ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう
折笠美秋
いい詩ですね。
詩。これは俳句ではなくて。
「ない」っていうのは、こういうのを俳句といってしまうと、日本の歴史上に現れたその表現形式の特性を分からなくしてしまうためです。
それと同時に、この短詩が生まれた所以が、あるいはこの短詩を作った詩人が生きた背景が、曖昧になってしまう、ためです。何度もいいますが、詩は心を、俳句は情景に托した限りでの心を歌います。
われわれは思ったとおりのことを世間に発表することができるし、発表すれば、それ相応の評価もついて回ることを知っている。私は特に、こんなふうにいいたい放題を言ってますが、それに近そうなものをたくさん見ますので、やはり、一般的にそういっても間違いではないでしょう。
ところが、それは、室町時代や江戸時代もそうであったかというとそうではない。
人権などない世の中で町人が何かを表現できるとすれば、それは人為の関わらない花鳥風月しかなかった。
親が息子に: 「隣りの娘が綺麗だって? 馬鹿いってんじゃない。お前はこの家の跡取だよ」
親が娘に: 「隣りの息子が好きだって? ああいやだいやだ、なんでこんなふしだらな娘にそだっちまんたんだろうね」
その歴史性の中で、町人にも花鳥風月に託す表現形式が、それだけが、認められていたわけです。
短歌?
そんなに長かったら、ほんとのことまで、つい言ってしまう。万葉集以下、気持ちだらけ。
そんなほんとの畏れ多いことは、言ってはならないし、印刷などして広めてもならなかったのです。これは今でも同じですね。
(え、今は違う? ほんとかよ。そんなもん、本にしてくれんべ。活字にならなきゃ、結果一緒さ。)
かくて、俳句(以下4行です)
谷間に
見出されたる
桃色花火
高柳重信
という俳句は生まれる。
すごいねえ、立派、天才かな、という気さえする出来映え。
折笠美秋がねたんだ俳人だそうで。たしかにね。
でもね。詩が生き残る。
みんな生きて悲しみ苦しみ喜ぶからね。桃色花火で人の悲しみが消えるか。いいや、消えっこない。
ひかり野へ……
次代へは一つの歌が残せればいい。
【その2】
寒くて執筆仕事が乗らないもんでネットサーフィンに時間を費消しましたところ、また将棋世俗で問題が起こっているようです。将棋連盟の代表が米長邦雄元9段というんですけどね、こいつがプロ将棋の代表者で、将棋棋士の生活費を企業から分捕るのはうまいのでご同慶なのですが、わがままで生き続けあとは神のみままに、というような人で。
米長という人は嫌いではないし、普通の人だと思うんですが、そこが、強い人が勝てばいいという特殊な世界でしか生きたことがない人なんですね。小学生のまんま世渡りをしている。
世間では、自分が正しいと思ったことをすれば、それは正しいわけがないのだから、その結果皆に嫌われるのが当然。と、思ったら、まだ彼を擁護する人もいるようです。
不思議ではありませんけどね、私も長年生きてるから。
でもそれは虚偽の人たちです。今日も営業でウソをつき、明日も営業でウソをつく。気晴らしといえば、将棋で勝つこと。負けてはいけない、そのためには対局にあたって段を3階級くらい下を申告する。まあ、そんな人たち。
「見てきたようなことを」、というわけですが、もちろん、根拠は、長年生きてきた、ということしかありませんけどね。
でも、人生というのはそんなものです。
それ以上、証明したければ簡単な作業だから、論文でも書けば心理学修士くらい取れますよ。ただ、私にはやる気はありません。
そんなことではなくて、楽しいはずの趣味もいやな奴がでしゃばれば面白くない、というところです。といっても、それを聞いて反省するのは米長反対派だけなところが、まあ人生ですね。
しかし、美しくない。将棋しかしない人は、詩なんて、つまり人の心なんて、わかんないんでしょうね。
これは悪口。
結局、あと2日を残して、今年度の予定をわずかに終わらすことはできませんでした、って実は誇りを持って言ってたりして。
あほかな、と思いますけどね、確かに。できないのになにが偉いんだって。普通わかんないよね。
そこが何かの分かれ目なんですね。私はAB型。AやBの人が何を考えるかぐらいまでは分かるし、こちらが分かられていないのも分かる。なので、AB型の人だと分かるんだるな、なんて思ったりします。だからどうということではありませんが、まあ、なぜか理屈外の症状ですね。
折笠美秋
いい詩ですね。
詩。これは俳句ではなくて。
「ない」っていうのは、こういうのを俳句といってしまうと、日本の歴史上に現れたその表現形式の特性を分からなくしてしまうためです。
それと同時に、この短詩が生まれた所以が、あるいはこの短詩を作った詩人が生きた背景が、曖昧になってしまう、ためです。何度もいいますが、詩は心を、俳句は情景に托した限りでの心を歌います。
われわれは思ったとおりのことを世間に発表することができるし、発表すれば、それ相応の評価もついて回ることを知っている。私は特に、こんなふうにいいたい放題を言ってますが、それに近そうなものをたくさん見ますので、やはり、一般的にそういっても間違いではないでしょう。
ところが、それは、室町時代や江戸時代もそうであったかというとそうではない。
人権などない世の中で町人が何かを表現できるとすれば、それは人為の関わらない花鳥風月しかなかった。
親が息子に: 「隣りの娘が綺麗だって? 馬鹿いってんじゃない。お前はこの家の跡取だよ」
親が娘に: 「隣りの息子が好きだって? ああいやだいやだ、なんでこんなふしだらな娘にそだっちまんたんだろうね」
その歴史性の中で、町人にも花鳥風月に託す表現形式が、それだけが、認められていたわけです。
短歌?
