リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

中高年的情報

2012-06-28 22:35:47 | 断片
 というわけで、お年寄り対象に2点。

1、いさぎよく、何の宗教色もない火葬式、というものに列席しました。

 偉い。とりあえず、今のぼくには社交的観点からできませんが、10年たったらできるかも。
 ともかくも、そういう実践によって友人等に現物を眼前させた私の同級生夫+女夫婦は偉い。

     具体的には、葬式に、坊主もお焼香も献花もない世界、ということです。
     
2 樹木葬って、すぐ死んじまうひ弱な木を植えるんだそうな、同級生彼氏、樹木葬。
  知ってる?
  そこから先の話で。
  30年経ったら、雑木林にするんだそうな。
  ふ--ん、こざかしい。
  
  そんなら主義的には、骨をそのまんまじべたに撒きゃいいじゃん。
  樹木葬って、骨が木になるから樹木葬だろ。木が刈られちゃうのが前提じゃ、誇大広告じゃん。
  
  納得いかん。
  ま、弱い庶民には、それでいいんだろうけどね。
  墓の呪縛から免れたい、しかし気の弱い庶民は、権力者的親類縁者に、「この木が私の夫の墓ですから何の文句があるんですか。あなたのお里の神木と一緒ですよ」と主張できる。
  こうゆうのは心理学と社会学の境目ですね。(もちろん、学問対象が、というわけではありません、社会学的には一言で済む。そんな低レベルの話だ、ということで)
  
  いずれにせよ、商業化した寺に感謝しましょう、それはたとえば、過去、いい自転車を作ってくれた工業資本家ブリジストンに感謝するのと同じだけ。決してそれ以上でも以下でもなく。
     たく。恥ずかしくないのかね、曹洞宗。
        「仏教、バカで、すいません」といういいわけはもちろんわかりますが。
  
 なんていってるうちに、本当に書こうとしたこと=若い人宛てのテーマを忘れてしまいました。
 (酩酊中)
 こうゆうのって見る人には4ヶ月に1っぺんかな? で、書く方は月に6ペンス。わ、くだらん。毎週ある事態、ということで。
 ともかく、いうのもくだらないから書かない通常の事態で。
      、、、さて、言いたいのはどんな話題だったかなあ、、、、
  
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不死

2012-06-27 21:53:10 | 断片
 こんばんは。
 昨日、高校時代の旧友が亡くなってしまいました。23時57分とのことです。

 ここ(ブログ)は旧友の奥さんは訪ねて来ないので書くんですが、実は「なくなった」なんて思ってません。ただ、「死んだ」だけです。
 旧友は、私が死ぬまで私の旧友。
 今まで2年に1回顔を見てたのが、事情で見れなくなっただけ。
 旧友ということに何の変わりもありません。
 あくまで、私に、バッハを教えてくれた旧友。(その他の話は、ちょっとおいて)
 そこが家族とは、ある程度、違うところではあります。
 
 「ある程度」という根拠は、私の家族だった父ちゃんも死んでるけど、そういうものだ(似てるぞ、ほとんど変わらないぞ)、というところですね。
 
 人は、少なくとも、残った者の中で、同じように生きて行く。
 自分は自分だからそりゃあ別でも、家族ならぬ他人にとっては同じ。
 だからどうというのは死ぬ人にとってのことですね。
 
 かのように、若い人に言いますが、死ぬというのは個人的な事情であり、それとは相当きっぱり(?)分かれて、他人には関係がないことなのです。
 言ったように、「関係がないなんて冷たい」、とかじゃなくて、生きている他人の中では死にはしないのです。
 生きた人間は他人にとっては、他人が死ぬまでは不死です。
 だから良いとか悪いとかは、本人と家族だけの問題で。
 M君も「しょうがねえ、AB型だ」といいそうな次元ですが。
 
 
     それはそれ。
     元気で新宿、中華「大陸」でギョウザをサカナに一緒に飲んでいたいだろうと自問すれば、もちろん、そのとおりです。
 
 
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抒情の為し方

2012-06-22 21:30:03 | 行為
 こんばんは。東京地方、まだ初夏前。もう少し(の期間、暑くなる前は) アタマが動きます。

 ここのところ投げやりな執筆態度が続いておりました当ブログ。
 今回は、土日連休もあり、ちょっと(だけ) 態度を改めまして、文芸派には短くも分かりやすく、(って、無理かも)。

 はるか昔、吉本隆明(という評論家)が、”中原中也を含めた四季派が詩壇の堕落の根源だ。彼らが生き残っていたら、彼らはみな戦争翼賛派となっていただろう” と、のたまったことがありまして。

 わたしなどは中也ファンとしてくやしながら、そりゃそうだろうな、なんて思ったところであります。
 立原道造なんて、いかにも翼賛詩人じゃありませんか。彼のようなへなへな男は、絶対、死に行く兵士を称えるでしょ。
 かたや、強固な論理の固まりにもみえた吉本は、そりゃ右翼になることなどあるまい。

 なんて思いながら40年、ふとみれば偉そうな口先評論家吉本は、右翼に成り下がって死ぬ。
 そう思ってよく考えてみれば、さきの立言は嘘ですね。

 結局、自分で価値を立てられない男どもが戦争翼賛派に成り下がってゆくのだ。
 吉本のごとき、”大衆翼賛”評論家は、結局、大衆右翼になって死ぬしかない。

 しかして、中原中也は、戦争翼賛派にはなっていたはずがない。
 戦争は呪わないだろうが、軍人共と大衆をけなしつづけて栄養不足で肺炎で死んだだろう。
 抒情そのものに価値を置くのではなく、抒情をどう表現するのか、その表現の仕方に価値をもてる者が本当の詩人なのだ。

 そう喝破しえなかった思春期の私は、やはり若き吉本主義者だったのかもしれません。
 人は、恥ずかしい評判を避けようとする女々しい根性があるのなら、自分のポリシーを立て、かつ、それに殉ずるしかない。しかし、そんなことは恥ずかしい評判を避けたいなどという女々しい男にはできるはずもない。できるのは、ただの脳足らずの(私のような)男たち。
 若い人にはわかんないやね。

 と、本日思わせてくれたのが丸山=美輪明弘。
 「人間に大事なのは抒情なのよ。」
    今日の朝日新聞の広告ですが。
    自分で分かってない。
    そう表現できる丸山明弘の言葉が抒情の仕方なのだ。
      抒情が、ではなく、抒情の仕方の貫徹が、人間の生理活動を、生命活動に変える。
      丸山明弘。
         男だ。

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実存主義的キャッチコピー

2012-06-17 21:48:30 | 歴史への視角
 こんばんは。東京地方、今日は暑い。帰宅的ホームで待てば蚊に刺されるし。
 いや、飛蚊症だと思ったんだよね、目の前をなんか横切ってたけど、本見てたから。痒くなって思い返してももう遅い。
 てなわけで、この体の熱気、風呂に入ればとも思いましたが一向に変わらない今時点です。

 本日は、昨日から高校の闘友的旧友が、もう終わりのように入院してしまって。
 奥さん(旧友の)がブログを書いてるんですが、それがここんとこめちゃくちゃ。あっちへこっちへと八つ当たりの権化。
 だからブログって嫌いさ。一時の激情って、一時にしか本当じゃないんだよね。でもその一時を日常であるかのように構成するやつがいる。本人が後で読んだら、なんであんなことをって思うのにね。はい、私はAB型。
 
 だから、ここのブログはためになるブログ。怒りの日は「断片」カテゴリーです。
 
 というわけで、旧友のことはさておき、本の話。
 近くの図書館の蔵書が貧しい話はしましたが、ほんとに何にもなくて。
 ここまでひどいのが買う奴のせいとも思いがたい、これはそんな本を買う奴がいる時代のせいなのだ、と、理屈的に思うのですが、そうでしょうか? 若い人で、図書館の本、変に思わない人、手を上げて。 ほんと何一つ面白くない。 おいが偏屈なのかなあ、、、おめえのはもっとひどい、って、そりゃそうさ。おいのは20年後の本だから。 売れなくても先駆者は、売れる前の時代に本を書かなきゃいけないのさ。
 
 とはいえ、こっからが本題で、昔の本ならなんでもいい、というわけでもなく。
 読む本に事欠いて昔の本を紐解くと、いや、まあ、これもひどい。ひどいなりに面白いところは許せるとして。
 例が、小川弘「近代化と道徳」。どうせ今じゃ買えないから詳細抜き。45年前の本ね、ってぎょえ。
 小川弘という人は誠実で教え子の評判高い人でしたが。
 何がひどいって、”人間は社会あっての個人だから、社会的価値を実現するのが正しい”てな趣旨ね。
 当たり前?
 ほんとめんどくさいのね、当たり前に思う人を説得するのって。
 
