リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会学的独裁状態と経済学的独裁

2011-11-28 21:29:14 | 断片
 こんばんは。本日は極力無駄を省き、ってくだらないから。
 そ、本日の話題は大阪の橋本。
 ここの皆様はどうせ私が橋本をヒル以下の唾棄すべきものと思っているのはご存知でしょうから、ただの悪口はしません。ためになる断片=酔っ払いの言。(ところでヒルを口に入れたらどうなんでしょうか、、、ゲロゲロ)

 もちろん大阪の人々が面白がって投票したのは分かりますが、その元はただ面白いわけじゃありません。橋本ならなんかやるだろうということですね。
 その橋本の言の元が、独裁です。「俺のやりたいようにやりたいんだよお」 ガキですな。

 さて、東京のような大都会ですと、みんな自分のやりたいようにやりたいので、23区も市の権限を持ちたい。独立市構想ですね。
 一方、田舎の町の非権力住民はなんとか権力をもちたいので、橋本のような独裁構想が力を持つ。「みなさん、市なんてくだらない。この1票であなたも都民になれるんですよ!」
 それがこうした選挙結果になります。

 よいことですね。
 今まで力のない民衆がいると、それに力を与えるかのごときアジテーターがいれば、このアジテーターが勝つんですな。
 それが政治主義者の革命理論というものです。
 いわく、社会学的独裁状態ですな。
 
 さて、それが、じゃあ、ヒトラーのような独裁になるかといえば、残念ながらそうではない。市長になんかなんの権限もない。
 もともと、橋本と言う男は府庁で権力を振るおうと思ったら、府庁官僚が難しいことを言って邪魔はするわ、実際時がたてばくやしいことに府庁官僚の言ったとおりでマスコミに謝らなきゃいけないわ、でストレスがたまって、じゃあ市なら俺のわがままが通るだろう、と思ったわけですな。もちろん興味もないのでそいつの心など知りませんが。
 ま、ともかく、市長になんか権限もなく、その結果どうなるかって、言い訳作ってすぐやめるだけですな。

 ところがヒトラーはそうではない。だいたい筋が逆だ。
 大阪市長になって、やりたいようにやって(権力はなくとも金をばら撒けば、あるいは唯一の権力の人事権を行使すれば、人気取りくらいできる)、借金赤字爆発の寸前でやめて大阪をほおって国政に打って出る。
 ここで、大阪の実績をもとに法螺吹いて、100人レベルの国会議員を率いて、
 さてそこです。
 独裁者は、利益誘導をしなければならない。資本家との連携です。
 これなくして本当の独裁はできない。独裁権力者は、武力か経済力で、望ましくはその両方で、 下位の人民を篭絡しなければならない。
 社会学的な独裁評論など、その「物的基礎」(この4字熟語愛用のセクトがいますな。わかってんのかい? とも思いますが)がなければなにも意味がない。

 というわけで、お立会い、大阪市民の誇る道化師橋本のお題、2番煎じの「副」都民劇、始まり始まりぃ。

(P.S. しかし、酔いが覚めて考えれば、降旗先生(前回記事)にタコとかいって、橋本に悪口をいわないのは、変ではないか、とも思います。こちらのほうが100倍は人民の敵ですから(マイナスに掛算表示はできない?)。
 と、思って考えれば、悪口って、人をバカにすることではなく、人に「お前なんか嫌いだ、あっちいけ、けがらわしい」 と発言することだ、と思いませんか?
 と定義すれば、別に頭がタコだといったからといって、降旗先生の悪口をいったことにはならない、ということで安心しました。降旗先生はばかでも決して嫌いではありません。といっても、中教審筑波に北大からへいこら移ったというのは、嫌っても当然ですけどね)
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宇野後継者の国家認識

2011-11-27 17:37:08 | その他
 こんばんは。東京地方、高尾山もようやく紅葉でしょうか。みなさま、今年の秋は満喫されましたか?

