不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

暑い雑件

2018-06-30 14:38:44 | 断片
 こんにちは。東京地方、梅雨明けちゃいましたよ、どうしよう。まだ6月だよ。平年より22日早いって。空は青空、昨日も今日も33度。もう今日から民間はプール開始。ただ、咲く花は追いついてないな。
 月曜は町の歩道橋の上でなんだかふわふわしたものが。
 おう、これは昨今の朝日新聞で有名なケサランパサランではないか。以前雪虫系のケサパサを見たことがありますが、こっちは大きくってふわふわと楽しそう。
 さてこれは何? ネットのしったか野郎のコピペの嵐を潜り抜けて、これかガガイモの種、と思ったがこちらは秋の産物のようで。さらにググると、オニアザミの種というのも。こちらは7月とあるからこれかしら。といっても、オニとノアザミと区別はつきませんが。「トゲトゲで醜悪ですぐわかる」そうなので、見たことないのかな? ともかく気色悪くて触りませんでしたが、妖怪だったかも。触んないで正解だったな。

 さてニュース。W杯はポーランド戦でもめてますね。「美学をとるか、結果をとるか」、みたいなね。
 こうゆうのは本人たちには「どの賞賛をとりますか」って、賞賛の交錯なだけでつまらないけれど、しかし、最近観客の人生態度の卑屈さが前面にでてきていやなものです。サッカー女子もね。「勝つためにはいくら汚くてもしょうがない、俺らサラリーマンだっていつもそうやっている」みたいな。アベ自民党のウソ並べ容認と同じパターンがテレビニュースから伝わってくる。
 日本のこの時代には、本人たちが自分だけの賞賛に頼るしかない情けない道徳状況が染みついたんだね。「そんなウソ言っちゃいけないんだよ、そんなやつは地獄に落ちるんだよ」っていう理想規範がないってことで。外部規範の内面化が存在しないから独り言の賞賛になってしまうのね。子供の教育にはマイナスだね。人生には結果を超える理想があると、知る機会はゼロ。自民党のやつらも自己を律してみれば道徳教育改革も成功するだろうに。
 わたし? せめて気晴らしのサッカー興行くらい美しくやれよ、と思いますね。勝つのは結果だぜ。人生ってそういうもんだぜ。 

 では、勝つこと優先の本1冊。大野正道「東大駒場全共闘エリートたちの回転木馬」、いろんな転向者の本を見てきましたがこれはすごい。田舎のエリートが権力エリートの卵となって1年半面白かった、という、「鼻持ちならない」をそのまま書物の形にしたような代物。もう精神的に「突き抜けている」といったほうがいい。どうやったらこんな本を公にする気持ちになれるんだろうか。いやはや。
 逆に言うと、こんなどうしようもない人間でも普通に歴史の駒になれた、という68、9年闘争の偉大さが知れる、というものです。いまどき、いくらリベラルががんばっていようが、東大駒場のエリートは半歩たりとも動かないのに。
 それが隈の行為論でいう「賞賛」の非体制的性格というわけです。賞賛は対抗権力、具体的には諸運動によっても供給される。『「上部構造」の社会学』参照。
 おまけに大野氏、筑波大学名誉教授だってさ。筑波はどこまでも筑波だね。あわてて付け加えれば、中退した人は別です。
 と思って検索すると榎本正敏は名誉教授じゃないのね。貢献しただろうに冷たいね。榎本氏は国際経済論で私の全優のはずの大学の通知表に(教養科目の成績は載らない)唯一「可」をつけた人間。まあそれはそれで偉いが。わたしゃこの通年講義で3回しか出席してないんで。
 (「良」かもしれないが、ショックで覚えてない。5ランク評価で、CかDか。Cなら良。不可はE。A(優の上)でないこと自体がショック。同じ答案を友人の代理出席の一般教養経済試験(別教授)で少し加工して書いたら、当然にもA評価だった)
 
 おまけ。
 「土地の上に墓地があってそこに埋めてお参りするなんていう日本の墓は、定着農耕民のものにすぎない。今の日本人の9割以上は都市的サラリーマンである。オフィスビルに墓を作れるか? その涙ぐましい結果がロッカー墓である。都会暮らしの日本人は、もうすでに新しい墓様式を作らなければならない時代が来たのだ」。
 上記に反論のある人。
 家人が言ったので感心して紹介。なるほど。
 モンゴルには風葬。定住しないマサイ族は動物葬だったとも聞く。聞くだけだけれど。どうせ西洋化されてるしね。
 ともかく近代都会人は、近郊農家の骨粉肥料にするのがよいのでは? 有機リン酸塩です。最近高いんだそうです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生産性と生産力の違いとは

