リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

思い出話か資本過剰論

2018-10-27 12:38:39 | 断片
 こんにちは。お元気ですか? 目がかゆいですね。かゆくないか。
 ベランダにはオオカマキリが訪問する季節。チビの時代から時々来て遊んでいくので、いやな種族と思いながらもそこそこ可愛い。見てるとこっちを振り返ってなによとクビをかしげる風情がなんとなくよい、のですが、こいつがわざわざひとんちの窓の下まで来てカメムシかなんかの生きてるのをムシャムシャ食ってる。窓から見てると、あたし悪いことしてる?と首をかしげられて処置なし。
 ここんとこ神に同情しておりましたが、目の前でそんなことをやられちゃしょうがない。私が神なら、この瞬間に歴史をリセットしますし。「大失敗だ」みたいなもので。
 やはり生命世界と高貴な人間等の霊界は存在次元が違わざるを得ませんね。

 さて、ささいなニュース。「NHKは25日、体調不良のため報道番組「ニュース7」(月~日曜、午後7時)を休んでいるキャスターの鈴木奈穂子アナ(36)について、来週も休む予定であることをホームページ(番組表)で公表した。」(日刊スポーツ)。人間て、みておかしいと思うときはやっぱおかしいんだよね。年寄りのいうことは聞くものだ。

 「低所得世帯の高校生を対象とする都道府県の「奨学給付金」について、2017年度までの4年間に受給した12府県の延べ23万8108人のうち、1%の2451人が教育費を学校に納めていなかったことが、会計検査院の調べでわかった。」(読売)お見それしました。私の感覚では1割ですが、たった1%!。そうか生活保護世帯(≒母子家庭)がはいっているからね。お母さんはそう悪いことはしない。

 お役立ち情報。多摩川沿いの方、本日は調布の花火です、寒いぞーー
 花火を秋にやるなんか、気が知れない。遊園地花火に慣れてる世代はそれでいいのかね。
 
 さて、本題は今日も世間話の続きで、実家から40年ぶりで持って帰った荷物。解いてみました。まずは高校時代のビラ。忘れてたことを思い出すこと多々。個人的なことはいいとして、トータルで見て、なんとも民主主義的な学校生活を思い出してびっくりしました。高校って、こんなにヒトと真面目なことをしゃべるとこだっけね。今の生徒諸君は絶対してないような仲間生活。へえええ、、、1年時の思い出す風景で、3年生と教室で話してるのがあるんだけど、なんでも3年8組のクラス討議で、高校生活をよく考えてもらうため1年生の「クラスに入ろう」というのがあったんだってさ。大人世界のいわゆるオルグだね。ビラ読んで思い出した。それと、民青グループと行ったと思っていた朝鮮高校友好訪問、これが生徒会活動なんだってさ。ビラによると、教師側から前日までの宣伝は一切禁止とかいわれて、こういう事態をほっといていいのか、とか書いてあったな。ところでこれらの種々雑多なビラはどこで入手したんだろう、と思えば、登校時の校門の外でもらったなあ、と。これが校門の中に入っちゃいけないんだね、校門内は教師の指導下なんだろうね。生徒指導の教師が入らないように見張ってるのさ。変だけどね、そんなこともあったねと。面白かったのは間違いない。
 と、こんな思い出も、できるのは頭がクリアなときだけ。ふつうは理論活動に使う「一眠り後」を使ってしまいました。社長や教授のアタマも、突然の対応では8割施行ですぜ、お気をつけを。「うちのボスは頭が早い」って、ただの直感だから。その言の趣旨は「わかったまかせた」だけ。詳細は自分で考えないと後でひどい目に会うぜ。
 
 ついで、大量の写真整理。半分にまで減らす。気がつくとこれはわずか青春数年間のさらに一時期の分の整理。疾風怒涛の「なぎ」の期間の写真。数年の間にいろいろなことが起こったんだね。
 それに比べると、理論活動というのはほんと贅沢。あっという間に1年なんて経ってしまう。こんなことを若い時にやるなんて、よほどの変人と思われます。私のように学校の授業など限界ギリギリに手を抜かないとね。もっともそれでは教授の弟子にはなれないわけだ。自業自得。

