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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「意味世界」と社会学(その2)

2019-01-28 13:29:29 | 社会学の基礎概念
 おや。予定にないオタク論議、前々回の続き。(実は難易度の高い展開のとば口なので、さて、どこまで書いていいものやら、というところ。これは独り言)
 
 前々回、意味世界論を社会科学として実用性がない、という意味でにべもなく否定したところです。ま、普通はそれだけでいいのですが、いや俺はこの言い方が好き、という方もいらっしゃるでしょう。
 というわけで、好きは好きで結構だけど、以下の点を理論から落とすのはいけないよ、というのが、第2点です。
 
 まずは、改めて第1の点について申し上げれば、「意味世界」などという言葉は、論者が世界をそう名づけただけに過ぎない言葉です。そこにはなんの規定性も入る余地はない。あるとすれば、「人間が思えばいつでも変われる世界」というニュアンスだけですが、残念ながら人間の外界世界はそういうものではない。
 じゃあお前には何か規定性を持つ用語があるのか、といえば「事実認知」です。
 なんでもネット情報によれば、盛山氏はこんな例を挙げているとのこと。
 すなわち、「物理的実在」の解釈図式を「一次理論」と呼び、「ある石とコンクリートの固まりを「国会議事堂」とみな、、、すことによって物理的実在に社会的意味を与えるのは、人々の一次理論である」と述べたそうです(注)。
 そうですか、お立会い? 
 国会議事堂は「あれが国会議事堂といって、中で選ばれた人たちが政治について議論するところだよ」と教えられたから、自分の中で「あの建物は国会議事堂」なんじゃないですか? 物理的実在? なんのことやら。ただの建物の姿をした何かですよ。わたしゃコンクリートかどうかも知りはしない。解釈? 生まれてン十年、どのビルを見たって絶対解釈なんかしてないって。そう事実(であるかのごときもの)として教えられ「認知したから」国会議事堂なんじゃないですか? 
 事実認知だから、その事実認知が揺るげば国会議事堂の存在も揺らぐ。この隈の理論では事実認知に関わる要因が全て次の人間の行為の規定性になっています。そしてこの事実認知に関わる要素を分析することで初めて社会についての科学が始まるのです。「隈の理論」なんて大げさに言わなくとも庶民は誰でもそう思ってんじゃん? なにが意味世界なのさ。
 
 さて、本題。
 ところで、事実認知は個人の持ち物ですが、意味世界って誰が持っているんでしょうね。個人本人? 社会? 個人と社会が共有する意味世界?
 実はどれでも同じなんでしょ? 個人が持ち、同時に社会構成員が持つ意味世界として社会を把握しよう。それでよろしい? (盛山、2011.でも書いてないから分からない)
 というわけで、しかし、そんな学者だけが持つ静観的な「意味」に社会科学的意義はない。なくても自分の用語として使うのは御自由だが、そのままではまずい。
 なぜか。それではある行為主体が、他と共有されない固有の意味世界を持つこと、そしてその固有の意味世界に基づく行為が重要な行為要因となる瞬間があること、この点が消えてしまうからです。これが第2の点です。
 個人の持つ事実認知概念とは、いわば、外界の要素とそれらの連関の認知という事実以外に、それを使用する個人の内容性を内に、括弧書きで、秘めているのです。これをあえて括弧から出せば、生理性や賞賛・優越を行為者が「考慮する」素材たる事実認知に対して(ここまでは「意味世界」という用語で呼べるのかね)、さらにそれに加えて、事実認知の記憶に(ことあるごとに)裏付けられ、一時的ではなくなった「感情」の存在が露わになる。
 社会現象としては、この事情が他の人間集合への統合的「対峙」において、統合された感情(憎しみ親しみ)として現実化する一瞬がある、ということです。
 言葉にすれば、「農奴たちは地主に憎悪を抱き、農奴解放後も富農への強烈な反感を内に秘めていた。これにより貧農の反乱が起きたのだ」みたいなことです。
 それなら「貧農たちの意味世界は富農の意味世界とは違った。」って書く? それじゃあ、まるでインクと紙の無駄。その次にどの点が違ったかが要るでしょ? だったら前言は始めから要らないって。無意味って言う意味はお分かりでしょうか。さらにいえば私は、意味世界論者は感情要因は意味世界に入れていない、と疑っているのだよね、知らんけどね。
 

(注)村上直樹「制度・意味世界・言語」、三重大学人文学部文化学科研究紀要(2001-03-25)より。

(後日)その3,というのもあります。2021.2.27 .
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純粋的雑文

2019-01-26 16:15:36 | 断片
 こんにちは。全国で冬が荒れ狂ってるようで。こちらも空はどんよりどよどよ。(えんどコイチだっけ。内容忘れた) でも立春まであと一週間、がんばってくださいませ。
 私儀、ここんとこ毎日新しい生活課題が降ってきて困ります。それにひきかえアイデアの結実化の遅いことったら。いよいよボケが加速度かしてるでしょうか。まあ自覚症状は生活課題をこなすと嫌気がさしてやる気がでないことなんですが。

