リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

手短かで

2019-06-29 16:50:09 | 断片
 こんにちは。東京地方、昨日は30度ながらすごく蒸し暑くウンザリでした。前しばらく35度とか言ってた時期より不快。やっぱ湿気はだめですねえ。
 今日は涼しいのですが、昨日昔の同僚と呑み過ぎて二日酔い気味。終電にも間に合わず40分くらい歩いたらなんか擦りむき傷もあったりして、もう年齢制限だねえ。
 
 というわけで、今日は短く。
 ほんとうなら前回分の注釈があったりするのですが、もう「しつこい」というレベルになりますのでやめました。
 
 さて、この前の収監逃亡者、コンビニの防犯カメラの鮮明さにびっくり。10年くらい前に防犯画像を見ることが良くありましたが、10メガのデジカメ(知らないか)と10年前の携帯くらい違う。これじゃあ逃げられない。そう思って考えると、なかなか警察から逃げるのは大変。防犯カメラで家まで辿れそう。それでいいのかねえ、、、by 左翼。
 
 『今治タオル組合、NHK「実習生ブラック労働」が下請けであることを明らかに「責任を重く受け止め』
 「縫製工場における外国人技能実習生の劣悪な労働環境を伝えた、NHKのドキュメンタリー番組『ノーナレ』。放送後、ネット上での「特定」がきっかけとなり、番組で指摘された企業とは別の今治タオルの企業に、中傷が相次いでいる。さらに、「今治タオル不買」というハッシュタグも現れた。」(BuzzFeed Japan)
 こういう正義を装った匿名ネット集団の諸君らは嫌いだけれど、しかしそれも「消費者民主主義」かね。商売人に対しては警察よりは強そうだ。消費者民主主義というのも、昔、転向右翼が自分はまだ左翼のつもりで流行らせたコトバだけど、今検索したら十分その無意味さが暴露されているようでよろしい。もっともそのコトバのまま大衆の性向評論に使われるんじゃ、やはり初めから存在しなければ良かった言葉だね。
 いや、ま、ともかく、誤解も事実認知として、それが誤解だったと立証される局面の手前までは、真実の意義を持つ。社会にはその手前の段階で変えられる制度もある、というわけで。最低限、その世代の社会的スタンスは規定できるし。私の理論では使わないけどね。
 
 では二日酔いのため、今日はこの辺で。
 今時分は、夕暮れが一番遅い日。夏至じゃなくてね。夕暮れが遅い分、もう夜明けがだんだん遅くなってきている流れ。この時刻、まだ日本全国「こんにちは」でよさそうです。
 
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後進国の緩衝的役割

2019-06-21 13:54:19 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。みなさまお元気? おや今日は金曜日? じつはもう暑さが迫っているので(=勉強がさらにできなくなるので)、この土・日の用を無くして空き日にして、次回作の制作過程を1ランク上げないと、とちょっと危機感を覚えたところ。
 
 このごろは梅雨の中休みだそうで、休むほど雲は働いたのかとも思いますが、関東山沿いではそこそこ降ってダム貯水量は不満なさそうです。香川が足りなそうですね。まあ雨が降らなければ暮らすには便利で、お勤めの方の土・日の洗濯も1日かければ乾きそうだし。今どきって、晴れさえすれば、東北地方や1千メートル級地域は景色が良いはずだし。ただ、毎日のことですが雷にご注意。
   
 さて、ニュース。
 大戸屋、値上げで危機だって。昼定食900円越えたら山手線内ならよくても郊外じゃ出さ(せ)ねえよ。なんか、勘違いだねえ。人気商売は一人親方じゃだめだよ。
 
 ついで、中嶋よしふみとかいうフィナンシャルプラナーが小池書記長を罵倒してました。「麻生は70歳以上だから年金を貰っている」といったのが間違いとか。というよりそもそも国会議員は年金制度を何も分かっていない、とまでいっている。本人のツイッターに残っているようです。しかし残念ながら、本人も分かっていないようです。支給停止要件に歳費が加わったのは平成27年からで、平成27年現在75歳の麻生は厚生年金を貰っていたのは間違いない。しかも中嶋氏が思っているような支給停止には「収入は何でも」入るわけではないのです。歳費とボーナスです。(被保険者であれば総報酬月額相当額。当該制度以外の収入、たとえば家賃収入がいくらあろうが問題はない)。その他にも自己申請制がどうのとかといっているが悪口にもならない。そんな話は前提過ぎて「注釈」というものだ。フィナンシャルプラナーとかって付き合いはありませんが、こんな知識でいいのね、と初めて知りました。
 この程度の知識で、麻生ならいざ知らず、専門家の小池を罵倒するなど、身の程知らずもいいところ。もっとも、制度改正を失念した小池氏もサルが木から落ちたわけで、一生勉強だね。「年金制度(も税制も社会保障制度も)をいじってはだめ。人民が分からない制度は支配者のごまかし」という私の主張が分かったことでしょう。