 あれ、今日は短いな、と思われた常連の方は、そうではありません。順番を入れ替えましたオタク用事項がございます。
 「少子高齢化がさらに進む2030年に、人手不足が現在の5倍以上にあたる644万人に拡大するという調査結果が発表されました。」(テレビ朝日系)。ほんとブルジョワジーの毎度毎度のヨタで。しかし不愉快なんで、いつもは『「安い人手」が不足なだけ』というのですが、今日は新しい言葉を使って非難。「そりゃ資本の過剰だ」。
 人手不足なんていって、これ以上働き場所いるの? 東京じゃあコンビニも余ってるしデパートも余ってるし。不動産屋だって、株屋だって余ってるし。中古マンションも空きビルもたくさんあるから別にマンションもテナントビルも建てることないし。絶対、東京には人いらないから。
 なんちゅうと、困るのがまず資本家諸氏さ。カネ使いたくてしょうがないのに、カネの使い道がない。おわかり? 資本の過剰です。東京にカネなんかいらないのさ。
 次に困るのが中高年労働者だ。元から「ない」働き場所が、さらにない。って、「元からない」? おかしいじゃん、人手不足だっていってたよ、、、ヨタはヨタ。ほんと不愉快。
 ところで、でも資本があるのになんで起業ができない、って、マルクス経済学徒は自分でもおかしいと思うだろ? マルクス先生は教えてくれなかったからね。この答えは、作りゃあ売れるという、もう200年も前の世界の経済学の話を真に受けている、という事情。作ったって売れねえんだよ。レーニンはマルクスより利口だからそういう日が来るし、そして来た、って言ってるだろ。あるいは、レーニンと同じく、現代日本労働者は日々刻々「なんでこんなくだらねえことをして商品を飾りたてなきゃならねえんだよお」と思い知らされてるでしょ。現実とはそう。もちろん、中には「平凡な商品だけどおいらがこんなに飾ったから売れたんだぜ。すごいっしょ」と思う労働者がいるのも現実。理論というのはマルクスでさえ、実感とともにあるのだよ。なんだ、労働者管理で疎外が消えるだあ?? 実態も知らずに言葉の組み替えで自信満々なただのガキの50歳にも越えた自称マルキストは、早く引退しろよ。と、突然だがウサ晴らし。ま、誰がいったかまで言うと根拠もいわないといかんので人生のムダはしない。 
 話はもとに戻って、資本が過剰なときは、賃金など上がりゃあしないんだよ。仮に資本が現実化したとしても利潤など取れないからね。もちろんマルクス等とは逆に、資本の過剰時には賃金低下圧力が高まる。そもそも「可変資本」が使えるなら過剰にはなりはしない。労働者を、その労働力を、使えないから過剰なのだよ。ほんと、この1行、みんな聞いたことないだろ? ということ自体、世の中バカばかりだということの証明。マルクスだろうが宇野だろうが、需給法則なんかを原理論には使えやしないんだよ。需給法則は自由な人間の架空の法則でしかない。行動の自由な経済理論登場者などいないのだ。もっとも競争する資本家というのは主観的に自由かもしれない。こいつらだけは楽しんでやってるように思える。といって、もちろん競争以外の手段を取ろうとしてもとれやしませんが。
 
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再三の断捨離

2018-10-21 09:16:35 | 断片
 こんにちは。久しぶりのいいお天気で。東京地方、昨日は夕方雷雨でしたが。昨日は予告なし原稿遅延で失礼しました。実家に荷物整理に行ってまして、こちらまでは気がめぐらせず。

 というわけで、本日はざっと。
 まずは、「油圧機器メーカーKYBと子会社による免震・制振装置の検査データ改ざん」。こうなってくると、結局、建築・土木業界は7割施工なんだろうな、という気がしますね。
 「安全率が1.5だから、7割で1.05。ちょうどいい」。わたしゃ建築業界はほとんど知りませんが、いかにもありそうな話じゃないでしょうか。で、中に1割はいい加減な仕事をするやつが必ずいるので、その中の運の悪いのが事故を起こす。
 もともとそういうところにこの20年来の談合批判で、会社が孫請けいじめをするようになって、孫請けが手を抜くのが当然になると、もう救いようもない。
 あのリニアなんてできても乗るのはやめたほうがいいですぜ。談合のない落札金額で、どんな孫請け金額がだされているものやら。天井なんかボロボロ落ちますぜ。ま、そのころ私は死んでますが。
 
 サウジアラビアもひどいもんですね。
 まあ、トルコの報道を「よくやった、、、」と静かに言うべきでしょうが、裏で何万人が殺されていようと、イギリス、フランス、ドイツの権力者と、それに対して平凡な人民の命は、1万倍も意味が違うのです。欧米ニュースが来るたびにそのぐらいは思いをはせないとね。
 サウジアラビアなど引っくり返したって糞。そうじゃなくて、欧米3国が糞的に偉い、といってはいます、が、権力者世界のこと。いずれにせよ私の心は海の底。

 例の呉座勇一君が最近朝日新聞にコラムを書いております、前回書いたあさはかな編集委員のツテでしょうか、先週もなんともあさはか。この前書いたときは「まだ若いし」と思ったのですが、根本的にあさはかなもよう。坂本龍馬暗殺薩摩藩陰謀説に、龍馬はトップじゃないからやられるはずがない、ってそれが根拠。本人自信満々。40年前そうでしたっけ?ご同輩。
 別に読んでる最近の日本史学者たちも見てきたような決めつけをするのに気づきましたが、歴史学者は本来そういうもんなんですかね。今までは歴史の法則性とやらに隠されてたから気づかなかっただけなのかしら。

 ま、いいや。というわけで本日も雑談。
 世の中、楽しそうなことなのに実現し損なったのが、思い出顧み。小学校のタイムカプセルとか(セットしなかったけど)、大人になっての同窓会とか(あっても行かなかったりするけど)、遠足のアルバムをしげしげみるとか、こうゆうのって、いつしたらいいんでしょうねえ、、、20歳や30歳じゃ懐かしくないし、60過ぎちゃどうでもいいし。ご学友はいつか会えそうだけど、教師の方々とは会わずじまいでほとんど亡くなられてしまった。もうご存命は清水厚夫先生くらいか。シミアツと自称してましたが。
 ま、ともかく、実家に残っていた最後の自分の荷物を回収してきました。でも40年持ってなかったものなので、要するにいらないわけで。これから人生3度目の断捨離です。結婚するときと、ここに引っ越すときと、ずいぶん捨てましたので、部屋の中はもう断捨離本に写真を載せられるくらいきれい。死んでも後始末には子供も誰も困らない。ただ、押入れがそこそこいっぱいなので頑張ってポイしないと。で、持って帰って大きいのは、アルバム。幼、小、中、高とありますし、捨てるのもなんだけど、といって持ってる必要もないし、、、
 でね、古い写真も押入れにあるのさ。ずいぶんネガは捨てたのですが、なんだかんだでダンボール一杯ある。なんのためにあるのかといえば、これが何の意味もないのですよね。
 で、やっぱり思い出顧み。これらはいつ見て楽しめば(?)いいのかしら、、、ご学友は自分のアルバムを持ってるはずだから見ないし。写真は一人について数枚あれば立派に役目を果たしそうです。
 あ、なお、経験によると、同窓会は40歳くらいにするのがお勧めですね。みんながどれだけ変わってしまったかが分かる。思い出の断捨離ですね。つまらないけど、意義はある。
 
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土門拳の芸術家的実存主義(軽い)

2018-10-13 13:24:50 | 断片
 こんにちは。東京地方、いよいよ秋で過ごしやすくなりました。しかし、蚊にも過ごしやすくなったようでやたらと蚊に刺される。私はもともと蚊のテリトリーに入ると3秒で食われるタイプですが、一昨日は気が緩んで10分も木々の間にいたら右腕だけで5箇所刺されました。あとはもちろん左腕やおでこ。刺されると膨れ上がって、
 蚊に刺されると反応過多で。元はといえば息子が転勤したので8年前行った奈良のFホテル4××号室。寝て起きたら浴衣から出ていた肌の全部に、百2、3十箇所の虫刺され(?)が。次に泊まる人がいるはずだからよほど言いつけてやろうかと思いましたが、原因不明なのでやめましたが、その秋にはお彼岸の墓参りで蚊に数十箇所刺されただけで(!)全身数百の腫れです。ここにも書きましたね。で副腎皮質ホルモンを飲んだら、免疫不全で普段引かない風邪を引いてエラい目にあったという。ここまでは書いてないけど。ともかくそれ以来、蚊に刺されると直径2センチの丘疹に膨れ上がるようになりました。
 アレルギーはいったん出るとずっと長引くので、まず初めの契機になるひどい目に会わないように心がけましょう。
 
