リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

形式社会学

2008-02-11 21:35:27 | 社会学の基礎概念
 さて、ちょっと経済関係のテーマが続きました。このブログも社会学を標榜しておりますことで、社会学の基礎概念を少しとりあげましょう。
 まずは、社会学とは何か。これはブログ表題にありますね。社会科学としての社会学とは、生きている人間の自由をどう実現するかを、研究し、伝えていく行為のことです。
 それじゃ、「社会科学」と一緒になってしまう?
 そうです。社会学は社会科学の帝王です。経済学などは科学のための資料にすぎないし、政治学にいたっては科学でもない。
 昔から「社会学は社会学者の数だけある」とも言われていますが、科学としての社会学は上記しかない。。
 中には「社会学とは、(社会という)この不透明な非自然的前提の総体が、いかに存続・変化するかを問う学問なのであります」などとおっしゃる方もいらっしゃいます(別に他意はなくyahoo の1ページ目から拾ってきただけですが)。まあ、人間たちの秩序の存在理由というやつなんでしょうが、その時点で科学の資格はない。
 それは昔から床屋とか美容院で話してもらうことです。
 社会なるものが自主的に存続しようが変化しようが、われわれ生きる者の生とは関わりがない。科学という美称は、生きる人間の役に立つものにしかつかない。
 窓を真ん中から拭くか、右端から拭くか、左端から拭くかは、「窓の拭き方学」として「学問」にはなっても誰も「科学」とは呼ばない。「窓の拭き方」が科学となるのは、人間がこれから窓をきれいに拭く、そのために応用できる原理を表現したときだけです。
 科学はよく「因果連関の学」といわれます。現実がなぜそうなるのかを明らかにする、ということですね。
 でもそれだけでは科学というものの説明が不十分です。因果連関の学として強調する背後には、科学が明らかにするその答えを、生きている者が使っていく、という前提があるのです。
 社会が自主的に存続するとどう強弁しようと、それは、教師以外の生きている人間には何の役にも立たない言葉の遊びにすぎません。社会は変化する、そんなことは生きていれば分かる。それはなぜ変化するのか、そしてそれを人間が変えるための因子はなんなのか、これに答えるための基礎作業が、社会学です。
 

 ま、ここまでは前置きで、ご存知の方はご存知の話。
 今日は、行為の社会学とは似ているようで非なる「形式社会学」というものについて。
 
 行為の社会学とは、ある程度昔からの人間の行為スタンスを前提としています。
 人間はここ4千年ほどは変わっていない、という前提ですね。そしてこれから300年くらいは同じだろうという。
 この4300年をいってみれば超歴史的に述べるわけですから、一種の形式社会学という側面もありそうです。
 ただ、形式社会学というものはすでに特許をとれるほど昔からあるので、この昔からの形式社会学にはひとつ触れておかなければいけない、というところで。
 
 形式社会学は、2つの点で存在意味が薄い。

 第1に、それは評論であること。
 評論とは、第3者の「見た目表現」ということです。生き物は、とりあえず見た目で判断する必要がある。目の前の動物が牙を剥きだしていたら、とにもかくにも逃げたほうがいい。本当はあくびをしているかどうかなど、考える必要はありません。
 しかし、それでは本当はどうなのか、といわれれば、いやでも目の前の動物の身になって考える必要があります。
 
 とりあえず、見ただけの自分はこう考えます。「彼と彼女は仲がいい。じゃあ彼女に近寄っても無駄だ。」
 「あいつとあいつは仲が悪い。とばっちりを食うから二人がいるときは近寄らないでおこう。」

 そんなことは本当かどうかわからない。
 彼女は彼にウンザリして他の人間を待ってるかもしれないし、あいつらはケンカはするが同志だと思いあっていたりします。
 現実がどうであっても他人にとっては、前者は親愛関係で、後者は対立関係です。
 どうせわからない関係については、他人はいいたいほうだい、ってことですが。
 
 形式社会学の元祖、ジンメルに以下の記述があるとのことです。
「外部の社会や集団と敵対関係にある集団では、成員相互の連帯感が強まり、結合的な相互作用が促進され、集団としての凝集性が高くなりやすい。その点で、対立・抗争は社会化の一形式でありうる。」
(「わかりやすい例としては、戦争があります。国家という一つの集団が他国家と対立することにより、国家内部では国民が愛国心を高め一致団結して敵に立ち向かいます。」コピー元:村上さんという人の昔のHP。使わせていただきます)

 いわせてもらえば、何が連帯感だ。何が相互作用だ。すべては外在的要因次第だ、ということです。
 ある集団ではそうなり、別の集団ではそうならない。
 ある場合は政治集団では分裂を続け、ある場合は国家で革命が起こる。
 ある場合は遊び集団では、なんてこともなく毎日が過ぎてゆく。

 行為する人間にとって意味があるのは、そんな外観ではなくて、その外観を規定している要素です。その要素が分かったとき、人間はその知識を元に次の行為をすることができる。
 先の例に戻ります。
 現代の学生間で親愛関係のように見える関係は、何が規定因子なのか。姿かたちか、熱意か、話の面白さか。あるいは、当該関係は本当に親愛関係なのか。ただの暇つぶしか。
 会社の先輩の二人が対立していて仕事がやりにくくてしょうがない。何が二人をそうさせているのか。自分が間に入ることでどう変わるのか。
 
 その知識の(基礎の)提供以外に、一般人には学問の意義などありません。
 「親愛関係だの、対立関係などと、そういっておしまい? これが社会学?
 中学生以上なら見りゃわかんだろ。学費返せ。」
 みたいなものです。

 第2に、観察的表現の意義は、これを観察する人々の間のコミュニケーションのためにあった。そしてそれにしか役立たない、ということです。
 たとえば井戸端談義、たとえばギリシアの教師社会のお茶の時間の楽しみ。
 そう。役に立たないわけではない。学者の間だけにあっては。
 若い人たちはこれは覚えておいたほうがいいです。哲学者たちは科学もせずに、自分たちが偉い、みたいなことを言いますからね。惑わされずに、自分の研究で一歩を踏み出してください。
 
 さて、まだ続きます。
 ここでやめると、なんのための普通の人向けブログか分かりませんので。社会学的には、そうなんだ、ってことですけどね。
 
 で、まず、普通、「あいつとあいつはけんかしてる」とかいうじゃないですか。
 でも、それって昨日のことなんですよね。
 また、「あいつとあいつは話が合わない」ともいう。
 このほうが永そうですが、それでも昨日と今日のことにすぎない。
 人間はよくできていて、たまたま左翼だったり右翼だったりするけど、本当は左右の違いではなく、たまたま両人が子供の頃読んだ小説の主人公の好き嫌いのせいだったりする。小説の好き嫌いで人間を好き嫌いしたら結婚なんてできませんやね。それが「まず」の例です。
 あるいは、ある者は権力者が好きで、ある者は権力者など反吐が出るほど嫌いだったりする。それでも、一人一人の人間の付き合いに、権力者の出る余地はありません。一人一人になれば命を助け合う。これは「また」の例。
 
 じゃあ、これは社会学的にどうなのか。「疎遠関係はいかなる場合に変更されるか」。 
 やめましょうよ。そんなことは処世訓と呼びます。隠居したご老人が教えることですな。若い人たちが「科学だ」とかいって研究することではありません。
 科学がどう、という前に、人は前に出る。とりあえず生きる。まずはここです。
 生きてみて、わからん、困った、どうする?? そこが科学の出番です。
 
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