 というわけで普通の方にはまた来週。
 今日はとくに相手を選ぶ本題です。自分でも面白くないし、今日も長い。一度長くすると、テーマが派生しちゃうんでまずいですね。

 前回の『まだ世界には矛盾のしわ寄せができる後進国が控えているので「気をつければ済む」』という話。わかんないよね。で、面白くなくても追加しときます。
 もちろんこんなことは社会学ではありませんが、なにせ世間に労働価値論の評論がありませんので、マルキストのために枯れ木も山で書いといてあげようかというのもあります。

 なぜ国家が複数あると矛盾がしわ寄せできるか。
 第1に、もちろん過剰生産物資のハケ口です。(これにより企業は生産を続けられる)
 第2に、その分の自国生産労働者の賃金受領による国内大衆の購買力の保全です。(これにより大衆は自分は買わなくとも別の「もっと良いもの」を買える)
 第3に、もちろん、過剰な資本は他国へ振り向けられ、貸し付けられ、自国で爆発することを妨げる、というのもあります。(これにより企業は儲け仕事を続けられる)
 第4に、平均的な労働時間に縛られることがなくなります。生産工程の一部に他国が関われば、その工程部分の賃金に当たる費用は、ブラックボックスで結果だけの問題ですから。(これにより企業は儲け、国内労働者の賃金は下がらない)
 第5に、他国の傀儡企業は、その規模が小さいうちは、それをあえて存続させる必要はない。下請け、孫請けの尻尾きりと同じですね。(これにより国内企業は安全である)
 第6に、儲けだけの回収をするための企業では(資本投下の利益だけでよければ)、その儲けをあえて生産の高度化に振り向ける必要はない場合も多い。国内企業と同一の競争土俵にあるわけではないからです。イコール、カネは役員の私有財産化してもよい、ということです。(これにより役員報酬は取り放題である) 
 第7に、儲けは、実際には金融資産として、金融資産の処理をする業態に撒布されます。金融会社等の社員等の生活賃金となるわけです。(銀行、証券、保険、不動産へめぐりめぐっていき、当該関連労働者も潤う。ここが潤うと、労働市場の市場性により、本来の製造業賃金の平均的な労働時間単価に潤いの影響を与える。ふつうはその結果製造業商品の価格が上がるわけだが、後進国が控えていると、この買戻しメカニズムによる生産価格上昇が機能する必要が減少する。値段を上げれば後進国商品に流れるだけであり、そもそも第3次産業人口が多ければ、その他の要因のほうが大きい)。 
 第8に、その他のサービス産業は、これへの購買投入が生活の最低線として制度化され、労働者賃金の最低限を構成することにより、自国の産業の一角を確保することになります。(原理的には賃金は人民が総体として買う被生産物資の生産価格と同額である。) 
 第9に、こうして先進国製造業は高度技術産業以外はつぶれ、労働者の自由時間は、食物娯楽とIT娯楽、さらに物資の入手それ自体に伴う娯楽に限られていく。「面白ければいい」「すぐ手に入んなきゃいやだ」。こうして第3次産業へのみ向かう産業の進展は、運輸流通業への労働力の移転を生じ、さらにこの労働者構成を高める。
 
 というわけで先週の近経諸君との「賭け」問題が出てきます。買い戻し賃金で有効需要を喚起できますか? いいやできはしない。今の有効需要喚起は、帝国主義体制において、余った金をどう賃金に押し戻せるか、という虚しい試みです。もちろん基本、売れればいい、買えればいい、の話だから、買えてるうちは何とかなる、これが現在。もっとも買える先が安いユニクロ、コンビニスイーツでは心もとないけれど、まあそういうことです。ではそこから先に有効需要が、というよりは「購買のカネ」が作れるか。近経の方たちは資本家の払う先を当てにしてるんでしょうが、このとおり、資本家のカネの行く先はない。近経の方が寄付もしてくれないので圧倒的多数の人民は「相変わらず」、あるいは今まで運の良かった方は「思いもよらず」、「需要」なるものを実現するカネなどない。この賭けは私の勝ちです。
 
 さて、この先進国事情に対して、裏の後進国の事情を見てみましょう。先進国がおかげさまで「儲けて」いる一方、後進国はどうなっているか。 
 ここで本稿の意図は理屈の整序ですので、「後進国」とは、武力的強制や収奪を前提とした植民地のことではありません。経済学者のほとんど全部が口をそろえて言う「交換」により取引が成立していることになっている諸「後進国」のことです。
 
1 「経済的」側面
 人民の労働の賃金価格は、労働者人民が購入せざるを得ない必需・準必需品的消費物の総生産価値と同じです。したがって、後進国の労働者賃金は低く抑えることができ、かつ、企業競争の中でそこに決まらざるを得ません。後進国は先進国を儲けさせて、自分たちは貧困に喘いでいる、という評価も出ます。しかし、一方、「それは公平な貿易の結果だ」といえないことでもありません。「商品取引は適法な交換に過ぎない」というわけです。
 