 長いですね。ま、本日は世間話。
 今日は朝日新聞お気に入りの山室恭子、おしゃべりおばさんは、さも明治時代に人間に撃ち殺された狼は可哀想、みたいな読書感想文。ったく、最近はおめでたいお嬢ちゃん学者やお坊ちゃん学者ばかりで歴史出版物の見出しを見るのもいやになる。歴史に真理なんかないからね。おばさんの専門の元禄時代、狼がどれだけ百姓の家族の女子供を食い散らかして恐れられたか、知らんとは言わせない、ところだが、知らんのだろうね。横森栄一が引いている(信州高島藩旧誌)。彼はお坊ちゃんじゃないからね。
 ついでに栄一つながりになる、朝日記者の古代馬装博士宮代栄一。女工哀史時代は明るかった論(インタビューストーリー)。たこやろう。そもそも明治の貧農が暗いという状況のベースもわきまえず、さらに地元を悪く言いわけがない田舎心性男へのインタビューで、さも私は中立でございみたいな話をでっち上げる。おめえは貧乏のさなかで決断するしかない人間の痛みも、あるいはたとえ砂の城であってもせめて生きているうちに掴みたい虚しい幸せなど感じたことがないだろう。記者なんか辞めてどっかの学芸員になって腐りかけの馬具でもなぶってろ。
 (P.S. 先の横森栄一の本(古道)を見ましたら、野麦峠も載ってましたよ。まともな人ですね。(野麦)「峠の上下、ところどころに、小さな石の地蔵がある。これをなんと思われるだろうか。年ごとに信州からかえってくる女たちが、路傍のくさむらへ産み落として行く嬰児のため、峠の人々が建ててやった墓である。彼女たちをせめてはいけない。工場で糸目をよく見てもらうためには、検番という鬼のような男のいうことをきくより仕方がなかったのである。」(「野麦峠」作者の資料より)。追加で言えば、明治貧農の赤子の命など、どこで暮らそうがそんなものだ、というのが普通の社会学徒の認識です。だから、それはノーマルな状況ではある。歴史学博士宮代は「だから別に女工など暗くはない」ということでしょう。)
 
 なんて、ついつい怒りが。庶民に怒ってはいかん、が、責任がある新聞記者だからしょうがないね。ともかく明るい話にしましょう。 
 順天堂も昭和大も医学部の入試で女子や浪人中の受験生を不利に扱う不正。「現役の医学部生や医学部を目指して勉強中の受験生からは驚きや憤りの声が上がった。」(毎日新聞)
 なにが明るいって? 当事者が憤っているところが明るい。続きの記事で「医学部を目指している浪人中の男性(19)は「浪人生や女子が私立大の入試で不利を受けることは知られていた。医師として活躍する期間を考えれば、仕方がないかもしれない」とあきらめ顔。こうゆう関係ない奴らはどうでもいいんだ。どうせ何もやりゃしねえ。当事者が憤っているところが、比べれば良いということがわかるでしょ? この際、大きな潮流になればいいね。おりゃ関係ないけど。
 
 さて、憎まれ口は、中立な方に迷惑なので、そこそこに。
 引き出しに白黒のブローニーフィルム(二眼レフなど用のフィルム)が古くなってまして、もったいないから撮るか、と二眼レフ(リコーⅣ型)を持ち出して撮りましたが、ピントは合わせないわ(忘れた)、巻き上げず二重露出はやるわで、惨憺たるもの。
 というわけで、ちょっと勉強に土門拳の「写真作法」を紐解きました、ら、思っても見ず、正しそうな記載が。
 まず第1に、鑑賞者は写真に事実を見るのだと。「当たり前だろう」ってそうじゃなくて、鑑賞者は主体的に写真の中に写っているはずの事実を探すのだと。おお、、って気がしません?
 第2に、写真は実存主義で、本当は本当、ウソはウソ、まぎれもないものなんだと。これは世の中どこにでも虚偽というものがあるわけですがそうではなくて、撮るほうと鑑賞するほうの志向、行為の方向性にあり、双方で交差する本当さのことのようです。撮るほうは、まず、対象の中にその事実を探さなければならない。いい加減にシャッターを押したら感動的な写真にできた、なんちゅうものは、何の意義もない、とのこと。相手は偶然とも知らずに撮り手の主体がこもっているはずの事実を探すんだからね。
 第3に、カラーはいけない。撮るほうも見るほうも騙される。
 第4に、「騙される」というからにはそうでない本当のことがある、ということだ、、
それは、撮るほうでは、対象に自分が主体的に見る「何を語るか」であり、見るほうでは、「見る人間ではなく」撮る自分の抱く、「見る人間が何を求めているか、大衆が何を求めているか、の把握」、その上でのコミュニケーション内容なのだ。
 なんだそうです。
 言葉は違うよ、私も主体的に読み込みますから。でもそういうことが書いてあって、ちょっと愕然。40年前から手元にあるこの本の、いったい何を読んできたのか、と、まあそのときそのときで読むほうの志向は違うからね。でも久しぶりに黒寛以外にまともな言葉を読んで嬉しかったので書き留めましたよ。
 言い換えましょう。
 人民は隈の本に事実を求めてくれる。
 といっても人民には人民が求めるものがある。自分が好きなだけの勝手なことを書いても、それは人民の思想家ではない、との仰せ。
 おう。なるほど。そんなことを芸術家土門が思っていたとは。
 
