リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

普遍的個人倫理:アナーキズム

2010-08-29 21:11:13 | 歴史への視角
 こんばんは。今日は休みのうえ、冷房もいれたので、昼頃頭痛が消えました。
 なので、昨日の言いかけの続き。
 アナーキズムは、ヒューマニズムなどという、たかだかの「思想」ではない、という話で。

 どこが違うか、って、ヒューマニズムのごとき思想は、何々をしてはいけない、と他人に言うところに存在意義があるのです。あるいは、自分がこうやるからお前ら官憲は止めるなよ、と権力にいうわけですね。要するに、他人に言う、「思想」なのです。
 ま、その辺は、歴史的思想史でも勉強なさっていただいて。
 
 さて、しかし、アナキズムとは、他人に言う思想ではない。
 アナキズムとは、「する」倫理なのです。あるいは「しない」倫理でもありますが。
 俺はこれをする、したいからする。あるいはこれはしない。断固しない。いずれにせよ、全ては個人の決断のもとにある。
 他人がどうだろうが構いはしない。全ては自分の思いにある。

 だいたい、他人に、○○をしてはいけない、などという必要はない。する必要がなければ誰もしないんだから。
 にもかかわらず、たとえば他人は「俺たちは戦争をするぞ」とアナキストに宣告してくる。
 なんで、お前はそんなことを私に言うのだ?
 ぶんなぐっちゃうぞ。
 しかし、相手が国家ではこちらが拷問死するだけだ。
  
 ここで、する必要がないのにする、ということは、彼がそういう『状況にある』ということだ。
 従って、アナキズムの倫理は社会変革の必要を口にするのです。
 それは社会道徳ではない、究極の個人倫理です。
 
 さてそんな世の中はいつ来るか。見果てぬ個人倫理は、かくして、50年や100年の被支配者的不遇にぐだぐだいう、そんな立場とは無縁です。実現するのは遥か遥か遥か遠い話。
 けれど、自分の生きている時代の過程的目標というのは自然と出てくるものです。
 それは、人間としての「役割」ではありません。
 単に、私の方針。私だけの方針。
 それに不満のある者は、勝手気まま、融通無碍のマルクス主義者にでもなればよい。
 
   不思議なもんでしょう、規範のあるほうが融通無碍(ゆうずうむげ)だなんて。
   かたや、人間、自分からは逃げられませんからね。
   
   
 なお、酔っ払っているので(うそつけ、と親しい人はいうでしょうが)つけたりですが、なのでアナーキズムには性善説が根本にあるといわれます。
 性善説である必要はないけれど、根本的に悪いやつというのがいたとしたら、それへの対応は、殺し合いになっちゃいますやね、(なんてシンプルに話したアナ―キストは歴史上はじめてじゃないかね)。なので「嘘が県民性だよ」、みたいに誇らしげに言う人々は大嫌い。このブログでO地域への悪口が載るはそういうわけです。私がけなしているのはそういう自己表現法。
 親しい人はご存知のように、生まれたときからO地域のNk氏のように立派な人もいらっしゃいます。そんなことは知っています。
   しかし、なら、そういう自己表現は止めろよな。
 
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普遍的社会道徳:ヒューマニズム

2010-08-28 22:15:43 | 歴史への視角
 こんばんは、お暑うございます。
 暑いのには私は徹底的に弱く、すでに頭痛の時期に入りました。今年は担当換えでひまな仕事になりましたので(って内緒)、この頭痛は暑さストレス以外なし。

 ここんとこ酔っ払い話が続きましたので、今日は少し真面目に。
 なにしろちょっと科学構築のサンプルに、行く末を見ようと思った菅政権が更に一層弱体化しようとしていて。新聞はくっだらねえ論議ばかり。茶々の入れようもない。
 小沢のバカ。2年経ったら可哀想だから応援してやろうと思ったのに、もうしねえよ。
   って、別に民主党に選挙票入れたこともありませんが。
  
