リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人民的社会科学概念と弁証法(その3)

2024-06-01 15:00:12 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、なんか梅雨っぽくなってきました。紫陽花も6分咲き。昨夜は耳元を蚊が通過。その後刺されなかったから子供なのか、オスなのか。ともかく蚊取り線香の季節、って電気製品ですが。火をつける線香は火事になるのでお気をつけください。
 天気予報には各社で表示のクセがありますが、あしたは雷雨があるとのこと、外に出る人は冷たい風が吹いたらご注意を。
 
 さて、早々にためになるブログ、元は受け売り。
 キャベツが2倍3倍になって、東京地方ではお好み焼き屋は別にしてトンカツ屋が困ってるそうで。
 だけど個人宅のはなし、キャベツってモヤシより高い? うちのほう、キャベツ300円、もやし35円。
 でさ、もやしを栄養のゆくまで(?)食べると1袋で2食くらいでしょ? キャベツってさ、8回以上食べられるんじゃない? 半分を4つに分けるってことだよ? 一人なら十分。いろいろの料理で使えるし。栄養素考えたらキャベツが安い。
 ただ問題の1は、キャベツの量には芯がまざってるってことだね。これは良く煮るか十分薄くか細く切ってくださいませ。栄養は劣らないそう。
 問題の2は、300円のキャベツはバリバリしてる、ってことで。柔らかい春キャベツはさすがに高くて買えないしね。生の千切りなんて口の中に刺さる。
 そこでネット情報の受け売り。葉っぱを手でよく握りつぶしてから使う。
 バリバリメシメシといって粉々にちぎれたりもするけど無視。
 それからおもむろに千切りにしたり煮たりすると格段に違います。是非おためしあれ。

 本日の自分的気づき。
 ナムルってさ、日を置くと食べられるようになるの、知ってた?
 韓国料理は全部嫌いなんだけど、嫌いなものは食べない、という習慣はなくて。で、たまにナムルも作るんだけどさ、ごま油、塩、ニンニク(+ゴマ。ものによって少し醤油)って店よりさらに一層、おいしくない。スープの素入れても変わんない。いちおう焼肉屋のナムルの味は知ってて、だけどぜんぜん似てもない。
 ずっとなぜだろうと思ってたんだけど、たまたま2日置いたのを食べたら、焼肉屋の味がしました。これってそういうもの? これなら食える。でもネットレシピで誰一人書いていない。まあ、いまだに真相は不明。

 さて、
「厚生年金の適用拡大へ 非正規の低年金問題に対応、企業規模条件撤廃」(朝日新聞デジタル)
 だそうです、来年夏から予定だって。とてもよかった。国は低年金保障で差額生活保護費払うのも保護事務費払うのもいやだからね。会社負担分が欲しいんでしょ。わたしも安心。
 厚生年金入ってる? ぼったくりの国民年金料も払わなくてすむし、入る年金額は倍くらい違うし、就職先は、会社が国民年金料は出すとかいっても騙されないでね。なんとか厚生年金のあるところをね。
 
 これはちょっと変わったニュース。
「もうとても人の住める状況じゃない」「町内の崩壊です」三沢基地・戦闘機などの騒音問題 隣接地区の住民の約8割が“移転”を希望」(ATV青森テレビ)
「テレビも電話も、訓練なんかあれば全くダメ(聞こえない)です。もうとても人の住める状況じゃない。したがって若い人が入ってこなくて高齢化、空き家・空地ばかり増える。町内の崩壊です。はやく(移転を)やってもらわなければ困る」
 ご不満は分かりました。しかし、ここはアメリカ軍と日本軍の共同使用。ふうん、、日本軍は高級航空ガソリン代が出なくて訓練なんかしないからお味噌。アメリカ出てけ、ってことだろうね。へええ、いまさら。進駐軍の時代から存在する基地だよ。意図不明。いまさらなに。もちろん住民は昔から困ってるだろうけど、政治は住民がするもんじゃないから、その意図が不明。
 