 さて、ニュースはなんかありますか? 私の目では、こまいのの羅列かなあ。
 「昨年12月の金沢市議会で自民党議員が、市職員の政党機関紙購読を問題視する発言を行い、山野之義市長が実態調査をすると約束した」(赤旗)。ありえねえ。論外なのでそれ以上書く気もしない。金沢市というのは大体論外で、コンロのカセットボンベを出すときは必ず穴をあけろというのさ、別に知りたくもないが、ネット検索ですぐ出るんでなんだこりゃと覚えている。あぶねえだろ、ばか。爆発したらどうする。いろんな市民がいるのに。

 「東京都が、大会の顔となる巨大五輪シンボルを、台場地区と八王子市の高尾山に設置する」「高尾山の山頂広場に設置予定」(日刊スポーツ)。許せん。てめえの山か。国定公園だぞ。越権行為だ。なにがシンボルだよ。憐れなことにそんな美的感覚も持ち合わせていない野郎には山登りなんて高尚な趣味はねえんだよな。

 「ポイントカード最大手の一つ「Tカード」を展開する会社が、氏名や電話番号といった会員情報のほか、購入履歴やレンタルビデオのタイトルなどを、裁判所の令状なしに捜査当局へ提供していることが20日、内部資料や捜査関係者への取材で分かった。」(共同通信)。
ファーウェイがなんだとかいってるけど、アメリカだって日本だって国家たるべき地域に住めば、どこだって一緒よ。ケチをつけるのもいいが、人民はそういう国家の原理・原則は自覚して用心しなきゃ。

 またセンター試験の季節が来ましたね。受けた人いる? ほんと人生の無駄の極致。何の役にも立ちゃしない。
 で、これから本試験とか2次試験とか受けんだよね。では本日の役に立つブログ、
 試験前の10分、決して無駄にしてはいけません。10分間参考書をめくれば十分忘れかけたことを思い出せる。まず2問分はカスるね。見たばかりの問題が出ると安心して落ち着くしね。
 でも、受験も試験受けるだけじゃ寂しいやね。せっかく都会に出て新しい人たちと出会う第一歩、試験前1時間とか、昼食時とか、帰り道とか、ここは隣の席の受験生と話してみませんかね、それが人生のエピソードというものです。
 わたしが暮れに実家から回収した資料によると、受験時2日間隣の席だったのが赤川雅和さん。お互い受かったのですが、あちらの専攻は国文で控え室は社会学の隣でも不思議なことに会ったことがない。私の方は入学式以前から大学で忙しく立ち動き(?、世の中そういうこともあります)それどこんじゃなかったしね。
 ま、ともかく赤川さん、ふるさとで校長やら短大の先生とかしてるような。ネット上ですとあの溌剌とした面影はないですが(失礼)。かすっただけの出会いですが、懐かしいし、こんな退職後のいっときにこちらの人生も膨らむというものです。
 そもそも、若人には気づけないことですが、人間の記憶はひと時を覚えるものです、が、ひと時しか覚えないものです。長い間生きてるようでも覚えているのはその類似の記憶でまとまった塊の最初のひと時だけ。新しい出会いは大切にしないとね。
 
 次いでご報告。お酒変えました、どうでもいいけど。イオンのサントリーレッド4Lだったのですが、先日イオンから消えていてしょうがないからブラックニッカクリア4Lにしたら、こっちのほうが味がある。ありすぎもしないし。安いし。3580円。夕食で飲む人にはお奨め。最も値段の差はアルコール度数の差でチャラだけど。さようならレッドさん。イオンのせいだぜ。
 でも本当はホワイトがいいなあ。店舗で売ってないしょ、4L瓶。ホワイトだとつまみなしでも飲めるんだけどねえ。
 
 で、本日はオタク論議もなし。なんか流れがあると書けるんだけどね、皆様に嫌がられてまで必要もないのに書く気もせず。来週まで追加もしないと思うなあ。
 
 p.s.今日はちょうどいいテーマで。「なおみ」さんが勝ったね、いましゃべってた。いい人だね、あと5年は、少なくとも。おいちゃんは18歳以降、あんまいい人じゃなかったし。素直に褒めちゃう。
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「意味世界」と社会学

2019-01-21 14:23:22 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。まだ早いですが、一昨日はあわてて無駄口を書き飛ばしたもんでちょっと後ろめたく。少し役に立つことを書いておこうかと思いまして追加。

