リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

俳句と時代

2009-03-29 21:21:37 | コーヒーブレイク
   ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう

             折笠美秋


 いい詩ですね。
 詩。これは俳句ではなくて。
 「ない」っていうのは、こういうのを俳句といってしまうと、日本の歴史上に現れたその表現形式の特性を分からなくしてしまうためです。
 それと同時に、この短詩が生まれた所以が、あるいはこの短詩を作った詩人が生きた背景が、曖昧になってしまう、ためです。何度もいいますが、詩は心を、俳句は情景に托した限りでの心を歌います。
 

 われわれは思ったとおりのことを世間に発表することができるし、発表すれば、それ相応の評価もついて回ることを知っている。私は特に、こんなふうにいいたい放題を言ってますが、それに近そうなものをたくさん見ますので、やはり、一般的にそういっても間違いではないでしょう。
 ところが、それは、室町時代や江戸時代もそうであったかというとそうではない。
 人権などない世の中で町人が何かを表現できるとすれば、それは人為の関わらない花鳥風月しかなかった。
 親が息子に: 「隣りの娘が綺麗だって? 馬鹿いってんじゃない。お前はこの家の跡取だよ」
 親が娘に: 「隣りの息子が好きだって? ああいやだいやだ、なんでこんなふしだらな娘にそだっちまんたんだろうね」
 その歴史性の中で、町人にも花鳥風月に託す表現形式が、それだけが、認められていたわけです。
 短歌?
 そんなに長かったら、ほんとのことまで、つい言ってしまう。万葉集以下、気持ちだらけ。
 そんなほんとの畏れ多いことは、言ってはならないし、印刷などして広めてもならなかったのです。これは今でも同じですね。
 (え、今は違う? ほんとかよ。そんなもん、本にしてくれんべ。活字にならなきゃ、結果一緒さ。)

 かくて、俳句(以下4行です)

     谷間に

   見出されたる

   桃色花火 
             
               高柳重信
               
という俳句は生まれる。
すごいねえ、立派、天才かな、という気さえする出来映え。
折笠美秋がねたんだ俳人だそうで。たしかにね。

でもね。詩が生き残る。
みんな生きて悲しみ苦しみ喜ぶからね。桃色花火で人の悲しみが消えるか。いいや、消えっこない。

    ひかり野へ……

 次代へは一つの歌が残せればいい。


 【その2】
 
 寒くて執筆仕事が乗らないもんでネットサーフィンに時間を費消しましたところ、また将棋世俗で問題が起こっているようです。将棋連盟の代表が米長邦雄元9段というんですけどね、こいつがプロ将棋の代表者で、将棋棋士の生活費を企業から分捕るのはうまいのでご同慶なのですが、わがままで生き続けあとは神のみままに、というような人で。
 米長という人は嫌いではないし、普通の人だと思うんですが、そこが、強い人が勝てばいいという特殊な世界でしか生きたことがない人なんですね。小学生のまんま世渡りをしている。
 世間では、自分が正しいと思ったことをすれば、それは正しいわけがないのだから、その結果皆に嫌われるのが当然。と、思ったら、まだ彼を擁護する人もいるようです。
 不思議ではありませんけどね、私も長年生きてるから。
 でもそれは虚偽の人たちです。今日も営業でウソをつき、明日も営業でウソをつく。気晴らしといえば、将棋で勝つこと。負けてはいけない、そのためには対局にあたって段を3階級くらい下を申告する。まあ、そんな人たち。
 「見てきたようなことを」、というわけですが、もちろん、根拠は、長年生きてきた、ということしかありませんけどね。
 でも、人生というのはそんなものです。
 それ以上、証明したければ簡単な作業だから、論文でも書けば心理学修士くらい取れますよ。ただ、私にはやる気はありません。
 そんなことではなくて、楽しいはずの趣味もいやな奴がでしゃばれば面白くない、というところです。といっても、それを聞いて反省するのは米長反対派だけなところが、まあ人生ですね。
 しかし、美しくない。将棋しかしない人は、詩なんて、つまり人の心なんて、わかんないんでしょうね。
 これは悪口。