  
 さて、現代日本的無宗教世の中、左右見渡しても普遍的な価値というものがありませんで。
 左が消えたのはそれとして、右も酔っ払いやら、アルコール18禁の諸君らが、道徳を守ってしらふでバカこいている時代。
 
 普遍的な価値なんて世の中にあるのか。
 って、1週間前の朝日新聞に載ってました。
   そういう資本主義者の危機は、よいチャンスなんですけどね。
   
 さて、価値は他称個人のものだけれども、「普遍的な価値を主張する」という行為は社会のものなので、これはシンプルに存在するのです。
 いわく「ヒューマニズム」です。
 「人間にとって」~~○○という一般論です。

 これは普遍的に権力に刃向かうときの命題で、マルクス以前の神学的な時代からそうでしたし、社会科学においてさえ、マルクスの時代からは、「人間にとって」という設定があったわけです。
 もちろん、あったにもかかわらず、資本主義的爛熟期においては、論題は否定されます。「類としての人間」論のレッテル張りですね。もちろんレッテルを貼られるほうも後進国ドイツ相応な主張の仕方ではあったのですが。
 
 しかし、本来『人間として』の価値的立場は、支配・被支配を否定しうる平等性を前提として、その中で、支配者、被支配者共通の規範を求めようという立場から出されたものです。それは誰からも本来否定できない。
 もともとは貴族的差別社会体制に刃向かうために人民が出してきた価値であり、確かにそれはブルジョワ市民的なものではあります。従って一般に、ブルジョワ的尾ひれ背びれがついており、被支配人民はそんな話には乗らない。
 仮に、口車に乗った人民に対しては、ブルジョワジーは、冷酷な現状認識から、「ばかいってんじゃねえよ。そこの労働者、お前。お前だって俺と同様悪いやつだろ。同僚を裏切っててめえだけ会社に残ったじゃねえか」
 みたいなブルジョワ倫理の攻勢をかけます。
   てめえの反省だけしてろよ、と思いますが。
   
 などという現実にもかかわらず、そのブルジョワ的視点は、平等の規範との接合点にあるのであって、人間は人間というこの一般化自体に誤りが内在しているわけではありません。
 これを否定したがるということ事態、人間にも救いがある、良心があるということですね。

 いずれにしてもヒューマニズムは、それを奉ずる人間の良心を攻撃すること以外では、否定できない。
 社会の道徳として、ヒューマニズムは普遍的な価値をもつのです。
 
 
 もちろんアナーキズムは、そんな蓮っ葉な社会の道徳ではない。
 それは、、、、めんどい。
 
 今日は頭が痛くて。また別に。
 そういえば昔書いた「次の話題」のテーマ「旬」は決して忘れてはしません。
    が、義理堅いけど、義理遂行の社会的非待望性も体感しているわたし。
    

 と、一部ためになる正気の話を書いたところで、酔言。
 朝日新聞の読者様には、今日の土曜特集には丸善社長の小城武彦というのが出てまして。どこの会社でも話は一緒なのですが、ちょっと関係してると感情が入りますよね。
 きれいごとばっかり言いやがって。
 この手の感動的社長話は、すべて、どうやって社員をやめさせるか、残ったやつを働かせるか、というだけのことで(それをどうやって綺麗事に見せるか)、40歳以上のサラリーマンは分かってることと思いますが、老人、女子供や、社員も30代までは、読んで喜んだりする。年寄りその他には他人事のうえ、40までは体力余ってますからな。目標さえあれば飼葉桶ですな。
 かどうか知りませんが、朝日で特集が続いてんだから喜んでるやつがいるわけでしょう。
 ベエ~~~ロ。