2018-06-23 12:57:30 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。蒸しますねえ。蚊も大手を振って外を飛び回ってるし。といって半そでシャツ脱ぐとクシャミが出るし。梅雨、あと一ヶ月も続くんだよね。暑いよりましか。

 さて、すぐに本題。
 昨日の朝日新聞じゃあ、ジャガイモの芽を取る機械やホタテの貝を開けて貝柱を取る機械が紹介されていました。今じゃこういうのは機械じゃなくロボットというのね。偉そう。呼び方はどうでもいいけど、なんなのかねえ。
 なんなのかって、生産性を上げるという、先進国が後進国の労働攻勢に立ち向かうには必須な行動なのだけれど、こういうのは生産性の向上ではあっても生産力の上昇とはいわないって話をしようと。こういう努力の結果は、よくてシェア労働者、シンプルには家内飼い殺し者や生活保護者が増えるだけ。普通に働ける人びとが無意味に社会から退蔵させられるだけ。結局過剰労働力というのはそうなるしかないのだけれど。
 こういう視点が左翼のものになったことがないんだよね。昔、社会党協会派がかすってたので、今だとせいぜい社会党くずれのエコロジストでどうか、ってとこだね。なので左翼正統にも教えてあげようかと思って。
 生産性というのは一単位の人間賃金をもって、どれだけ儲けを上げるか、ということですね。
 他方、生産力というのはある地域、時代の労働者が持つトータルな消費物資生産能力のことなのね。だから、資本家の儲けがどうあがろうと、その分労働者が消費物資生産労働ができなければ、それは生産力にはなんの関係もない事態なの。知ってた? 左翼諸君。
 同じ日の朝日で経済コラムニストが、デジタル革命は一部勝ち組を富ませるだけではないか、と危惧していたけれど、実際そうで、それはこういう理由だ、というわけです。
 もっといえば、先進国労働者は自分たちの生産力の進展を止めて、後発資本主義国労働者が自分たちの地位まで登ってくるのを待ってるわけだ。客観主義的にいえば。

 50年前だと状況的にその辺が微妙で、「最左派」の政党でさえ、「世の中には良い合理化と悪い合理化」がある、とかいって反合闘争に敵対したわけですが、その頃は「2番目の左派」は、そういわれちゃあ闘争のほんとの理由である、労働者の地位の保全のみを強調するしかないわけです。ところがそれは半封建意識の残る日本社会にはフィットしづらい。なんたって生産力は上がるんだから。それじゃ選挙政党は同調しない。なので「そんなもん知るか」といって闘争してくれる過激派と組むしかないわけですね。まあ、そういう歴史があった、というわけです。そして常に過激派が理論上正しい。ただ理論どおりにすると生きていけない、というこれも常の話で。
 実際、50年前の合理化は日本労働者の全生産力を増大させたわけですが、今はだいじょぶ、自称合理化は労働者には無意味な生産性向上の意義しかない。
 というわけで、労働者は安心して「反合闘争」をしてくださいませ。そんな組合はゼロだけどね。なんたって仕事がなければカンダタ状態。蜘蛛の糸ね。じゃあ、といって貧乏になるのもいやなわけだ。まずは自分の仕事を確保しなきゃ。日本で上をみりゃあ、メディア関係者を筆頭に、みんないい目にあってる、ように見えるしね。ってゆうか、メディア関係者と自営ウヨ・年金ウヨからしか情報ないしね。先進国労働者もいい目ばかりではありません。
 今じゃ立憲民主党が人民の一番の受け皿って、歴史の狡知に一番苦笑してるのは、ただのリベラルである枝野でしょうね。

