リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

自然科学の独創性

2008-03-29 11:27:35 | その他
 最近気付いたのですが、世間には 「天才科学者」 と呼ばれる人がいまして、大はアインシュタイン、小はその辺の大学の先生まで、何が天才かというと、 「独創的だから」 という。そこからおかげさまで 「子供たちの独創性を育む教育を」なんて、分かったような話が出てきます。 けど、そりゃウソっぽいな、と。

 ノーベル賞級の自然科学者なんて、数学者も含めて、たった一つか二つの思い付きしか持ってないじゃないですか?
 あとはただの努力でしょ。
 そんなことはよく言われてる?
 まあ、それを思いついたわけじゃなくてですね。

「自然科学者に比べたら社会科学者の思いつきなんか、山のようだ」 ということに気付いたわけで。

 思いつきを一つか二つしかしたことのない研究者は、社会科学では博士課程くらいですよね。もちろん社会科学者の思いつきなんか役にも立たないことだらけだけど、何がいいたいかというと、自然科学に独創性なんかいらない、努力さえあればいい、ということで。一つや二つのアイデアなんて、誰だって思いつけるって。自然科学者に天才などいない。頭の早い奴と努力家だけだ。(なお、4つも5つもある、とか言われても困りまして。「山のよう」と比べてもらわないと)

 で、ようやく腑に落ちたんですけどね。
 中学校までは勉強なんかしなくていい。農業や職人作業、手仕事で、「自分で考える方法」 を身に付ければ「天才科学者」くらいにはなれる、と。

    べつに、自然科学者をバカにしているわけではなくてですね。
    独創性なんてウソだ、といってるわけで。
    社会科学者なんてみんなバカに近いしね。
    努力してみろ、といわれてもしょうがないしですね。


 なんていう思い付きを、自然科学者はほとんどしてないんじゃないか、ってことでした。


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「普遍的に良い」規範

2008-03-22 13:27:42 | 行為
 (これは前回の続きです)

 個人個人の理想として扱われる規範とは、人間界においては、他者の存在価値です。
 つまり、他者の存在を得たいときに、その存在となってくれる、という中身を持った規範が、社会においての理想となります。
 個人が苦しいときに助けてくれる存在、寂しいときに傍にいてくれる存在、悲しいときに癒してくれる存在、それらの他者を作り上げる規範が、どの世界においても良い規範となり、これを体現しようとする態度が賞賛の対象となります。

 そして、この普遍的価値を閉ざすものが、「金儲けに暮れる日々」「生きるためという美名において他者をないがしろにする日々」です。
 これが資本主義の原罪なのです。
 かくて、資本主義の下では、誰がどんな詭弁を使おうと、どんな弁護をしようと、社会の理想は存在しない。存在するのは「そんなこといったって」という子供のような抗弁と、同業者の理想=「金持ちになるのはいいことだよ」だけ。
 ああ、まだあった。支配者の被支配者が持って欲しい理想。「国家のために死ぬのはいいことだよ」
 まあ、迷惑にならないように死んでください。

   
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疎外と資本主義

2008-03-22 13:21:47 | 行為
 先週、すごく久しぶりに、旅行してきました。
 広島市とそのすぐそばの島で1泊。
 焼きガキ、土手鍋、広島お好み焼きと一通り食べてきましたが、実はただのカキフライが一番おいしかったりして。
 よかったのは、人が良かったこと。
 直近では1年前に上海へいったのが旅行の最後で、ひどい人間ばかりだったことで良さがひときわなのか。(西安は人のいいとこです)
 でも、過去、日本30数ヶ都道府県へ行きましたがこんなにいやな人のいなかったところも記憶にない。
 総じて海岸都市っていい人が多い気もするんだけど、どんなものでしょうか。
 
 で、帰れば東京。
 なんで町にいやな奴ばっかり目に付くんだろうかねえ。やっぱ疎外されてんだろうか。
 ってことで、テーマは「疎外」。新しい人は知らない言葉なんでしょうね。
 「疎外」っていう言葉は、自分が行為してもその行為で自分の思ったことが実現できないような状態に使います。「疎外されている」っていう表現は、「人間らしい生活をしていないんで、本来の人間らしい行動ができなくなっている」といいたいときに使います。
 
 このような疎外と呼ばれる現象には、2種類あります、ってことは旧い人も知りません。
 
 まず、行為論的に、自分の無力や、自分と他者との関係のなさによって自己の将来が獲得できない「疎外」。
 こっちが人間に普遍的に生ずる本来の「疎外」なんですけど、現実に使われてきたのが次に挙げる「疎外」で、今日はそちらがテーマ。
 
