リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

古い歌ども

2023-11-11 16:23:34 | コーヒーブレイク
 こんにちは。東京地方、気温はやっと平年並みに、北陸、北日本はあっちこっち雪が降って、ずいぶんと寒そうです。突然変わるのはやめて欲しいですね。
 当家のベランダでは今年は暑さで40年来生きてるゼラニウムが瀕死。他方、シクラメンはひと夏中咲いて。枯れかけのホテイアオイもおととい咲きました。
 店頭もようやく秋らしく。リンゴがしだいに値段が下がり160円。いつもはスーパーの「ふじ」(サンフジ)ばかりなのですが、家人が農協の出店から買ってきた赤いリンゴ、久しぶりに華麗な味。あれはなんなんだろう、、まあ二度と出会いそうもないけど、人間いろいろ試すのがいいです。

 ちょっとニュースを覗きます。
「職場の昼食は毎日「ゆで太郎」です。430円の「かけ蕎麦」ばかり食べていますが、栄養は偏りますか? 蕎麦なら健康に良いでしょうか?」(ファイナンシャルフィールド)
 かけが430円! こりゃまた。天そば550円。
 ゆで太郎は都心の街路に出てるからねえ、、
 と思って田舎にもある「六文そば」見たら、かけ400円。昔、天そば260円だったのに、今500円、
 と思ったら、それは中延店のせいで、須田町店はかきあげ430円、人形町店は五目天そば330円。。。そういうのもチェーン店ていうのかね。
 ともかく、500円超える立ち食いそばなんて食いたくない。やっぱコンビニのり弁だな、430円。栄養もそこそこ。
 
 次、
「野球しようぜ!大谷が国内の全小学校にグラブ計6万個寄贈 野球界の未来のために「将来一緒にできたら」(スポニチアネックス)
 大谷のニュースは楽しいものばかり。ほんと、偉い。
 1校にグラブ3つだって。で、うち1つは「左利き」用! 野球選手だから意識は高いのかもだけど、考えもつかない。うちの息子は左利きなんだけどねえ、まるで意識したことない。心の中で恨んでるかな。

 次、
 全日本剣道選手権、ひいきの松﨑賢士郎、2着。
 勝負事は1着でないと無意味。
 ただ竹刀振ってるだけの若いのにやられたか、と思えば、きれいに小手を決められてて。情けなか。
 やっぱ、応援は大谷だな。冷たい観客。 
 
 次、
「共産から支援受ければ「推薦できない」 連合が衆院選基本方針、立民に圧力」(産経新聞)
 ほんと、連合は共産党並みにイデオロギッシュだね。いやな奴(ら)。とくに代表のあのおばさん。そんなのに入ろうとした社会党の今は後期高齢者、みんな口拭ってるけど、人間て反省ってできるのかねえ、、
 
 さて、今日はコーヒーブレイク。といえば最近は歌の話題。
 本日の朝日新聞の全面広告、
「私たちの青春の歌が帰ってきた!」なるキャッチで50~60年代の洋楽歌を集めたCDが出ると。団塊用。
 私はぜんぜん「私たち」ではありませんが、その全面広告に顔写真のある20名の西洋歌手たち、18名まで顔だけでわかるとこが昔の時代(パティ―・ペイジとダスティ・スプリングフィールドは分からなかった)。一曲の歌の寿命が長かったんだね。テネシーワルツもサビは歌えるし。

 youtubeでのいくつかの発見。

 「百万本のバラ」の原曲 ラトビアの歌で(ダーヴァーヤ・マーリニャ)っていうそうだけど、これ、加藤登紀子の歌うロシア経由のはうっとおしくて嫌いですが(昔はカラオケリクエストされることがあって困った)、これが驚いたことに、ラトビアのソ連帝国主義(覇権主義)へのレジスタンス歌だって。これは面妖な、、、youtubeで聞いたらほんといい歌。誰か日本語で出せばいいのに。

   幼い頃のこと 悲しみが襲うと
   私は母の胸で 抱きしめてもらう
   母はやさしく笑みを浮かべ 私の耳元で囁く
   マーラは与えた 娘に命を
   与えて、与えて、与えてくれた
   マーラは忘れた 娘に幸を
   忘れて、忘れて、忘れさられたままに
             訳 楓
      https://ameblo.jp/merrymorrow/entry-12365695938.html
     (「マーラ」とは女神のもよう)


 と思えば、湯原昌幸(という人の)の「ポーリュシカ・ポーレ」。
 これ好きでよく口ずさむのだけれど、残念ながら、そもそも反封建で立ち上がった農民を弾圧する赤軍の応援歌だって。
  「草原 草原よ 広い草原よ
   英雄達が草原を行く
   赤軍の英雄達が、、、」
     ば~~か。
     
 知らない?
 知らないのを知るのが人生というもの。
 で、このたび初めて知った吉田拓郎の曲。拓郎って知ってる? 名前だけ?
 50年前は、”浴衣の君はススキのかんざし、、” とか、こんなチャラい奴、と思って聴かなかったところ、youtubeで流してみた「人生を語らず」。
 
  ・・・
   教えられるものに 別れを告げて
   届かないものを 身近に感じて 
   越えて行け そこを
   越えて行け それを
   今はまだ 人生を 人生を語らず・・・
 
 おお、やるじゃん、さすが、時代だねえ、、、
 なのか、自分もチャラくなってしまったのか。。。
 
 次、尾崎豊、もうお子さんの時代だけれど。
 こっちは、本人のときは家も仕事も忙しくて対象外。
 で、その後知った曲のお気に入りは「僕が僕であるために」、若いってほんといいねえ、のところ、
 こっちもよい、「ダンスホール」、、


