リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

歴史的状況と社会学書的次元(その2)

2020-11-28 20:51:45 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。明日にしようかと思いましたが、誰にでも明日が来るとは限らないと思い、前置きなしの今日の続き。
 先に言った、自分の記憶にフィットする抽象というのは実用的に展開しなければいけませんが、今日はおいて、基本の筋だけ、続き的解説。
 
 繰り返しますと、社会学者が書く論は、自分が行為者として自分の記憶でフィットした抽象の再現です。この再現により社会学者は「問題」を提示する、と自分では思っていますが、それはあるべき姿ではない。それはただの現実の縮小再生産です。もちろん現実の登場人物は、それよりも豊かな情報を、自分の人生の中に保持しているものです。
 実証社会学者の清く正しい心を知っている私にはとても心苦しいことですが、しかし、そうではない。それは正しい実証学ですが、人間が次の瞬間に使える因果連関はどこにも表示していない。

 といえば基本は提示済みであることはわかっていただけるかと思います。
 まず、この特定の社会学書では読者が良心的社会学者と同じ感性を持つことが前提ですが、世の中はそうではない。山のようなストレス・ウヨや、山のような資本主義者たちがいる。この書で研究者が安易に出した清い答えには自己内省がない、はっきり言ってしまえば、社会の道徳に寄りかかっているのです。
 すなわち、第1に、どの点でそんな結論が出たか、その前提の喜怒哀楽と倫理ないし社会道徳のありかが、忘失されている。
 ついで第2に、その内省の中で、時代の矛盾的正しさが浮き上がる。この場合は正しさですが、もちろんテーマによっては悪であり、少数の場合にはいたしかたのない痛さであったり、です。
 本来であれば、その悪や痛さを感じない研究者とその同類にとって、いったい自分たち社会学者が、あるいは彼ら資本主義者が、どのような社会状態にあるのか、その哲学的考察がそれぞれについてなされるでしょう。ここでこれが哲学なのは、もともとが「心理洞察」であり、そのうえその理由が、社会学者の知らない具体的歴史的過程からなされるからです。これは残念ながら科学的実証の過程にはない。
 じゃあ何が科学たる社会学だというのか、ということになります。
 それが、歴史的状況と主観を統合させる過程、つまり、状況と主観を組にした抽象的立言です。
 抽象的立言は、常にそれを適用せんとする行為者の行為によって、実証にさらされます。行為理論家隈が常に言うように、行為理論は決して理論家の宣言で完結するものではない。人々はまず全員が異なる。にもかかわらず、行為の原理と原則という明示された基準によって書かれた立言は、彫琢(ちょうたく)され、時代とともに真理へ近づいていく、あるいは、最低、真理部分と特殊歴史的部分とが分離明確化されていくのです。
 
 でね、記事が二つ重なると、どう検索されるのかねえ、、

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歴史的状況の社会学的次元

2020-11-28 11:42:25 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。北のほうは雪とのこと、もう冬ですね。東京地方は暖かですが風が強くてサッシを締め切りです。
 当方、一時の自律神経失調は影をひそめましたが、人と会わない時間が累積して楽しい気分は遠いです。
 ところでふと思うに、リモート会議って無防備過ぎない? いくらでも盗聴録音できちゃうじゃない。私など勤めてたころの小会議って、誰にも聞かせちゃいけないものばかりだったけど。会議録ができるような大きな会議ならどうせよそゆきだからいいけどね。と新聞のマンガを見てて思いました。盗聴者に強請(ゆす)られそうだ。
 
 さて、ニュースは、頭に引っかかりません。低反応体勢。うつじゃないからいいや。
 そういえば菅がよく「なんとしても」と言うことに気づきました。秋田弁ですよね。アベの日本語用法でもない「しっかり」には往生しましたが、こちらは流行るといい。

 一昨日のgooブログで、
「古井戸と泉谷しげるが中学校に(1972年)2020-11-23 」
というのがありました。日付が違うのはなぜなのか。ともかく
「体育館で開催された卒業生の送別会「フォークを聞く会」 出演者は、3組。
・古井戸(加奈崎芳太郎と仲井戸麗市)
・泉谷しげる
・小野和子」
 とあるのに小野和子は文中でも完璧に無視。あんまりじゃねえの。古井戸なんぞよりよっぽどよい。
「帰らない人」、小野和子です。
と思って今のyoutube見たら、曲は違うわ、歌詞も微妙に違うわ。なぜ?
 私だって60年前は若草幼稚園童謡合唱団員だからそうそう素人というわけでもない(?)。もっとも歌詞はあてにならないけど。
 人も歌も変わるのかね。
 