 さて、本日は何かの参考図書探しで引っかかった盛山和夫「社会学とは何か」の件。といっても、読んで失望でしたので取っ掛かりだけですが。近くの図書館が工事でずっと休みだったので、題名をメモしておいただけで何を探してたかも忘れてしまった。が、おそらくテーマは、社会を人々の意味世界だと断じる論者は、何をもって社会の客観性を主張するのか、という話。不明のまま終わりました。
 盛山という人はわたしのレッテル貼りでは40年間「ただの中道右翼」で好きではありませんでしたが、この本によると左翼幻滅派で、さすがに今の自分の子供世代の社会学者の斜に構えた学問姿勢は間違いだろうとおっしゃる、まあ理解してもいい範囲内の人でした。
 学問のうちの「視座」はイデオロギーですから、自分の嫌いな人は読まないでよろしい。方法論の参考のため以外には自分の役に立ちはしない。なんてはっきり言える人はめったにいないでしょうが。
 
 で、彼によると「社会的世界を形作っている根底にあるのは、われわれの主観的な「意味世界」である。意味世界とは、観念世界といってもいい」。
 で、社会システムとは、結局、「システムを想定する諸個人の価値関心、本書の言葉で言えば、「意味世界」において存在するものである。そういう意味で、フィクションである。」とのこと。
 なんと呼ぼうが自由だが、じゃあ「フィクション」と表現する実用的意味はなんなのかをいわない。さらに結局社会とはなんなのかもいわない。それらは社会学の探求課題なんだそうだ。自分が分かんないからって、そういう言い方もなかろうに。まさか社会はフィクションだから、ないと思えばない、などとはいうまいね。
 
 「意味世界」? まあよしとしよう。では、しかしてその実体なにか? それはたとえば私の、心の移ろいゆく流れの平面的切り取りにすぎない。要するに「言葉」でしかない。私の今日の意味世界は昨日の意味世界とは明らかに異なる。社会学者氏は、その何を捉えてくれるというのか。無意味です。
 社会システムが存在する? いくらなんでもそんなことはあるまい。そうではない。デュルケームやスペンサーやパーソンズやルーマンを見慣れている人間には分からないかもしれないが、そんなシステムはどこにも存在はしない。それは、社会過程があたかもシステムのように見えるから、その現象を捉えて「システム」というだけなのだ。木材構造物が急激に酸化しているだけのことを、実用的に「火事」と呼ぶようなものだ。
 社会学が前提としあるいは探求しようというものは、第1に、行為者が外界に反応して生存するという事実であり、第2に、行為者が問題にする外界の大部分は、社会過程として別の論理で把握しうる、(その他は自然の過程である)という2点に基づいた事象なのである。後者の社会過程は、その過程を経験的に見れば、個人行為者の意思とは別の論理で動いているように見え、しかも個人行為者はその過程内を半強制的に動かざるを得ないから、これをシステムと呼ぶのである。盛山氏はこの経験性を認識されないようだが、圧倒的なサラリーマン諸氏は、外部「社会」の拘束性をそれぞれに経験的に理解されるであろう。
 
 さて、しかし、では社会学者は社会システムを詳細に分析すればいいのかといえば、そうではない。そんなものを分析するのは、せいぜい経済学者の役目である。経済学者は経済的な社会過程を分析し、人間行為者に関係のあるファクターの動きを見せてくれる。経済学のやれることはそこまでである。それらのファクターは、個々の人間行為者がそれらをどう受け止め、どう扱うか、によって初めて実用的な意味を持つ。このセンテンスを受け持つのが社会学者である。そしてこの2段階のプロセスの解明が、行為者が関わる「社会」の解明なのであり、そういいたければ行為者の持つ「意味世界」を解明するということなのである。
 明快でしょ。
 ダラダラ1冊の本を書くまでもない。ブログの1ページで済む。
 
 ついでにもう一つ教えてあげましょう。この2段階のプロセスを一つにして把握するものが、「規定性」なのである。社会科学者は「行為の理論を踏まえることにより、社会事象の規定性を明らかにする」というスローガンで、自前の研究を統括して把握・提出することができる。何一つ迷う必要はない。
 ただ探すべきは、自分の研究の社会的意義であり、すなわち自分が生きる意義なのだ。
 
 さて、どうでしょうね。私のほうが東大社会学教授より本物だと思いません?


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民主主義4件(冗談)

2019-01-19 17:08:46 | 断片
 こんにちは。東京地方、季節の歩み、さっき近くの小学校の前を通ったらぷーんと梅の匂いが。紅梅が咲いてました。明日は大寒なんですけどね。

 さて、ここんとこ頭が忙しくて。なにしろいっぺんに一つしか考えられないからしょうがない。幸か不幸かニュースもないし。
 最近の新聞報道といえば、他人の悪口ばかり。人民は政策のことなど知らなくてよい、といわんばかり。そんな報道をしている間は民主主義などないね。もちろん受け止める人民のほうがつまらん報道は必要ないというのだから民主主義などあるわけはないけれど。
 