   あたいグレはじめたのは
   ほんの些細なことなの
   彼がいかれていたし
   でも本当はあたいの性分ね

   学校はやめたわ
   今は働いてるわ
   長いスカートひきずってた
   のんびり気分じゃないわね、、、
   

    これはわたしが年取ったんだね。いずれにせよ若いっていいねえ、、、
 
 
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舌の運動

2022-05-07 13:38:12 | コーヒーブレイク
 こんにちは。連休遊べた? 東京地方、1日おきに晴れたり曇ったり(雨が降ったり)そうこうしてるうちに近くのツツジ群落の季節が終わってしまってました。この付近は東京地方じゃ一番雨がよけるところで今日も助かってますが(多分、多摩川のおかげ)。
 世間はまだ順調にコロナの低下が続いているもようで、このまま終わればいいのですが。

 退職者は家ごもりを続けておりますので、人にも会わないのですが、憲法記念日に隣町に買い物に出たおり、旧知の退職者に肩を叩かれました。マスクしててよくわかるものだ。彼はもう82歳とのこと、共産党の地域幹部だったので世間話に「メーデーは?」と聞いたら、雨の中行ってきたよ、だと。当日は憲法集会に顔だけ出しての帰り道だそうで、偉いもんだね。共産党でもいい人はいい人だからね。裏切り者よりはずっとましだ。
 ほんと、コロナが落ち着いたら家でくすぶってちゃいけないね。
 
 今週はも一人、感心、
 家人が話したフィリピンのフィリピンの中産階級は、アフリカの貧困を同情心をもって語るんだと。へえ、50年前の、フィリピンを見る日本人のようだ、と感心。
 と思えば、最近の日本人の堕落ときたら。てめえのことしか考えない。
 ウクライナだ? へ。
 
 これはここでは語らないきまりで、今日はコーヒータイム。
 
 1か月ぶりに口と舌の運動のyoutubeカラオケ。
 1か月ぶりの4番目に選んだのは「カスバの女」、まあふつうの人は知らないね。
   ここは地の果て アルジェリヤ
   どうせカスバの夜に咲く、、、
 アルジェリ「ヤ」だもんね。
 
 3番目は「Emmenez-moi」(わたしを地球の果てまで)連れて行ってくれ
 アルジェリヤ人、違った、アルメニア、シャルル・アズナブール、中年の。
 
 2番目は? 「ウエディング・ベル」くたばっちまえ、アーメン。
 傑作だよね、でも、シュガー、ネット検索上、あんまし幸せじゃないのね。とても残念、、、、

 さて、一番初めに歌ったのは?
   武器を取れ 市民よ!
   隊列を組め!
   進め 進め!
   彼らのけがれた血を
   われらの田畑に浸みこませよ!

 いや、下品。
 ご存じのはずはありませんが「ラ・マルセイエーズ」フランス国歌。これが国家の歌とは。
 君が代とはえらい違いだ。
 私は国家は大嫌いですが、この国歌なら自分の国でも歌っちゃうかもね。
 シトワイヤンに貧農は入ってないでしょうが、世の中、時代というものがあります。別に 恥ずかしくはない。
   歌はミレーユ・マチューのがお勧め。

 と歌ったのはもう2週間前、それから歌わず。
 それなりに気持ちが忙しくて。無駄に時間ばかり使ってるなあ、、、

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ロールモデル

2022-03-14 15:50:46 | コーヒーブレイク
 てゆうか、隈個人だけの思い出話なんだけど。

 中学3年の時、クラスでグループに分かれてノート交換をしてたわけ、1グループ5,6人くらいで。
 みんな中3で思春期だから内気そうな人でもそこそこ書くの。わたしなど隠れ外気だから書きたいこと書いてて、ビートルズの歌詞の翻訳なんかしててさ。たとえば「The fool on the hill」。「らしい」でしょ。
 そしたら担任の国語教師が、「自分で書いた詩を載っけろよ」とかいって。
 うまい訳だと思ったんだけど、まあそうかい、てなもんでなんとなく先生と親しくなって。
 清水厚夫先生。”シミアツ”といって、ちょっと前は世田谷区で俳句の会かなんか主催してたよ。

 で、夏休み、親戚の家の近くの淡路島五色ヶ浜で拾った貝殻を手土産に家を訪ねてみたのね。多分、性格的に突然訪ねたんだと思うけど。目黒区目黒本町。清水池公園の近く。
 休みで奥さんやお子さんがいらしてお邪魔様で、そしたら先生、そのとき中原中也全集を貸してくれたのさ。全6冊かな、よく持って帰れたなと思うけど、その頃の版は貧相だったから。
 ともかく、それが悪かった、というか良かったというか、人生で決定的だった。
 翌日からわたしは中也になってしまった。
 勉強もわざとしないで呆(ほう)け三昧。こんな影響力の強い悪本をよくいたいけな子供に貸そうと思ったものです。
 まあ呆けたのは自分の性格だけど。うちの母親なんか清水先生を恨んでたよ。
 ほんとは違う。すでに前年、わたしゃ以前は成績が良かったので、中2の学年末試験で全校2番、担任の理科の沢先生が「残念だったな」というんで、”馬鹿なことを、、”と思って校庭を眺めながら「そうですね」なんていった覚えがある。”もしも残念なら試験勉強でもしたさ、、”てなもんで。生まれてから自分の好きなことしかしない性格だったところへ、授業がつまらなく(あるいは大人が嫌いに)なったんでしょうね。

 それで、中也とはそれ以来の付き合い。宇宙の機構、悉皆了知でさあ。
 もっともロールモデルは半年ほど。アナキズムが純化すると同時に、私のほうが「お兄さん」になってしまった。中也も困った子だねえ、、です。
 中学卒業生のお言葉文集に載せた、「汝、破壊せよ。あとは自分で考えな」なるお言葉は、中也とアナキズムの未分化形態ですね。

 という人生的転轍(てんてつ)点。こんな昔話の記事は、宇野弘蔵の「資本論五十年」という自伝対談を読んでて思いついたところです。もう自分しか知らなくなった話は、自分で記録しとくしかない、と。私もすぐ消えるし。

(なお、この自伝本は勉強には厚いばかりで大して役に立たない。経済学ゼミナール3冊が極薄で要を得ていてよろしい。どこかで見つけたら買っておくのはお薦めです。ただこの自伝本は、「経済学ゼミナールは(ゼミ生)岩田・降旗の収入確保のために作った」なんて話が載ってる本です。徒弟制度も悪いことばかりじゃあない。)