 おまけで勉強家用。
 小幡道昭氏。若かりし頃の価値論を読んで根性がありそうなのでわざわざ借りた中高年時執筆の「学生用」経済原論。いったいなにいってんだよお、のオンパレード。まったく記述の意図不明。わたしゃ、「ああ、これはこの2ヶ月のストレスの後遺症で自分がバカになったに違いない、もう生涯をあきらめるか」 と暗澹たる気分。暗澹して愛読書の青木書店「資本論辞典」を紐解いたら、こっちは、おう、わかるわかる。そうだぜ、さすがマルクス! や実際の執筆者、宇野弘蔵。
 おどかしゃあがって。
 で、なんなんだ、これ、と、
 およそ研究結果には体系というものがあります。体系にはその目指す結論があります。すべての記述は体系の持つ意味の中で、その一部として意味を分かち持つしかない。これを離れては人々には受容されない。で、これは? 少なくともマルクスの体系とは縁もゆかりもないなにか。それ以上知る気もない。もちろん私がバカなだけかもしれないが。
 しかし、これを学生に読ませるたあ酷だね。分かったのかね、学生。これで東大マル経を率いられても困んじゃないか? もう遅いが。どこで脇道へそれたのか、換骨奪胎、「骨」は「意味」「意義」だね。骨をなんに変えたのかを不明のままご紹介するのもなんですが、しかしこれはマルクスではありません。先代の山口重克はきっちりしててよかったが東大マル経には空白があるのでは? あるいはもう途切れたか。
 
 等々。なんかすごく復活的ですね。
 しかしそれは外見。脳内はめためた。以前からかどうかは別として、ものごと、思い知るきっかけってもんがあるし。とりあえず自分が情けなくてかなしいぜ。
 でも、これだけバカになっても次回論究は世界水準を軽々と出し抜いて確実に前進しているところがすごい。引きこもり中の退職者だしね(=時間あるし)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだいらついてるかもね

2018-06-16 11:30:02 | 断片
 こんにちは。梅雨が来ましたね。先日はマンションの外廊下を通ったら物陰からハクセキレイが飛び立っていきました。雨宿りしてたんでしょうね、鳥も雨はいやでしょう。
 とはいえ、近くの紫陽花は、はや無残な様子を。梅雨寒とはいえ明日アジサイ祭りのところはもうムリだろうねえ。
 
 ここんとこの疲れで白髪が倍くらい増えてしまいました。黒毛が多いのが少し自慢だったのに。新聞にあった本の広告で見ると、藤田紘一郎によれば、糖質制限すると髪の毛が増えて、ハゲが直るそうです。腸内細菌の活動に影響して活性酸素が押さえられるんだそうな。ハゲはどうでもいいが、白髪も治るのかね。
 
 疲れるとほんと何もやる気がしないのですが、問題は、疲れてるかどうか本人には分からない、という点。別に筋肉は痛くないからただのやる気のなさとも思うし。
 でも、ヒマはあるので1.5時間も寝るとあら不思議、やる気がでるんだから。勤め人にはできないけれど、労働者の方は疲れがたまらないようご注意ください。
 
 さてニュース。「大槌町は13日、解体か保存かを巡って揺れる同町新町の旧役場庁舎の内部を報道陣に公開した。町は18日ごろ解体に着手する方針」(岩手日報)
 解体だってさ。ほんとバカじゃないかと思うね。「行政が町で一番責任がある」とかいう表向きの言い訳で、一時の感傷や感情を超えて残しておけば、百年後まで語り続けられるのに。、、、って、あ、それがいやなんだね、田舎の顔役の集団としては。古い社会学の基本、にっぽんじゃ自分の村を貶める行為は絶対のタブーなのね。きだみのるの「にっぽん」に書いてある。トランプと一緒。普遍的価値なんか理解不能の田舎の人びと。田舎を馬鹿にしてる? ならいくらでも都会をばかにすりゃいい。お互い様。なんでそんなことできないのかねえ。まあこの辺で抑えておきましょう。

 憎まれ口の次は普通にトランプとブタ。米朝会談だってさ。テレビを見てから先月までの50余年は米朝といえば桂米朝だと反応してきました。一昨日だかの朝日の夕刊コラムでも引っ掛けてたけど、どれだけの人が気づいたかねえ。
 ま、ともかく、庶民の人びとは会談が無内容だとお気に召さないもよう。ケツの穴の小さいこと。いいじゃん、経済重視に転換するというんだから。北朝鮮人民も米飯と肉のスープが食えるかもしれないよ。生理的条件は自由の基本。まずはトウモロコシと、火の通った家畜の肉を。生のネズミやトカゲじゃなくてね。ハラがくちれば自分の欲しい物を一人占めしている奴らの存在を変えたくなるもの。
 それには他国の生産力技術と他国の労働力が必要。すなわち外資が必要。
 かくて市場経済化し、欲望が拡大、資本主義思想が蔓延する。
 世間でいう国家資本主義ですな。
 まあ、なんと呼ぼうと生産力が拡大しなければ話は一歩も進まない。
 これも昔からいわれるように、しばらくは経済を北朝鮮国家が差配するから民主的にもなりようはないが、まずは米食と肉のスープ。それが歴史の「進歩」というものです。
 それで拉致問題もやっと取引材料ができるってもんです。
 