2 支配・被支配の側面 
 しかし、それに対しては世界の前提があります。この「労働者人民」は、当該国民国家の「国民」である、という前提であり、その事実に対する先進国人民のシステム的無視が含まれている、ということです。
 「システム的無視」とは何か。マルキストは知らないというでしょうが、商品取引とはただの交換ではなく「商品」取引を貫徹する「支配と被支配」の事実だ、ということへのほっかむりです。
 人民の味方の顔をしたマルキストが知らない事実はこうです。
 1国内では、貧困な人民一般、だれもが生活に最低の消費物資分の賃金しかもらえない人民一般に対して、自由に労働者の剰余労働分を散財できる資本家と支配者がいる。
 と同様に、そんな一国民国家内の人民一般、平等な人民一般に対して、「自由に」人民の労働力を浪費する輩が、先進国の資本家であり支配者なのであり、さらに同時に、先進国人民なのである。これです。
 理屈はそうでしょ? 儲けを後進国からの儲けを自分らのために使っちゃうんだから。儲けとは、後進国賃金労働者の労働の、返してやらない結果です。
 そもそも資本主義社会とは経済システムのことではないのです。政治支配者が資本主義システムを支配に組み込んだ社会のことなのです。したがって、たとえ人民一般にとっての主要な経済システムが自給自足経済であろうと、後進国は資本主義社会なのです。
 
3 倫理的側面
 ただし、「それはまずい。先進国は後進国を搾取している」と言って、マルキストがいくら資本家を非難したところで、って今じゃ誰も非難などしませんが、それは論拠のない感傷に過ぎません。そんな論理は元からない、彼らにとって搾取は資本家だけがするものです。
 さらにまた、我々のような論拠を持ったところで、行為の動機は資本家と後進国支配者と後進国人民に止まることを、誤解がないように注意しておかなければなりません。我々先進国人民が責任を持つことではないのです。一部口先だけの「左翼」評論家は「搾取のお陰をこうむる我々の責任だ」といいたがるものですが、そんなやつがちょっとでも責任を負った姿など見たことがありません。せいざい自分のカネになる評論書きと、アリバイ的なデモ参加のみです。そんなアリバイデモで何が変わるでしょうか、何も変わりません。それより、「俺は責任を取るから後進国人民の被搾取生産物は消費しない」といって地べたに座り込んだらどうでしょうか。お望みどおりすぐ死ぬでしょう。
 われわれ人民は、「資本主義は優秀だから腐朽などしない」などとブルジョワのプロパガンダの真似をして評論を売るのでない限り、自己の場所において闘えばよいし、それしかできないのです。昔、黒寛がよく言ったとおりです。
 だいたい、そんな客観主義の「倫理」では、悪いのはそうした労働者になる後進国人民になってしまいます。村人が先進国商品を拒否し、彼らが共同体拘束を嫌がらずおとなしく村共同体に止まれば、困るのは資本家と後進国支配者だけで、他には誰も困りはしないのだから。いまどきのブルジョワ諸君なら、プチブル歴史家と一緒に、「彼らもメリットを享受したのだ」と合唱する、あるいは既にしているでしょう。まあそれは、歴史を要望どおりに意味づける歴史家の特権だともいえます。
 しかし、行為理論に基づく主体的な社会科学はそうではない。世界は行為者の自己の自由を求める行為の企てにより、進むべくして進む。そんなものを客観的に価値づける根拠などはありません。世界は客観的にではなく、主体的に、価値づけられるのです。後進国人民は、先進国の最下層の人民と同様に生きている。プチブル以上のカネ的自由を持つ人民個人には、どちらもほおっておけない存在です。しかして、この世界は変わらなければなりません。価値とはそういう主体的立場しか持たぬものであり、倫理とは、自己のその価値の下に行為することなのです。「そんなことに何の意味がある?」? そんなことは他人に聞いてもしょうがない。それが「自己の持つ価値」ということ、それ自体なのです。

 こうして日本はもう最終完成型であり、日本に残るのは、先進国と後進国の労働力価値の平準化に伴う不可視の労働力価値の減であり、それをまともに食らう人民と、あくまで労働力価値を懐に入れたい資本家層との貧富の2極化しかないのです。
 
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労働価値論のメリット

2019-06-15 11:13:40 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。景色はもう夏ですね。違うのは気温が追いついてないことだけ。これはとても大事ですが。
 夏だと海水浴に行きたがる気になる子供がうらやましい。砂は暑いし水は冷たいし着替えは面倒だし。で海行ってもすることなしじゃねえ。
 