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時代おくれの

2021-03-27 11:26:02 | コーヒーブレイク
 こんにちは。東京地方、ずっと暖かく、桜もほぼ満開。明日以降ずっと天気が思わしくないので、花見は今日しないともう葉桜かと。強がりをいっても桜は青空の下がいいです。特に目が悪いと白(雲)に白(桜)じゃあ。一昨日は「あんなとこに空が大きく開いてたかなあ」とおもったら満開の桜でした。地べたは、背の高いタンポポはまだ、ハナニラがきれいです。

 さて、知ってる人は昔から知ってそうですが、改めて赤旗にこんな記事が。
「苫小牧市立中央図書館が苫小牧署の求めに応じ、利用者1人の図書貸し出し履歴や予約状況などを提供していました。
 札幌弁護士会は昨年、管内の図書館102館にアンケートをしました。その結果、10館が捜査機関から「捜査関係事項照会書」による特定の個人の情報照会を受けたと答えました。うち5館が捜査機関の照会に応じたことがわかりました。」(赤旗) 今日の朝日の読者の声にもありましたが、共産党の人でしょうか。
 
 ま、ともかくこのニュースへのコメントが変。
 「警察がそんなことをしていいのか」。
 ちょっとまってよ。いまどきそんな利用者の履歴が記録されてるシステムって何?
 東京・川崎じゃ昔っからありえないぞ。
 大昔は差し込みカード方式だからそもそも残らないし、40年前コンピューター化になっても、返却された瞬間から記録消去だし。
 皆様の地方はいかがですか? 利用履歴は消去。それがされてない地方は(ド)田舎と言われてもしょうがない。市長に抗議してね。
 
 さて、本日はyoutubeから。
 ずっと日中に書いてるから、酔っぱらって気持ちのいいyoutube感想と縁がないところ、ちょっと不愉快な件が。
 まずは「時代おくれの酒場」で引いたら高倉健が出てきて、おやおや、と思って、うん、ちょっとやりすぎ。で加藤登紀子のを探したら長谷川きよしとのデュエットがあって、うん、このくらいでないと、と思ったら右側に「山谷ブルース」も並んでて、吉幾三だと。うん、これはこれで、と思ったけど、やはり岡林信康の高い声が聞きたいと思って並んでるのを開けたら、じいさん、ロック調でやんの。何やってんだよ、岡林。遊んでんじゃないよ。素ギターをアルペジオしてたお前はどこへ行ったのだ。もっともオイルショック前の物価安の時代に45,000円のギター抱えてたけどね(と、本人が舞台上で言っていた)。
 ほんと人間の存在の意味が不明。
 人間、歌も詩も、30歳過ぎたらやめちまうのがいい。
 悪口ついでに岡林なんか、私の思春期のみぎり、コンサートで「キューバで売春婦公認だから立派な国だ」って叫んでたし。高石かもしれないけど、二人一緒さ。気を許しちゃあいけないと子ども心に思ったさ。(なお、キューバは革命で米帝に生産手段を全部引き上げられて売春婦の転職まで手当てできないんで、そのままにした、と内部事情の本には書いてある)。

 というわけで、その夜の結局の締め。メリー・ホプキン「悲しき天使」。

  Those were the days, my friend
  We thought they’d never end
  We’d sing and dance forever and a day
  We’d live the life we’d choose
  We’d fight and never lose
  For we were young and sure to have our way
  
    http://www.magictrain.biz/wp/blog/2011/10/09/ 様の訳では

    あれはそんな時代だったわね、そうでしょ(友よ)
    私たちは、彼らが(ママ)終わることがないだろうと思っていた
    私たちは歌い踊るだろう、永遠と一日(ずっと変らずに)
    私たちは私たちが選んだ人生を生きるだろう
    私たちは戦いそしてけして負けないだろう
    私たちは若かったし、私たちのやり方を確かに持っていた
    
そしてこれはこう続きます。

  Oh, my friend, we’re older but no wiser
  For in our hearts, the dreams are still the same
    ああ私の友よ、私たちは年とったけど、賢くならなかったね
    それは私たちの心のため、夢はずっと同じままなんだもの

 立派なお嬢さんさ。

 今日は後で、もう一題追加しようかと思っております。
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青春の歌と青春を歌う歌と青春を生きる歌

2018-10-06 13:25:42 | コーヒーブレイク
 こんにちは。先週の台風はひどかったですねえ、近くの桜の木が何本も根こそぎひっくり返ってました。とはいえ、風の強さは生まれてから最大というほどでもなく、今までなんともなかったというのも変な話ですが、災害というのはそうやって起きるんでしょうね。
 本日は、関東地方は、しけってて暑い。毎日10度近くもあがったり下がったりすると、食べるものにも困ります。

 さて、今週はまともなニュースが。「ノーベル平和賞、性暴力の被害者の治療や救済に取り組むデニス・ムクウェゲ医師(63)と、過激派組織「イスラム国」(IS)の暴力告発者でイラクの少数派ヤジディ教徒の人権活動家ナディア・ムラドさん(25)の2人に授与」(時事通信)おめでとうございます。功績の度合いの分からないその他の部門よりすっきりしてるのもよい。人間の仕事ですね。