 で、第2として、自分が2つに分裂することにより、観念ではこちらが本物の自分だと思っている将来が獲得できないという疎外。「自己疎外」といいますね。「私は人間だからそれらしい生き方をしたいのだが、この世ではそういうふうには生きられない」って意味合いです。
 戦後、先進諸国ではずいぶん後者の疎外が問題とされてきました。歴史の一時点の問題でしかないといえないこともないんですけどね。
 つまり、それまで共同体からいろいろな規制を受けてきた中で、「理想的な自分」というものも共同体から与えられてきた、そんな生活から、「個人の自由」という生活に移る過渡期に生じた問題です。この過渡期の実体である資本主義の爛熟という生活的基礎の中で、それまでの「良い」規範と、「食うだけの生活、後は娯楽」という生活に矛盾が生じてしまったという事態です。
 そう、ほんとは、これは「疎外」というよりは「矛盾」と呼ぶほうが適切だと思いますけどね。
 資本主義が世界を覆った社会では、すでに共同体的規範がなくなり、「良い」規範は、名残のように残る「人的付き合い」に限定されてしまう。今では、自己疎外など、若干社会に残っっている貴族の末裔のような古典的エリートの思春期からのごくわずかな移行期にしか残っていないようでもあります。

 こういう矛盾を矛盾に思わない?ような状況は、生きている個人としては悩みがなくなったわけで良さそうなものですが、本当に個人にとっていいことかというとそうでもない。人間は単に食べるために生きているわけではない。各種の刺激に適切に対応することが生理的に健全なように生きている。まあ、どうせ短い人生なら、思う存分、力を出し切って生きられたほうが満足だ、ってことですね。
 で、人間の生き方を問題にする場合、問題は、人間には「良い規範」が存在する、ということであり、資本主義的にはそれが実現しない、ということです。

 普遍的に良い規範が存在するというのは、人類史上、宗教家か国家イデオローグしか言えなかったことなので、もったいないので、次の題にしちゃいます。→ 続く


 
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ささいな、ぎょえ

2008-03-12 21:23:25 | その他
たわむれに
体重計に乗ってしまったら、生涯最高体重を記録してしまいました!
○○キロ!
この1年半、ずうっと昼飯を削ってきたのに!
たとえば以前はパンを3個を買うところを2個にして。トンカツ定食もしょうが焼き定食も、1年半に1回づつしか食べてないのに!
 しょっく。(夜は酒を飲むので減らせない)

ここんとこ○キロやせてたから、よしよしいい調子と思ってきたのに、、、
ぶつぶつ。

丸の中に数字を入れるといやみだから入れませんが。
実は、私は世間的にはやせてまして。ただ、この2年、パソコン作業ばかりで対人神経も使わず、ぶくぶくと太りだしたもので、なんとか以前の体重に復帰しようと努力してたのですが。

しょうがない、これ以上食事制限はできないので、活動時間を多くしなければ。
と、今までは酒飲んで「疲れたから寝ちゃおうっと」というところをパソコンに向かっている今日でした。
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耐えるときに捨てるもの、あるいは抱え込むもの

2008-03-09 22:33:14 | その他
でですね。
静態的にいえば下記の通り。他人事のように押しなべていえばそう、っていうかね。

  (前記事と同じ日です。ブログって書きづらいとことがありましてですね、テーマごとに分けないとぐちゃぐちゃになるっていうか)

でも人が生きるっていうのはそうじゃない。
時の流れの中では、耐えるために選択肢を捨てた人間がいる。
一方では、耐えずに、自分への問いかけを変えた人間もいる。

 選択肢を捨てた人間は、自分が捨てたことを知っているから、最後の瞬間に真っ二つに折れることを選択することができる。
 でも問いかけを変えたら? 「耐えない」という選択はそんなに楽しいものなのか?

最後に笑うものが一番よく笑う。She laughs best who laughs last.
  昔、そういって死んでいった女性がいました。最後に笑う人間は、たくさん笑うんじゃなくてね。一番「良く」笑う。たとえ、微笑みでしかないにしても。
  私もそう思います。

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耐えることと我慢すること

2008-03-09 22:30:31 | その他
石川啄木という人がいまして、
ってさすがに若い人も知ってるんでしょうね。
その人のことを一昨日の新聞で書いてまして、なんでも「売れない自分のことを書いて悲しがってる短歌が痛々しい」って。
あにいってんだよ。そんなもん我慢しろよ、って、売れない研究者が思う。
だいたい、啄木なんてほとんど好きじゃなくてね。
 ただ、好きじゃないけど気にはかかる。ちょっとは詩人で、とにかくも、それまでほとんど歌だった短歌を詩にしたのは彼だから。