 ここんとこ、窓口の狭いテーマが続いておりますが、本日はさらに狭く、宇野弘蔵後継学派の国家認識について。
 う~~ん、狭い。

 狭くて困るのが、ネットに関連話題がなくて、コピペができないことで。あほな論題のため、くだらない時間を費やさなければ。
 ま、それで、元が
降旗節雄、生きているマルクス、文眞堂、1993.
 これは図書館じゃなくて早稲田の古本屋で買いました。こんなものでさえ身近にないってことは、若い人はほんとに何も知らないで大きくなっているのね。

 降旗という人は、宇野後継者では数少ない左翼。もっとも学者なので平気で筑波大学教授になってしまう。くせに筑波大学の悪口を書いたり、なのに筑波大学学部長になったりする。理解不明な人間。
 でも宇野理論については一番忠実だな、と思っていたところの
本書、第14章。これによると

 (1)(宇野の弟子の)大内力の「国家独占資本主義論」というのは有名な理論なのですが、宇野弘蔵がこれについて、”大内君のは金融資本の政策を実現する国家ばかりで、一個の社会体制としての資本主義を維持する国家という視点がない” といったそうで。
 おお、さすがに宇野弘蔵ではないか、ほんとにそんなこといったのかな。と私は思いましたが、 大内力は、それに反論して”そんなもん不可分だろう”、といったそうですが。

 (2)そこで、降旗氏の登場です。彼氏がいうには、”宇野の体系にはもともとそういう国家への2視点があった”そうで、”本論でそれを明らかにしよう”、というわけですな。
 ふんふん、それで、と興味津々で読む私。
 で降旗いわく
 国家には”『資本国家』(もっと広く『階級国家』)と、『共同体国家』(大内教授の表現では『体制国家』)がある” てなもんでして。以下、見るまでもなく略。
 はい、うっちゃり。降旗氏の勝ちぃ。私の負けぇ。

 勝手に問題を変えんじゃないよ。
 どこをどうしたら『共同体国家』なんてもんが出てくんだよ。 
 (理由はエンゲルスとマルクスがいってるから、というだけ。宇野弘蔵には罪はありません。) 
 しかも、なんで共同体国家が「一個の社会体制としての国家」と同じ意味なんだよ。
 
 タコ。
 
 国家には、階級国家「として」、体制全部をつかさどる側面(本体)と、その近代-現代的形態である”資本主義国家”という側面とがあるんだよ。”資本主義国家”だよ、みたまんま、資本主義は形容語だよ。体制国家=階級国家。資本国家は、国家の側面(国家の「色」)。
 なお、本章は、とば口以外には宇野は出てきません。みな降旗一人の論です。
 
 もう降旗という人も死んでしまい、誰も知らなくなるからいいだろう、と思われるかもしれませんが、残念ながら、某セクト専属のこぶし書房が(ずいぶんと物分りが良くなって)降旗の本までだしてまして。で、ここの大内力の評価は(大内のも出している)「宇野三段階論を引き継いだ国家独占主本主義論」ですからね。ここはもともと政治主導主義ですから、大内と発想が同じなのですね。宇野弘蔵本人はどこへいってしまったのか。
 というわけで、そのうち、こういうのが宇野の説だとか言われる事態も起きそうで、ひとこと注意しておかなければいけないな、と思い書いておきました。
 
 国家というのは、階級的権力者が歴史的に武力で支配しているものなのですよ。資本主義国家とは、その権力者が商品経済社会に経済的生理性の経済的基礎をおいている、という状態なのです。
 だから、存立が危うくなりそうな資本の動きに国家が介入する現実としての帝国主義段階は、原理論から離れざるを得ない。そして、この動きには共同体国家などどこにも出てこない。
 これは宇野弘蔵の考え方でもあると思ってますけどね。皆さまも降旗の解説などなくとも、宇野の著作をそう思って読んでみたら納得されることでしょう。
 