 他人の悪口が復活の証拠か。
 さて、本日のささやかな学問的寄与。商機と理論展開の一致点。
 逆転の発想、「ピンチこそがビジネスチャンス」ってやつね。私は営業企画部門のことは知りませんが、理論展開も一緒。借り物でいいから自分の理論を持って現実を見たときに、あれ? なんで? 何か変、と思う。それその時点が儲けもの。それこそが、他の研究者がやっていないパイオニアポイント。絶対頭から外さないように。いつもいつもそのことを、考える必要はありませんが、頭に留めておく、そうすると人間の頭は正しい事象を無意識のうちにこれと連結してくれるものです。もっともできるかどうかは自分の頭しだいですが。ダメなら本を見ないで自分の頭の中で持ち歩ける基礎知識が足りないんですね。もっと勉強しましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オカルト(その5;常態としての死)

2018-06-09 20:43:38 | オカルト(途中から)
 こんばんは。本日の季節のご挨拶ではアオズムカデ。ベランダに出した植木鉢経由かで部屋ん中を駆けずり回り、なかなか大変。刺しますから(噛みますから)お気をつけて。ハチ毒とのこと、刺されたら、お医者さんにね。
 で、今回の役に立つブログ。ムカデは上質コーティングに弱い。大手スーパーのチラシの上に乗っかると、百本の足も滑って動けません。そこで、外に放り投げる。一件落着。

 で、役に立たない世間話。靴下、タイ製靴下最悪だぜ。靴下は中国だね。シャツも中国。値段相応。
 値段が高きゃあいいってもんでもなく、グンゼがひどくて結局戻ったBVD、盛大にほつれてるぜ、あんた。まあ、しょうがないね、あきらめてるぜ、BVD。昔はよかった。
 
 というわけで、申し訳ありませんがとても忙しい。50歳代ですと平行して1.8は処理できたことももう1.2しかだめですので2倍忙しく、まあ退職後ちんたら暮らしてたむくいといいましょうか。(もちろん30代なら課題3つ、余裕だったぜ。それっていつ? って話ですが)

 さて、とりいそぎ本日の話題はオカルト。お気づきの方はゼロでしょうが、当ブログ、オカルト話題も最近は「ごみため(断片)」ではなく「その他カテゴリー」で、一人前となりました。それなりの自信もございますぜ。
 で、本日。
 本来、生物にとって、常態ならざるときが苦痛の時である。常態、すなわち食うものを食って、その身体構造に適正な気候の時に生きていくこと。生物にとって、その時期は楽天である。まあ蝶々や蝉の普通の姿ですな。
 それは、人間が自由を目指すのと同様である。人間は生態的に他人に指図されるいわれはない。そこがイヌとの違いですね。 
 さてそこで、真正の自由主義者の思いと同様に、生物とは、その常態が目指すべき事態である。普通に生きているのが一番いい。「動物なんか天敵に捕って食われるのが普通じゃないか」などと知った風なことをぬかす(客観主義的)プチブルやマックス・ウェーバーのことは無視したいと思います。お前らいいから炭坑で3年働いてからしゃべれよ。生きてれば、だが。
 さてしかして、人間はあれこれと忙しいけれども、「今現在」でなければその先に、死後ないし、生の究極である、そこにおいて本来、生が目指す究極の地点が想定される。それはエネルギーの均衡地点である一方、生命にとっても究極の安住の地である。だってそれが普通なんだもん。「普通な事態」はいつかある。ところでそれはたとえば「人間」にとって「常態」であり、それこそが人間が求める安定状態である。それがいつかは別として、生命もいつかは常態を入手する。
 どうですか、正しいアナロジーでしょう?
 わかんない? 「死ぬのもいいことじゃないのかしら」と言っています。(=それが常態なのだから、人間、それが最適であるようにできている)
 自分で言うのも素晴らしい。私も預言者になればよかった。
 もちろん今からでもなれるのだけれども、幸いなことに、もっと同志のほうが大切、というわけです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(お知らせ)

2018-06-02 23:19:51 | その他
 こんばんは。今週は身内の事情により、アップを休ませていただきます。あしからずご了承ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする