おや。予定にないオタク論議、前々回の続き。(実は難易度の高い展開のとば口なので、さて、どこまで書いていいものやら、というところ。これは独り言)
前々回、意味世界論を社会科学として実用性がない、という意味でにべもなく否定したところです。ま、普通はそれだけでいいのですが、いや俺はこの言い方が好き、という方もいらっしゃるでしょう。
というわけで、好きは好きで結構だけど、以下の点を理論から落とすのはいけないよ、というのが、第2点です。
まずは、改めて第1の点について申し上げれば、「意味世界」などという言葉は、論者が世界をそう名づけただけに過ぎない言葉です。そこにはなんの規定性も入る余地はない。あるとすれば、「人間が思えばいつでも変われる世界」というニュアンスだけですが、残念ながら人間の外界世界はそういうものではない。
じゃあお前には何か規定性を持つ用語があるのか、といえば「事実認知」です。
なんでもネット情報によれば、盛山氏はこんな例を挙げているとのこと。
すなわち、「物理的実在」の解釈図式を「一次理論」と呼び、「ある石とコンクリートの固まりを「国会議事堂」とみな、、、すことによって物理的実在に社会的意味を与えるのは、人々の一次理論である」と述べたそうです(注)。
そうですか、お立会い?
国会議事堂は「あれが国会議事堂といって、中で選ばれた人たちが政治について議論するところだよ」と教えられたから、自分の中で「あの建物は国会議事堂」なんじゃないですか? 物理的実在? なんのことやら。ただの建物の姿をした何かですよ。わたしゃコンクリートかどうかも知りはしない。解釈? 生まれてン十年、どのビルを見たって絶対解釈なんかしてないって。そう事実(であるかのごときもの)として教えられ「認知したから」国会議事堂なんじゃないですか?
事実認知だから、その事実認知が揺るげば国会議事堂の存在も揺らぐ。この隈の理論では事実認知に関わる要因が全て次の人間の行為の規定性になっています。そしてこの事実認知に関わる要素を分析することで初めて社会についての科学が始まるのです。「隈の理論」なんて大げさに言わなくとも庶民は誰でもそう思ってんじゃん? なにが意味世界なのさ。
さて、本題。
ところで、事実認知は個人の持ち物ですが、意味世界って誰が持っているんでしょうね。個人本人? 社会? 個人と社会が共有する意味世界?
実はどれでも同じなんでしょ? 個人が持ち、同時に社会構成員が持つ意味世界として社会を把握しよう。それでよろしい? (盛山、2011.でも書いてないから分からない)
というわけで、しかし、そんな学者だけが持つ静観的な「意味」に社会科学的意義はない。なくても自分の用語として使うのは御自由だが、そのままではまずい。
なぜか。それではある行為主体が、他と共有されない固有の意味世界を持つこと、そしてその固有の意味世界に基づく行為が重要な行為要因となる瞬間があること、この点が消えてしまうからです。これが第2の点です。
個人の持つ事実認知概念とは、いわば、外界の要素とそれらの連関の認知という事実以外に、それを使用する個人の内容性を内に、括弧書きで、秘めているのです。これをあえて括弧から出せば、生理性や賞賛・優越を行為者が「考慮する」素材たる事実認知に対して(ここまでは「意味世界」という用語で呼べるのかね)、さらにそれに加えて、事実認知の記憶に(ことあるごとに)裏付けられ、一時的ではなくなった「感情」の存在が露わになる。
社会現象としては、この事情が他の人間集合への統合的「対峙」において、統合された感情(憎しみ親しみ)として現実化する一瞬がある、ということです。
言葉にすれば、「農奴たちは地主に憎悪を抱き、農奴解放後も富農への強烈な反感を内に秘めていた。これにより貧農の反乱が起きたのだ」みたいなことです。
それなら「貧農たちの意味世界は富農の意味世界とは違った。」って書く? それじゃあ、まるでインクと紙の無駄。その次にどの点が違ったかが要るでしょ? だったら前言は始めから要らないって。無意味って言う意味はお分かりでしょうか。さらにいえば私は、意味世界論者は感情要因は意味世界に入れていない、と疑っているのだよね、知らんけどね。
(注)村上直樹「制度・意味世界・言語」、三重大学人文学部文化学科研究紀要(2001-03-25)より。
(後日)その3,というのもあります。2021.2.27 .