   不愉快じゃなあ、、、。頭痛いし。
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2種類の記者

2010-08-23 21:34:44 | 断片
 こんばんは。
 ためになるブログ、今日も断片(=酔言)ですが、くだらないテーマの前に、先にためになることを。といっても家人に教えてもらったのですが。
 この暑い夏、老人が熱中症で亡くなられますが、これは相当良い死に方ではないか、と。
 なんだかんだいっても、最高によさそうな老衰と記載される実は肺炎などは、なかなかに苦しいと聞きます。単に一日二日で済むというだけで。
 本来の老衰というのも、腎臓機能の停止で、これも痛くはないんでしょうが、どうも気持ちよさそうではありませんな。
 それ以外のやまいなんかなにをかいわんや。

 熱中症なんて、本人、まさかいま死ぬなんて思ってないし。
 みんながあこがれる「とんころり」死はこんなところにころがっているのでは。

   なんてことを家人と話しても、ぼくは口には出せないぜ、と人にはいいますが、実はいえるわたし。
   前からの読者はご存知なように、わたしは祖父が大嫌いだったのです。年寄りなんか死ね。
   なんて、いまは親の時代なのでいいませんが。
     いや、聞いてみると良い情報でしょう?
     問題は、しかし現代では、貧乏な人だけが、不幸なまま陥る状況だ、というだけで。

 で、本題は、つまらないことですが、わたしの嫌いな、だけどしかたなしに購読している朝日新聞には、武田肇、という記者がいて、なかなかの人物。 ここんとこ広島の記事なんか書いてますが、こうゆうひとがいるなら、購読料もまあがまんしようかという人間性がみられます。
 一方、おなじようでも、松本一弥という人がいて、別に悪い人じゃない、いまもイラク特集を一生懸命書いていて良いのですが、こうゆう人が朝日の偉い人になって、そのうち軍部のチョウチン記事を書くのだろうな、と思われ。
 なにをいっているのか、というと、松本氏は、イラク連帯日本市民を称揚するのに、米国国務長官の称揚発言を出して一方でプラス点を上げ、「それに引きかえ」でマイナス点を日本政府で稼ぐ、という。ま、「日本人大衆」そのまんまな思考方式ないし記事戦略をとる。
 べつに非難することじゃないですよ。朝日新聞が大声を上げて戦争協力したのは当たり前ですからね。朝日の記者なら当たり前の所為。
 でも岩田氏ならしないだろうな、ということで。彼は人間一般を基準にするだろう。
 
 いっても無駄だけど、人間、自分のないやつは、世界に対しては刃向かえやしない。
 
   それにしても朝日新聞を取ってる方は、夕刊をご覧になって。
   イラク連帯日本市民の顔。
   こうゆうのが坂本竜馬の顔なんですよ。なにが福山龍馬。バカちゃうか。
   生きていない人間には何もわからない。
   (このパラグラフのためになるべき重点は後半です(前半の顔、今ひとつ殺気が足りませんやね)。この点は、60年代を生きた人間ならみんな賛成してくれると思いますね。普遍的なんですよ、状況が作る顔「つき」って。)


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世間話2題

2010-08-21 21:34:02 | 断片
 こんばんは、お暑うございます。
 今夜は近くの墓場で(尺玉に迫る)花火を上げて、ベランダ鑑賞。ほどほどに近いとよいですね。長くないのも。

(その1)
 高橋睦郎という人がいまして、朝日新聞にときどき植物の随筆を載せています。
 植物随筆プロパー(と思われる)の割にばかげたことを書くので本気で見ることもなかったのですが、今日はなかなか出色、
 日本人(の大人)は、ヒマワリをゴッホの「ひまわり」を通して見ているのではないか、とのこと。
 ほおお、わたしはそうだな。
 わたしの幼少のみぎりにも、向日葵は小学校にも家の庭にもあったのですが、今となっては、ヒマワリはゴッホ。かつ、向日葵好き。夏らしいエネルギーを感じませんか? で、感じる理由は写真じゃなくて絵かも。やっぱゴッホはすごいね(わたしは印象派マニア)。
 
 なんてことを、他人もそうだと決め付けちゃうのがこの高橋先生のすごいところ。

 ところでさっきwikiしたら、植物随筆家じゃなくて、詩人なんだって。
 あきれた。
 どおりで、無知。だけどどおりで詩人だ、なんていわんぜ。


(その2)
 と、ここまで書いたら暑くてまいってしまった。病気かな。
 どうせ世間話なんでがんばって書くほどのことではないのですが、あの世間や党派の首相批判はなんとかならんかね。
 最高権力行使は遊びじゃねえぞ。
 サッカーの監督選びとおんなじじゃねえか。
 まともな意志行使なんか3年しなきゃできっこないだろ。あっちもこっちも自分は無能力のくせに。黙って勉強でもしてろ。ぎゃあぎゃあわあわあ無責任なだけだ。
 
 わたしのような左翼分子はそうした弱体政権は好きだけれども、今は弱体でも何でも変わりようがないから無駄な好条件。
 それよりもわたしのような孤立分子にとっては、いいかげんなやつらを見ると力が失せていくよ。豚やカラスやスピッツのような自称民主家たちより、やせこけて神経ピリピリさせてがんばっている民族右翼のほうが、孤立分子にはずっと力になるさ。
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「根府川の海」

2010-08-14 21:40:13 | その他
 こんばんは。お盆ですね。
 お盆は家族が集まってよいですよね。当家でもとうに出て行った娘、息子と外出して、ふと気づいた12秒ほど。
    あれー、気が付けば「ここにわたしの家族がいる」
       変かねえ、、、
 子供なんて元気でいると思えれば、それで、どこにいようといいんですけどね。
   でも実際にここにいるというのもよいですよねえ。
 12秒気づいた後は他の作業でその感情は忘れましたが。でも12秒あれば、人間のうち1000人に1人は、十分に死ぬことができるんですよ。日本でいえば、0.1%、10万人ですよね。わたしの友達たちです。

 そんな友達にあたうような茨木のり子が朝日新聞夕刊の1面へ。戦争特集ですかね。「根府川の海」
 
  根府川
  東海道の小駅
  赤いカンナの咲いている駅

  たっぷり栄養のある
  大きな花の向うに
  いつもまっさおな海がひろがっていた

  中尉との恋の話をきかされながら
  友と二人ここを通ったことがあった

  溢れるような青春を
  リュックにつめこみ
  動員令をポケットに
       ……………

 良い歌を。今の俊太郎なんか恥ずかしいくらいですが、彼も昔はこんなのを書いていたんですけどねえ。(不思議ですね、詩のセクトというのも。なんで同じになるのか)
  茨木のり子という人も、よい歌を歌っていてもあほですねえ、、、まあ関係ない人の男趣味はとやかくいいませんが。。

 
 で、話題がずれますが、コピペのために今ネット検索してたら、元高校社会科教師近井弘昭という人が引っかかって、「根府川の海」と「わたしが一番きれいだったとき」(という、有名なだけの大したことのない詩)と比べて
『前者は、失われた青春への抒情と読めますが、後者ではひとつの時代が描出されています。「わたしが一番きれいだったとき」には、世代を超えて訴えかける普遍性が増しています。この詩が教科書に用いられた所以でしょう。茨木のり子にとって「根府川…」(昭和28年)から「わたしが…」(昭和32年)への移行は、たやすいものではなかったのです。』

とかなんとか。
わたしだったら死んでからこんなこといわせないぜ、って、わたしは詩人じゃなかったね。
情けない政治主義さ。
 詩人が友達同士で、詩は普遍性があるのを作ろうよ、と言い合うのはいいんだよ。それぞれの生き方でね。
 しかし、読んでるだけのやつが指図すんじゃねえよ。
 
 というのが一つ。普遍的な思いですね。
 
 しかし、世の中そう甘くなく、
 もともと上記の社会科教師の発想は、抒情の詩への警鐘としてあったマイナーグループの発言だったのです。抒情の詩を歌うことが戦争へつながっていった、ということですね。
 それは実際そうだし、そんな轍はおれは踏まない、というのが戦後詩人の出発点なわけです。
 