 実はもちろんわたしくはそんな話に恐れ入るタマではありません。私は思想家ではない。人に嫌がられても真理を語ることこそ古今、天才の務め。ですが、でもまずは普通によい態度であるなあ、と思うものであります。いいねえ、芸術家は。人民の他に「神」がいなくて。


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学における歴史性と継時性

2018-10-06 13:31:44 | 社会学の基礎概念
 というわけで、これは本日の続き「別題」、オタクの方専用。
 読者限定なのですぐ入っちゃいますよ。
 
 一口に「歴史」といいましても、とりあえず2通りあります。第1に、その中から物語を作る諸データの連なり。第2に、諸データから研究者が作り上げ、出来上がった物語(ストーリー)。まあ同じものの表し方の違い、とも言えますが、後者がいわゆる「歴史」で。「物語」というように、それは小説であり映画であり、「歴史と名づけられた何か」であり、その物語に登場する「単語の意味」です。
 この2通り、どちらも行為者にとっては、原則、外在的なものです。映画を見て、その映画内容を次の日に行為するのはよほどの変態。
 
 さてところが、似たようなものでそのほかに、「継時的変化」と呼ぶべきものがある。これにも2通りあります。
 まず第1に、「ある事象の時系列的変化」というものであり、既に存在する概念について、これに新しく付与されるべき意味のことです。ポイントは、すでに存する概念の豊富化だということ。別の言葉で言えば、因果連関が持つ歴史的規定性の確定です。言葉で物語をお作るのではなく、ある社会事象について、その事象が「なぜ」「いかに」時間的に変化し得たか、ということを語ることで、その事象の概念を豊富化する、ということです。それによって豊富化した概念は、それをもって行為主体の次の未来への思考を真理化させるべく存するわけです。人はこの結果をもって次の行為に移る。
 第2に、「現在存する社会状態のよって来る所以(ゆえん)」というもの。焦点は、現在の事象そのものであり、別の言葉で言えば「現状分析」です。現状のある事象が、どういう経過をたどって今に至るか、その時系列的な把握のことです。事象の把握は、それが現在どういう状態なのか、何を要素として「現在」となっているのか、その状態を事実として確定させるためにあります。人は、同様に、その結果をもって次の行為に移る。
 今述べたこの2通りの継時的変化こそが、人間の学問の持つ主体的意味なのです。

 こういうことがサクッと頭に浮かぶところが私の素晴らしさ。ボケたなんて言わせない。って、ボケボケで毎日よく生きれてるなあと思うんだけど。(ってゆうか、物事がサクサク浮かぶには年齢的定着が必要なのさ。ほんとムダに生きちゃあいないぜ、というよりも生かされてるといったほうがよい。以上、信仰者より)
 とりわけ、今「継時的変化」と呼んだものに2通りがあるなんて、歴史上社会科学者が世界に何千万人いようと、誰一人思いも寄らなかったことですぜ。

 といって種を明かせば、入江節次郎氏の『世界経済史の方法と展開』2002年、という本が変だったから。変といっても悪くはない。入江氏というのは1921年生まれだそうで、研究をし終わった人がやっと縦横に語れる、という喜びに溢れた好著です。知る人しか知らない人なのが残念。
 なんだけど、それゆえに自分の知識にひきづられてしまって、御自身の論理どおりにならない。
 入江氏によれば、世界経済史は、経済史を時間の流れではなく同一空間のものとして扱うのだ。というわけ。正しいね。現状分析として正しい。しかし、それなら経済の歴史を扱ってはいても経済史ではないよ。にもかかわらず本書の結果は、書物としてはただの経済史です。
 一方、彼によれば、経済段階論は、前の段階の要因を次の段階では消えたもののように扱うのが間違いだ、と。しかしこれは彼氏の間違い。経済段階論は、それが正しいのであれば、規定因子論なのだから、段階ごとにリセットされた姿で表すしかない。経済段階論は経済史ではないのだ。
 まあそれはいいとして、こうした議論には抜け落ちた側面がある、というわけで、それが継時的変化の第1の概念の豊富化です。これがない限りは人間は歴史からは何一つ学べない。歴史家の説を面白く拝聴することはできても、それでは講演会場から出れば、青空の下、歴史家の講義とは縁もゆかりもない世界に舞い戻るだけだ。
 社会科学学徒は、常に行為主体として人間社会の概念を豊富化することにより、同じ行為主体である人々とともに、その生を豊富化しなければならない。
 