 さて前回はとっても長くなってしまったので反省して短く。って今日出かけるからもありますが。
 まずは、役に立つかなブログ。電話機の「シャープを押してください」って録音が言うやつのボタン、ハッシュタグのハッシュなんだって、知らなかった。常識? わたしそもそもハッシュタグって知らないから。
 両者は縦2本と横2本の斜め度が逆なんだって。後半、by朝日新聞。シャープもフラットも元々はBの変形なんだって。byウィキ。で、ハッシュは元々はlb(リブラ=重さのポンド)に横線を引いたものなんだって。byウィキ。でも読み方はシャープでいいんだって。byウィキ。わけわからん。ま、役には立たないか。
 あんまりウィキペディア使うとwikiの「カンパしろコール」が無視できなくなるね。
 
 で、ニュースは、例の「老後2000万円報告書」。まあ年金制度がどうのというのは代議士連中に任すとして、わからないのがこの2000万円を生むための資産形成だの運用だのという、報告書擁護論者の言う「報告書の本体」。ま、本体は「なくなった」そうなので、なくなったという言い訳もすごいが、ともかく、なんでそんな社会が不景気になる話をするのかねえ。「年金が足りないんじゃ今から貯金しなきゃ」って、庶民にそれ以外の対応ってある? そんなの消費税を2%上げる比じゃない景気減速だぜ。投資ったって、そもそも企業に使い途がありゃあこんな低金利のはずないんだから。使い途もない奴らに投資したって良くて株価が上がるだけじゃないか。それもネズミ講と一緒。投資が続かなければ会社が潰れてパー。結局、一時上昇で儲かる既存の株式富豪と証券会社の手先以外の何者でもない。こんな報告書など消えてよい。経済の麻生としても望むところだろう、こいつの他人のせいにする癖は軽蔑の対象だが。ついでに、擁護者がおためごかしに「報告書は投資者の認知症対策を訴えてもいる」とか書いてあるが、老いぼれに投資を訴えているのは同業者じゃねえか。こういうのは擁護じゃなくて自己弁護だね。
 本来の経済施策は、庶民には年齢を問わず貯金はさせない。使わせる。それには収入を回収して介護や失業の貯金を不要にさせる施策をして、絶対使ってくれる低所得者に回す以外にはない。ついでに使わない資本家たちから取ることも忘れないよう。
 
 これじゃ赤旗と同じか?
 ネット赤旗の見出しを見る限り、赤旗にこんな立派なことは書いていないはずだが、まあ明日書かれても違和感はないか。みんなが好きな北欧施策だし。
 じゃあ赤旗の書かないことを書いておきましょう。
 「そんなに資本を過剰にさせると、資本主義は一発で沈没するぞ、気をつけろよ」。
 というわけで本題。シンプルに経済の仕組みを見てみましょう。
 労働は商品を作り、商品の総価格は、それに費やした不変資本(機械・原料)と、賃金による購入額と、次の投資の原資額とで基礎づけられます。
 わかんない? マルキストはそうは言わないからね。
 ここで生産価格と市場価格は同じとして、商品1万個の総価格が1億円だとしますと、これは不変資本の労働提供者がもらうべき8千個の8千万円と、直接の労働者の賃金による取り返しが1千個で、額は1千万円と、次の投資のための(可変資本と不変資本の)1千万円です、資本家の消費額もあるけど。さてこの場合商品1個は1万円です。それ以上だと当該労働者は賃金で取り戻せません。理屈上は残ったこの1千個分は未来の労働者が購買によって払うのです、在庫を5年後に売り終わるとしてもいい。さてこのとき、投資額の1千万円が使われずにしぼんで消えたら、この事情はどうなるでしょうか? 売れる予定の1千万は客に買う財力がないので売れません。買えない将来の労働者1千人は生活に困り、さらに投資のない企業は競争によりつぶれます。
 ここで、実際には1千万の内300万は課長や部長の取り分で、これが貯金され銀行を通して投資に回るわけですが、使われないなら同じことです。
 
 さて、この1千万が幸か不幸か使われ、さらに生産力が上がったとしましょう。
 商品1万個の総価格が生産力増加で5000万円だとしますと、これは不変資本の労働提供者がもらうべき2千個の1千万円と、直接の労働者の賃金による取り返しが労働者は少なくて済むので500人で1人2個で、額は500万円と、次の投資のための(可変資本と不変資本の)3500万円です、資本家の消費額もあるけど。さてこのとき、投資額の3500万円が使われずにしぼんで消えたら、この事情はどうなるでしょうか? 売れる予定の7000個は売れません。この売れない7000個分の商品は、人が買えずに困るかというと、そもそもそんなに要りはしない。企業は商品を捨てるだけ。さらに投資もできない企業は競争によりつぶれます。そのうえ、もう商品は要らないとはいえ、3500万円は次の不変資本がもらえるはずの金額です。そこで働いてもらえるはずの賃金がもらえなければ不変資本の従事労働者は何も買うことができません。
 