 
 で、これだけだと、あまりにも対象が狭くてね。
 では、ためになるブログ。これも対象が狭いけど、追加。これで2倍。
「格闘技も第一人者という人がいろいろいるが、実戦で誰が本当に強いか?」
 答えは
「危ない人」
 どんな技があろうと、勝つのはこれ。
 たとえば、昭和以降の天才剣道家・諸名人は、街中では近藤勇には勝てない。
 
 なんていうのは、おととい借りて読んだのが
 芦原英典・小島一志、「芦原英幸伝 我が父、その魂」、新潮社、2008.
 ケンカ空手十段。ネットで理屈のたたないケチづけが多々あるが、この人は強い。もっとも、私が昔知ってた暴力団員にも似ているが(だから怖い)。(本人はヤクザ嫌いの、その点立派な方だった(故人)ようです。誤解なきよう)
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分析哲学における歴史と社会

2011-11-20 21:09:43 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。秋ですねえ。東京地方、紅葉は山部以外はあと少々日にちがかかるか。ほんと、日本は良い国。なんて、いまどきに大都市部で育った人は思わないかもしれませんね、四季なんて街路樹だけだもんね。
 
 さて、ここんとこ、次回予定の本の構成で、歴史ものはどうかな、と参考したところ
 
野家啓一、歴史を哲学する、岩波書店、2007.
 (本のキャプション抄:有限な人間は神であるかのように唯一の正しい歴史を語ることはできません。私たちは過去を想い起したり、その痕跡などから歴史に迫ろうとします。そのとき「歴史的事実」とされるものは何なのか。「客観的事実とは何か」について探究する科学哲学・分析哲学…)

 どうも職場近くの図書館は、学問の原理モノの理解がゼロに近い。って私に合わない、というだけですが。こんなのしかない。いや、この著者の方はそこそこ良心的に勉学を続けられた方のようで、けなすつもりはありませんが。

 といいながらけなすようですが、こうゆう哲学系の話は、現象学的社会学と一緒で、ぜんぜん社会まで行き着かないんですね。
 なにしろ、世の中というものを考える際に、厳密に言ってしまえば、個人には完全な認識なんてありゃあしない。さらにいっそう、人間が集合体として何かを思っているなんてことはありはしない。
 で、「ありゃあしない」なら『あることだけ話そう』、というのが現象学者です。
 社会学でも歴史学でもそんな井戸端会議の学問ならだれも人生懸けてやりゃあしないさ。誰もやらなきゃ評論哲学者は職を失う、という関係ですけどね。
 いくら歴史学が社会科学ではないからといって、歴史学をやっている人は社会に関する学問だからやっているということを忘れて評論しては何も分かりませんね。

 ま、それで、彼がゆうに、歴史学は歴史的な出来事を人が取捨選択して意味あるものにして物語ることとそれを受けとめる人間とで作る現象だと。
 これでは歴史学者は乗りませんよね。
 まあ、歴史学者の話は、歴史的な出来事を、自分の価値観と洞察で説明する行いだから、分析すればそういわれてもしょうがない。
 しかし、歴史学者の仕事の半分は歴史的出来事を誰にでも納得しうるべく論理的に整序することであり、もう半分は「洞察は最小限に止めようとする」努力だ、ということでしょう。歴史学者がなんとか出来事の科学に近づこうとする努力を、その努力の代わりに宗教にたよる人々の歴史と同じにされてはたまらない。

 というようなことは歴史学の話なんで私には他人事なのですが、こういう人に限って、唯物史観を軽んずる。
 そりゃマルクスには、この場でも縷縷述べているように、多大な欠陥がありますが、そんなものはそれ以前の段階からみれば取るに足らない欠陥です。そりゃマルクスの後継者には、マルクスに輪を三重にかけた欠陥がありますが、そんなものは他の学者に比べたら取るにたらない欠陥です、自分のオリジナル部分を取ればマルクスに戻るんだから。
 で、彼氏(著者)もよせばいいのに冒頭、唯物史観(直接には批判しやすい実際くだらない4段階論を書いてはありますが) の悪口を言うんですな。
 なんもわからんで。
 