 で、なに、厚労省の賃金統計が間違ってたって? 誰か詳細知ってる方いる? いないしょ。毎日、朝日新聞だと紙面の半ページが2枚にわたって載っているわけだけど、企業数の1/3しか調べなかったって話ばかり。よくそれだけの理由で他人をけなせるものだ。なんでその調査じゃいけないわけ? 社会学じゃ抽出調査なんか普通じゃん。全数の3割の調査ができたなんて御の字さ。それで「実際より低額になっていた」とか、実際が分かってないのになんで言えるのさ。こういっちゃなんだけど私に分からないことを他人様が読み込んでいるとは思えない。
 もちろん、なんか根拠があるんだろうが、今の問題はそうじゃない。根拠の報道もしなくてよく人の悪口がいえるな、ということです。天下の朝日新聞が言うのだから間違いはない? ったく民主主義など程遠いさ。
 
 「経団連の中西宏明会長は15日の会見で、東京電力福島第1原発事故後に停止している原発について「再稼働をどんどんやるべきだ」と述べた。原発の新設や増設も認めるべきだとの認識を示し」(共同通信)
 え?? なんのこっちゃ。中西宏明はこの正月に「国民が反対するものはつくれない。反対するものをエネルギー業者や日立といったベンダーが無理につくることは民主国家ではない(日刊ゲンダイ)」って言ってたぜ。ほう、さすが経団連とみんなが褒めてたじゃないか。
 と思ったら、そんなこというからアベに怒られたんだってさ(日刊ゲンダイ)。情けねえ。民主主義など程遠いね。

 まあ私も人の悪口ばかりではいけないので、感心したニュース。
 『ゴミ処理を眺めながら飲める東京のバー』
 「東京・武蔵野クリーンセンターに、ゴミ処理を間近で見ながらお酒を飲めるバーが期間限定でオープンしました。ゴミ処理施設は、小学校の社会科見学で訪れたことがある人もいるかもしれませんが、大人になってからはなかなか訪れる機会はありません。ちょっとシュールですが、ゴミ処理の様子を眺めながらお酒を飲んで、ゴミについて語らってみてもいいかもしれませんね。」(yahoo映像)。
 これがすごい。もろ、ゴミをぶちまけてるガラス窓越しに酒飲んでる。そりゃ意識も高まるわな。さすが武蔵野市(昔私も住んでた)。だいたい工場見学って好きな人には面白いものだけど、友達や子供と来ても面白いとかあるともっといいよね。民主主義の萌芽だね。(もっとも私の出したゴミもあんなむちゃくちゃにされるというのはゴミが可哀想だな)
 
 で、今日は借りた本の悪口を3件も書こうと思ってたのだけれど、もう夕暮れも近く、それも虚しいので取りやめ。ただのウサ晴らしではしょうがない。
 
 なんか役に立つことないかなと思いましたが、最近の発見。「多くのカレー焼きうどんレシピは間違いではないのか?」 まずいもん。
 内容は、味付けに、めんつゆ=しょうゆみりんだし、に、カレー粉小さじ1、2杯を加える、というもの。赤缶を使いましたが異様な香りがする。絶対カレー粉少なすぎ。理由は分かりませんがソース系+カレー粉小さじは普通にカレー風味だと思いますが、めんつゆ系は疑問。作ってまずくてもあなたの腕のせいではありません。
 ただし、カレーうどんでだし汁に大さじ2、3杯いれるやつはOK。立派にカレーの味がします。2人分で大さじ半分というレシピもありますが、少ないんじゃないか? まあ食べたことがないので「怪しい」くらいにしときます。
 
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命題を構成する定義と社会科学との関係(その2)

2019-01-12 11:17:07 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。勤務パーソンはもう仕事モードでしょうね。新春寒いですが、家の近くの蝋梅は咲き始めました。その隣の紅梅もちゃんとつぼみが付いてます。春なんですよ。
 と、言ったら、東京地方、雪が降ってきました。
 
 さて、前回飛び入り記事もあって気が飛んで、ブログ用のメモがほとんどない。今見直したネット赤旗の見出しもとくに問題がない。
 くだらないのにこんなのも。
 「紅白出場の「純烈」友井雄亮が謝罪 交際女性へのDV報道受けて「心から深く反省」」(文春オンライン)。これはどうでもいいのですが、独り言:(純烈? 知らん。グループの写真? ああ、知らんがこいつだな)。記事:「左から2番目が今回の主人公・友井雄亮」。独り言:(ほらあたった)。いい年になると人間なんて写真見ただけで分かる。
 
 次、「扶桑社が発行する「週刊SPA!」の昨年12月18日発売号で、性交渉をしやすい女子学生が通う大学として実名でランキングした記事をめぐり、掲載された全5大学が9日までに、ホームページ(HP)などで同社に抗議した。「女性の名誉と尊厳を著しく傷つけ、安全を脅かす」などとしている。」(朝日新聞)。そしたらもう相当大きな問題になって。
 昔は扶桑社のような赤雑誌が女性差別をするなんて常識だったけど、ね。(注:「赤雑誌」は日本語で、左翼雑誌でも赤文字系でもありません、低級な興味本位の雑誌のことです、が、もう誰も知らないか)こういう問題視が今の全ジャーナリズムが持つ「まともさ」なのか、扶桑社の類いのヨタ出版が赤雑誌を脱却してまともなジャーナリズムとみなされるようになったのか、どっちかしら。まあ扶桑社も謝ったってゆうからヨタも「マトモなジャーナリズム」のエリート意識を持ったということだね。ウヨク御用達だから一流雑誌か。
 