 今日はオタク話なので、その前に一部の人に役に立つ情報。
 資源に敏感な読者諸氏は、ひき肉こねると指がベタベタするでしょ。(手袋使い捨てる人はパス。)とくに合い挽きのハンバーグ。料理してるときにバタベタじゃ困っちゃうのでは? そんな時にはビオレu「キッチンハンドジェルソープ」。一発でお肌すべすべ。ま、わたしゃ2回洗うけど。
 コロナで春以降売ってなかったのを先週ドラッグで発見しました。まだの方はお薦めです。
 
 本題のとっかかりは、昔の農村の司法状況調べに借りた、黒田基樹「戦国大名」。
 大名の消費資料を作っているんだから「大名が支配下の村に対して、一方的、容赦のない収奪を行うなどいうことは、ありえないことがわかる。」p20 だと。
 1965年生まれ。ほんとに高度成長世代というやつは。「容赦がある」という実態さえわかっていないくせに。しかも村が武力を持つ戦国時代に。
 本としては、村井良介「戦国大名論」1974生、こっちのほうがずいぶんましですが、それは本題ではなく、今日の本題は、この研究者の主観性。つまりはこういう研究者の自称「合理的な」理論では何もわかりはしない。
 ま、それはいいんだ、理論家をバカにしていればよい。この事態がまずいのは、すべての人々はこうした「理論構成」によって生きている、というところで。もちろん、人々が理論化するわけじゃないけどね。おかげで研究者が往生する。

 前回、社会学が下位の領域に収まろうとすると、がぜん心理学になって虚しい、まだしも早く上位体系との連関を提示する作業に移りたい、それならせめて哲学になれる、とこぼしたところ。これを展開します。
 社会科学のうち、下位体系を主要フィールドとする社会学は、それゆえに当然、行為者というレベルで人間を捕まえざるを得ません。このため周囲には「常識の学」だの「体制学」だのと指摘されますが、けっしてそれだけが社会学の姿ではありません。科学たる社会学も存在しうるのですが、あにはからんや、当の社会学者にはそんな認識はありません。したがって若い方々が人間の学を志向して勉強するときには、この姿からは脱出すべく主体的に努力する必要があります。

 つまり、まず、人は社会事象と自分の現在「生きている」環境との間に自分を入れることで、その社会事象に「関」心を持ちます。これは文字通りで、英語でも「inter」estともいいます。これは当たり前のことではあります。
 さてでは、ここで社会事象とは何か。
 こうした行為主体の行為に焦点が当たっている場面では、社会事象は実体ではなく観念です。ところでその次元からもう一段下がれば、それは観念一般ではなく、第1に、言語情報その他から構成された観念であるか、第2に、観念から抽象された要素、そこに記憶が直結する要素なのです。そしてここで行為者にとって行為主体たる意義を持つのは、過去の記憶に直結する抽象なのです。過去の、自分の身体を揺るがした記憶です。(構成された観念に行為主体上の意義を持つのは、その構成観念によっていくばくかの実体的過程を経た結果であり、それも特殊な人生ではありうることですが、ここでは特殊ケースとします。)
 では記憶の実態はなにか。これはそうそういくつもあるものではありません。日本語でいう「喜怒哀楽」です。
 この記憶と結びついた、したがってホルモン分泌と結びついた抽象によって、人間には、まず「発言意欲」が出現するのです。
 といってもその喜怒哀楽が行動の起動因になると言っているわけではありません。だから心理学は虚しい。喜怒哀楽はその当人によって、自分が持つ倫理なり未分化の社会道徳と結合して、持続的な意志に育て上げられるわけです。そんなことは現実通りで、わざわざその「真偽」を云々するまでもない。ただしそのため、その構成作業は「自由」ではありません。

