リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

体制と「反」体制

2009-04-26 15:23:00 | 歴史への視角
 こんにちは
 世の中春で、木々の若葉が輝いていていいですねえ。
 もっともついこの前、ケヤキが赤く輝いていたと思うのですが。この冬は(なにもせず)とてもよく寝た気がします。

 さてと、ここのところちょっと林業に興味でちらほらと読書して気がついたんですが、林学なんて自然科学のフリして大したことないなあ、と思うのが、二酸化炭素問題。
 いったい人間の産業諸活動をオミットしたところで地球上の気体としての酸素は増えているのか減っているのか、だれも知らないでしゃべっていそうな。
 3人の林学系大学教授と1人の評論家の本を見ましたが、誰もいわない。せいぜい「樹々のおかげで『ちょっと』増えているだけ」くらいなところ。
 ほんとかよ、ちょっとってどんだけだよ。
 上記知識人たちは環境へ発言している部類の科学関係者のはずなのにそんな認識なのだから論議にならない。
 
 一方で20億年でこれだけの酸素ができたって話もありますから1億年で空気の酸素の1%ができる、ということは1年で空気の0.00000001%増えるんでしょうか。それって1万年前で大型動物5千万匹だったところ人間50億人越えて生きているとして、100倍に増えた現在でもクリアされるんですかね。
 納得できない。
 どんな根拠があって、そしてそれを誰が知っているのか。
 結局、「自然科学はおおざっぱな社会科学と違って科学だ」などといいながら、人間にできるのは小手先で見えるものの因果関係の解明だけ。自然科学のうちの基礎科学に限っては、そんな条件がそろっているだけ、ということのような気がします。
 
 ま、他人事なので、これはコーヒーブレイク。
 今日の話は、前回の、「人間いつの時代も変わらない」、の続き。
 反体制とは、体制派の分派のことだ、というような話で。
 なにをいっている、って今の世の中を見れば、政党といえば、自民党(=公明党)と民主党ばかりじゃございませんか。これについて「私が『全部体制派だ』ということ」に疑問がある人はここには来ませんよね。まあ、お客人ご自身で何を思うかは別として。
 さてと、昔はたしかにそうじゃなかった。社会党などという社会主義政党が民主党の席に座っていたのはそんなに昔ではありません。
 それでも、社会党はエセ左翼政党だった、などという気はありませんで。私がいいたいのは、単に、人々に反体制とみなされ、権力に対抗するものとして認めてもらうためには、まずは権力者と同様に権力をもたなければならないということです。
 
 結論から言えば、個人の権力への対抗の願望は、その内実にかかわらず権力に対抗する外見をもつ政党へ吸い取られていくのです。それ以外に、対抗する権力がないから。民主党と自民党は同じ人間で構成されている。しかし、マスメディアによれば、民主党は野党であり、自民党を批判している、であれば民主党に肩入れするしかない。
 今、私が無視をした共産党。これはイジメの対象にしかなりません。権力に対抗する権力をもっていないから。それでは初めの個人が持つ行為の意味をクリアできません。しかして、共産党に権力を感ずるのは同じ土俵の弱小セクトだけ。
 逆にいえば、共産党やその他のセクトも権力に対抗する権力を持った瞬間に、個人の願望を吸い取っていく組織としての資格をもつわけです。
 じゃあ、その対抗する権力とは何か、ってその国家の大きなシステムの中で、当然に動かせる権力、武装力ないし動員数です。あるいは武力による武装、あるいは情報による巨大な人的動員力、といってもデモの動員数ではありませんよ、すべての井戸端会議・酒飲み話への動員数です。それが権力でありそれは体制=現行社会システムに付属するものです。
 
 1950、60年代と、人は変わっていない。
 単にシステムの構えが変わっているわけです。
 じゃあ、どうするって、隈栄二郎『パリの爆薬』でもごらんください
 
 結局、左翼なんていっても、理論的には左翼の敵などいないのです。全部が味方だから体制も変革できる。
 1917年ロシアでも左翼の敵などいなかった。単に政権の変更があっただけです。
 敵は具体的な人間同士がつくるものです。そんなもので歴史を動かすことはできない。 だから、左翼の敵といえば、具体的にケンカする機動隊と、諸派同士、そして、カッコだけで何もしてくれない恨みがつのっていく、飢切った貧乏人だけです。
  (子供も居なくなってあまり貧乏じゃなくなったところ、そろそろ貧乏人は失礼ですかね)


コメント

「社会倫理」と思想

2009-04-19 21:25:07 | 歴史への視角
 こんばんは。
 えー、世の中、「着てはもらえぬセーターを、、、」なんて歌があるものでございますが、季節外れの話題を載せるブログを書くというのもそう面白いものではございませんで。

 なんか他人のブログで面白い話題ってないかなあ、なんて探したりしましても、知ってる人の近況ブログは別として、社会現象にぶちぶちとした感想を載せるその場限りの携帯ブログじゃーねえ、みたいにサーフィンしながらふと気づいたのですが、世の中「社会倫理学」なんて講義がぞろぞろあるみたいな。
 カッコでくくって検索して2万件。「理論社会学」で打つと8万件だから、そこそこがんばってるような。
 こいつが昔の「思想」の位置をしめているようです。昔は「社会道徳」といったんですけどねえ。
 思想じゃなくて道徳なところ、さらにケツを引いて「ただの一人だけの倫理だよ」なんていう類のものだから、何をしろというわけじゃない、「こう考えた人がいるけどどう思う? ほんとはこうなのよ」みたいな、下手な種明かしにもならない隠居説明つけてねえ。

 よくわかんないねえ、この元気のなさ。今時の若いもんて元気ないよねえ、、、
 それに引きかえ年寄りが元気なこと。
 職業経験でいえば、同じクレーマーでも、若い奴らの「なんでだめなの。いいじゃん」クレームと違って、年寄りのクレームは理屈があるよね。「これが正しい。お前が間違ってる」だあね。爺さん、自分が一番偉いと思ってるんだから。
 ま、どっちにしろ迷惑だけど。

 で、1980年までは、「社会道徳」はあったけど、「社会倫理」なんて言葉はアカデミズムの中では見つからなかったものです。なんで流行ったのかねえ。
 と思ってみると、こうゆうテーマは、最首悟とか西部邁とか(これは「経済倫理」とかいったか)の、思想も倫理も自分が敗れ果てて語れなくなった元活動家の慰みもんみたいな気がしますが。
 
 で、今日の「ためになる知識」。「歴史はこう変わった」 です。

 我々の時代には、思想により一瞬に切り捨てられた世界の構造が、
 この時代では、「一瞬でいえる悪口はないか」という評論の対象となっている。
 我々の時代には、確保された反抗への賞賛が、
 この時代には、体制によって確保されている。
 我々の時代には、かくて保持された個人の自立が、
 この時代には、弱々しい体制の歯車だ。

 すべて人間若者としては同じなんだけど、あまりに違う結果が。
 これは、世間の道徳の受け売りをおずおずと反射的に分泌する者と、自分で消化した価値観を持てた者との違いではありますが、その消化液は、社会の権力構造=賞賛構造というわけです。(「おずおず」という表現はバカげていようが命をかけていないという事態を指します)
 世界というのはそういうもので、頭で考えることが口に出るときは、時代によっていろいろの姿に変わる。
 当たり前?
 そんな当たり前のことを社会科学として捉えられたことなど、過去300年で2度しかない。
 いわく、エンゲルス・マルクスの上部構造論であり、隈栄二郎の「風とベイシティ・キャット」です。
 
 
 ここんとこ仕事の合間の時間は本書きに取られてて、世間的にためになることが少なくてすいませんね。
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「奇妙な」現実

2009-04-12 22:03:02 | 賃金・価値・権力
 こんばんは。
 2月3月中ヒマだったので、勤務を移ってこの(普通の)忙しさに戸惑いながらふと思うと、「忙しいんじゃなくて人が少ないんだよな」と。

 こうゆうのは、私たち世代では基本ですが、今の人たちは知らなかろうと、ちょっと展開してみます。

 およそ、(研究者や趣味の人間は別として)社会的な業務で人が十分居るのに忙しいなんてことはありませんね。あったら、それは仕事の配分が悪いだけ。
 最悪にできの悪いやつが同僚でも、「こいつがいなきゃどんなに楽か」とは思っても、現実には、そいつがいれば、自分の2割、3割の時間は助かってるものです。そちらではそうじゃないですか? 2割3割で給料とるな、ということは別としてですが。
 要は人が少なければ忙しい。
 当たり前です。

 が、人は周りにいないわけじゃない。派遣・フリーター・アルバイトの例えば5割はパートタイム希望でも残りの5割は常勤が希望だ。(割合はいい加減です。もともと定義がないしね)
 その残りの2割はいかにもサラリーマンには向かない性格だとしても、残りの8割は会社に勤めようといっている。
 だが、働きたい人間がいるのに、かつ、労働者同士としては働いて欲しいのに、資本家は雇わない。それが資本主義です。