 本日は、まいふぇいぼりっとしんぐ。
 唐突ですが、テレビで中島みゆきが、「時代」を歌っていたのだけれど、しかしなんか違うな、と思って。やはり「時代」は23歳の歌であるべきで。
 「時代」は青春の気持ちを歌う歌なんでしょうし、何歳で歌ってもいいはずだけれど、しかし歌は歌手と不可分。「時代」を好きだからといって。じゃあyoutubeにアップしている素人さんの誰の歌を聞いても良い、ということにはならないし、それは素人が玄人でも、本人でも、同じ、だろう。しかしてこれは23歳のみゆき氏が歌わなければならない、、、
 と思ったのだけれど、そこで、シャルル・アズナブールが亡くなったというニュース。
 9月中旬に日本で公演をして帰ったばっかりなのにね。見事ともいえる。
 3年ほど前ここ(「断片」カテゴリー)に数行書いたように、84歳の時の歌(youtube)でもすごい、ってところがまたすごいね。
 「世界の果てに」がよかったって朝日新聞に書いてあった気が。(知らん題だと思ったら「連れて行っておくれ」のこと。でも微妙に違うな、と思ってレコードを探したら、レコード、ない。引越しのとき捨てたか、、、信じられない断捨離、、、)。
 と、何の話題かと言うと、「世界の果てに=Emmenez-moi」若い。もっともそれに限らず、アズナブールの歌、若い。大昔、中島みゆきよりちょっと前に聞きだしたアズナブールも私の青春の歌。かつ、青春を歌った歌。なんだけれども、みゆき氏とのこの差はなんだろう、と。
 やっぱ、アズナブール、常に必死なんだと思うぞ。青春とは必死なものだ。そう思えばみゆき氏は、はっきりいって余裕ありすぎ。歌が「自分」を離れて、ただの応援歌。それじゃあ谷川俊太郎や岡井隆と同じ。歌職人。問題あるなあ、、、

 というわけで、この手の話にオタク話題は合わないのでその手の方は別題で引継ぎ。
 最後に「世界の果てに」、ちょっと歌詞の一部をあげておきます。

  Emmenez-moi au bout de la terre
  Emmenez-moi au pays des merveilles
  Il me semble que la misere
  Serait moins penible au soleil

   連れて行っておくれ 地の果てに
   連れて行っておくれ 奇跡の国に
   貧しさも 光あふれる国ならば
   それほど辛くはないだろう

  Je fuirais laissant la mon passe
  Sans aucun remords
  Sans bagage et le c?ur libere
  En chantant tres fort

   逃げ出そう 過去は置き去りにして
   後悔などは微塵もない
   荷物も持たず 自由な心で
   力強く 歌いながら

     (ミスター・ビーン訳)
     https://ameblo.jp/jaimeen/entry-12106194162.html

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視えるものの差

2018-05-12 10:01:48 | コーヒーブレイク
 こんにちは。寒かったり暑かったり。
 さて本日の簡潔ブログ、写真撮影論。
 心調の調整のため、白黒写真の撮れそうなデジカメのカタログ等を眺めていて気づきました。(この前も言いましたが、富士フィルムがモノクロフィルムの生産をやめたそうで。で、デジカメのカラーを無彩色にするだけだと白黒はだめなんだそうで。)私は白黒写真は嫌いのようです。
 若い頃は印画紙プリントをしてましたので、そこそこ愛着のある自分の作品もあるのですが、それは単なる偶然。そんなものは撮りたくない、あるいは撮りたくなかった。そんな画面には今は過去の懐かしい淋しさしかない。方や、非作品的な昔のカラースナップの自分にとっての意義といったら。これは生涯級の傑作ばかり。生涯ってもういくらもない自分の一生ですが。
 結局わたしは写真家ではないのね。当たり前だけど。違うんだから。
 何が違う、って、撮りたい発想が違うんだね。自分の表現など、写真でしたくないし。
 と、これは図書館にあった山本まりこというカメラマンの本。やたらハイキーにして色温度上げて、で写真を作ってるのをしげしげと見て(そこそこ心地良い)、あ、これは私はしないぞ、と思って。わたしはそんな世界に生きた覚えはないし。
 
 結局わたしはこの世界が好きで、ぼーっと安楽に浸っていたいだけ。その中でずっと浸りたいものがあったら写真を撮る。これは写真家諸氏とは完璧に違う立ち位置というものでしょう。良い写真家は必ずテーマがあるものね、花でも虫でも鉄道でも戦争でもまあいろいろ。しかしわたしは、自分の風景から離れた花や虫や鉄道や戦争やその他いろいろには興味がない。
 と思うとカメラもピントが合ってカラーで写ればなんでもいい(いまどきは安いものほどピントが合う)、というわけだけど、まあこれには使い勝手というものもあるね。
 
 というわけで、役に立つブログ。若き穏やかな芸術愛好家の読者諸賢にあっては、べつに自分が芸術家になる必要はないと述べました。私の好きな熊谷守一、30年間自分の家の庭だけ見ていた、という、芸術家というのはああいう志向を持った人間だね。
 以上、本日も早々に店じまい。本日のテーマは、マイフェイボリットシング、「生き物のいる風景」でした。

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現代の芸術的風潮

2018-03-17 11:32:45 | コーヒーブレイク
 こんにちは。東京地方、昨日は桜がみるみる膨らんでいきました、ようです。私には遠くて見えません。今日は十分寒いですが。

 さて、ニュースは森友書換えなんでしょうねえ。なんだか関係ない財務省やら麻生やらが非難されて、よくわからない様相を呈しておりますが。ばかばかしいからケツまくっちゃえばいいのにね。
 今は関連情報が溢れてるね。ちょっと前メモとっといたのが、『赤羽一嘉衆院議員(兵庫2区)は「削除されたのは本質的な部分ではない」とし』云々。(神戸新聞)。ここが本質だから書き換えて、人まで死んだじゃないか。他にどんな本質があるというんだ。まあ「文書の『偽造』じゃない」、という趣旨かね。
 若人に解説しましょう。
 そもそもこの決定文書は、「なんだよ、こんな契約、イレギュラーだぜ。決定にハンコ押せったって会計監査院に指摘されちゃうよ。、、、あ、事情がほんわかと書いてあるや、そうか首相肝いりだっけか。経過は変だけど監査でも通すしかないと分かるだろう。数億円くらいなんてこともない。俺ら近畿の地方役人風情のせいじゃないからね。」と読ませるように書いたんだよ。で、上から「なんてことをしてくれたんだ、こんな文書を残して。お前らのせいだから書き換えろ」ってわけだ。と、ここまでは火曜日記載。すぐ遺書メモでこの文が正しいことが証明されてしまいました。(私は関係者ではありません、が、組織人間なら誰だって正しく分かることです。もちろん会社幹部のお詫び記者会見と一緒。みんな議員も官僚も新聞記者も全員が知ってて空しい言葉の応酬)。
 私は記事の詳細など読まないけれど、ネットで足立とかいうバカ議員の支離滅裂な記事で知ったところによると、実際もそう推移したんだとさ。会計監査院は指摘をご遠慮した、ってわけだ。そりゃそうするさ。それは誰のせいなのかね。捕虜を銃剣で刺した二等兵は戦犯で死刑になるべきか、って話だ。そりゃ本人ではなく命令者のせいで、命令者をたどっていけば天皇のせいで完結する理屈だがね。正当防衛という理論構成はそのために存在する。
 したがって、財務省も麻生も「やめたやめたぜ、ばかばかしい。アベ、一人で勝手にやれよ」と対応するのが正しい。
 