 さて、社会事象観念と、自己の記憶との間の抽象過程には、歴史的状況というものがはいるのです。
 つまり何によれば行為者の喜怒哀楽を引き出せるのか。
 この行為者は行為者一般ではなく、歴史的に規定された行為者であり、歴史はこの行為者に、彼の喜怒哀楽を引き出す抽象を、あらゆるところから醸出させるのです。
 この歴史と行為の喜怒哀楽との関係が「哲学」論議だ、といっております。なかなか社会科学には到達しませんがしょうがない。このしょうがない困難な立ち位置に、社会学徒は、本来は居るのです。
 もちろん、しかし、発言意欲自体は基礎要素に過ぎません。現実の行為は、つまり、発言という表明行動は、それ自体において、規制と推進の要素の対象となりますが、これは今の本題ではない上に、「次の次の」課題です。「次の」課題は、じゃあ、歴史的状況と主観を統合させる過程は何か、ということになるわけです。これが当面の社会学です。

 (解説は次回)

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本日はなし

2020-11-21 16:16:09 | 断片
 こんにちは。いよいよ秋本番で、って、10日経てば冬ですけど。
 風が吹けば枯葉の匂い、というところですが、マスクをしてて気づかない。枯葉の匂いは葉っぱのかけらなのか、マスクに引っかかるようです。
 今日は連休初日だそうで。
「羽田空港は9月の4連休初日以上の出発客で混雑」(鳥海高太朗)だって。いいなあ、うらやましいなあ。どっか行きたいなあ。GOTOだね。若いっていいなあ。

 私はここんとこは家人のパソコン替えで、windows live mail からoutolook移行で頭がパンク。なにoutlookって。まず処理画面が出やしない。影のように出てもどうもそれじゃないようで、なにか別のoutlookがあって。ソフト画面出すだけで発狂しそう。
 世の中、ふつうのメールソフトはないのかね。スマホグループはメールなんか使わないんだろうね(Firefoxも見た)。
 わたしゃlive mail。アウトルックエクスプレス亡き後、これが一番。ほんとにすべてのソフトが悪くなってゆく。
 
 さて、というわけで本日は何もなし。
 ニュースって、コロナがらみ以外だと外国の戦争くらいになってしまった。まあ商売不振の重大さは深刻で、それはそうなんだけど。
 野党の連中は何の対案も出せずにGOTOやめろとか適当に受けそうなことを言って。
 離合集散を繰り返すだけだから、何の対案も持っていないんだよね。選挙にうかりゃあ、あとは適当にキャスターのようなことを言ってりゃ歳費が入ると思ってやがる。おしゃべり以外はド素人ばかり。世の中、プロとアマじゃあ30倍違うものだよ。政党には30年続けて専門に政策を考える部門が要るのだ。せめて共産党くらいは何とか出すかと思ったら、支援金の話ばかり。あそこも政策局はつぶれたのかね。こんな体制はこう変えなきゃだめだ、と打ち出す絶好の機会なのに。
 わたしは自分の使命があるので、首を突っ込めません。
 
 しかし社会学って、おとなしく下位の領域に収まろうとすると、がぜん心理学になっちゃうことに気づきました。そんな不確かな話は他人様に教えられない。ほんと虚しい。下位体系は早く適当にやっつけて、上位体系との連関を提示する作業に移りたいものだと思う今日この頃であります。それなら、心理学は超えて、せめて哲学になれる。
 
 最後にアリバイ的に一部の方へのお役立ち情報。
 今週は「『だしパックの煮すぎ』で、ヒスタミン中毒が起こった?」 とかいう記事が広まっりました。保育園の食中毒で、保健所が「ヒスタミンが入っていた市販のだしパックをメーカーによって定められた調理法よりも長く煮て、抽出された可能性がある」といったとか。
 ところでだしパックなんて、2回くらい使って、最後は食卓に出すまで鍋に入れたままにしません? 高価なんだから。「しない」人は、これはパス。する人用。 
 「 医師が考察
 普段の給食において『だしパック』への過剰な心配は必要なく、今回の症状はだしパックよりも別の要因があったのではないかなあ…と考えています。」(堀向健太 日本アレルギー学会専門医・指導医。日本小児科学会指導医。)
 そでしょ。いくら調べたって、長く煮出したらヒスタミンが出るなんて情報、出てきませんわな。このお医者様は「そんなことはない」とおっしゃっております。
 もっとも当家は味の素の粉末だしですが。