 同様に、コンビニでご飯が余る。世界中のお百姓さん、漁師、牧童が、一生懸命育て、命を奪った食物が、買われないまま焼却炉へゆく。
 かたや、段ボールの家の中、腹を空かせたホームレスが、そして毛布1枚にくるまった難民が、絶望的に生きている。
それが資本主義です。

 あるいは、・・・とここで、昔なら、働いても働いてもお金のない人たちの話が来るのですが、まあそこは先進国日本でして、飽食日本で生きている私はそこまで言う気にはなりませんけどね。
 しかし、人間日本人、食物原材料を作り衣服等を生産してくれる後進諸国の貧乏を考えるべきではあります。

 とゆうように、アナーキズムであれ、共産主義であれ、民主社会主義であれ、社会主義の基本は、人間、複数のわれわれが、どれだけ合理的に生き易く生きていける仕組みを作れるか、という問いかけへの答えなのです。
 「社会主義は間違っている」とかなんとか、そう発言する発想からして間違っている。社会主義はただの方法なのです。初めの問いかけにどう応えるか、その方法は何か。ウヨクでもいいから「間違っている」じゃなくて自分の答を言え、ということです。
 残念なことに、この日本、そんな問いさえ忘れ果てた人間だらけですけどね。


 付けたりですが、サッカー選手とか、将棋の棋士とか、米も作らなくともお米が手に入りますね。なんで?
 平たく言えば、お米を米農家からめぐんでもらっているわけです。
 お米だけじゃない、自動車や子供のオモチャもめぐんでもらってますね。

 農民・工員は、サッカーや将棋を見せてもらっているから、その代わりにお米や自動車をあげるわけです。
 これを指して、
「お金は交換手段であり、生産にたずさわらない人間は、カネにより労働の剰余を得る」
と表現します。
 マルクスじゃなくて、自由主義経済学の祖、アダム・スミスです。
 
 今の現代経済学=近代経済学では需要と供給のおとぎ話しかしませんから、「イチローがカネを稼げば何でも買える」と言うしかない。ところが残念ながら、世界中の人間が野球の選手だったら、みな飢えて死ぬ。当たり前ですね。
 この当たり前のことが、近代経済学では何一つ表現できないのです。
 そんなものは社会の科学ではない。
 人間には必要ない。
 ま、資本家には要るんでしょうけどね。

 さて、ところで、一つ上の段落「労働の剰余を得る」について「資本家が労働の剰余を力づくで自分の物にしている」と人民に目に見える形でまとめたのが若き天才エンゲルス、そしてこれを「搾取」という言葉で全世界に広めたのが修辞術の異才者、カール・マルクスだ、というわけです。
 常識的な話でわざわざここまで来てもらってなんですが、エンゲルスの方が早いのはあんまり知らないでしょ?

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お薦めのスタンス

2009-04-05 22:30:18 | その他
前回コーヒーブレイクともなれば今回はわけのわからぬ「歴史への視角」というのが私の気晴らしの基本ですが、4月で転勤しまして、先週はめまぐるしい1週間で、今日も(日曜)今日とて1日仕事してましたもんで堅いことを考える体勢になってません。
やあですねえ、中年て。(中高年?)。なんといってもメモリー不足。コンピューターのない時代の中高年に自己卑下もあんまり聞かなかったのは、表現のしようもなかったこともあるんでしょうかね。

で、帰宅しましたら家人が趣味の日曜将棋番組を録画してくれてたんですが、田村6段という中年前の人と高崎4段という若い人で、最近は情報社会でマニアの間では低段の人でも人によって高段者に次ぐものをもっております。で、勝ちはしましたが田村という人が才能だけで努力の薄い人で、高崎という人は才能がどうというより努力はしそうな人で、この取り合わせがなんだかちょっと寂しい気がしました。田村さんも昔は若かったんですけどね。
「ああ、高崎。負けたけど、この先いつか8段だろうなあ」、みたいな。
私なんか人生行路として関係ないんでどうでもよさそうだけど、それなりに日の当たるところにでたことがないんで田村さんに同情というかちょっと違うけどなんか寂しいよね、みたいな。

というわけで【皆様にためになるブログ】としては、「だから人間若いときの努力が大事」かな。そんなこたあ誰でもいうけどね。
「なんとか8段より田村6段のほうが存在感がある。人生、個性を出したほうが勝ちだ」、っていうまとめ方もあるんだけど、まあ薦められはしない、この「薦められはしない」というところが含蓄でしょうかね。
  ここで今時の若い人はほんとにそのとおり受け取りそうなところがまた寂しい限りなんですけどね。
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