 まともなニュースが商業新聞で隠されているところ、B派OBブログから。まあどこでもまともな人間はいます。
 なんでも住友商事系のバナナ事業者「スミフル」(=住友フルーツ)というのがあって、フィリピンバナナの3割を仕切ってるんだって。そこで「偽装請負」による違法な雇用体制が長年継続してたから「労働者らはその問題を司法に訴え、2017年には最高裁で勝利し」たんだけど「スミフルの現地法人は最高裁の判決も無視して、 労働者らはいまだに非正規のままです。団体交渉にも応じていません。 労働者らはその不条理に怒り、ストライキの形で抗議をしました。すると突然ストライキに参加した組合員を狙って 何者かによる銃撃事件が複数起き、組合事務所・住宅が放火される事件も起きています。 そして、声を上げ続ける労働者らは事実上解雇されています。」
 なんだと。で、「アジア太平洋資料センター」とかの主催の報告会があるというのだけれど(ここは共産党を出たリベラルNPO)、そこで「本報告会は一部スウェーデン国際開発協力庁(SiDA)の助成を受けて開催いたします。」んだってさ。スウェーデン国家だって。日本は情けないね。100年経ってもエコノミックアニマル。
 (を検索してたら出てきた管理職ユニオンの設楽清嗣さんは幸嗣さんのお兄さん?)
 ま、いいんだけど、こういうニュースは日本の庶民のところには来ないよね、スウェーデンにはいくのに。今回のように意識のある方々の間で収束してしまう。なんでかねえ。こういうのは社会学専攻学徒の半分を擁するだろうマスメディア関係学で、庶民につながる道を切り開いたらいいと思うのですが。私のアタマはもう時間ないのでしないけど。下請けの力仕事なら手伝ってあげるよ。
 
 というわけで、特に問題もないので、本題はオタクの前回の続き。
 前回は人間のコトバを使用する論理学は、これを解しようとする行為者たる人間にとっては政治的イデオロギーであることをいいました。また言外に、「それなら」と人間の言葉を排して記号に当てはめたとしても、それは人間には無意味であることを匂わせましたが、これは言外ではありました。若きラッセルのような記号論理学のことです。日本語(や英語)を使うと余計な情報が伝わるので、まずは論理の形式を記号で伝えよう、とする。私もこれが本当の形式論理学だとは思いますが、しかし社会科学には無効だ、というわけです。人間の言葉を使わない人間間の情報伝達は、社会科学には無意味です。
 さて、その続きで、派生的に定義の自由さとその結果の社会科学的迷惑について。マルクス+アリストテレスと隈。
 以下は単純に馬鹿か利口かという問題に見えますが、そうでもない。
 
 さて、突然ですが、人の認識は同等でないものを同等とします。「自然界にリンゴが2個ある」なんてことはありません。「1個のリンゴAと他の1個のリンゴBが存在する」のです。しかし人間はこの2者の差を帳消しにし、しかも空間的に1センチであれ離れた別のものを重ね合わせて「同じリンゴが2個」と言い、かつ、思います。
 他方人間は、連続しているものも分断して2個ともします。空気は地球において1であるはずですが、でも「ここの空気は悪い」なんていいます。こういうケースはすべて、人間の行為の都合です。もちろんそれで多くの場合実用的ですが、しかしいつもではない。論理学を標榜するなら、この事情を形式化しなければ理論家には使えない。
 ま、そういうことで、この事情はいつも実用的ではないのです。
 問題は、その行為の都合により、本来は発見できるはずのものも一緒くたになって交合して一つにされてしまうことです。この場合、ボーっとしていると人間には発見できない。
 この合わさってしまった概念を解きほぐすのは、現実の人間の姿の凝視です。あるいは具体的には、自分の知らない状況に面している人々に関する言語情報への既存の概念の適用であり、そこに生じた、それがどんな微かなものであれ、齟齬の気づきです。それは自分で作った理論体系を脳内でいじっているだけの「理論家」には、決して気づけないものなのです。
 というわけで、例。
 人の中には、自分の右手の中のものが他人の右手の中のものと取り替えられると、これを「交換」と呼びたがる人がいます。そこには何の規定性もない。現象論です。論理学です。「1+1-1=1。両者に同じ算式が適用されるから両者は同等である」。ばかいっちゃいけない。あるいは馬鹿だからしょうがない。
 名前を言えば、マルクスが資本論「商品の等価形態」で前提として引用するアリストテレスです。『交換は同等性なしにはありえないが、同等性は較量可能性なしにはありえない』と(長谷部訳)。「そのとおりじゃないか」って? 誰がそれを「交換」て決めたんだよお。てめえで決めておいて「それしかありえない」だのと、だから馬鹿だというんだ。
 社会科学はそうではありません。なぜ自分と他人とで取り替えられる現象が生ずるのか、当事者たちはこれを回避することができないのか。それが必然であるとすれば「その規定因子は何か」、ここまで進んでようやく社会科学が始まるのです。(売買が交換ではないことは先に話しました、紋切り型ですが。2018.11.3.付け)
 