P.S. コロナなんてさあ、2週間移らなきゃ新規患者はゼロになるんだよね。
 ところが世の中、いい加減な奴らが3%はいる。他人が口で何言ったって聞きゃあしねえ。
ここで「3%」は、経験則で人口の1割近いところを、反論処理のため下目に言っただけ。
 しかして、政府は「いつからいつまで社会的交渉のすべてを禁ずる。ただしそれには後2週間あるからその間GOTOしてくれたまえ、どうなっても知らないけど」とか設定すればいいのだよ。
 初めに猶予期間を置いとくのが大事ね。その期間、普通の人はいつもと同じように注意し、例外の1割はいつもと同じようにハチャメチャする。ほんとのターゲット、は「店」だから別に構わない。
 そこで、2週間後、店は5時じまい。2週間分の補償金を出す。市中の「正義漢」たちはその2週間を目を皿のようにして見張る。かくて、2週間後、新規コロナ患者は消えるのだ。

 もっともこれをするには政治代表者にレーニンの弟くらいの決断力と伝達力と信頼感が必要です。 で、若人の皆様に教えますが、世の中レーニンの弟くらいは25歳現在で200人に一人はいる。この割合が政治家連中に該当しないのは「行い」というもので、人間、生きれば生きるほど汚辱にまみれる奴らがいる。40年も汚辱した政治家に期待してはいけないが、しかし、このブログに来るあなたにとって、この課業は十分可能なのです。

 
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とりとめもなく

2020-11-14 12:47:42 | 断片
 こんにちは。東京地方、紅葉はまだまだですが、天気のいい日が続いております。
 ところで昨日マイカードの更新とかで呼び出されて出かけた、田舎では町。階段を駆け下りてきた人が通り過ぎる一瞬、あれ、知ってる人? と思ってもマスクで顔がみえやしない。皆様にはいつものことでしょうが、私など人と会わないので、まれな一瞬でした。
 これじゃ、身分証明書の写真もマスク付きで撮っとかないとわからんのじゃないかい? 役所の窓口のお姉さんはマスクつけたままで本人確認してたけど、簡単にごまかせそうじゃん。
 もっともわたしゃマスク無しでも見えないんですけどね。昨日は近接50センチだったから。

 さて、ここんとこあれこれと一言ありそうなニュースが。たぶん、図書館の借本がぜんぶくだらなくて頭がフリーなせいだと思われます、と言いながら、今日はどうでもいい話題。
 
 次期天皇の子がそれでも結婚するって。ほんと、世間知らずな子には親も苦労するよね。
 いやほんとどうでもいいが、世の中しょうがないことも多い。
 
 古いニュースですが、新聞に出て広まったようで、「手話が共通言語となる国内初のスターバックス サイニングストアが東京・国立市にオープン」(スタバ)
 聴覚障害の方が働くお店。それは気の利いたことをする、と感心。外国のマネだけどね。いいことはマネで十分。 
 国立というのは都会の果てに近いけど、学園都市と言われていて、と言っても一橋大学くらいしかないんだけど、まあ(立川のような)米軍基地はないぞと強調するために設定したそうな。田舎なので店は広いし、お薦め。駅のほうのスタバです。
 
 ところで当家の紅茶。3年前ここでも書きましたが、神戸紅茶のロイヤルブレンドの味が変わって乗り換えたコスパの高いスーパーのPB製品50袋300円(日東紅茶の三井農林製)。このたび味がガタ落ち。昔の黄色いリプトン並みのなんでもない紅茶になってしまいました。これじゃあ三角リプトンに移るぞ、高いけど。なんでも一流の証は、80点でも、変わらない、壊れない、だね。
 
 Home Room という建築家さんのブログ
 「木製ガラス戸と「端正」について(江戸東京たてもの園4)」
 「木製ガラス戸」? サッシに囲まれて冬も極楽をしている身には、なんだそんなもん、というところ、現物の写真を見ると、おやあ、、、これは好きだな。
 「線は細くても全体でしっかりとした構造になっている。粋(いき)ですね~」「「細くても壊れない」という職人のプライドもあったことでしょう。そんな作る人の技と心意気が、線の細さの中に力強さを感じさせるのかもしれません。そういうもので出来上がった建築が、「端正」と言うのではないか。と思います。」とのこと。
 いいねえ、使わない木製ガラス戸。隙間風は当たり前、風が吹けばうるさいし隙間から雨は入るし、の昔のガラス戸が嫌いな人間も、使わなければ壊れない、じゃあいやみかね。ともかく、おしゃれ用にはお薦め。もっとも一戸建てでないとね。