 結局、あと2日を残して、今年度の予定をわずかに終わらすことはできませんでした、って実は誇りを持って言ってたりして。
 あほかな、と思いますけどね、確かに。できないのになにが偉いんだって。普通わかんないよね。
 そこが何かの分かれ目なんですね。私はAB型。AやBの人が何を考えるかぐらいまでは分かるし、こちらが分かられていないのも分かる。なので、AB型の人だと分かるんだるな、なんて思ったりします。だからどうということではありませんが、まあ、なぜか理屈外の症状ですね。


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もう一つの部類

2009-03-20 21:25:53 | その他
 おばんです。ようやく温かくなってきました。おかげで夜ともなればもうほとんど目が開けていられない。はい、ご多聞にもれず花粉症。でも私のようにン十年以上花粉症だと、さいきんのグッズやら薬やら、マスコミの吹聴やらって、なんか変だと思いますね。昔の武器はチリ紙だけですよ。花粉症者は誰一人同情してくれる者もなく孤独な戦いをしてきたわけです、って、これは理屈。単に春だからいつものように我慢してきただけ。大学受験日だってチリ紙と共に存在してましたが、それが何か。みたいなもんです。もう、ティッシュありましたけどね、ってチリ紙知らないか。

 で、本題。アナーキストのもう一つの部類。
 え? そんな題?
 そんな題。どうもgooで新規記事を出してくれるのも悪しかれで、書いてるほうも気を使うんですよ。なるべく来ないように、みたいなところがありまして。わけわかんなきゃこないだろ、みたいなところで。

 で、私のような穏健派以外によくいう無政府主義者という人たちがあります。
 理論はないんですが、でも権力に歯向かえる性格がある人たち。
 そんな人たちにも、穏健派は、マルキストのセクト主義とは異なり仲違いすることなく、エールを送っているわけです。

 なんでか?
 結局、穏健派って、マルキストのように体制的なんですよね。
 体制的なスタンスのもとに理論を構築していく、体制的なスタンスを拒否する性格ではないから理論も構築できる。
 しかし、それは体制派には変わりはありません。

 オーソドックスな無政府主義者も、穏健派と同様に、自分の規準と他者の規準を同じくする。
 この、自分と他者を同じくする、というのが、アナーキストであることの定義です。

 で、オーソドックスな無政府主義者は、やはりその無政府主義を誰にでも当てはめようとする。
 われわれ穏健派としては、なんや、無茶苦茶やねん、と思うわけですが、穏健派は自分が無政府的野蛮さのない体制派ですので、なんといっても自分の同情に限界があることを知っている。かくて、結果として、「彼らもいいところあるじゃん」(何じんかね)と思うことになります。もちろん、自称で「体制派」といえること自体、大きすぎる自信ではありますけどね。

 ま、とにかく、自分と他者を同じく扱う人は、これを突き詰めれば私たちと同じアナーキストです。
 今後ともよろしく。

  (今日、明日、明後日、ちょっと忙しくて軽くなってます)
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感受性と表現力、の間に介在する生き方

2009-03-15 21:15:46 | コーヒーブレイク
 こんばんは。ようやく明日から春、と天気予報がいっております。
 うれしい。
 こう寒いと前回とおなじぐちしか書くことがありません、って、ここはぐちブログじゃなかったね。

 今日もなんかむずかしい題です、が実際はそう難しいことではなくて、でも無視されがちなことで。

 つまり、「写真を撮るのは感受性とそれを実現する表現力だ」みたいな文章が正しいかどうか、という話題です。写真なんてシャッター押すだけですからね。感じたまんまシャッター押してたらそれでいいじゃん、ま、構図とかもあるけどね、みたいにも思われます。が、そうかしら?

 例によって図書館で借りた写真雑誌で、借りてばっかだけど税金ほかで返してもらうことないし、で、その雑誌の写真コンテストに、相当気を引く少女の顔写真があって、別にかわいいとかじゃなくてね、キッと遠くを見つめる小学生、ってだけだけど、そのキッと、がちょっとすごい。ほお。と感心しました。作者が中野りりあさんて、中高年の方かな、根拠ないけど。ネットでたたいたら写真が上がってました、ほら、これ、ってリンク張れるといいんですが、やり方知らなくて。この前やろうとして失敗したのは書きました。HTMLとかじゃないとダメなんじゃないかなあ。興味のある方はここですけど。
 http://cpckanagawa.hp.infoseek.co.jp/prize/prize.html
 まあ、とにかくよい表情のものなんだとしまして、この写真はただの入賞。で、ここまでが前段。

