リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

新規社会科学理論の本来的策定法

2021-11-13 11:41:41 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。太平洋側いい天気が続いて、お仕事で悔しかった方も土日も晴れでよかったですね。東京地方は山茶花も散り出すものがでてきて、もういまいち。椿やらバラなんかは枯れた花びらも風情ですが、どこが違うものか。思うに枯れたら用済みだから落とそうと仲間はずれにする根性だと、その心が表れるんではないか、と。(山茶花は椿と違って花びら毎に落ちる)。じゃあバラは? といわれると困りますが。バラの花びらって落ち方違うよね。
 
 世間話。当方、子供のころから飛蚊症で、目のごみは気にもならないのですが、一昨日風呂に入ろうとすると、突然目の中を真っ黒なトンボが飛んで。ぎょえ。
 飛トンボ症はまずいですぜ。パソコン液晶画面の横筋どころじゃない。目をつぶっても見えるのですが、そのうち消えました。デカすぎて重く、瞳の下方に沈んでしまったんだろうか? その後しばらく目を開けたくありませんでした。やだねえ、網膜剥離とか。まあここまで目明きで来られたので、慰めにはなりますが。
 
 さて、本日はオタク話なので、その前にごく一部の方あて、ためになるブログ。
 鶏のレバニラ炒めにしようと最近のレバニラ炒めのレシピを検索しますと、だれが言い出しっぺかは知りませんが、「レバーを揚げ焼きしろ」と書いてあるのばかりです。知ったように、じっくり焼くのは臭みが出るから手早く揚げちゃう、とかも書いてあったり。
 理由なんかどうでもいいですが、みんなが言うのでやってみました。揚げ焼きね。片栗粉をつけて「レバーが浸る位の油で」なんて書いてあるのがあるぞ、なるほどね。えい、と投入。
 バチバチ、、、え? 嫌な予感、、、バッチンバッチンバッチン!!! 油の噴水。
 冗談じゃない。すぐあきらめて火を消しました。イカフライじゃあるまいし。レバニラごときで台所掃除なんか御免。
 「事前によく拭いたか」とかいわれたくない。鶏レバーなんか拭いたって水だらけ。事前処理で水で臭み抜きしてるし、ハツを切り分けてあるから中身出てるし。自分で作ったことあんのかね。
 豚なら大丈夫だって? 知るかそんなもん。書いてないわい。
 ちなみに出来上がりもカリカリしております。レバーが好きな人に言わせるとカリカリであること自体、失敗作とのこと。
 お勧め。鶏のレバニラは検索上位に惑わされず、油大匙1~2杯くらい(フライパンの大きさによる)でじっくり火を通すことをお勧めします。その際片栗粉はタレからみ用に小さじ1杯混ぜるくらいで。
(p.s. その後、豚レバーでやりましたら、たしかに跳ねませんが、しかし全部カリカリになりました。それでよければ。)
 
 では本題。先週の補遺(ほい)。
 先週は大澤真幸の「主客図式に替えて四肢的な構造連関」推しの論に対し、いや主客図式(=二項図式)こそが社会科学の正しい方法と述べたところ。
 いつも言ってることですが、このへんで長いですが具体的にご説明しようか、と。

 さて、主客図式というのは何を指しているのでしょうか?
 押さえておくことは、客体は主体の視点によっていかようにも変わる、ということです。この関係は動かしがたい前提です。
 もちろん客体にそれ固有の論理などはありません。にもかかわらず、人間行為者にとって、客体は客体の過程を動くとみるしかないのです。なぜ? 客体の動きは行為主体の意思を反映しないからです。まず、行為主体はその操作可能性によって客体を判断するしかないし、ついで、それが自己の意思通りに操作されないのならば、その客体に生じている変化は「客体における変化」なのです。これが「1項」ではなく「2項」図式である所以です。

 なお書きでもう1点。客体とは主体のもとでの客体ですからこれを見る視点はいくらでもある。これが片面ですが、もう片面では、そうは言っても見る主体は人間ですので、これを見る視点にはいくらもないということです。
 この構制をどちらにはき違えてもコミュニケーションは成り立たない。
 さて、これを前提として話を始めます。

 まず「研究者」を設定しましょう。
1 問題の始まり

 彼の疑問は、仮に、「なぜ派遣社員である私の給料は正社員の半分なのか」というものにします。
 人は言うでしょう、「それは会社の都合がある。これは経済関係の問題だ。」
 「そうじゃなくて、なぜ派遣社員だと正規社員より安いのか」と問い直します。
 人は「それは日本の文化の問題だ。」と答えます。
 「いや、それでは困っている私への答えにはならない」
 といえば人は「それはあなたの都合であって、わたしに言われても困る。」というでしょう。
 
