リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

近代俳句

2008-07-27 21:25:46 | コーヒーブレイク
ま、前回の続き


近代以降の俳句の作り手は、文学的素養が古典人の何千倍もあるにもかかわらず(古典人の最良者が400字詰め250枚の単行本2冊を読めたとして、現代俳句人は2000冊は読んでるっていえるでしょ) いまだ、5,7,5文字の音律で自分の全てを語ろうとしています。
語ったっていいけど、人にもそうしろというから迷惑モノですね。
古典俳句は、自分が感動した世界を伝えるものです。
それ以上の心や思想を伝えるものではないし、伝えうるはずもない。たとえば17文字で思想を伝えるなんてできっこない。それは俳句人以外の、日本人の99%はわかる理屈です。
  それがああだら、こうだら。
  普通に俳句を作る人間には迷惑でんがな。
 (ま、それも一概には言えないのが階級社会で。偉そうに「思想を告げている」 という師匠・名人がいると、ただ自分の市井の世界を告げている人でも、「俺もなんか思想を言っている、それが偉い」と発想する団塊世代以上がいるわけで。まあ、中高年以上では、ホントは持ちつ持たれつつ、なんですよね。閑話休題)

今いいたいのは千代女ちゃんが、中年になって
「朝顔に」を「朝顔や」に変えた、という話がネットにあって、おねいさん、あにいってんだよ、みたいな。

  朝顔やつるべとられてもらい水

朝顔「や」。 こういう切れ字は感動元を指示するために置くわけです。

元々はおねいさんは若かったから、「朝顔に釣瓶を取られちゃったからもらい水したよ」 と自分のことを述べたわけですよ。それを聞けば他の人は「そんなことあったの、そりゃそうだよね」って思う善良な人々はそれがわかるわけです。それ以上に何を付け足すかは、その状況を思い浮かばされた人たちの勝手なわけでしてね。

だけど本人もおばさんになっちゃったらそんな自分の事情を忘れてしまった。しかもただの町屋の奥さんだから周りのインテリが俳諧指導なんてすると「そうかな」という気になる。
インテリ:「おばさん、自分の気持ちを語っちゃダメよ。あんたがみたのは朝顔でしょ、それを主題にしなきゃ」っていうおじさんに限らず高年齢ばあさんもいるんですよね。
情けなか。自己も気持ちも捨てくさった資本主義者たち。おねいさんが生きてたのは18世紀ですからね。もう資本主義勃興期。
気持ちを世界とともに表現するのは難しい。それを折角表現しえたのに訂正するとは!

田山花袋症候群です。

  山頭火、えらいな。

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