「気象庁に問いたい。動物季節観測の完全廃止は、気象業務法の精神に反するのではないだろうか」。
「動物観測を完全に廃止するとのことで、率直に言って、そこまで予算に困っているのか!という思いです。」(森田正光 )
 と、癒しの森田さんが怒ってるよ。
 予算はどうでも、ほんとに文化のない国だねえ。カネカネカネカネ。何も恥ずかしくないばかりか、それを言うことが誇らしいんだから。せめて「断腸の思いだが」とかいえよ。食うにも困ってないくせにさあ。公務員やら地方政治屋はいざ知らず、日本の政治家はおのれの文化のなさを恥じ入る機会はないのかねえ、トランプも終わったぜ。
 
「香港 民主派15人が辞表 同僚議員の資格はく奪に抗議」(FNN)
 なんてえ稚拙な対応だ、辞職させられるまで頑張れよ、それが事実になるんから、と思ったけれど、どうやらそもそも政治活動をやめるようだね。自動小銃でも突き付けられたのかしら。
 まあ現実は、歴史が早く進むだけで、ビビることは何もないのだけれど。「歴史」の相手は香港当局じゃなくて、北京になるしかないからね。
 
 ところで、学生以外のみなさん、雇い止めほんとにだいじょぶ? 最低限、知ってる人同士は助け合わないと、って知らないんだけどねえ。そんな余裕のない人は、ここには来ないか。

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上位と下位の視点の接続法(その4:規定性)

2020-11-10 14:01:35 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。さらに前回の続き、続けていっちゃいます。

 縦平面として縦断する規定性とは何か。
 それはもちろん隈にとっては権力と消費力であり、これを行為共同性が彩るわけですが、それは今回の私の焦点が女性差別からの解放にあるからであって、「規定性」はそれぞれの興味に従って変えることができる、というよりも変えざるを得ないものです。その研究者の焦点がどんなくだらないものと人に思われようと、それは、価値観というよりも、生き方の相違であって、他人にどうこう言われて考え込む筋合いのものではありません。もちろん人間同士の世界ですから他人はどうこう言うべきですが、それに対しては明るく自分の信条を答えればいいだけのものです。
 たとえば焦点が宗教の普及への主体的行動の効率性であれば、想定期間は10年20年でしょうから、それならわざわざ消費力から始めることはないでしょう、権力とともに挙げるべきなのは、「役割化した制度」として、いったん組み込まれた社会関係を固定的に把握したほうがエネルギー節約的でしょう。社会関係にはもちろんそれを規定する要素がありますが、それはカッコに入れて近似的に語るほうが実用的です。変動する社会関係を叙述するのは、かなり面倒ですから。
 
 ポイントは、行動の対象を全体社会ととらえると、自分の周囲の(下位の)社会との接続ができなくなることをどうにかする、ということです。
 この場合、たとえ理論探求者が全体社会への宗教普及を意図している場合でも、周囲の社会への自分の行動が、そのまま全体社会のなかでの自分の行動となる次元=平面を、理論のなかで作り出すことです。
 ただ、そんな平面は、「見つけ出して」それから理論を始めるものではない。
 多分多くの場合は、引き続く理論の展開の末に、それが終わると最終的に平面が生ずる、ということになるでしょう。
 そうした複数の焦点設定によって相違する方法も、初めの人こそ大変でしょうが、何回かのちには解のある方程式として誰にでもすぐに共通に使えるようになるかと思っています。
 
 もういっかな。


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上位と下位の視点の接続法(その3:媒介「事実認知」)

2020-11-09 20:55:50 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。まだ続きです。
 これで、オタク話が苦手な読者の方がいらっしゃると思ってますもんで。いつもいつもくだらない話をしてるとだれでも耳をふさいで逃げたくなりますよね。なので、飛び入りのウィークデイの臨時更新。