 なのに、なんじゃ、今夜の「帰国」とかいってわけのわからぬテレビ。
   時代だねえ、、、抒情は警鐘したほうがいいぜ。
   
 展開すると複雑になって若い人は卒倒するでしょうが、作ってるほうの思想はどうでもいいんですよ。作ってる人間は、気持ちだけは余り戦中の若者と変わっていないから作りたがるんですな。わたしなんかもそっち派で。
 しかし、彼らは、今自分たちが思う存分食っている、ということを忘れている。
 痛みを忘れ果ててしまっては、戦争の拒否などできやしない。その感覚だけをばら撒いて、痛みのかけらも知らない世代に、今がダメだなどと。バカか。 右翼反動。
   いえ、CMコピーしか見てないですけどね。

   戦争なんて楽しいもんだから。知らない男たちにとっては。
   戦死一般なんて嫌うもんじゃないんだよね。「一般」はね。
     
       おやおや、当初とわたしのテーマが変わってしまった。
       まあ、コーヒーブレイクより、こっちのほうが大事だからね。
        (だけどさ、長く書かないと若い人にはわからんのかな、と思うと、それだけでやる気が薄れるんだよね)
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自費出版の2

2010-08-07 16:36:56 | 「行為の集成」
 さて、の2で。
 
 この間集めたけど使わなかった自費出版の情報です。何かのご参考に。


F社:ここは悪名高い共同出版方式を取るところなので、注意。
   1年契約で、2年目の費用の高さも、注意。
   高い費用を出させて、印税の安さにも、注意。
       (上記はHPに載っていることなので、悪質というわけではない。
        読んだ人が契約する前に気づけばね。)
        
V社:印刷するだけならいいけれど、流通させるつもりなら、見積もりには反映していないので注意。プラスアルファがすごく高いですぞ。こうゆう宣伝の仕方は嫌いだ。
  他社と見積り合わせして比較したほうがよろしい。
 
P社:シンプルに費用がかかることがわかる。品格を感ずる。が、なにしろ高い。
  デザインが得意なようなので、そういう人はよいかも。2年契約だし。

R社:普通の人感覚で気持ちのよい宣伝。流通の場合、一般にここが一番安いことになるが、本当か?
  1年契約なので、2年目も含めて見積りを取ってください。

近代文藝社:これは名前を出しますよ。そのかわり何も言いません、ヒマがあればアクションしてみてください。おもしろいから。
  お金の使い道のない人で一般書を出すなら、こういう大樹もよいかもね。とにかく書店には届くようだから。

 と、さっきから1年、2年とこだわっていますが、1年なんてすぐに経ってしまいます。その間、著者のアクションなんて知れてるからね。アトは待つだけ。それじゃ時も飛んでゆくさ。
 じゃあどうしろ、って、悪いことは言わないから自費出版なんて止めて、
 (1)売れる本志望の人は、出版社に企画を売り込む。
 (2)小説系の人は雑誌賞佳作以上を狙う。見込みがあるとそれなりに取り扱ってくれるようです。そんなのも取れないようじゃ物書きはやめたほうがよい。

 本の内容に自信のある人は、私のように何年も時を待つのがよろし。
 出版社なら毎年(なり毎出版時、目録や巻末やで)こんなのありますよ、と宣伝を続けて、やっと10年で初版2000部売れる、こんなに時間かけちゃ損しなかったくらい、良心の満足だけが儲け、みたいなことができるようですが、結局、自費出版では継続的に諸書店に働きかけるなんてことはできないのです。

 なら、その辺の印刷屋さんに依頼して、自分で掃ける分だけとにかく安く作ってみんなに配るだけでもおんなじかも。


  てなわけで、今回も万能書店さん。今回は流通付き無期限(!)とのことですが、さてどうでしょう。

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自費出版

2010-08-07 16:29:32 | 「行為の集成」
 こんにちは。連週の暑さに出勤意欲も萎えるきょうこのごろ。
 うそつけ、いつもだろうといわれますが、過ぎたことは覚えていません。 おとしよりをいじめないように。