 作者の方は、よい表情を見つける感受性を持ってらした、ということはあります。でも残念ながら、それを生かす表現ができなかった。ピントも合ってて、不満のない構図なんですけどね。残念ながら、キッという表情の後ろは春爛漫の菜の花畑なんですよ。

 キッという、表情が、それを見た人間に意味があるのは、小学生の純粋さ、に対する共感であり、それに対応する自分の立ち位置のはずです。人生への態度とかスタンスとかいうことですけどね。だから、それを押し出すのが表現としての写真です。

 感受性もある、ピンとも合わせられる、それで何が不満か。
 感じたことは、受け止められなければ、受け止められない、ということが伝わるしかない、ということです。この中高年の方には (決めつけてますね。違ってなくても謝っておいたほうがよいかも。ごめんなさい) 単にかわいい孫か姪っ子としてしか扱うことができなかった。だから背景はかわいい菜の花。それはそれでその方の表現ですから結構ですが、それはその表情を掴んだ自分の心とは違う。その眼を描くためには、たじろがない自分の生き方が要る。かくて、金賞ではなく入賞です。

 それは俳句以外ではなんでも同じ。自然以外で人を感動させるもの、つまり人間の生き方の表現で人を感動させるものは、感受性ではないのです。そして、表現技術でもない。この、他の人も感じるだろう感受性を、その媒介者である表現者が、自分の生き方として再提出することが必要なのです。
 キッとした目、小学生のとき、自分もそういう目をしたことがある、それは、じゃあ、どんな色をしていたのか。それは確かにいろんな色があるだろう、しかし、絶対に菜の花色ではない。いや、もちろん、僕が違うだけですけどね。

 写真もそうです。
 新聞なんかですと、たまたま通りすがりのカメラを持っている人の写真に報道写真賞とかを贈ったりします。しかし、人を感動させる写真とはそういうものではない。
 危機に臨んだとき報道写真を撮るかすぐに手助けに走るか、なんていう話題もある。しかし、それは写真家がする問答ではない。
 たとえば、沢田教一って写真家が昔、ピューリッツァー賞をとりました。ベトナム戦争で米軍の銃弾を逃げて泥川を泳いで渡るベトナム人の母子の写真です。そんなとき、報道写真家は自分も死ぬ気で撮っている。こんなことになんの疑いがあるものか。人が死ぬか生きるかを目の前にして、だれがあらあらどうしようなんて思って写真が取れるか。「畜生!」と心の中で叫びながら撮っている、俺を殺すなら殺せ、俺は写真を撮る。だから見ている人の心を打つ。その後我に返れば助けるかもしれないが(沢田の場合、母子を助けることができた)そんなことは関係のない話なのだ。そうでなくてなんの写真家か。写真とは、そういう生き方をしているから取れるものなのだ。

 というわけで、すべて、人を感動させるものは、自然以外は、生き方の表現だ、ということでした。



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社会科学と歴史性

2009-03-08 21:13:13 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。お寒うございます。
 冬なら勉強ができると公言してきた私、今年はダイエットのせいか、腕まくりの○○といえば、ちょっとは地域的に知られた私が、とにかく寒くて何もしたくない。
 代わりに暑い夏に生産性が上がるとすれば、それはそれでよいんですが。

 さて今日は、こんなつまんない題でいらっしゃったあなたが悪い、梅本克巳と宇野弘蔵の話。
 といってもマイナーすぎというか古すぎるというか、要説明。二人とも死んでしまいましたが、前者は主体性倫理学者で、後者はマルクス経済学の再生の祖、後者はこの人がいなかったらわたしも余計な時間を10年は費やさなければいけなかった、みたいな重要な人で。
 
 で、初めの一歩は「社会科学と弁証法」(こぶし書房)、製作中の次回作品の弁証法の欄を膨らませようかと図書館で借りた二人の交換日記みたいなもんなのですが、これがあにはからんや、意味がない。内容といえば、水と油の二人なのに、梅本が混ざり合わないものを混ぜようとして、宇野が困惑しているという本。宇野も梅本の気持ちにだけ押されて、「どうしよう、悪い人じゃないんだけど、そんなこといわれても」、みたいなもんで、皆様、別に読まれる必要はありません。こぶし書房もいいだももの解説を載せるとか、鷹揚なものですが(昔は某セクトの宣伝専用社)、本来そうでなくちゃね。私だって梅本もいいだも評価しませんが、ちゃんと読みますもの。