 というわけで簡単に「その3」.
 横断的平面と人間行為者の媒介は、事実認知だといいました。
 ここで人間行為者の「事実認知」概念は、「事実情報」あるいは「事実知識」とは異なります。
 行為者が「事実として認知する」とは行為者を取り巻く環境の現実の真実として認知する、ということです。すなわちその本体は言語情報でも文字情報でもなく、それらの情報の「行為者内でのセット」であり、端的に違いを述べれば、情報によって喚起された神経・ホルモン組織のセットのことです。 
 その元々となった「情報」や知識がどこからでてきたか、は、さしあたり問題ではありません。どこから来た知識であろうと、それは無規定的な「ナマの」社会過程での相互作用によって自己のものとなるのでは「なく」、自己へ向かう可能性を持つ外部の権力と、自己の消費の都合と、によって再構成された神経・ホルモン組織のセットなのです。それはそれゆえ、言語情報と1対1対応をするものではなく、言葉を事実の形式に戻して、それから行為者の環境を考慮した行為の原理原則を通じて叙述されるものなのです。行為者の事実の形式に戻らない言語情報は、ただの飾りです。
 何を言いたいのか? って、行為者の発語一般を云々して社会科学が成り立つはずもない、といっております。ほんと、アンテナばかり張って、社会学徒の主体はどこにあるのだろうかねえ。
 いや、これはこの30年の理論社会学のはやりだ、欧米学術者が何千本も論文を書いている?
 余談のようですが、これが近代主義と、何万もの日本人の苦しみの末に到達した安保後主体主義との、差なのです。若人が(といってももう50歳も過ぎているでしょうが) 後付けでさもわかったような評論をしても、安保後主体主義の本質など続く者には誰もわかってはいないはずです、もちろん続いていないからではありますが。
 山本義隆全共闘議長は気づいているでしょうが、物理学徒なので社会科学への影響はわからないでしょうので、不肖、最後尾の人間隈が伝えておきます。近代主義とは自分が神の視座に居座るすべての営みを指すのです。これは「偉そうに」という視座を指すのではありません。自分を棚に上げて、かつ、それゆえに自分の主体的要因を顧みることなく、評論を下す視座のことです。もちろん、隈理論を除くほとんどすべての社会科学のことでもあります(そうでなさそうな田川建三は決して社会科学ではなく、宗教学です)。ロゴスとかいい、しかし、言葉は決して聖書という紙に書いてあるものではないのです。自分にとって自己の将来を右に行くか左に行くか、自分の体に聞きながら、自己のものとするものなのです。そうして人間は生きてきて、かつ、生きているのです。しかし、いくらそれが真実とは言え、そんな神の教えを否定するような大それた前提に立つことのできない欧米文化人に社会科学ができようはずもありません。
 まあしかし、これを展開すると、次稿予定の2年が3年に延びるので言わないようにしますが、前途ある若人は、この欧米人の(自分だけは神と一緒(でなければならない)という)自分本位のご都合主義を頭の片隅におかれるのがまず「初めの一歩」でしょう。
 
 
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上位と下位の視点の接続法(その2:前提「問題」)

2020-11-07 13:06:59 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、そこそこ秋晴れが続いて。お勤めにはいい季節かと思われます。
 が、退職者的には平日に近くの里山系を歩くと、まだまだ緑優先の景色の中に紅葉しかけの彩が交じり、静か。
 静かなんだよね、景色が。蝉も消え秋の虫も消え生気のない中で、せいぜいモズの類いの金切り声、平日だし。世界が寂しくなってまいりました。
 
 さて、俗世間は米国大統領選。わたしにはどっちが勝とうが影響はありませんが、トランプが笑うことだけは避けたい。
 トランプ、なんてザマだ。醜い。心が歪んでいる。ああゆう人間て、何のために生きているのかわからない。食うものにも困らないのに、なぜそんなに醜く生きたいのか。日本人でもいるけどね、百田とか。 
 価値観の相違? まあ相違でもいいのですが、生きる疑問というものはないのか。昔々、私が下限の世代で「何のために」なんて歌さえ流行ったものです、フォーク・クルーセダーズ。”何のために 何を夢みて歯を食いしばり 働いて死ぬのか” 世界は変わるものだ。
 ところで、日々の選挙って普通の人は何を基準に投票するのかねえ。わたしなどは主義者だからシンプルだけど、候補者や政党が好きだからかねえ。都構想だって「維新が好きだから」とかって意味不明なインタビューを何度も読んだけど。今の米国選挙って結局何の勝利なのか、まったくわからない。
 と、「日々の」とか「今の」とかつけてみました。選挙など結果がどうでも結局同じな、平穏な歴史過程であります。原水爆のスイッチさえ押さなきゃ、ですが。
 