 だんだん状況が悪化する。これを生産と消費の矛盾といいます。やっとマルキストと一致するコトバが出ました。
 
 とはいえずっと上に書いた言葉の最後の「気をつけろ」というのは資本主義に同情したわけではなく、まだ世界には矛盾のしわ寄せができる後進国が控えているので「気をつければ済む」というわけです。実際には生産と消費の矛盾を諸国民経済の分化が支えるので、恐慌は発現しないのです(P.S.翌週追加説明しました)。それでは、これが済まなくなったらどうすればいいでしょうか? 上に戻れば簡単。売ろうとするから矛盾が生ずる。そのまま労働者に渡せば丸く収まる。これ以上要らなければ作らなければいいし、作るなら投資すればよい、というバカバカしい話で。資本なんて人々が使う分だけあればよい。こういう人間の意思の経済を「社会主義経済」というわけですが、国家計画の放棄と一緒に、世間じゃあそんな経済運営技術の研鑽も忘れ果てているようで。
 
 さあて、で、何がいいたいかといえば、こんな簡単な理屈も、賃金と利潤と資本「金」しか語彙のない近経諸君にはわかりはしないだろうということで。資本の取り分が多いとなぜ資本主義が崩壊するか、そんなこと近経ないし若人の習う「現代経済学」では何も説明できやしない。情けないもんだね、と私は思うぞ。なんちゅうと、「いや有効需要を喚起すれば」とか、どうせまるっきりの机上の空論。みんな買わねえから現実に困ってんだろうが。「それでも買えば」って、ば~~か。どこのパラノイアが老後資金もなしに狭い1Kの部屋を洋服で埋めるのか。金がなきゃあそんな偏執もできゃあしないんだよ。あるいは別の奢侈品を生産すればいいとか、そんな奢侈品は金がなきゃ買えないんだよ。当該生産労働者は自分の相当賃金で誰も買わない奢侈品を買って飢えて死ねってか。空論は止めて「そういうことは起きません、賭けますか?」とか率直にいうならそれはそれ、どっちが現実か、だからね、審判は歴史に任せようじゃないか。
 話は戻って、労働価値論から言えば、私のようなアダム・スミス主義者(せいぜいリカード)的な認識があればこんなことは書けるので、マルクスが偉いわけではありません、不変資本・可変資本はマルクスの用語ですが。まずはみんなイデオロギーは越えて、アダム・スミスに戻るのがよろしいのでは?
 なんていうとそらみたことかと喜ぶだけの不勉強の輩もいるので、資本の動きを可視的に文字化したのはマルクスだけの功績だ、と付け加えておきましょう。それ以上の意義を期待してはいけない、と言っているだけで。さらにそれを広めて社会学徒にも読ませてくれたのは、マルキストの功績です。なんか今日の朝日新聞にも些細な事実を棒大に表現してマルクスを貶めている歴史屋がいたし。さらに、恐慌論を除く宇野弘蔵はなんといっても本質的で偉い。
 
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「今日も歩まざるを得ない」歴史

2019-06-08 13:56:09 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、梅雨ですってねえ。まだ若い皆様におかれましては、「いっそ梅雨」というのも楽しいものです、のはずです。ハナショウブ、アジサイというのは梅雨しか咲きませんし、そんなのって少なくとも東京方面は楽しむに事欠きません、じゃなくて地域欠きません。いつか書いた気もするけど、私は鎌倉、明月院ではなく、東慶寺の花菖蒲、紫陽花が好きでした、と過去形。もう何十年も行ってないからね。お寺もまだあるか知らないけど、奥の墓も梅雨は暗くてよし。
 ところで、ふと、思い出して検索しても、全容が分からない絵描き歌。
 『六月六日の参観日、雨がざあざあふってきて、あられもポツポツふってきて、たてたて よこよこまるかいてちょん、、、、あっというまに たこにゅうどう』
 「、、、」になんかはいると思うのだけれど、各種各様、みんな勝手なことかいててわからない。勝手ったって、地域差でしょうけど。といっていまどきはテレビで習うようで。
 
 さて、今朝のyahoo巻頭写真は気持ち良さそうに空を飛ぶトキ。
 「環境省は7日、佐渡トキ保護センターの野生復帰ステーション(新潟県佐渡市)から、国の特別天然記念物トキを計20羽(雄14羽、雌6羽)放鳥し、全羽がケージから飛び立ったと発表した。」(時事通信)。
 「カモメに飛ぶことを教えた猫」って知ってる? ルイス・セプルベダという人の本。川崎では中学校で劇団四季の劇としてみるもよう。
 書き人不明の要約、「不運なことに油まみれの波に飲まれてしまったカモメのケンガーは、最後の力を振り絞り卵を産み、太った黒ねこゾルバにその命を託す。ゾルバは知合の猫たち、そして人間の力を借り、(そのヒナの)フォルトゥナータに飛び方を教えることに成功する」。絵本のように気持ちが良くてよろしい。
 〆のゾルバの言葉。「飛ぶことができるのは、心の底からそうしたいと願ったものが、全力で挑戦した時だけだ」、それも自分たち周囲の者の役割を否定する非論理的な言葉だけどね、まあ絵本というのはそういうまとめ方をするものです。絵本好きな人にはお奨め。