 次回出版作品原稿が出版会社さんへ持ち込まれましたので、そろそろこのブログも宣伝体制をとろうかと思いまして、新しいカテゴリーを作りました。
「行為の集成」です。

    行為の集成                
       (副題)行為論的社会学基礎理論

 とゆうのが本の名前。
 今回はこれまでとは違って内容に物語が組んでませんので、くろうとさん用ではありますが、その分わかりやすいという、これじゃなんで今まで物語を入れてきたかよく分からないという矛盾が、、、
 
 ま、そういうことで「行為の集成」 第一回目は『自費出版』。
 
 前回『パリの爆薬』刊行後、わたしのお得意先の万能書店が方針転換で跳びあがるほどの値上げをしたので、シンプルにここはやめて商業出版を画策したのですが、これも不首尾に終わり、(すぐあきらめる潔さ。ってゆうか、われわれのようなサラリーマンでつまんないテーマで長くて(厚くて=売値が高くて)、かつ、売れろ、なんてたしかに無理) 自費出版をあたってみました。もうおじさんで多少の貯えもできましたんで。
 しかしなんだかわかりゃしないね。どこが良いやら悪いやら。分かるのは高いということだけ。
 どうしようかなあ、と思って万能書店も見てみると、おやおや、つい最近また方針が戻って、そこそこの値段で出版するとのこと。
 ま、それも縁かな、とまたここにしました。
 
 万能書店は、もともとの縁は、昼休み、会社に落ちていた日経新聞の情報欄(2001年2月)。そこに「オンデマンド出版、10万円で発売」とあるのを見つけたんですね。ちょうど『変革の機制』の原稿を抱えてどうしようかと思っていたところで、これはこれは私のためにすいませんと、即断即決。結局12万円で出来上がりでした。
 今回はそこまで安くはないですが、縁というのは大事にしないといけません。わたしは自分の夢というものを持ったことはないですが、世間で「夢は実現しようという意志さえあれば実現する」というのは、目の前を通る縁を逃がさないからだと思うんですよね。100点満点で30点の大したことない縁でも、3回つかめば90点ですからね。
 
 とゆうのは前段。
 長くなりましたので、次へ。
 
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世間話の3

2010-08-01 17:16:14 | コーヒーブレイク
 こんにちは。お暑うございます、といいながらもう8月、来週は立秋、私のように週間ごとに生きてるようだと、もう暑さも後半ですね。
 昨夜は帰りがけに土地の氏神神社の盆踊りの音が聞こえてきまして、ちょっと寄りたかったけれど前夜の飲み会による寝不足で疲れて寄る気になれませんでした。ってゆうか、神社は山の下の商店街の神社なので、われわれ山の上新興住宅地族とは関係がなく。
 われわれ的には幼稚園(や保育園)の盆踊りのほうが地域の祭りらしいです。

 で、前夜は、昔の同僚の快気祝いだったのですが、これがひどいことに昨年発症し都内の某S医大病院に行ったら、面と向かってあなたのは奇病だから治せないし、もう1ヶ月しかもたない、とかいわれたって。本当だって言い方があるだろうと、知り合い連中で怒ったのですが、その後、お子さんが都内のT病院に転院させて、いろいろ大変ではあったようですが、無事に飲み会に出席してお酒を飲めるまで回復されたわけで。

 で、この都内のS医大、悪口しか聞かないのですが、やっぱりそうか、みたいなもんです。大学はずいぶん難関になったようですが、一貫して聞くのは悪口というのは、少し反省したらどうなんでしょうか。(若い方へ。病院というのは、普通の病院の上に大学病院があるのです。本来、最高医療が受けられるところなのです)
 一方のT病院、こちらは昔から定評しか聞かない。中央の国家官僚がいくところなので、優秀にできてるんですかね。
 とにかく世の中、病院は選んだほうが良いようです。いちおう、自分のことではないので、頭文字だけにしておきますが。
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