 さて、いつも長いよね。今日は気候のご挨拶はこのぐらい。
 前回、つまんないオタク情報を流して、もうやめようと思ったところ、
 図書館で「社会学はどこから来てどこへ行くのか」有斐閣、2018。というのを借りました。4人の50歳前後の社会学教授の対談集。今の理論社会学を知らないから、ちょっと情報収集と思って。そしたらびっくり。前の盛山氏やかなり前の宮台氏レベルの話をしている。それが社会学の現状なのだそうな。なんのための社会学か。結局、世間の現在を知るため、現実の合理性を知るためだとか。50歳だよ、子供じゃないよ。そんなの理論か? 絶望だよ。そんなレベルの話は、会社に勤めて仕入れや販売でいろんな矛盾に悩んで30歳にもなれば、誰にだってわかるだろう。(もっとも、被差別者や極貧者や難民のことはわからない。それは十分研究して欲しいものだが、それなら新聞記者で十分)。
 
 私の昔のお知り合いはみんなハイフン社会学の実証家なので、こんなこととは知らなかった。
 というわけで、こりゃ次の人たちに期待なんて幻想だと思ったところです。
 といって、わたしゃ完成予定の2年後まで生きてる確信もなし、目が見えてるかはさらに不明。
 まずは、前提からお話しようかと。 
 
 さて、社会学が明らかにするのは誰にでも見える「現在」ではなく、その社会が抱える「現在の問題」です。下位体系を領域とする社会学における「問題」とは、社会学が人間を扱う限り、(支配権力という上位体系の問題を除けば)生理的個体が生存するための「消費」の問題です、心理学のことなどは知りませんが。生産物の消費の様式が、それぞれの時代にあって姿を様々に変えつつ、人を苦しめるので、これが「問題」となるのです。
 
 およそ、日本社会学が社会を問題にし始めた時点、社会学の扱う「社会」は農村社会であり、したがって当然、農村社会学者はほとんどイコール家族社会学者でした。同様に、つい最近まで、農村社会学者は、そこから派生する人々が生活する都市社会学まで手掛けることができました。家族社会学が家族に特化したのは、農村共同体での強制がないアメリカ社会学直輸入の結果なのです(もちろんアメリカ農村にも「共同性」はありますよ。ただ強制性がない、といったのです。強制されなければ農民はいつまでも自分のことだけ考えていればいいのです)。家族社会学にとってはほんの2,30年が蜜月でしたでしょう、しかし、そんな理論は日本では必要なく、すでに問題は「消費」であり、「消費」が姿を変えて現象した「扶養」や「老々介護」なのでした。同様に、労働社会学が存在はしたのですが、マルクス主義の事情とはいいませんが、消費は生産に吸い取られ、労働の社会過程は利潤獲得の一部として変形したまま経営社会学、いや経営学として侵食され消えてしまったわけです。 
 しかし、社会学が存在するとすれば、その課題は変わらない。およそ人の問題は、どうやって明日生きるかです。1か月の赤ちゃんから90歳以上の老人まで、それは一緒。「消費」の問題です。明日生きられてどうしよう。じゃあ、まず、病気じゃいやだ。ついで、ぼーっとしててもつまらない、その次は? その他どんな要求があってもいいですが、それ以降の問題は、わざわざ税金や講義料で食べてさせてもらっている人々の預かるところではありません。趣味でやってください、面白ければお金は払います、というところです。
 社会学の課題とは、人が自由に生きるために自分の生存がスムーズに明日も続けられるべく学問を掘り下げること。下位体系に生きていて、これを阻害することがある。それはこれこれだ、と社会に訴えるのが学者の第1の仕事です。
 で、学者の第2の仕事は?  
 この阻害をどう排除するか、その方法の提示です。  
 それはもちろん、下位体系内部の飢えた人間がどうしたところで、彼の生活費が突然降って湧くものではありません。しかし、人間という存在はそれ以外にどうするわけでもなく、常にそうして、社会を変え、したがって彼自身の消費様式を変えてきた、すなわち(性愛や気晴らしさえも含む)生活のし方を変えるのです。
 消費様式は、各個人には見えませんが、彼個人の手元まで伸びているのであり、それは彼の下位体系を貫徹すると同時に、その枝根を彼個人が支配しているのです。
 もちろんこれは単に消費様式の一端が彼と彼の周囲とに関係を持っているという事情を表現しているのですが、その事情をこう表現することで、彼自身が社会内の行為者であることが必然的に持つ規定力が、理論化されるその第一歩となるのです。上位体系と下位体系を縦に縦断する平面を見る、というのはそういうことです。
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