 ニュース。「自民党の小泉進次郎衆院議員が6日付の自身のブログで、党から厳重注意処分を受けたことを明らかにした。小泉氏は6日の衆院本会議で全会一致で可決された丸山穂高衆院議員に対する「糾弾決議」の採決時に退席。「みんなで糾弾するということに自分の中では腑(ふ)に落ちなかった」と記者団に述べ、国会の対応を批判して…」(朝日新聞)
 えらいじゃんか。一人だけ退席。というより一人だけしかいないってとこが議員も地に落ちてるね。付和雷同、尻馬に乗る、長いものに巻かれる、こんなもの政治的意見以前の態度だね。
 まあ、「小泉も他人事じゃないだろう」という意見もあるようですが、ともかく、その他大勢が情けない。それじゃあ、「正しくない」なら地獄に落ちよと責め立てるネットいじめっ子集団と、どこが違うのか。 
 ま、本題が長いので、終わり。
 
 本題は、借りた本が興味深かったので。「立ちすくむ歴史」喜安朗/成田龍一/岩崎稔/の鼎談、変な題だねえ、題付けの理由が本には見つからないが。
 内容は、歴史学者の歴史観の推移について随想を語り合うだけなのでどうでもいいのですが、結論もなしにしゃべられてもいらいらするだけなので、ここで正しい立場を披露しておこうと。
 
 まずは、「事実」とは何か。
 「事実」などというものは、そもそも論からすれば、五感に表象された環境事象の変更に過ぎない。つまり、本来は何か確固とした物体や具体物ではない。これをいかに「事実」と呼ばれるものにするかは、すでに、当該受け取り手と、受け取り手の表現を聞いた他者との、ある意味観念的な、問題である。
 が、だからといってこれを「言語論的転回」などというのは、恣意的な評論作業あるいは遊戯に過ぎない。この社会関係で重要なのは、使った言葉ではなく、指示された環境のパーツであり、その環境のパーツへの過去の両行為者の事実認知であるからである。

 たとえば街角で赤ん坊を抱っこした女が胸から血を流して倒れた、女はもう息をしていない、これが日本語でいう「事実」である。しかし、この直前に銃弾が飛んできて女の胸に当たっているとき、これを生活者であれば、女は殺された、と言う。さらに銃弾の銃が兵士によって持たれていたとき、女は兵士によって殺された、というだろう。さて、これは事実だろうか? 実は兵士の意図としては女の後ろで吠える狂犬を狙ったのだ。しかし、女が兵士に殺された、という話自体は、世に語り継がれる「事実」である。
 ここで女が兵士に殺されたことが事実かどうか、は、歴史にとっては問題ではない。それが「言葉」でしかないから問題ではないのでなく、すでに歴史はこの認知の下に先に進んでいるからである。人間の関係というものはそうやって進んでいく。「そもそもそれは事実か」は、歴史ではなく、兵士という個別の人間存在の問題であり、彼の家族や友人の問題である「にすぎない」。つまり、個人の誇りや刑法や軍法会議の問題でしかない。
 こうして、語られる歴史としての事実はそもそもは「事実」などではないけれども、生活者としては、その語られる事実が「真実の事実」として扱われて不都合はないのである。、
 
 さて、ところで、ここで進んでいく歴史は時系列としての歴史にすぎない。時系列としての歴史によって語られることは、その次に生ずる出来事の「納得」である。この女はガザの住民であり、兵士はユダヤ人であったとき、人はこの事件の後に起こったガザ地区の暴動を納得することができる。こうした性格の「歴史」が時系列の歴史であり、基本的に歴史家が「その提示も歴史学の大きな部分だ。」「いやそれこそが歴史学だ。」と認め合うことだろう。
 さて、それらが歴史学である。そして決して社会科学ではない。
 そもそも歴史は、歴史家が思っているような、自分が自分が書いた本で表わしたかったようなものではない。それは、人間にとって、時間的に過去と認識された一連の事象ということ以外にはない。それは一連以上のものではなく、その一連に行為論上の意味があるかどうかがその行為者の事実認知に関わるだけである。もちろん、「全歴史を通した意識」などはあるはずもない。「その長い数個なり数十個なりの連なる歴史の結果が集約された結論的事実」以外には、行為論上で意味をもてないからである。
 歴史学が人間の科学と融合するのは、それが他の現実に有効な因果連関の提示に貢献するときである。すなわち、大塚久雄(がとった態度)である。別に大塚久雄が正しいといっているわけではない。その方針が科学と歴史学の融合だといっているだけである。正しくなければ反論すればよいし、それが可能なのが科学のとりえである。