そんなに長かったら、ほんとのことまで、つい言ってしまう。万葉集以下、気持ちだらけ。
そんなほんとの畏れ多いことは、言ってはならないし、印刷などして広めてもならなかったのです。これは今でも同じですね。
(え、今は違う? ほんとかよ。そんなもん、本にしてくれんべ。活字にならなきゃ、結果一緒さ。)
かくて、俳句(以下4行です)
谷間に
見出されたる
桃色花火
高柳重信
という俳句は生まれる。
すごいねえ、立派、天才かな、という気さえする出来映え。
折笠美秋がねたんだ俳人だそうで。たしかにね。
でもね。詩が生き残る。
みんな生きて悲しみ苦しみ喜ぶからね。桃色花火で人の悲しみが消えるか。いいや、消えっこない。
ひかり野へ……
次代へは一つの歌が残せればいい。
【その2】
寒くて執筆仕事が乗らないもんでネットサーフィンに時間を費消しましたところ、また将棋世俗で問題が起こっているようです。将棋連盟の代表が米長邦雄元9段というんですけどね、こいつがプロ将棋の代表者で、将棋棋士の生活費を企業から分捕るのはうまいのでご同慶なのですが、わがままで生き続けあとは神のみままに、というような人で。
米長という人は嫌いではないし、普通の人だと思うんですが、そこが、強い人が勝てばいいという特殊な世界でしか生きたことがない人なんですね。小学生のまんま世渡りをしている。
世間では、自分が正しいと思ったことをすれば、それは正しいわけがないのだから、その結果皆に嫌われるのが当然。と、思ったら、まだ彼を擁護する人もいるようです。
不思議ではありませんけどね、私も長年生きてるから。
でもそれは虚偽の人たちです。今日も営業でウソをつき、明日も営業でウソをつく。気晴らしといえば、将棋で勝つこと。負けてはいけない、そのためには対局にあたって段を3階級くらい下を申告する。まあ、そんな人たち。
「見てきたようなことを」、というわけですが、もちろん、根拠は、長年生きてきた、ということしかありませんけどね。
でも、人生というのはそんなものです。
それ以上、証明したければ簡単な作業だから、論文でも書けば心理学修士くらい取れますよ。ただ、私にはやる気はありません。
そんなことではなくて、楽しいはずの趣味もいやな奴がでしゃばれば面白くない、というところです。といっても、それを聞いて反省するのは米長反対派だけなところが、まあ人生ですね。
しかし、美しくない。将棋しかしない人は、詩なんて、つまり人の心なんて、わかんないんでしょうね。
これは悪口。
結局、あと2日を残して、今年度の予定をわずかに終わらすことはできませんでした、って実は誇りを持って言ってたりして。
あほかな、と思いますけどね、確かに。できないのになにが偉いんだって。普通わかんないよね。
そこが何かの分かれ目なんですね。私はAB型。AやBの人が何を考えるかぐらいまでは分かるし、こちらが分かられていないのも分かる。なので、AB型の人だと分かるんだるな、なんて思ったりします。だからどうということではありませんが、まあ、なぜか理屈外の症状ですね。