リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

疎外のうち類的疎外と具体的人間

2022-04-30 14:40:44 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、今日はいい天気。明日はだめだって。どっか予定ある? 雨じゃ連休も連休になりませんね。ただ3,4,5は本州は期待できるようで、コロナに負けない若い人はまずはよかった。
 
 ところで先週のネットに、コロナの変異株がなんで前の原種を駆逐するのか、ようやく答えが書いてありました。変異株のほうが感染力が強いから、先に感染先の人間を取っちゃうんだって。ほんとかどうか知らないけど。
 まあ、変異株と原種がタイマンでやりあうというのもどうも想像ができないと思ってはいましたが、そこはクリアしてます。でも別の昔の本にはケンカするようなことを書いてあったけどね。
 ともかく、それじゃあ変異株は必ず感染力が強いことになります。この場合、強い≒早い≒肺でなく鼻、喉で増える、ということになりますから、死亡率は減る。発症が早ければ、感染の危険率も用心できるから減る、隔離も短くて済む、というわけです。まあ明るい。そんなことは書いてなかったけどね。それが論理というものです。物事を理解していれば、当然の帰結。
 
 さて、年寄りは連休を利用しないで済みますが、他人が楽しい時に何もしないのはさみしい。当家のGWはスシローの回転寿司です。
 回転寿司システムもコロナでガラッと変わったとかで、とくにスシローが変わったからと、わざわざ町田(という田舎の都会)まで行って(当家の近辺にはそもそもない)。
 結局、店員と話さずに会計まで終わってしまいましたよ。味気ないねえ、、
 前と違ってるって、鉄道の引き込み線のように皿を席まで届けてくれるのはまあ面白くはあったけど、回ってる鮨をよだれを垂らして選ぶというのも楽しいんだけどなあ、、
 ただ、ゆいいつ、皿の数を店員と確認するという工程がありました。これこそ電子化で消えたろうと思ったことですが、儀式でしょうかね。
 
 お味?
 いや、安くてよかった。大方110円。
 お味?
 だから安いし。
 
 東京には(高級)回転寿司の美登利寿司というのがあって、会社にいるとき買ってきてもらった(テイクアウトの)あぶり鯖が美味しくて、スシローでもあぶりを何種類か注文しましたが、美登利寿司えらい。
 大昔、梅林の小田急梅が丘の駅(北口の横にあった)売店にいつも列をなしていた安い美味いの美登利寿司。がんばってください。

 さて本日は、稲葉三千男「マスコミの総合理論」の一節、というか一章。
 稲葉氏というのは、昔、新聞研究所にいた親マルクス主義の教授。いい人のはずなんですけどね。冒頭、木下順二「夕鶴」を引き合いに、つうの愛の悲劇とおひょうのブルジョワ的喜劇を、生産過程論か交換過程論で説明しようと試みております。
 
 バツ。
 いくら理論は不得手といってもこりゃあだめ。 
 だいたい説明ができればいいという態度ではまるっきりの他人事です。どうやれば「おひょう」的事態を脱しうるか。それこそが学者に問われていることです。
 
 話が社会学で対象が具体的人間なので、ちょっと話を解放理論の原点に戻します。
 本来、具体的人間から具体的人間の解放には至らない。具体的人間は、彼の意志的な志向によってではなく、彼を取り巻く環境に寄って拘束されているからです。じゃあ具体的人間は解放されないではないか、と、もちろんそんな結論になる。
 この辺がむずかしいところで、社会システムの次元では社会システムの崩壊から具体的人間が解放される。「だから」具体的人間においても彼の解放の行為が存在し、その行為が遂行されなければならないのです。

 ここで、生理性、賞賛と優越は行為者の自覚的行為の目標ですから、学者が研究してわざわざ記すまでもない。行為者が登場人物として自分の好きになるように目指して行為すればよいのです。
 この場合、生産物の収奪という行為からの疎外は、いわば誰にでもわかる。人は自己の行為の成就を、経済的利害の獲得に向けた将来認知により、生産手段の再取得に向けて行為をするでしょう。
 ところで問題は類的疎外からの解放です。本題でつうとおひょうが突き当たった現実です。
 ここからの解放は行為者にとっては目標物がない行為であることにより、人間にとって最難度の行為であり、かつ最高度に高貴な行為となるのです。

 そもそも類的行為の完成は労働からは生まれない。行為から生まれるのです。およそ労働を美化して疎外からの脱却を唱える評論家ほど馬鹿な者はない。
 労働の対価は労働生産物です。
 「いやほかにもある、協働の喜びだ」とか言っているうちは何もわからない。協働は労働に共同行為が追加されたものであって、労働そのものではない。労働はその生産物を(誰かが)入手する行為です。その論理的帰結は生産物物神です。
 餃子を作るのは餃子を入手するためであって、「餃子を家じゅうで作る」ことは、「餃子を作る」事態と「家じゅうで何かをする」事態の合作です。

 すなわちこの、将来の共有あるいは「互いに同様である事態」の認知こそ、類的疎外からの脱却地点なのです。
 これを阻害するものは、普遍化すれば、主体的には(主観的には)、機械化でも官僚制でもない。道具的志向です。
 つまり、人であれ自然物であれ、モノとして自分の役に立てばそれでいいという志向とそれに基づく関係です。 
 行為主体における道具的志向は、外界物を自己と同体化しようという構えを疎外し、他者にとっては他者自身による「同様態」の認知を妨げ、この類的関係を否定するのです。
 
 もちろんこの事態の根拠はといえば、客観的には基底的に支配システムに基づき、媒介的には商品化による事態です。
 このとき商品化問題は媒介事項です。媒介事項に過ぎません。権力社会であれば商品化がなくとも類的感性は疎外されます。
 一方、商品社会であっても十分な行為共同性内にあっては、類的感性は疎外されない。商品関係内にあってはたしかに疎外されるが、商品関係から外れた関係にあっては疎外されないのです。それが資本主義の人間行為者へのメリットでもある。

 たとえば、写真機がステイタスであり、写真撮影が人民の賞賛を得ることが可能な時代と社会にあっては、趣味で行う写真撮影活動とそのコミュニケーション作業が、容易に行為の同体性を生む。ここで同体の対象は、撮影対象と批評者と撮影者のトライアングルです。
(参考:土門拳「写真作法」、ダヴィッド社、1876)
 同様に、俳句同人を含めることもできるかもしれない。写実対象と批評者と作者のトライアングルです。

 自然物をめぐって類的感性を行為するためには、その自然物と行為主体の過去の記憶にすでに密着構築された記憶を持っている場合を除き、自然物を仲間に引き込むための客体行為者が必要なのです。
 行為主体は客体行為者の賞賛あるいはその客体が持つ権力をを媒介とし、自然物との関係を満足的に実感するのです。

 従って、類的疎外は、この客体行為者の存在を前提とします。
 類的疎外は、他者の生理的、賞賛・優越的、そして自己権力の存在が確保された時に、行為者相互の間で回復する事態なのです。生産も交換も、他有化も我有化も、一切関係はありません。




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