 「なんだそんなことか、お前の持論は聞き飽きたぜ、これで気が済んだか」と思われたら、それではまだまだ聞き足りてない。
 ここまでは歴史学であって歴史ではない。世間は寝言を言ってふんぞり返っている老若の歴史学者ばかりであるが、歴史は決して歴史学者のものではない。生きている人間のものである。歴史とは我々であり、死んだ我々の友であり、あるいは敵のことなのだ、まあたまには親の場合もあろうが。
 生きている人間は生きている限りにおいて、自己の歴史を持つ。まあ上述の学者たちは遊んでいたから、そんな基本的な70年世代の認識を持っていないだろうが。まあ、若人の皆さんに伝わらないうちに、都合の悪い過去を振り捨ててエリート街道へ走った学生諸君らが悪いともいえる。ともかくそれは「立ちすくんで」などいられない、今日と明日の「我が事」なのだ。「今日も歩まざるを得ない」歴史なのである。
 元に戻って、この「歴史」の構成素は、時系列の出来事ではない。
 それは出来事の意義であり、出来事を担った人々が持った意味であり、それを我が物とした行為主体の存在意味である。
 出来事を担った人々の意味は時系列で叙述できる。しかし、出来事の意義は科学でなければ解けない、それなしに人は歴史を我が事とすることはできない。過去の出来事を因果連関で把握しそれを未来への過程として捉える、しかして自己の次の瞬間の行為の未来を因果連関の過程として捉え直す。この二重の因果連関を把握するのが、社会科学なのである。

 ここで念のため初心の方に語っておきますと、世の中に「無色透明の事実」などというものはないのと同様、科学の意味や意義は、常に行為主体の志向性と共にあるのです。無色透明の意義などというものはない。ある研究に意味がある限り、その研究には行為主体の明日歩むはずの志向性が伴っているのです。
 当然、歴史とは、研究者(としての個人)が対象から掘り出し、切り出して、再構成したものです。この研究対象の運命は、営為を行う人間が人間である限り免れることがない。研究者(としての個人)は対象の性質を選び提出することで、歴史を自分と自分に連なる他者のために構築する、それ以外に道はないのです。
 と、ここまで言えば隈の著作の読者には、「そういやこいつの本はそうだ」と思ってもらえるでしょうが、次作品はもう少し強調して提出しようかと思うところであります。
 結局、まともな学徒が提出する作品は、一生をかけて螺旋的に同じところを回るしかない、と思われます。武市健人にしても西田幾多郎にしても宇野弘蔵にしても。
 
 (P.S.世の中には「歴史的な過去」と「実用的な過去」の区分け、みたいな話があるんだって(ヘイドン・ホワイト)? そんな文学者と並べられてもおぞましいので一言言っておきますと、それは事実の否定による科学の否定であり、プロパガンダの称揚による科学の抹殺です。歴史家たる者がそんな戯言に踊らされるとは世も末ですね。書物は流行に乗って売れりゃあいいのか? なお、川崎市の当該書はずっと借りられてるんで読んでいない、本橋哲也(東京経済大学教員)氏の書評よりの感想。ところでこの氏の書評も混乱している。「「真実」の呪縛から歴史を「抑圧された他者」の領域へと開くのである。」だと、冗談じゃあねえよ。真実の呪縛ってなんだよ。人間が生きることは真実の問題じゃあねえよ。真実は真実。構成が歴史家の都合で変わるだけ。いかにウソに見えようと構成素は真実。かたや、本橋氏には「他者」であろう私やアポリジニの生は、真実であろうが虚偽であろうが余計なお世話だ。それは一つしかない私たち自身という行為主体の譲り渡せない生なのだ。ってこれじゃわかんねか。われわれ被抑圧者は他人様に哀れんで取り上げてもらう必要などこれっぱかりもないのだよ。私もアポリジニも仲間と共に生きている。そのわれわれを自分の歴史学に組み込みたいのなら、それは歴史学者その自己の問題(でしかないもの)なのだ。10年前だってやれば勝手にできたのだ。まあ、本物の歴史学者はわかっている、つまらないことだが。)


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想像的社会史歴史学への感想

2019-06-01 13:11:25 | 歴史への視角
 こんにちは。ようやく暑さも収まり、今日なんかはちょうどいい気候です。ずっと曇りですが、暑くもなく都会のイベント周りなんかにはよさそう。まあ田舎は青空でないとね、新緑も終わり加減、よくいえば「緑も深まった今日この頃」というか。
 
 さてニュースは、「シャンシャン返還、来年12月に=中国側と協議、1年半延期-小池都知事」(時事通信)だとか。思春期くらいまではママと一緒にいたらいいのさ。ほんと、シャンシャンちゃんは太っても、いつも楽しそうにしてていいなあ。この笑顔が凍るような目には合わせたくないやね。
 