前々回、意味世界論を社会科学として実用性がない、という意味でにべもなく否定したところです。ま、普通はそれだけでいいのですが、いや俺はこの言い方が好き、という方もいらっしゃるでしょう。
というわけで、好きは好きで結構だけど、以下の点を理論から落とすのはいけないよ、というのが、第2点です。
まずは、改めて第1の点について申し上げれば、「意味世界」などという言葉は、論者が世界をそう名づけただけに過ぎない言葉です。そこにはなんの規定性も入る余地はない。あるとすれば、「人間が思えばいつでも変われる世界」というニュアンスだけですが、残念ながら人間の外界世界はそういうものではない。
じゃあお前には何か規定性を持つ用語があるのか、といえば「事実認知」です。
なんでもネット情報によれば、盛山氏はこんな例を挙げているとのこと。
すなわち、「物理的実在」の解釈図式を「一次理論」と呼び、「ある石とコンクリートの固まりを「国会議事堂」とみな、、、すことによって物理的実在に社会的意味を与えるのは、人々の一次理論である」と述べたそうです(注)。
そうですか、お立会い?
国会議事堂は「あれが国会議事堂といって、中で選ばれた人たちが政治について議論するところだよ」と教えられたから、自分の中で「あの建物は国会議事堂」なんじゃないですか? 物理的実在? なんのことやら。ただの建物の姿をした何かですよ。わたしゃコンクリートかどうかも知りはしない。解釈? 生まれてン十年、どのビルを見たって絶対解釈なんかしてないって。そう事実(であるかのごときもの)として教えられ「認知したから」国会議事堂なんじゃないですか?
事実認知だから、その事実認知が揺るげば国会議事堂の存在も揺らぐ。この隈の理論では事実認知に関わる要因が全て次の人間の行為の規定性になっています。そしてこの事実認知に関わる要素を分析することで初めて社会についての科学が始まるのです。「隈の理論」なんて大げさに言わなくとも庶民は誰でもそう思ってんじゃん? なにが意味世界なのさ。
さて、本題。
ところで、事実認知は個人の持ち物ですが、意味世界って誰が持っているんでしょうね。個人本人? 社会? 個人と社会が共有する意味世界?
実はどれでも同じなんでしょ? 個人が持ち、同時に社会構成員が持つ意味世界として社会を把握しよう。それでよろしい? (盛山、2011.でも書いてないから分からない)
というわけで、しかし、そんな学者だけが持つ静観的な「意味」に社会科学的意義はない。なくても自分の用語として使うのは御自由だが、そのままではまずい。
なぜか。それではある行為主体が、他と共有されない固有の意味世界を持つこと、そしてその固有の意味世界に基づく行為が重要な行為要因となる瞬間があること、この点が消えてしまうからです。これが第2の点です。
個人の持つ事実認知概念とは、いわば、外界の要素とそれらの連関の認知という事実以外に、それを使用する個人の内容性を内に、括弧書きで、秘めているのです。これをあえて括弧から出せば、生理性や賞賛・優越を行為者が「考慮する」素材たる事実認知に対して(ここまでは「意味世界」という用語で呼べるのかね)、さらにそれに加えて、事実認知の記憶に(ことあるごとに)裏付けられ、一時的ではなくなった「感情」の存在が露わになる。
社会現象としては、この事情が他の人間集合への統合的「対峙」において、統合された感情(憎しみ親しみ)として現実化する一瞬がある、ということです。
言葉にすれば、「農奴たちは地主に憎悪を抱き、農奴解放後も富農への強烈な反感を内に秘めていた。これにより貧農の反乱が起きたのだ」みたいなことです。
それなら「貧農たちの意味世界は富農の意味世界とは違った。」って書く? それじゃあ、まるでインクと紙の無駄。その次にどの点が違ったかが要るでしょ? だったら前言は始めから要らないって。無意味って言う意味はお分かりでしょうか。さらにいえば私は、意味世界論者は感情要因は意味世界に入れていない、と疑っているのだよね、知らんけどね。
(注)村上直樹「制度・意味世界・言語」、三重大学人文学部文化学科研究紀要(2001-03-25)より。
(後日)その3,というのもあります。2021.2.27 .