 さてはて、唯物史観というのは歴史学ではないのだよ。 それは社会の仕組みの表現なのだ。
 歴史を叙述しているように見えるが、それは歴史的出来事を述べているのではなく、社会の原理を述べているのだ。歴史ではなく、社会なのだよ。社会の変動要素を、(この場合科学的にではなく単なる洞察で)定立してみたからそれに沿って述べている社会の歴史的変動姿態なのだよ。
 ひつこくゆうようだが、歴史ではなく、社会をどう見るか、の問題なのだ。
 
 という問いの変更をかけて、ようやくこの分析哲学・科学哲学(者)も、歴史学者や社会科学者と同じレベルに上れる、と思うんだよね。
 
 これ重要。誰か関係者さん、みたらじいさんに教えてあげて。いい人みたいだから。
 もうおじちゃんも先が少ないんで、相手が年上とはいえ低レベルと付き合う気はないの。
 こちとら、この本だって、通勤帰りの電車でしか読めないんだからね。
 
 ちゃんと梯子をかけてあげたから上ってきてください。


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社会主義と農業

2011-11-13 21:57:08 | 断片
 こんばんは、お元気ですか、私は元気です。
   って、う~~む、仕事でいまいち面白くありませんが。

 とはいえ昨日だかおとといだか、PPMを思い出して(Peter, Paul and Maryという米フォークグループ)、そうかそんなのいたよな、なんて検索したyoutube。一発目で「If I Had a Hammer」
 http://www.youtube.com/watch?v=cD3yLWmA4TI
 ま、いいか、鼻歌で付き合おうか、で動かしたyoutubeですが、愕然。
 
 鼻歌どころが、涙が滂沱(ぼうだ)と溢れ、って北杜夫先生ですね。
   いや私などは、北杜夫など青春(の初め)に「青春記」を読むという幸せなめぐり合わせで。
 じゃなくて、PPM。 どうせ今日は。断片=酔言に決まってる日だし。
 
 PPMなんて、知ってる人は知っている中道穏健派のハーモニーで、たとえば「花はどこへ行った」なんて甘ったれた。 キングストントリオを聞かせたい、のに、キングストンなんてwikipediaにもありゃしない。
 ともかく、甘いだけのコーラスグループのはずが、すごい。

 マリー・トラヴァース  26歳

 青春も終わり、確立した人格の自信に支えられ、これがあたしの素(す)よ、と体当たり。
 すごい。
 人間、そうでなくっちゃ。
 
    それでさ、おばさん期過ぎたら、同じ歌、歌いに、舞台に立たないでね。
       って亡くなられたそうで。なんともはや。

 さて、前置きが長すぎましたが、大内力らの続き。

 彼らのような主体性の微塵もない講壇社会主義者は、世間の賞賛が消えれば、何も社会主義に付き合う必要もないから、前掲書物で言いたいことを言っております。
 いわく、「農業は、社会主義では統御できないであろう」、とか。
 先生方、「社会主義なんだから集団主義で、それじゃ農業生産性なんか、がた減りだろう」といっております。
 集団主義だなどと誰が決めたんだ?
 
 ともと農業者本体には、生産物獲得の不安定さ以外には疎外要因がないのです。
 この間、江戸、明治期の農民発言をチェックしましたが、農民は、資本主義的刺激がない限りは、食っていければ満足なのです。
 それをなんでわざわざ集団化する必要があるんだ?
 いいや、ない。
 その点だけを取り上げれば、みんな農民になればいいぐらいだ。(注:歴史的具体的には、農村生活は疎外だらけです、昔より百倍良くなった今でさえ。)

 しかし、歴史はそうではない。自然は人間の力を超えている。農業者を脅かすのは、生産の不安定さであり、この生産の不安定さの原因が、自然的結果であり、また、武力的争奪なのだ。
 また、一方では、工業生産品の個人的・社会的魅力は、農業生産物の行為業者への供出をやませることはない。
 かくて、既に先進社会では集団化の必要などなく、農業者の全体社会への組み込みがなされている、あるいは後進国ではこれからなされる、ものなのだ。
  