 他ある? みんな同じ感想しか出るはずもない可哀想なニュースばかり。そんな感想を言ったって昨日は戻ってきやしない。
 といえば、わけわかんないマスコミみたいなやつがいるって。川崎殺傷事件、「一人で死ね」とツイッターで当たり前の直反応をしたら、お説教だって? 直反応のツイッターの世界で出るはずもない異論が出ること自体、待ち構えてたとしか思えないやね。とにかく何か他人に言いたいんだよね。言いたきゃふつうに仲間内で言ってりゃいいじゃねえか、偉そうに。わたしはお友だちなど数少ないけど、みんななんか言える仲間っていないのか? それじゃ寂しいね、私以外。
 
 とゆうわけで、本日も本の感想。
 矢木明夫という古い人がいて、「身分の社会史」という本を出しているのですが、何しろ集館性図書館体制?は閉架書架と一緒で、予約で取り寄せないと中身が分からない。で取り寄せて見てみたら呆れまいことか、身分は自然的条件に由来する、などと書かれている。具体的要件には性別と年齢としか書いていないところがアナウンサーですね。さて、ではアナウンス原稿は誰の? と思ったら、それが私の敬する中村吉治先生のもよう(マイクロソフトは「治」も出せない。もうATOKは伝説だね)。
 「先生」ったって習ったことはありません。習わなくてもいいの。本で教えてもらえば先生。どっかで勉強の仕方さえ覚えれば、(教授になろうとしない限り)大学も行かなくていいしさ。
 ともかく、自分でおどろいて調べました、私のバイブル、中村吉治「日本の村落共同体」。古代の章はどうせ子供のおとぎばなしなので読んだことがなかったのですが、読んでびっくり、さすがに性別と年齢とは書いてありませんが、共同体は組織だから自然に身分が生ずる、などと書いてある。ちょっとおまちなさいよ、だ。
 中村氏について言えば、結局名主にはわかりはしないし、矢木氏について言えば農村さえ知らない都会っ子なのでしょう、農村で男女と年齢で物事が動くと思ったら、それは知性以前の問題。問題は中村氏だけど、これも、(あえて思考実験で支配武力がない時代とした上でいえば、)共同体組織の問題ではなく、共同体成員の環境への対応問題であり、かつ、個別の行為主体の問題です。たとえば、この3年日照りと冷害で作物ができない、そのできない過程で自分の家に食い物がなくなったらどうするか。弱そうな家を襲って食料を強奪するしかない、といって強奪(だとリンチで殺されちゃうね。窃盗)の事実が起こった村でこれをほおって置いたらみんなが困る、さてどうするか。あるいは同じ状況で隣村のやつらが一斉に襲ってきた。さてどうするか。こうした環境での出来事とそれへの対応が、初めて規範を作るのであり、それを守る武力を作る。自分だけいい思いをしようとした者は下層「身分」を作られ入れられ、征服された隣村人も「身分」を作られ入れられる。
 仮に、思考実験上、当初がゼロ水準であれば、この環境とパーソナリティという2種の要件のみが新しい水準を作る。(本当は違います。当初の環境の中で肉体の統合力=武力が発生し終わっている。)
 さて、ここまでは理屈の問題であり、それゆえに実は知性さえあれば人間には「問題」ではない。問題はここから先で、そうした状況をどう表現すれば今生きる人間の明日に貢献しうるか、ということなのです。
 そんなもの、「自然的環境条件だよ」や「人間のサガでどうしようもないね」ではほんとうにどうしようもないのだ。やる気のない講壇アナウンサーや名主の子はそれでよいかもしれないが、生活者はそれで済ませるわけにはいかない。それがわれわれの人生なのです。
 さて、この事態は、「生産共同体にはそれ自身で矛盾がある」と規定して初めて、明日の人間社会の作成に貢献できるのです。「生産共同体は、ほおっておけば必ず起きる環境的危機において同じ仲間を自分の犠牲にする状況が生じてしまう。構成員の人柄によっては起きないかもしれないが、起きると思ったほうが良い。この自己内矛盾の存在によって、『だから』、事前に○○の環境を整えなければならない」として初めて、それ以降の人間の幸せが生ずるのです。百歩譲って、性別や年齢で身分が生ずるというおとぎばなしが正しいのなら、性別や年齢が身分を生じさせない共同体包括理論を出す、それが学者の務めです。

 さて先に進んで、中村氏の古代想像はいい加減で、突然、組織上でしか発生していないはずの共同体内の「身分階層」なるものを中央古代政権が乗っ取ってしまうのですが、もちろん、これは誤りで、その時点では既に武力的地域支配が、「中央」ならず、近隣10kmの「クニ」で起こっているはずのものです。が、今日のテーマではないし、くだらないので無視します。
 ほんといままで古代の章を読まないでよかった。世の中には立派な人がいないと生きていて虚しい。年取ると他人の化けの皮がどんどんはがれてくる。私のエンゲルスも無理やり褒めているようなものですが。お互いさまだ? それが事実でも、それもこれも虚しい話です。

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