  歌は、思いをメロディーに乗せるもの。
  詩は、思いを自分の人生に乗せるもの。
  前者は、自分が紡ぐ31しかない音を、伝統が運ぶ思いに托す。
   たとえば1000年前に生きた者の言葉を思い出させ、「ぼくの気持ちはその思いと同じだよ、ちょっとは違うけどね」、と伝える。
  後者は、今の自分を31音で表現する。
   自分の心の音楽は出てこないけれども、この思いを伝える。5,7,5の音で包みながら。
  それを提唱したのが誰であっても、それを実践したのは、啄木。
 
まあそんなことはどうでもよくて、いいから我慢しろよ、そんなふうに俗人だから立派な詩人になれないんだぞって。
もう死んじゃったけどね。

で、ですね。
考えてみれば詩人というのは我慢はしない。我慢する代わりに言葉に托すのだから。
では、言葉のない人間は?
それは耐えるしかない。


耐えることと我慢することは非常に似ているし重なってもいるけれど、根本的なところで異なっています。

「耐える」のは、選択肢がない場合に「耐える」と使う。
唯一残された選択肢は、「死ぬ」とか「壊れる」とかです。
 この鉄板は、1万気圧に耐える。
 耐え切れなくなったら二つに折れる。

「我慢する」は選択肢が明確にある一方で、その選択肢をあえて選ばないときに使う。
 風呂は熱いが我慢する。
 我慢できなくなったらバスタブから飛び出ればいい。

「耐える」「我慢する」の重なる部分では、
 風呂が熱いのに耐える。
これは選択肢はありますが、その選択は、はなから想定されていない場合です。
耐え切ることが想定されているわけです。

そして言葉の使い方どおりに、
「耐える」とは結局のところ、別の選択肢を想定しなくなることなのです。選択肢があればそちらへ向かう。
 日本人にも選択肢を持った時期もあったけれど、大方の平安な時期は人民はずっと耐えてきた。別の選択肢など頭の隅にもおかず。


 そして運動とは、そんな耐え続ける者たちが、別の選択肢を見出すところから始まります。


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つなぎに

2008-03-02 13:02:57 | コーヒーブレイク
マイフェイボリット・ブレイク

 しばらく更新しないとアクセスが減るんでさみしいですね。
 合間があいてるときは、だいたい理論に使う事実の仕入れ時間で、それって個人的には面白いんですが、読んだ人の人生のためにはなりそうもなくて。

 で、時間稼ぎにマイフェイボリット。これは将棋の駒です。

 今は人と将棋を指すわけではないのですが、日曜日にNHKで将棋番組があり、その後半1時間を見るのが日曜の休息となってます。

 ひいきの棋士ですと谷川浩司という人がいて、この人の若い時の将棋は感動モノでした。目からウロコっていう感じの攻めで、中盤かなと思ったらそこから7手くらいで寄せきる(=4手動かしたら勝っている)んですよ。
将棋を知らない方のために、サッカーだと味方ゴールからキーパーがボールを返すとそのボールをそのままヘディングでシュート、1点!って感じです。
ありえない! って感じでしたね。
 もう中年でそんな勝ち方をするわけでもないんですけどね。やっぱ、ありえないから、そういうことをしてるといつも勝てるわけではなくなって、それじゃ生きていけませんもんね。で、こういうのは姿勢だから、全部の勝負に影響してしまう。

 対照的な人で羽生善治という人がいて、この人はとにかく勝つんですけど、見てて面白いわけじゃない。将棋って、ほんとのことをいうと盤上の駒の勢力の張り合いなんで、駒を連携させて敵の王様の方へ見えないように勢力を張ってくと、基本的には勝つんですよね。こちらはそのタイプ。
 谷川という人の将棋は、昔ながらの切った張ったで、敵の王様の周辺の駒の勢力を急激に高めて勝つ、っていうタイプ。まあ、こちらのほうが見えるしロマンがありますから。

 で、写真は「金将」です。マイフェイボリット。持ち駒の金。飛車や角を切って(=弱い駒と交換して)、金で詰めるのが好きです。あと、こちらの王様が危ないときに、バシンと打って守る(将棋用語で「叱りつける」と呼びます)ときとかね。なんていうか、その可能性にわくわくするっていうか。


 ということで、さっきNHKを見まして、渡辺明という強いにいちゃんが負けたところ。
 残念でした。この人は勝ち方を知ってるから勝つというタイプで、将来不安なんですが、いいおにいちゃんで、ブログにお人柄が出てて、見ると気持ちが安らぐんです。奥さんのブログがまたお人柄で。

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