 というわけで、これはカテゴリー「その他」歴史学ではなく、社会学徒が自分の理論を作るための基礎知識なのです。我ながら、ここんとこすごい社会学的貢献であるなあ。
 ちなみに、ようやく次回論究の中枠が仮決定しました。今やらないとすぐに凍える冬だし。
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青春の歌と青春を歌う歌と青春を生きる歌

2018-10-06 13:25:42 | コーヒーブレイク
 こんにちは。先週の台風はひどかったですねえ、近くの桜の木が何本も根こそぎひっくり返ってました。とはいえ、風の強さは生まれてから最大というほどでもなく、今までなんともなかったというのも変な話ですが、災害というのはそうやって起きるんでしょうね。
 本日は、関東地方は、しけってて暑い。毎日10度近くもあがったり下がったりすると、食べるものにも困ります。

 さて、今週はまともなニュースが。「ノーベル平和賞、性暴力の被害者の治療や救済に取り組むデニス・ムクウェゲ医師(63)と、過激派組織「イスラム国」(IS)の暴力告発者でイラクの少数派ヤジディ教徒の人権活動家ナディア・ムラドさん(25)の2人に授与」(時事通信)おめでとうございます。功績の度合いの分からないその他の部門よりすっきりしてるのもよい。人間の仕事ですね。

 本日は、まいふぇいぼりっとしんぐ。
 唐突ですが、テレビで中島みゆきが、「時代」を歌っていたのだけれど、しかしなんか違うな、と思って。やはり「時代」は23歳の歌であるべきで。
 「時代」は青春の気持ちを歌う歌なんでしょうし、何歳で歌ってもいいはずだけれど、しかし歌は歌手と不可分。「時代」を好きだからといって。じゃあyoutubeにアップしている素人さんの誰の歌を聞いても良い、ということにはならないし、それは素人が玄人でも、本人でも、同じ、だろう。しかしてこれは23歳のみゆき氏が歌わなければならない、、、
 と思ったのだけれど、そこで、シャルル・アズナブールが亡くなったというニュース。
 9月中旬に日本で公演をして帰ったばっかりなのにね。見事ともいえる。
 3年ほど前ここ(「断片」カテゴリー)に数行書いたように、84歳の時の歌(youtube)でもすごい、ってところがまたすごいね。
 「世界の果てに」がよかったって朝日新聞に書いてあった気が。(知らん題だと思ったら「連れて行っておくれ」のこと。でも微妙に違うな、と思ってレコードを探したら、レコード、ない。引越しのとき捨てたか、、、信じられない断捨離、、、)。
 と、何の話題かと言うと、「世界の果てに=Emmenez-moi」若い。もっともそれに限らず、アズナブールの歌、若い。大昔、中島みゆきよりちょっと前に聞きだしたアズナブールも私の青春の歌。かつ、青春を歌った歌。なんだけれども、みゆき氏とのこの差はなんだろう、と。
 やっぱ、アズナブール、常に必死なんだと思うぞ。青春とは必死なものだ。そう思えばみゆき氏は、はっきりいって余裕ありすぎ。歌が「自分」を離れて、ただの応援歌。それじゃあ谷川俊太郎や岡井隆と同じ。歌職人。問題あるなあ、、、

 というわけで、この手の話にオタク話題は合わないのでその手の方は別題で引継ぎ。
 最後に「世界の果てに」、ちょっと歌詞の一部をあげておきます。

  Emmenez-moi au bout de la terre
  Emmenez-moi au pays des merveilles
  Il me semble que la misere
  Serait moins penible au soleil

   連れて行っておくれ 地の果てに
   連れて行っておくれ 奇跡の国に
   貧しさも 光あふれる国ならば
   それほど辛くはないだろう

  Je fuirais laissant la mon passe
  Sans aucun remords
  Sans bagage et le c?ur libere
  En chantant tres fort

   逃げ出そう 過去は置き去りにして
   後悔などは微塵もない
   荷物も持たず 自由な心で
   力強く 歌いながら

     (ミスター・ビーン訳)
     https://ameblo.jp/jaimeen/entry-12106194162.html

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