2 解決の始まり

 さて、ここででてきた「経済関係」「日本の文化」について、それが現実に存在する意味を、研究者は「それぞれ」勉強して解明しなければなりません。。
 と同時に、困っている「私の都合」なるものも解明しなければなりません。
 これらは絡み合っていることは容易にわかるのですが、それでも「それぞれについて」勉強しなければならないわけです。

 そうすると、経済関係の中に個人の要素が多大に存在していることも、文化の中に個人の要素が多大に存在していることも、わかってきます。もちろん、「わたし」のなかに、経済や文化の要素が多大に関与していることがわかります。
 その場面場面について、その場面を構成する要素について勉強しますが、それらの勉強は「個別に」なされなければならりません。

3 解決のきっかけ

 さて、この場面場面の研究で、ある簡単にわかる場面があった時、おや、この場面の経済の要素はもしかして「私の要素」とこのように関連してないだろうか? と知る瞬間があるでしょう。
 
4 解決の進展

 この時に描かれた「枠組み」にそって、彼は全体を振り直して、すべての場面にこれを適用してみます。
 「あれ、これって、みんなに当てはまるのでは? ということはそもそも社会と私ってこういう法則の「どちらも一部」なんじゃない?」

 こうして、2項対立は解消されるのです。

5 仮解決の検証

 さてところで、話はここで終わるわけではありません。
 「ところでこれ本当かしら。順序だてて考えてみよう。これが弁証法だな。
 テーマは派遣社員私の現実で、順序だてて論じた結果、この現実が最後に現れればよい。」

 さて「まずは主体的に派遣社員である私の問題から出ると、派遣社員と労働者だから、労働者は経済的に最低賃金になって、派遣て言うと、、、、あれあれ、、 経済関係の論理から「派遣」の現実が出てこないぞ? 
 いや、これは何かが違う。「派遣」は経済関係では解けないんだ。では、最後に何が出てくるんだ???
 それじゃあ保留にしてあった「文化」か? 文化についてもう一回考え直そう。

 というふうに、弁証法は論理なのです。弁証法で返していけば、最後は正しい論理が現われる。
 (p.s. 弁証法論理の作り方は、去年の当ブログ「方法としての弁証法」シリーズ参照)

こうして研究策定過程を箇条書きにすれば、
1 あるテーマは、自分の思い込みによっては解けないことに気づく。その理由を押さえる。
2 その理由について、あるテーマがどういう様相を呈するかを確認する。
3 その様相を構成する一つ一つの項目について、「こうだろう」「いやこの場合違う、それはこういう理由だ」と考えあわせていく。
4 ある項目について、その規定性を思いつく。
5 その規定性をすべての項目に当てはめ。その様相がそもそもの「理由」を構成するかを考える。
6 そこに必要条件がそろっていると思ったら、現実の初めの一歩、「この場合、主体的個人」に戻って、そこでも規定性が貫徹しているか、その規定性が一つではなくすべての様相に妥当するか、を確認していく。
7 そこで論理の行き止まり(破綻)があれば結論の現実の、これが現実と認識した内容が間違っている。もう一度考え直し、改めて、導き出した新規定性により、「この場合、主体的個人」からもう一度確認作業を続ける。

 このような過程を通るはずです。客体で2×2×2の8項、これに主体の観念性と身体的前提の×2で計16項の視点の行き来が繰り返されるというわけです。
 やってみればお分かりのように、たった2項目の適用検討でさえ、講義授業の片手間でできる気配りではありません。頭の中で思考実験し続けていくわけですから。しかもその「2」を「4」にすることなど、仮に天才ができてもそれを目の前に出されて読める天才はせいぜい世界で数人、そんな理論は理論ではありません。なぜか。第1に、皆様お察しのように、理論の存在意義は他者に伝える点にあるからです。伝えられないものなどに理論の資格はありません。そして第2に、皆様の想定の向こうとは思いますが、理論の伝える内容は一つ。どんな立派な格好をしていようが、あるいはいまいが、内容にしてしまえば取るに足らない一つの認識上の事実関連です。数式なら1行のことです。そんなものにどんな格好をつけようがただの自己満足であり、そんな恰好づけだけの論者は、村の平凡な知識長老に対して、修飾語を巻き散らして村民を惑わす呪術師の存在と同じです。
 
 ところで、話は変わりますが、別のポイントがあります。
 思考対象が個人に戻って確認を始める前の全体枠組みの設置です。
 これがあるんで「具体性の社会学」は、それ自体では社会科学にも新規理論にもならない。
 実証家を志向される方々は良くお考え下さい。全体枠組みが常識で代用されれば、現象理論の結論も常識にしかならない。もちろん、弁証法なりによる論理検証がなされればお気づきになるところだと思いますが。
 

 
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