 
 で、以下は単なる説明。
 さて、どうしよう、案外論点がありまして書くと長くなって、どこが酔言か、みたいな。、、、
 
 1 まず、農業は、資本主義には、相容れないことになってます。それは
 (1)いまになっていえば、「農業の生産様式では、資本家は利潤を上げにくく、資本主義で囲い込まないまま資本主義社会を運営することとなる。そこでの自営農は、すでに商品経済下ではあるが、資本主義的生産関係にはない。」てな話になりますが、
 ま、それはそれで。
 
 (2)ただ、まずその手前で、土地を直接生産者が自由にしているのが、資本主義では気に入らないことにもなっています。この土地を、自由な売り買いの対象にしなければならないとかね。

 しかし、そんなことはない。

 農業本体が資本主義と相容れないのは、消費する剰余物資を、主意的にしか生産しない、という点にあります。
 要するに、自給自足で食っていける。
 資本家は彼らの労働者に食わせるために安いメシが欲しいわけですが、農業者はそんなものを売ってやる必要はない。
 うらやましいご身分ですな。
 しかし、資本主義以前ではそうだった。小作人は農奴の類だから違いますが、要するに農業者とは地主大地主ですから。西欧じゃ御貴族様のことです。
 日本じゃ、下役人の庄屋や名主だからたいしたことはないが、それでも世が世なれば貴族院ですから。
 というわけで、資本主義の成立には、この地主階級の階級分断が必要なのです。
 そのために長い商品経済離陸期が不可欠だった。
 
 2 一方、支配者です。
 
 (1)だいたい、資本主義とは、相手が農業者でも同様なのですが、支配者が、商人の生産物ないし承認のもうけでないと満足の行く消費生活が送れなくなった場合、資本主義は、武力で貫徹された支配主義社会を乗っ取ることができるわけです。
 資本主義とは本来そういう社会なので、農業者がいうことをきくのも当然なのです。
 もちろん世界は広い、というか資本主義は1国では生きられませんので、他国を巻き添えにします。
 
 (2)そうでない社会では、支配者は、資本家からではなく、その他の消費物資供給者から消費物資を得ればいいので、まるまると国家権力を使える体制、すなわち国家中央集権計画経済にニアリイーコールの国家経済体制をとりますし、それ以外の手はありません。
 ある独立「革命」国家が国家経済体制ではないということは、それ自体、植民宗主国の傀儡政権であるといいうことで(そうでなければ、どこから消費物資を得るんですか? 「傀儡」かどうかは主観ですから。いえ、私の主観ではなく、消費物資から遠のけられた、直轄支配層以外の支配層・庶民からそうみえる、ということです)、実はどれほども違いはしませんが、それなりに、少々は違うところです、わざわざ展開する気もないだけで。

 要するに、後進国は社会主義が多い、それは社会主義の勝利だ、とか、そんなものではない。
 たんに資本主義的消費物資供給世界体制の必然だ、ということですね。

 こうした後半の「説明」を一つもわきまえていない諸大学教授=アカデミスト全員は、だからただのバカだというのです。

   うん、ちょっと酔言らしくなりましたね。
      ほんとに、どうしてバカばかり、、、、
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社会主義と直接民主制

2011-11-05 22:42:37 | 断片
 こんばんは。まったりと時間が過ぎいつのまにか平日夜時間の今日休日。

 更新は明日にしようと思っていたところ、あにはからんや、本日のテレビ。
 「家人がつけた」衛星放送、
 題名:震災復興コンサート
 出演:さだまさし、南こうせつ、相川七瀬、夏川りみ、河村隆一