 と言ってるそばから、また議員による恫喝だよ、前川・中学校講演問題。どうせ議員が国の教育局長に「こんなのあいつにやらせてていいの。おかしいんじゃない? どういうこと?」とかねじ込んだに決まってるし(私は見ちゃいない)。で、局長は課長に「前川さんなんかやってんだってさ。議員うるさいから調べといてよ。答えない? 生意気だね、ちょっと脅かしといて」てなもんさ。これはシンプルだけどね、何も構造は変わりゃあしないさ。官僚が悪いわけなんかねえよ、政治家がそういう構造を作ってるのさ。
 
 ここんとこウサ晴らしが続いてるので、ニュースはやめ。
 本日は文化芸術。国立新美術館は至上の印象派展。朝日新聞を見ましたら、記事にルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が載ってました。で、この15歳のかわいいイレーヌちゃんは、その記事だと19歳でブルジョワ貴族と結婚したようでその19歳のふんぞり返った写真が載っていて。げ。いかにも、という。
 金目当てのルノアールの腕も偉いが、この写真を撮った写真家も偉い。くわばらくわばら。
 もっともその記事にはなかったと思いますが、今ネットを見たところ、イレーヌちゃんはユダヤ人で、その後、身内はどんどんナチの犠牲者になってしまったようです。あまり悪口もいえなくなります。
 
 さて、芸術の季節、土門拳賞も木村伊兵衛賞もうまいとは思うけど賞の趣旨として納得いかず、中原中也賞。相変わらず賞の趣旨として納得できないなりにこれはよい。
 マーサ・ナカムラ「狸の匣」。これは久々のヒットとしか言いようがない。
 いつもの谷内修三氏のブログによりますと

     「許須野鯉之餌遣り」その後半。

   見ると、池の底には、本物の池が沈んでいたのである。
   そこには無数の鯉が棲んでおり、ありとあらゆる罪の形を丸い麸にして食べてしまうと見物客は言っている。
   江戸時代の人、いつの時代の人か分からない人、もちろん虫や犬に至るまで、鯉に餌をやりに訪れている。

   「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」という立て看板がある。

   地上では若いころの身体に似せて化粧をする。
   水の底では、何もかも終わりがない。
   池の近くの公園では、老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って永遠に遊んでいた。
   鯉は、口元に寄せる麸にひたすら口を動かし続けている。


 相変わらず中也ではありませんが、これは抜きんでている。東大生の作品ですね。別に東大生が抜きんでているとはいわないが、自由に言葉を操る能力が焦点だ、という比喩です。昔でいえば、長谷川龍生賞でどうだ。あ、長谷川先生はまだご存命か。
 そうなのだよね、土門も木村も中也も古すぎ、今の時代にその賞があるということ自体がおかしい。そんな現代の風潮・思潮の呼び方がないかと探しましたが、ないようで。
 もちろん天才アラーキーや鳥居氏のような生まれつきの芸術家が途切れることはないとして、それ以外の頭脳派。これを『自己保全的日常加工主義』、と呼びたいと思いましたよ。キャッチ・コピー的には零点ですが、私は評論家じゃないんで。
 そういうわけで、たとえば林忠彦賞とか植田正治賞とか谷川俊太郎賞とか大岡信賞とかにしたらどんどん該当者が出るであろう。そしたら私はもう一瞥もくれないけどね。(植田先生は良いですが。今年の木村賞の人たちは植田賞でしょう。でもそしたら検索しない)。

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トップページ変更

2017-11-28 08:19:25 | コーヒーブレイク
マイフェイボリットシング

 早々にトップページ変更。
 だからいやだといったんだ。わたしは悪口は嫌いだ。


 取替え。ブラザース・フォー
 
 長いのもしつこいので、2番の歌詞


       "Seven Daffodils" 

  I do not have a fortune to buy you pretty things
  But I can weave you moonbeams for necklaces and rings
  And I can show you morning on a thousand hills
  And kiss you and give you seven daffodils


       「七つの水仙」

  僕には綺麗なものを買ってあげるお金もない
  でも月の光で編んだ指輪や首飾りを編んであげられる。
  そして丘々が輝く朝を見せてあげる。
  それからキスして、黄色い水仙を七本、君にあげるんだ。



      こんな歌詞を子供たちが素直に聞き入った時代を
      最近の若い子はうらやましいに違いない。
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見たこともない男に

2017-11-27 21:01:15 | コーヒーブレイク
マイフェイボリットシング


 カラオケスナックも、いきつけると、ママには「このおじん、こんなやつか」と認識されもする。
 そういう人格的評価は、仕事上では仮に為されても表面には出ないので、うれしいことでもある。
 1年に2回しか行かないがそんなスナックで、さだまさしの「防人の歌」を歌って、といわれた。
 いやだ。
 心に深入りしすぎて歌えるものか。そんなもの今まで1度だって歌ったことはない。

    私は時折
    苦しみについて考えます
    誰もが等しく 抱いた悲しみについて
    生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
    病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
    現在(いま)の自分と
 
 25歳の時、私は信じていた。今は変わった者も呼びかければ振り向いてくれる、と。
 これは40歳まで変わらぬ認識だった、が、ふつうの人間の生は、40で終わるということを生きていくうちに思い知った。
 