 と、これは別に2人の批判ではありません。わたしゃ権威のおかげで食っていける学者連中とは違います。そんな人生の無駄はしない(もっとも、2人のストレス解消の悪口ではあります。ストレス解消は大事)。そうではなくて、自分への諌め。謙虚だねえ。先日、別の概念を使って書き物をしていたところ、多少概念をまとめすぎてたケースを発見。ま、理論というのはそういうものですので、皆様方もあまり驕(おご)られぬよう。お前とは違う? ま、そういうことで。
 
 こんな話、役に立たない? そりゃ新聞を読むぶんにはいらないけどねえ。
 しかしさあ、貴兄も新聞の「我が国の利益」や「日産の利益」や老害評論家が言う「われわれ」なんて言葉は、「アベの利益」であり「ゴーンの利益」であり「70過ぎの年寄り」であると読み替えてるでしょ? ボーっとしてると言葉通りに「そうか」なんて思っちゃう。庶民もいつも気をつけなきゃいけない事情ではありまする。
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命題を構成する定義と社会科学との関係

2019-01-07 13:14:11 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。前回から2日しか経っていないのに突然の登場ですが、前回最後のアリストテレス問題。1週間後に引用もなしに「続き」として議論するのも恥ずかしいので、引用なしにやっつけてしまおうと思いました。「時間がなかったので調べてません」という言い訳(私が教師なら「時間はあるはずです」とか言いますが)。論理学などかったるいからね。

 ではいきます。
 「壺齋散人(引地博信)」という方のブログにこういうのがありました。
 「バートラント・ラッセルはアリストテレスの三段論法説に潜む問題点として、次の三点を挙げている。
たとえば「すべてのギリシャ人は人間である」という大命題があるとした場合、それは「ギリシャ人は存在する」と「もし何者かがギリシャ人であれば、それは人間である」の二つに分ける必要がある。「すべてのギリシャ人」という言葉の中には、「ギリシャ人は存在する」は当然のこととしては含意されていない。それをわれわれに納得させるのは経験に基づく帰納の結果なのだ。このことを忘れて三段論法をもてあそぶと、幽霊の類にも実在性を付与しかねない。これがラッセルのアリストテレス批判の第一点である。」
 ここでは「今回の記事はラッセルは関係なく」ということを言うために引用させていただいたところ。
 さて、この大命題、こんなものは定義です。したがって自由であり、イデオロギーです。「ギリシア人」という概念の規定因子のない文章は、社会科学上の意味はありません。もちろん人文科学でもないでしょう。この「大命題」なるものは、文学であり、思想です。
 それはアリストテレスが悪いわけではありません。すべて「定義」とは個人の趣味であり、他方、政治的イデオロギーなのです。
 
 どうですか? こんなこと誰か言った? いや、ラッセルはくだらないので読む気なく、引地氏のを引用させていただいた、というのもありますが。
 「すべてのギリシャ人は人間である」というどうでもいい文は、その時代・その地域の人間に読ませれば、ペルシア人は人間ではない、と言っていたり、ギリシア人の奴隷は当然に人間ではない、と言っているのです。「そんなこと言ってない? じゃあギリシャ人てなにさ。」「ギリシア人とはいついつどこそこに住んでいる人間だ。」「人間? 重複しますが」「いやホモサピエンスだ」。かくのごとく、この「大命題」なるものは無意味です。論理学なんだから無意味でいい? そう、何度も言うように、社会科学とアリストテレスは、いっさい関係がないのです。
 「そんなことをいったら定義などできないじゃないか」とおっしゃる。そうじゃなくて、定義は無意味であり政治的にしか意味はないのだけれど、社会科学が行うべきことは定義ではない。定義を成り立たせる社会の規定因を述べることなのです。全ての社会の関係は、それをなんと名づけようと、その規定因を述べなければ意味はなく、また、述べれば後の定義はどうでもよいのです。
 いまいち曖昧模糊?
 具体例をいいましょう。
 古いですがソ連は国家社会主義かそれとも国家資本主義か、アメリカ経済はグローバル資本主義かそれとも米国帝国主義か? 後進国Aがとっている国家主導の経済政策は資本主義への過渡期の国家資本主義かそれとも資本主義ではない体制へ向かう国家資本主義か?
 エトセトラエトセトラ。
 すべてこんな定義話は無意味です。それらのどれに賛同するかなど、論者のイデオロギーが反映されるだけ。 
 社会科学徒には定義などどちらでもよい。あるいは政治屋以外の生活者にもどちらでもよいはずです。ソ連が、アメリカが、後進国Aが、なぜそういう政策を取るのか、その規定因子とその影響とその結末を述べればそれでよい。あるいはその規定因子の展開なしに、論者の定義の説明だけ聞いて「こっちが正しい」などと言うやつは、ただのデマゴーグだ、ということです(どっかに規定因があればいいんだよ、ブログの短記事くらいじゃいちいち書いてられないからね、と予防線。)。自称理論学者はほとんど全部がその「定義の説明」地点こそ学問だなどと思っているから、次の瞬間に「マルクスがそう言った」だの、「ソ連は崩壊したのだからその定義は破産した」だのと全く意味不明な話を続けても自分で自分を恥ずかしいとも思わない。規定因が論理的に述べられていたら、「マルクス」も「ソ連の崩壊」も出る余地はない。
 