 西洋も同じ。
 「○○は人間の普遍性だから、だから、それに沿うのが正しい」
 って理屈にもならない「論理」を掲げて、さて本に書くときはその1行で済ますんだよ。
 
 ある理論が正しい、正しくないの分かれ目は何でも一緒。初めの1点。
 右へ行くか、左へ行くか。(だいたい、これは当然だから一言で、みたいなとこが、「専門家」の本では全部ウソ)
 幸か不幸か、アタマのよさそうな奴らは頭がいいから初めの一歩をなんの考えもなく世間のウケねらいで踏み出してくれる。はい、そりゃ間違い。一生を潰したの? そう、そりゃごくろうさんね。
 おかげさんで、マルクス以後、一番の理論家は隈栄二郎だ。
 酔っ払ってるかね。
 
 ま、西洋も同じ例がサルトルね。
 「人間は歴史に生きるのが本質だから、今の歴史の流れの中で生きなければいけない」からハンガリー革命制圧が正しい、のたぐいさ。
 
 みんな臆病者の法螺吹きたち。
 何が人間だよ。だれが人間の事なんかわかるんだ。おいらに分かるのはおいらのことだけだよ。法螺吹きたちだってそうだろうが。
 「人間本来」なんて自称「論理」は、そのあとに右翼も左翼もヤクザも民主党も思い思いの都合勝手をくっつけられる修飾語以外のものでもない。
 サルトルは、フランスの小農村制を根拠としたカトリック教義に対抗するため、そんな主意主義を押し出さざるを得なかった、小山弘は半封建の農村主義に乗っかるためにそんな「道徳」を繰り広げならなければならなかった、それだけのことなのですけどね。(それはそれで、その時代のイデオロギーで、悪かないですが。でも「本当のこと」ではない)
 
 というわけで、本質は簡単なこと。私とあなた。
 人間一般がどうなんて、まったく意味をなさない。
 『私は他の人間の間をなんとかして生きていく。おそらくあなたも同じだろう、ということは彼も彼女も同じに違いない。
 ということは人間一般そうではないか』 
 という過程のみが意味を持つ。
 このルートを通らない「人間」論議など笑止千万。勝手に夢でも見ていろ、ということですね。
 
    でもそんな夢が売れた時代って、学者にはよかったやね。
    今くだらねえ本しかないのは、やっぱ、学者の試行錯誤かね。
 
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歴史と主体性

2012-06-10 21:02:31 | 歴史への視角
 こんばんは。ようやく明日で仕事が一段落。
 今日は休みで、目いっぱい寝たあと、撮り貯めた写真を写真店にプリントしに行きました。

 プリントjpg設定中、その店のなんだかきちんとしたアルバイトのお兄さんが勤務交代で店を出たところで、お客のおばさんだかに捕まって立ち話をしてるのが聞こえました。
 お兄さんはなんでも社会学の院生で(ほう)、おばさんと話すには、「今、考えているのは、老人の施設と幼児の施設を一体化させる構想なんです」(はあ、はあ)「そうすればお母さんしか知らない子供も年寄りのことがわかってくるし、、、」(まあねえ)

 ともかくも、わこうど、頑張れよ、って感じで聞いておりました。
 どんなにくだらない構想でも(おいおい)、構想をたててそれがなんで自分が思うように実現しないのか、そこを考えるのが社会学の第一歩ですから。
 まだまだ先は長いですけどね。
 若いって、いいな。

その2。

 以前に話題にした近所のガケ。地滑り防止に生えていた高木、潅木を根こそぎ剥いで禿げガケにしてしまって、コンクリの崩れ止めを打ったのですが、その後にようやく雑草が生え出しました。今はガケ一面が丈の短い草いっぱいの緑に。草は、基本は一年生草本ていうことにしておきましょう。
 今だつまらぬ景色ですが、まずはそんなつまらぬ雑草が生えて地面が固まり、これから先、樹々の種子が定着し(今回の場合はもうほじ繰り返った土の中にいろんな種が隠れてそうですが)、喬木や潅木が復活してくる、という。
 この若い草々は、はたからみれば若いだけ、すぐ年寄りの昔話になってしまう存在でしかありませんが、歴史のためにはそんなものがまず必要なんですね。


 というわけで、カンのいい左翼の方だと今日の「お題」との関係で気づいたかもしれませんが、これは主体性論と歴史的弁証法ですね。
 社会はその時代の人間が命を賭けて戦わない限り変わらない、一方、なにがどうしようが、荒地が森になるには歴史的なプロセスが必要だ。

 さて、この矛盾はどう処理されるか?

