の資格はありません。そして第2に、皆様の想定の向こうとは思いますが、理論の伝える内容は一つ。どんな立派な格好をしていようが、あるいはいまいが、内容にしてしまえば取るに足らない一つの認識上の事実関連です。数式なら1行のことです。そんなものにどんな格好をつけようがただの自己満足であり、そんな恰好づけだけの論者は、村の平凡な知識長老に対して、修飾語を巻き散らして村民を惑わす呪術師の存在と同じです。
 
 ところで、話は変わりますが、別のポイントがあります。
 思考対象が個人に戻って確認を始める前の全体枠組みの設置です。
 これがあるんで「具体性の社会学」は、それ自体では社会科学にも新規理論にもならない。
 実証家を志向される方々は良くお考え下さい。全体枠組みが常識で代用されれば、現象理論の結論も常識にしかならない。もちろん、弁証法なりによる論理検証がなされればお気づきになるところだと思いますが。
 

 
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賞味期限超過+β

2021-11-06 15:33:19 | その他
 こんにちは。明日は立冬だそうで。ただ東京地方順調に秋晴れが続いております。田舎ではところどころに木の実が色づいてきました、がこれが苦手。いったい何の木の実やら。みんな同じに見えてしまう。
 人間には見えないほどの小さな花の回りを回っているのはヤマトシジミか?
 秋に聞きなれたキーイキーイという鳴き声はモズでいいんでしょうね。なんせ昔から目が見えないし。
 
 さて早々に本日のテーマ。備蓄品の賞味期限。週刊誌の見出しによりますと「2か月以内に神奈川県西部に大地震」だそうで。まあなんにせよ後悔先に立たず。
 たしかそろそろ賞味期限の来てる備蓄品があったはず、と缶詰を調査。
 あったあった、楽寿久:ラスク缶:どらどら。2019.8期限。
 たいしたことない。
 味は? まあこんなもんでしょう、ちょっと濃いけど。割れがひどいのは仕様(?)のようです。しかし、味が濃くて食べづらい。水が欲しくなりそうなので、パン缶に替えました。
 次。ブルボンのミニ・クラッカーとミルク・ビスケット。2016、8期限、、、
 おっと。こんなのあったっけ?
 食べたくないなあ、、まあしかたない、昔自分で東急ハンズで買った覚えが。
 クラッカーは普通においしい。要は、昔のリッツ。今のリッツは食べたこともないけど。モンデリーズはプレミアム(クラッカー)をまずくしたので買う気にならない。ルヴァンがいい。
 元へ戻ってビスケットがおいしくない。やけに粉っぽい。初めからかもしれないけど。
 でも乾パンの缶詰のことを思えば柔らかくてまし、ただ乾パンのほうが味はうまい。薄甘味より薄塩味のほうが良い。  
 というわけでちょっと願い下げで、残りどうしようか、とネット情報を検索。ピザにできるとのこと。
 そこで缶の残りを牛乳でふやかして強力粉と塩とベーキングパウダーを加えて、ピザ生地へ。
 、、、うそつけ。こんなものピザじゃねえわ。
 しかしまあ食べられはします。まだ1缶残ってる、が、もう嫌。
 以上、粉ものの缶は期限後数年は大丈夫と考えられます。量にもよるけどね。
 
 というわけで、この先は普段の感想ブログに戻ります。
 
 いちおう選挙結果の週なので、ちょっと古いですが。
 まず国民審査。「夫婦別姓認めぬ民法 「合憲」4裁判官、罷免要求突出 国民審査」(毎日新聞)
 ブルジョワ新聞はあいかわらず中途半端な講評。さらに頭一つ抜けてる×の2人は、再審拒否組ね。知ってて講評してんのかなあ、、、
 
 衆院選挙結果、ま、こんなもんだね。
 こんなもんでいいけど、朝日新聞には境家史郎という政治学者が
「ネオ55年体制立件は変われるか」
 とかいって、立憲民主は現実的に対応しないと社会党の轍(てつ)を踏むって、年寄りには聞き飽きた話をでかでかとしてました。
 バカなのかタメにしているのか。理念と思われるものを変えたら政党じゃないさ。90議席いってるのは有権者にとってそういう政党だってことだよ。自民党が二つあることに何の意義があるのか。国民民主と維新が一緒になれ、と主張したほうがユニークでよかろう。どうせ権力が欲しいだけなんだから。
 だいたい選挙なんて行動はイデオロギーとか信条とかいうもんじゃなくて、対人的な人間の性向反応だってことがわかんないのかね。端的に言えば、人間なんて顔を見りゃどの党に投票したかなんてわかるさ。
 
 さて、本日の大問題。
 「迷惑「キョン」大量発生で被害 4万頭 千葉から東京に接近」(FNNプライムオンライン)
 え? 八丈島のきょん? 4万頭? そんなもん、いったいどこにいるというんだ?
 千葉県には人がいない土地が多いのはわかるが、不思議。しかも4万頭が近々に消えてなくなる(取って殺しちゃう)、ということも不思議。どうすんのかねえ、、人間、知らないことは知らないものです。
 
 本日のシメ。
 朝日新聞の読書欄で大澤真幸(社会学者)がとつぜん廣松渉を褒めてました。広松の「世界の~」が文庫になったもよう。
 主客図式に替えて四肢的な構造連関を唱え世界の見方を変えた、まさに哲学者、てなもんだ。
 まともに扱う気もないが、で、廣松氏死後30年が経とうとしているが、どなた様がどんなふうに世界の見方を変えたのだね。評論分野で心理論がはやったことぐらいじゃないか。
 くだらん。
 問題は四肢などではない。哲学は具体論がないから「四は二より多いのだろう」と思うのだろうが、社会科学はそんな大まかなものではない。ある1項について必ず下位の2項が立つのだ(たとえば派生的に羅列された5箇点(6箇点でもよいが)のそれぞれについて、表と裏の画面を考えるわけだ。この時点で2項増える)。こうした過程で1理論では少なくとも16項以上は検討がなされる。さてところで、これは四肢項論で言えば4×4×4×4の項目を一度に見ていることと同等なのだ。256項理論。できるものか。
 同時に16項目があるだけでも考えられない、だから4個の視点だって人間にはまとめられないのだ。せいぜい評論家が周辺で独り言をばらまくことしかできない。
 人間はこの数百年、バカではない。かくて2項図式が存在しているのであって、そこから先の地平に2視点さえ扱えない人間の出る幕はないのだ。

 ほんと社会学のお守りは大変なばかりで得るものがない。

 
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