 もっといえば、ほとんどの理論学者など、ネット掲示板の知ったかぶりとおんなじだと思うね。流行り言葉を並べて「すごいだろ、おいらこれ知ってるんだぜ」、てか。愚。
 いえ、あなたのことではございませんぜ。

 (、、、あ、まず。これは後味が悪くてトップページ変更のコース、、、)
 皆様も語の定義なしに命題を作ることをお勧めしますね。「○○の地域に住む人間は、これこれに規定されて××であるほかはない」とかね。「この命題上で人間の定義は」などという論理学者とは付き合わないように。お互い人生の無駄だし。
 
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食事3件他

2019-01-05 16:03:45 | 断片
 こんにちは。お正月も落ち着いて、周りの林を見るともう落ちるべき枯葉はほとんど落ちてます。けど、まだ残っている木もあるので、やっぱお正月は立春が正しいんだろうねえ。新春だものね。もっとも個人的には「寒いけどもう春だ」といわれたほうが冬が明るくなってよいのですが。地域によっては積雪数メートルまでなってしまった立春のお正月というのも、元日の用意が大変そうです、想像つきませんが。

 さてお正月はニュースもないので、雑談。
 去年の大晦日の夕食はしょっつる鍋にしました。近くのスーパーで売ってたしょっつる「仙葉善治商店」製。なんとも上品で初めての人にはよいと思われます。普通にダシが効いてて。出し醤油みたい。けど、ちょっと違うよなあ、伝統のものは、もっと味に雑味があるんだよね。まあお好みですが、知ってて買うのがよろしいかと思って、ちょっとご指摘。
 
 元日はありがたいことに2組のご家族に料理を作ってきていただきまして、で、うちのとで3組。お帰り後残りもの整理で洗って驚いた、すげえ油的洗いもの。なんて書くとけなしているようですが断じてそうではありません、が、率直に驚いて。若人たちの料理だねえ、それに加えてうちも今年は買ったものが多いし。当家は見た目マンションということで、普通の壁掛け湯沸かし器ではなくドア外に据え置き給湯器があるのですが、ご存知の方はご存知のように、そんなもん大規模すぎて(水とガスがもったいなくて)動かしてられない。ほんと壁掛け給湯器ならどれほど楽なことか、ということで(風呂炊き用は除いて)私は1年に2、3回しか使わない給湯器、ですがそれを動かしてしまいましたよ。ああ、、、
 なお、若人の方にお水で油ものの食器を洗う方法。始めに紙で油をざっと拭いて、「洗剤スポンジで軽く拭いてそこでいったん水で流して」、側に積んでいく。それからおもむろに普通に洗うとよいかと思います。洗剤スポンジはときどき水ですすいで。新聞紙がなければ漫画雑誌を破くとか。(肌の弱い方は洗剤スポンジにはご注意)
 
 あさってはもう七草。そういえば、「七草がゆの囃し歌」というのがあるんだって? おかゆを作りながら歌うそうです、うちの方では歌いませんが、って七草がゆなんて作らないし。ま、ともかく「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、(ここに囃しコトバ、地方で違う)」というんだって。いわく、「冬に中国大陸からインフルエンザの鳥が渡ってくる前に、七草粥を食べて元気になろう」ということだそうです。まあインフルエンザを指すかどうかはどっちでもいいんですが、新種の鳥インフルウイルスなんて昔からあるに決まってますよね。言い伝えに残るくらいだから栄養の悪い貧乏人はどんどん亡くなったのでしょう。その対抗策が七草粥というのも、金持ちは死ななかったということでしょうね。そしていつかウイルスも弱化し免疫もできる。今の過栄養の庶民的には、鳥インフルといっても幼児のお母さん以外はぐだぐだいうこともないんでしょう。
 
 最後、今日のyahooニュース『【寿町火災】福祉の街、惨事再び 宿泊者「どこへ行けば」』というのがありました。画像で見て立派な簡易宿泊所だなあ、と思えば、1日2000円を軽く越えるもよう。月の宿代7万近いじゃん。どうせ普通3畳間だろうから横浜市の住宅扶助額は36000円、どうすんだろうと思えば、寿町は例外でもう少し出るような。なんでも寄らば金持ち自治体ですね。皮肉ではなく、国中どこの町でも暮らさせろよ。
 