 では1週飛びましたが、本日のテーマ、続いてます。

 (その1)、(その2)とで、人民には概念的把握など必要がなく、人民は自前で社会科学を作ることができる、と述べました。さてそれでは、概念的把握につきものの「弁証法」についてはどうなのでしょうか。
 弁証法とは、そもそも、現象の裏表にある「概念」を両面から検討して、統一的な理解に至らしめるための方法です。
 というだけで、もう本日の趣旨は述べことになるでしょ。
 弁証法それ自体は、人民の精神生活とは無関係なのです。
 それはもちろん体制科学を理解するためには有益となることがあるはずですが、体制科学など、一度放棄してしまえば、概念の弁証法も不要なのです。
  
 例えば「国家」なるものをそれそのものとして扱えば「資本家」概念との切り分けが必要になる。しかしすでに体制科学として存在している諸国家論=国家学は、そんな切り分けを許しません。そこで「国家」を扱う場合は、資本家と概念上重なり表裏一体の部分を弁証法で扱い、そののちに具体的現実としてまとめ上げる必要があるのです。
 
 しかし、人民(複数)には人生の事実そのものがある。
 人民にとって国家は国家ではなく、政府支配者の意志です。資本家は経済学上の存在ではなく、自分の社長です。
 人生の事実について我々は、時系列と因果連関により、これを実践上の真理と成すのです。
 
 この場合、現実が要求するものは、「なぜか」という解釈ではありません。事実はどう動いてきたか、という事実そのものの経験値です。社会心理学に基づく解釈のような「本当の理由」といった、誰にも証明不可能な「真理」ではありません。「ただの」経験値です。経験値ですが、これを因果連関の形式にして、新たな「事実」として頭脳内に整理するのです。 
 
 これは経験論の主張でも観念論の内容でもありません。つまり、我々が言っているのは「真理」なるものを知ろうとする認識論ではないのです。
 われわれの関心は、われわれの生活世界がどう変化するのか、しうるのか、ということなのです。その「本当の理由」なるものがどうであろうが、それは神々や神の使者たる哲学者様が唱えていればいい。そんな人畜無害な話はどうでもいいのです。この世界、われわれが生き、かつ、心ならずも死ぬ、この世界がどう我々の思うとおりに変えてゆけるか、ということなのです。
 その理論は「真」でなくてよいのか? 
 いや、真でなければなりません。その因果連関の事実は、100%ではなく99%の経験値に妥当しなければなりません。それが人間の(自然科学を含めた)科学なのです。それが「本当」かどうかは哲学者が勝手にしゃべれ、といっているだけです。日々更新されてゆく経験値による実証、それが認識論ならぬ「科学の方法論」です。
 
 さいわいに「われわれ」は限りない複数です。どんな偉大な哲学者の御託宣が限りない複数に勝利できるかは知りませんが、われわれは99%妥当の立言というわれわれの「知」に不満はない、100%確実な人生なんてあるはずもないのですから。

p.s.
 全く関係ありませんが、その後、「博士ちゃん 」なる番組で、岡山の「時計博士」なる子どもが時計直しをやっていました。
 わたしはこういうこまっしゃくれたガキが偉そうなことをいう番組は嫌いですが、どうせ酒のツマと思ってみてましたら、どうしようもねえ柱時計を本当に直してしまいました。司会の「富澤さん」というの、富澤たけし? その成功に泣いてましたが、実に私の眼も涙でいっぱい。すげえ。ほんもの。
 不思議なもんだねえ、、わたしゃ依頼者への同情なんか爪の先もないので、純粋に彼の仕事に涙して、、ほんと、不思議。なんなんだろ。小幡昂輝くんです。塾なんかより、よっぽど人間が成長するし。こういう人はなんでもできる。問題は、こういう人を重用するシステムのない社会だね。なにがプロジェクトXだ。

 わたしの実家にも私と歳が同じ柱時計がありました。好きだったけど引っ越しの時、親に捨てられた。なんの文句もありません。嫌な過去の思い出が詰まってたから。

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