 というわけで、答え。
 こんなことは矛盾ではないのです。
 人は、自分の状況を生きることが必要であり、それ以外のどんなことも必要ではない。
 一方、世界は、そうした人たちによって作られ変わり自由の王国へと近づいていく。
 世の中は、ただ単に、そうしたものなのです。それを矛盾というのは、ただの感想。

 さて問題は、そこから先。
 だ、か、ら。

 だから、偉そうな前衛主義者共が「自分たちこそ」などと偉ぶれる根拠など世の中には一切ない。
 だから、自称マルクス主義者など、道端の雑草と変わるところなど何一つない。

 だから、一方、人は、自分が望むなら、前衛になる必要がある。
 それは雑草と同じ役割でしかないが、それは誰かがやらねばならない。
 だから、一方、人は、自分の望みを貫徹する必要がある。
 それが人間の歴史であり、彼らや我らは、歴史を生きているのだから。

 あるいは、歴史を生きる、というのはそうやって自分を運転していくことだから。


   人間は、自分を自分でセットできる。そして、それに必須なのが自分の意志での決定だ。
   この後段が、「主体性」なのですよ。
      なんて、どうして学校で教えないんだろう。


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資本制の本質とは

2012-06-03 21:10:21 | 賃金・価値・権力
 こんばんは。東京地方は蝶の季節。
 一昨日の勤め先の昼休みには、八百屋さんの店先で、紋白蝶が、レタスがいいかな、いや、やっぱキャベツが一番、と、ヒラヒラ、野菜の品定めをしておりました。可愛いというか可哀想というか。
 一体、どこの育ちなんでしょうね。まがりなりにも東京でして、キャベツ畑はずーっと遠くにいかないとありません。

 さて、本日は昨日ゆっくり休みましたんですが、多少中学の同級生と遊んだためすごく疲れまして、またまたちょっとだけ。
 
 世の中、新しい本なんてろくな本がないですな。
 そんな難しい話をしているのではなく、世の中に疑問を持った人が読む本がない。
 昔は「新日本新書」というシリーズがありまして、共産党の本ですけどとにかく基礎的な知識は得られたのですが、いまじゃ、共産党直営店にいっても社会科学基礎理論の解説本は手に入りません。共産党はなに考えてるんだね。宮本やら上田やら不破やら、死んでしまった人間の何一つ意味のない本の出版など止めて、まともな本の地道な普及を続けるべきなんじゃないか。、、、あ、まだ生きてる人もいたか。
 
 というわけで、社会科学の基礎的な見方その1。資本制とは何か。
 
 それは、他人の労働(力)をどう自分のために使おうか、というよこしまな意志の具現化です。
 
 って、なんも社会科学チックじゃないな。
 ないけど、そう考えるのが基礎なの。
 そんなことは新日本新書には書いてないけどね。
 
 支配者の歴史とは、他人の行為能力を、どう自分のために使うか、という意志の歴史です。
 小麦を作らせたり、革をなめさせたり、銅像を作らせたりね。
 
 そんな直接性に対して、資本主義では、「私有」という制度を支配者が守らせることで、支配者の顔をせずに、他人の労働を自分のために使うことを正当化することに成功した。
 
 「そんなことはお前の解釈だろう」って、まあ人はいうよね。
 でも「そんなこと」もわからないと、先進国と後進国の間の関係がわからない、はずさ。
 先進国と後進国の関係は、後進国の労働力を先進国(の資本家)がどう自分のために使うか、ということなのだよ。
 違わないだろ?
 違わないさ、そのまんまだから。
 後進国人民の労働を自分のために使う手段が、「資本投下」さ。
 で、ちょっと難しいけど、後進国人民の労働を自分のものにする手段が、過剰「商品投下」さ。
 先進国資本家は、先進国労働者が作りすぎちゃって自分のものにせざるをえない余計な商品を、後進国人民に押し付けることで、その売却マネーで後進国人民の労働(力)を自分のものにする。
 そういう関係なのだよね。
 カネというものは、商品というものは、資本というものは、かくのごとく、資本家が人民の行為能力をどう自分のものにしていくか、という関係を規定しているものなのです。
 
 もちろん、というべきか、凡百の「資本論」の解説書にはそんなことはどこにも書いてないです。宇野理論にさえ書いていない。でも、そういう基礎を押さえておかないと、「疎外」の本当の意味などわかりはしない。資本制貿易の意味がわかるわけがない。もちろん、世界革命などわかろうはずもない。
 資本主義的カネ理論というのは亡霊のような観念の哲学論議じゃなくて、具体的な支配の理論なのだよ。
 
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