 うーーむ、みんな、なかなかよかったぞ。
 こうせつは観なかったけれど、あと4人、さすがだね。
 こういう、人間の道を進もうという意欲のある人間たちは、もとの性格がどうでも、けちのつけようがない。
 たとえさだまさしのように、しもぶくれになろうと、マーチンじゃなくてヤマハギターを使おうと、それで表現活動が進むならそれ以上のなにが必要だ、みたいなもんですね。
(「関白宣言」は疑いを持たせたけれど「関白失脚」を続けて言えるA型チックな反省度は認める価値があるし)

 さておかげさまで、書き出してしまった「ためになるブログ」、なんかためになることをいわなければ。
 
 その1 TPP。
 民主党が拝金主義者だって以前展開しましたっけかね。価値的理想がなければカネに向かうしかない、って1年前下書きした覚えはあるけれど、探しても下書きはもうなくて。別に書いても皆様のためにならないのでほっといたと思うけど。
 というわけで、TPP反対デモに自民党が出たって。
 まったくさ。お茶もみかんも売れる必要がない反面、米が自給できなくなったら独立国じゃないぜ。
 自民党は右翼だから知ってるだろうが、彼らは真珠湾攻撃は、日本の石油輸入をアメリカが止めたからだ、などといっているのだぜ。
 仮にそうだとして、石油でヒステリー起こすぐらいなのに、米の輸入止められたらこの国はどうするんだね、明日食う飯もなく。発狂する以外なかろう。といって発狂しないならアメリカの属国さ。
 
 バカかね。民主党。 
 そんなもの原子力発電以前の問題だよ。
 
 の2 机上の民主主義亡霊。
 私の好きな宇野弘蔵の、しかしバカ弟子たち。
 せんだって、「しかと」弟子の馬場宏二(「資本主義は必然的に壊れるけどそれが何か」主義者)が死んだというより亡くなったところですが(そんなに嫌いではない。他の奴ほど悪人じゃないから)、昨今読んだ「現代社会主義の可能性」なる居並ぶ転向右翼の著、2人ほど例外はいますか。
 現代社会主義の可能性 、大内力編、東京大学出版会、1975.
 ともかく大御所の大内力が転向してるからどうしようもない。ほんと講談じゃない講壇左翼とはよくいったものだ。
 
 彼等によると、人民はみんな政治の意思決定に参加しないといけないんだね。だから、先進国で社会主義や共産主義は作れないんだって。村の直接集会なんて都市社会ではできないからだと。
 べつに西部邁がいうならスルーしてやるが、60年間左翼を通した(親が親なので生まれた時から)、大内力だぜ。タコ。
 
 考えてみーや。どんな直接政治参加だって、自分と自分の家族が餓死する決議があって、「はいそうですか、民主主義ですね、従いましょう」、なんていう人間の集合体があるかよ(注;1人ならありうる)。
 いいやない。そんなものは高給取りの親の代からの東大教授の頭の中にしかない。
 
 民主主義というものは、資本主義の中ではギリシアのデモクラシーの話ではないのだ。それが資本主義勃興期、王侯貴族からの人民の解放の思想として活性化できたから生まれ変わった価値にすぎないのだ。
 
 本当はそうではない。
 われわれ人民は、民主主義であろうがなかろうが、あくまで明日の生理的安全を確保し、さらに今日の賞賛と優越を確保する政体であればいいのだ。
 しかし、国家と資本主義が強力(ごうりき)を握っている資本主義においてはそれはならず、また、国家が強力を握るだろう社会主義一般でもそれはならない。
 そうではなくて、たとえ政体が直接議会をとらずとも、社会主義等を超えた「ある種の」体制で、人民個人の生理的安全と、人民間での生活の中での賞賛と優越がクリアされればそれでよいのだ。
 違うかね?
 人は政治の直接制で何を得たいのかね?
 何かを得たい人間がいるとすれば、その対象は権力だろ?
 アナーキストは、その前提の存在する権力をなくせといっているのだ。
 
 の3 大内力等の農業認識
 
 は、来週。
 
 よみづらくて失礼したでしょう、これも断片=酔言カテゴリーにいれておきましょうか。


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