 30歳を過ぎて私は、生活費を稼ぐためにその後の3年間を泥沼の中で這い回らなければならなかった。
 30歳を過ぎて佐田は、借金を返すためにその後の30年間の泥沼を肯定するしかなくなった。
 私は痩せたままであり、佐田は太った
 
    おしえてください
    この世に生きとし生けるものの
    すべての生命(いのち)に 限りがあるのならば
    海は死にますか 山は死にますか
    春は死にますか 秋は死にますか
    愛は死にますか 心は死にますか
    私の大切な 故郷(ふるさと)もみんな
    逝ってしまいますか
 
 若人である私は信じていた。同様に、佐田まさしも信じていただろう。
 「われわれが変わるわけがない。」
 そして私は変わらなかった。
 とりあえず佐田と一緒で高い音は出なくなったが。
 
 しかしまだわれわれは死んではいない。
 なので言わせてもらおう。ほんの半歩もないドブのような溝しかなかったはずの男に 
 変わったのはお前だ、と、死んだのはお前だ、と、ふるさとの海や山は言ってはいないのだろうか。春を、秋を、ほんとうに今でもお前は見つめているのだろうか。愛を心を、、、ここまでは言うまい。
 
 youtubeの画面の痩せた「佐田まさし」を見てそう思うのだ。
 今日も「佐田」は、私の半身のように歌っているのだ。歌っていないはずがない。いないはずなどない。君はどうして歌っていないなどというのか。
 
 私の大切な ふるさとは決して、逝きはしない。
    人がそれを許さない限り。

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本日は将棋(中高年予備軍向き)

2017-08-30 20:09:30 | コーヒーブレイク
 こんばんは。ひさしぶりのコーヒーブレイク、きょうは寂しい中高年将棋。
 本日、羽生3冠が1タイトル失ってしまいました。ボロ負け。4敗1勝にて敗退。
 あーあ。

 本人、ある局面で全てに近い手を読むこととその中の価値を見極めることで7冠王になったのですが、あ、こりゃだめ。端から忘れている。あの恐ろしい中高年病の発症です。46歳メモリー不全。

 読むったってそれを覚えてなきゃしょうがないのですが、これが覚えられてない。途中で入り組んじまう。別に羽生のファンではありませんが、わけわかんない若いのにやられると悲しい。
 昔の大山名人という人は読みゃしないで69歳までベスト5に入っておりました。そのまま死んでしまいましたが。読まなくても将棋は勝てるのか、って、ゲームを自分の好きな形にもってく方向を知っていればいいのです。不利にならないようしながらその方向に進ませればいいわけです。それで好きな体勢なら広く読まなくていい、元は強いから部分的には最強、最善でなくともそのまま押し切ってこっちの勝ち。

 森下9段ていう人もいてこちらは3年前48歳でコンピュータ将棋と対決、圧倒的優勢のうちに、体力が尽きて引き分けにしました。そんなに強いの? って、メモリー使わなきゃ勝てる、って主張したから。具体的には検討用に傍で将棋盤を使っていい、というわけ。これなら覚えなくとも読む力さえ勝ればそちらの勝ち。いかにメモリーというものが大事か。というわけです。
 はあ、、、

 というわけでめずらしく中高年予備軍向きに役に立つブログ。というか、本日は面白くないので気晴らし。
 だいじょうぶ、年取っても頭は減りません。ただ、メモリーのなさをどうカバーするか。
 道具を使うことはしょうがありません。
 メモリーは外部へ置く。
 メモとペンはそこらじゅうに置いておく。
 論文は打ち出して見直す。
 まあ、紙代とインク代は中高年以上の税金です。
 
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詩写真

2017-02-18 17:05:21 | コーヒーブレイク
 こんにちは。東京地方、昨日はほんとに春の陽気でした、花粉が飛ばないだけ春よりずいぶんいいし。残念なのは若葉が出てないことですが。対して今日は寒々しい。今お客さんが帰ったしね。
 
 さて、新聞世間は相変わらずトランプ。金の息子の暗殺というのもあるけれど、こちらはなんといってもキチガイの仕業でコメントのしようもない。
 トランプも世間におまかせなんだけれど、今日テレビで見てたら、いかにも言うことがファシズムで。これはあまり世間の人は感じないかな、と。
 ざっとネットを見ましたが、某K派が、40年来、気に入らない者向けに使っている悪口でファシスト呼ばわりしているだけのもよう。
 そうじゃなくて、当人たちはファシストではないけれど、状況に応えた政策提示がファシズムに近い、ということで。アメリカ白人を守るため、海外資本とイスラムをシャットアウトの大規制を! それしかない! ちゅうわけ。
 これを「民族主義」と呼ぶ人が多いですが、民族主義なんちゅうものは社会科学の概念ではない。ま、「準」ファシズムです。
 ファシズム、すなわち、資本主義過剰生産の行き詰まりによる労働者反乱を抑圧し、過剰生産を国家主導で打開すべく支配権力者がしかけた経済(-社会)規制体制のことです。
 (ところでアホのMS・IMEが変換する「期性」(きせい)たあ、いったいなんのことだね)
 ファシズムは世界戦争による経済体制の変革(不要な資本のリセットと人民の平等の進展による大衆資本主義の拡大)で解消されたけれど、今度は泥沼しかなさそうだ。今のところ相手がイスラムなのが、まだ「ファシスト」にまでなる必要のない状況、というわけ。
 こういうのも、展開しないとわからないので、ま、感想ね。
 
 さて、本日は、今年も決まりました中原中也賞。
 なんですが、今回はどの候補者も感情の薄さが目立ってお薦めできず。薄いなあ、、、可哀想というべきかもしれないほど。人生は1回ですぜ。何が面白くて生きているのか。詩人なんてどうせ、なんでも楽しめる庶民じゃないんだから。
 それにしても毎年非中也的な詩ばかりが受賞、さすがに客観的にも選者が何も考えていないと断定できそうに思われます。北川透とか佐々木幹郎とかいるのに何を考えているのだろうか。おそらくは年寄りの諦観なのだろうと思うのですが。「いまどき要求するほうがムリ」みたいな。
 