 正月で活字切れし、手持ちの本を読んでいると、例によってバカバカしく不愉快になるのですが、公表するには根拠を出さないといけないのに蔵書というものを持ち合わせていない上、図書館が開いていない。今は田舎の図書館はどうしようもなくお正月で、どうにかして欲しいものですが、まあ我慢の範囲内。今回もマルクスとアリステレスのバカさ加減の件で、アリストテレスなんざコトバの遊びに過ぎないのにそれに気づかず資本論で最大限に褒めるマルクス、という構図。まあアリストテレスにまで鼻を突っ込まなくともよいと思うのですが、マルクスに腹が立つ。あるいはそのマルクスを褒める経済哲学者に腹が立つ(中野正)。あるいは中野を褒めていた誰か忘れたけれど哲学者か宇野派に以下同文。というわけで皆様とのオタク系の付き合いは今回はナシです。哲学専攻の方は、コトバの遊びだ、ということを頭の片隅にどうぞ。
 
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オカルト(その6;霊界)

2019-01-01 09:50:42 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。(といっても世間では今年はおめでとうをいわないようですが、年が新しくなってなぜ悪いのか。おそらく一緒に暮らしていた場合には、一人いないとお正月の過ぎ方がガラッと変わりすぎるので、始めから何もなかったことにする、周りも気遣いが面倒なのでなかったことにしたいということでしょうが、そんなことは自分で決めればよろしい。田舎もんの意識にはほとほと困ります。などと正月から悪態を。あ、本日の記事は若人にためになるところはございません。なんとなく疎外感もあるなあ)
 と、悪魔のおかげとは思いもよりませんが、私もなかなか元気で、これは神様としては人生のロスタイムという認識なのではないかと思います、職業仕事は時間食いましたので。いずれにしても好都合で本年も勉強的成果をあげる気にもなります。
 
 さて、去年という昨夜は、酒を飲んでる間、紅白を見ておりましたが、演歌は大嫌いなところ、しかし今となってはお友達ですね。一人で歌ってるんだもの。自分の歌を聞かせようとして歌ってるんだもの。歌手Aや歌手Bがおのおの自分の思いにして歌ってるんだもの。と、わざわざ言うのも変だけど、そう思いません? たまにはここに来るかもしれない中高年以上の方。逆に、そうではない中年以下の方々の歌、みんなで楽しく歌って踊って、ぜんぜん生き方が違わあ。といっても年寄りは子供の先のことを心配するものなので強調はしません、このまま生きて過ぎれたら幸せかもね。
(ほんと自分には歌は大事なんで言うだけですが、昔「歌ってマルクス 踊ってレーニン」という揶揄(やゆ)がはやって、今になってこんな揶揄をネットで披露する連中はすべてワケありのクズなので大嫌いですが、昔はこれは否定しなければならない語句で、それは一般論として今も変わってはいない、と思われますね。歌って、踊って。おめでたすぎ。生活人は正月だけにせいや。)

 で、今朝は新聞というものが来まして、みなさまは取っていないでしょうから知らないでしょう、元日は全部で98ページあるんですね。で、その中で私が読んだのは合計で1ページの4分の1ほど。なんなのかねえ、あれ、読む人いるの? 芸能、スポーツ、広告、報道ニュースの個人ネタで終了。みんなゴシップだもの(格闘技の結果はあり)、きょうみなし。「おめえが時代に遅れたくたばりぞこないなんだよ」? しかし、普通の日は読んでんだから、やっぱ正月はおめでたいのかねえ。。。

 というわけで、本日は正月恒例のオカルト。
 恒例の上、自信家なので、「オカルト(途中から)」なるカテゴリーを作っちゃいましたよ。後付け整理なので抜けてる記事もあったりするでしょうが。

 さて、すでに生命界はエネルギー界とは異なることを突き止めたところ。同時に霊界も生命界とは違うものとするのが合理的としたところです。本日は、では霊界とは何か。
 たびたび言うように物質界はエネルギーの塊ですが、そこから物質として固まっていない光あるいは電磁波なる状態が発します。そうwikipediaにも書いてあります。
 かくなる物理界の光(電磁波)の漏れという現象があるという事実にあわせると、霊界は生命界のシワのようなものと考えるのが合理的でしょう。存在がなんらかの方法で生命を失うと霊が生じ、存在が霊を吸収すると生命を得る。光とおんなじでしょう。霊は人間にとっては、光が線的であるように、皺的である。皺は伸びるので、テレパシー等は超常現象ではなく、生命体に平凡にありうる現象である。なお、ここで「存在」とは、宇宙内の「位置」である、とね。
 すばらしい。
 馬鹿なことを、とお思いでも、これを自分で考えられるところが驚異ではありませんか? といっても常連の方には当たり前になってしまって感動がないでしょうね。
 
 ま、本年もおつきあいいただければ幸いです。
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