 で、本題。宇野が「経済学は資本主義の勃興により、やっと科学としての経済学となった」という持論、おっしゃるとおりの何十回も読んだ話にふと思ったところ、私の理論も、歴史的に今しかない話だよなって。
 
 一般化しましょう。
 資本主義初期までは、人々は食べるだけで精一杯だった。資本家は太り、労働者は野垂れ死ぬ。第三者である社会科学者はその社会の敵対的構造に、隈理論でいう「生理性」レベルにさえ焦点を当てれば済むと思った。飢えれば革命するだろう、みたいなもんですね。
 私だって、昔だったら労働貴族の方ですからね、昔生きてたとしたらそんなふうに思い続けて死んだかもしれない。
 ところが、資本主義爛熟期の先進国日本ではそうではない。
 今は、住む家さえ確保していれば、所得税非課税世帯であれ、その暮らしは「生理性」レベルだけで済むものではない。人の生活レベル、たとえば「夏になれば標準米だけではなく、そうめんも食べたい、だってそうめんなんて東京じゃみんな食べてるよ」みたいな話、ふつうわかんないでしょ。ほんとの貧乏人て今でもそうなんですが。まあ、一般人民にはわからない。みんな携帯電話持ってCMどおりの買い物してるでしょ。にも関わらずホームレスになる。
 だからね、生理性レベルの話だけしててもだめなの。
 そんな時代であれば、宇野弘蔵に加えて、賞賛や優越、自発性の行為原則が重要となる。(マルクスに加えて、じゃないよ)。
 
 で、今はこれだけでよいはずだが、これは共産主義過渡期社会においてもそれで社会科学として十全かといえば、おそらくそうではない。 
 ポイント。社会科学とは、そこで生きている人間の生き方を因果連関として定式化するものです。いくら正しかった法則的事項でも、生き方が変われば、社会科学に限っては古い理論として整理されざるを得ない。生き方って、本人と外界の相互作用ですからね。
 隈理論は、あと20年後、一世を風靡して、しかし、あと200年しか持たない。
 
 それで、結構ですけどね。
 私も、他人もこの社会で生きるしかない。150年前のマルクスと同じくね。
 
 
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ちょっとエール

2009-03-01 21:31:57 | その他
 こんにちは、寒いですね。うちはまあ東京地方で2月までは寒くても晴ればかり、サッシさえ閉めていれば、暖房いらずの生活ができるのですが、ここんとこ曇りやら雪やらって、いつもそうなんですが、寒い。う~~ん、寒い3月。必然的に勉強もしなくなるのが職人気質のわたし。学習障害。
 
 で、昨日も今日もなにかれとあったもので、本来の仕事も(HPにありますように、決定稿を執筆中)こちらの原稿書きも最低限となり、

 今日は家人が押入れの整理をしてて、ほらこれじゃま。捨てるの? って持ってきたものが靴箱5つの青年期の写真のネガ。へええ~~、こんなのうちにあったのか、と実家に置いてきて何十年も前に焼却炉の水蒸気となったと思っておりました。

 わたくし儀、大学4年の就職では14ケも試験を落ちましたが、そのうちの一つは朝日新聞カメラマン募集試験でした。友達でもほとんどの人が知らないと思うけど。まあ、身の程知らずな、みたいなもんですが、結局なにをしていいかわかんなかったんですね、それも一局(将棋用語)、みたいなもんです。

 結局得たものはこんな生活ですが、そうと知っていればもっと効率的な手立てもあったような。と、今なら思うけど、そういうことを自分の力で知ることが大切なんですね。そこから腹もくくれるというものです。
 わたし的にはカメラマン試験を落ちたのって、一つの財産ですよ。
 とゆうわけで、若いみなさん、就職が大変でもくさらずに頑張ってください。もっといいことはあるかもしれないけど、失敗とはいえ折角経験したかけがえのない人生です。生きてさえいれば、それもよし。
 判断基準は、生きていって後悔しない何かです。

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