 で、わたし的にはこちらのほうがおなじみなった谷内修三さん。いつも詩人を検索するとこの人がブログで評を書いていて、その評が奇をてらわずまことにしっかりした評。
 いいね、こんな存在。今回も候補者の批評はほとんど網羅。
 ご本人、詩人ということですが、なにも無理して詩を書くことはない。なにしろとてもお人柄のよさそうな顔をしている。(検索でご当人の詩はすぐ見つからない、が無理して探さない)

 さて、遅ればせながら、久しぶりマイフェイボリットシング。
 そのブログに2年前から嵯峨信之のコーナーがあるようで、もしかすると、と検索すると、これが、あったね、朝焼けの大淀川。43番目にある。あるけど、わたしが覚えているフレーズだけで終わってしまってる。ざんねん。短詩だから。あと数行なんですが。谷内という人は客観的なので正しく、たいしたことない、と認識したようで。
 ま、詩集を借りたりすればいいんだけどね、そういう問題じゃないんだよね。
 詩集の字を読んだからって何かが甦るわけではない。そこまで自立的に立派な詩ではない。
 しかし、他者が語ればそこに新しい世界が広がる、場合がある。「嵯峨さんここにいたんだ、ところでここはどこ?」 みたいなもんさ。なにしろ他開的なわたし。
 けなしといて何をお前はいってるんだ? というと、あれは写真とコラボなんだよね。日本交通公社の雑誌「旅」、1973年近辺所収。10年位前、俳句写真とかあったじゃん。あんなもん。写真家不明。
 芸術的には少しインチキだけれど、受け手には芸術とか関係ないもんね。
 
 といえば、中原中也詩集に大竹新助の写真コラボがあるんですよ、これがまたなかなかよろしい。今ざっと検索しても出ないのはなぜかな。
 
 
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埋め草

2016-03-12 11:13:14 | コーヒーブレイク
 こんにちは、また冬に逆戻り。来週火曜から春だそうです。ともかく鼻炎で寝られない日が少なくなるのはよいことです。
 
 さて、次回本、寝られない夜間と朝の通勤電車で積み上げた立言もそこそこ数十枚追加され、内容の7、8割は出来上がったところ、あとは構成と整形ですが、これは寝ながらではできませんので棚上げ。4月からの自由な時間を待ちます、が、そういうわけで漫画の代わりの本の感想以外はこのページには手が回らず。
 本日は埋め草で、例によって中原中也賞、2016、、、
 、、、う~~ん、例によってお達者で。候補者もお達者なだけ。賞の趣旨がまったく不明。お達者でいいならH氏賞があるのに。
 
 というわけで、そうではなく、今見つけた現代詩人賞、尾花仙朔。知らない賞に知らない人ですが。88歳だって。すごいね。
 あまりの年齢でファン層のメディアが違うのか、ネットにはほとんど詩情報がない。谷内さんという人の、これは文章内だから著作権とは関係がないブログから継ぎ接(は)ぐと。以下。

     「化外の書」

     (第2連以下)
 
 ママン いとしいかあさん
 赤紙一枚 国家の召集令状で
 戦場にいったあなたの父 ぼくの祖父が
 白木の箱のただ石塊(いしくれ)に変わって帰ってきた
 そのとき あなたの母ぼくの祖母は語ったのだね

 白木の箱を石塊でたたきつけながら
 ママン 祖母はあなたに生涯くりかえした
 《これが せめて遺髪であったらよかったのに》
 祖母は泣きじゃくり 泣きじゃくりながらあなたに頼んだ 
 《年老いて もしもわたしが惚(ほう)けた人になったら
 父さんの 白木の箱を包んでいるこの白い布で
 わたしの首を絞めておくれ 後生だから……》

 ママン 祖母は恍惚の人になった だがあなたは
 祖母の頼みを聞き入れなかった
 あなたを誰かも見分けがつかなくなった祖母を
 あなたは看取(みと)り
 祖母は何年も幻の世をさすらい
 ある日 滑るように月の裏側に隠れていった 平穏に
 ああ ママン それなのにそれからあなたはぼくに
 祖母があなたに頼んだ言葉をくりかえした
 《わたしが もしも病んで身動きできなくなったら……》と


   尾花という人はもともと「荒地」派なのに、受賞者候補者の若い衆と比べたらまだしも本質的に中也と思える。
   「荒地」というのは、中也と同じく、歌唄いなのだね、結局。
   生を懸けた歌唄い。
     彼らに比べて、なんとも幸せな若い衆だね。
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あたらしい詩人の人

2015-07-25 10:59:18 | コーヒーブレイク
 こんにちは。暑い中、もう本日は隅田川の花火。花火が終われば、もう旧盆です。お盆休みが終わればもう秋風です。もう夏も終わり。さみしいですね。しつこいか。ほんと、夏嫌い。この1週間など、何していたかわかりません。いえ、毎日、今日は仕事が確かに進んだ、と確認しつつ寝るわけですが。やる気のないままこなしてると達成感もない。
 
 などとぐだっているところへ、昨日は新聞に知らない詩人が。これを本日は、マイフェイボリットシングでご紹介。題にしちゃうと検索にでちゃうので、題はぼかし。
 
 
     『中国の大半を通り抜けてあなたを寝に行く』

   (前略)
 
   私は弾丸雨飛の中をくぐってあなたを寝に行く
   私は無数の暗夜を一つの黎明に押し込んであなたを寝に行く
   無数の私が疾走し一人の私になってあなたを寝に行く

   むろん私も何匹かの蝶々に惑わされ岐路に迷いこんだことがある
   いくつかの讃美を春だと勘違いし
   横店と似た村を故郷と思ったことがある

   しかしそれらは
   すべて私があなたを寝に行く理由である

               (余秀華)


 「中国の大半を移動しないと、愛する伴侶と夜を共にすることすら出来ない民工(出稼ぎ労働者)の苦悩を歌ったものだ。」そうです。「前略」なのは、訳がないため。
 これはよい。
 インチキなコトバ遊びとの格差はどうだ!
      やはり全世界的に、現代の詩は女性優位か?

 言葉が日本語的でないのは、原文が自動詞を他動詞にしてるそうです。
 訳が張競さんていう人、詩人でないのがちょっと残念。忠実な訳をうまく日本語にしてるとは思うのですが。
 
 せめて最後は、(原文は文字化けるかも)
   「而它们
   都是我去睡你必不可少的理由」

   「そしてそれらが
    すべて私があなたを寝に行く理由なのだ」
 くらいで。
 「である」の翻訳調はいいけれど、それ、邪道ですよね。

 ついでにもひとつ。


     『ある脱穀場の麦』

   長らく見続けた夢は雲から墜落し
   生きている黄金色の中に落ちた

   父はもう一度麦たちをひっくり返した
   内面の湿気は日差しに晒さなければならない
   こうして麦たちはようやくカビの生えない冬に手が届くようになった
   ひっくり返してから、父は一粒の麦を拾い
   神経を集中して噛み砕いた             
   すると地上一面に月光が流れ出した         

   もしこの脱穀場の麦たちのなかで泳ぐならば
   必ずや身体の枝葉末節と
   抒情のなかのあらゆる形容詞を洗い流すであろう
   心配なのは私のさほど硬くない骨は
   このような黄金色に耐えられないことだ


 なかなかすごいしょ。
 張さんかな。ただ、8行目いやじゃない?
    「用心一咬
     便流出了一地月光」
 というの。
 どうでしょう、
    「ゆっくりと一噛みする
     流れ出る 地一面の月光」
 くらいで。

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写真のうまさ、あるいは好み

2015-06-20 11:25:48 | コーヒーブレイク
 こんにちは。涼しい日が続き、順調に自前仕事中。南九州方面の方はお疲れさまです。
 先週は、ずっと昔の仕事仲間で下田に遊びに行きました。わたしは観光にはまったく興味がなくて、人間がいないならせめて山の中に熊でもトカゲでもいたらそっちのほうが魅力的なのですが、これもお付き合い。で、海中水族館というところへいってイルカショーなんか見ました、ら、そこのトレーナーのおねえさん(に遠くから見える)人が見習いのようなんですがなんとも一生懸命に作業動作してて。もっと手を抜いたらいいのにねえ。やっぱイルカは低級だな、これがオランウータンやゴリラなら、「ねえ、いいから力抜きなよ」、といってくれるに違いない。ああゆうO型な一生懸命さは胸がヒリヒリ痛みます。
 
 本日は新聞には何もないのでyahooを見たら、『横畠裕介内閣法制局長官が集団的自衛権の行使容認を、、、フグに例え、、、、「フグには毒があるので全部食べればあたるが、肝を外せば食べられる」と述べた』そうな。いい人なんじゃないかね。立場のぎりぎりのところで抵抗しているように聞こえる。大事なことです。人間、生活のためでも、誇りを忘れたらおしまい。
 
 で、きょうは写真ね。
 記述の息抜きに図書館でN川さんという写真家の山の写真の本を借りてきました。当時写真家歴数年とのことですが、これがなんで下手なのかなあ、と思案。ずいぶん失礼だね。
 ホンマタカシのような写真で、じゃあどこが違うといわれても困る。説明が困るだけですが。
 世の中、山女子という人がいて、ハイキングブログに記録写真を載せているのですが、これがうまい。ぜんぜん芸術的じゃないですが、本質的にうまい。ただの記録写真じゃんといわれても、これも困る。
 
 そこで話は変わるようですが、2、3日前、新聞に、大岡信という詩評論家と(もちろん自称詩人ね、じゃ悪口か。すぐれた美学者、でどうかしら)谷川俊太郎とがテーマになってて、噴飯。たしかに稀代のコトバ職人の二人。
 で、位置づけをすると、X軸に「自分の心」、Y軸に「ことば」で十文字をつくるでしょ。(ごめん、初め逆にした)。上方向と右方向がプラスね。そうすると、彼らは左上の象限の上部に住む、というわけ。
 中原中也なんかは右下の象限ね。
 
 で、同様に、こんどは写真。
 X軸に「自分の心」、Y軸に「自分の世界」で十文字をつくるわけだ。(ごめん、ここも初め逆にした)。上方向と右方向がプラスね。
そうすると、天才アラーキーやホンマタカシ、さらに山女子氏は左上の象限の上部に住む。で、このおねえさんは右手線上というわけ。
 やっぱ、写真てさあ、目の前の世界を写すんじゃなくてさあ、自分が思い込んでいる世界を写すもんだとおもうんだよね。記念写真のような目の前の風景じゃなくて。それこそ、デフォルメだよね。「そんな世界、世の中にないしょ」、っちゅうのが、それがたとえ風景写真でも、写真家の写真の世界だと思うんだけど。N川さんという人は、自分の心に合わせた風景を取っちゃうのね。これが似て非なる作業。
 とはいえ、中也が本物の詩人であるように、このN川という人も、写真的にどうかはおいて、写っている世界はなかなかのものです。だから借りたんですけどね。問題は、普遍性の少なさだけ。「自分の」世界を作り出したほうが、かえって感動が普遍的になる。コトバじゃないから、好みが違うとコミュニケーションがつらいやね。

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1年後また、ありがとうございました

2015-03-31 20:12:09 | コーヒーブレイク
 本日は、1年前から1年経って、また退職日です、といってもアルバイト。
 普段のお客様に説明すると、まあ、嘱託退職日かな。

 職場の皆様には、去年と場所は違うのですが、本年も心温かく送り出していただき、ありがとうございました。
 おかげさまで、2番煎じのようですが、あたかも夢のようにうかれて過ぎた昨年の就業依頼受信前の1週間のように、もう一度、退職後の人生をゆっくり検討できる気がします。

 基本、こちらへは見えられないはずの方々ではありますが、いつの日かのために、こちらで御礼申し上げます。

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