リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

説明「社会学」と「状況」の提示と例示(その2)

2023-10-15 10:23:24 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、昨日とは打って変わって本降り。今日はマラソンのオリンピック選手選出だそうですが棄権続出の大波乱。こんな日に走らされて、どうにかなんないのかねえ。
 今日は昨日の続きですが、これですぐに続きを書いてしまうと1日の価値がない。この年になると1日は貴重です。というわけでどうせ誰も気にしやしない趣味の将棋もの。

 世間で藤井8冠という人がいるの知ってます?
 このブログの登場は初めてですね、興味ないから。しかし8冠(8個のタイトルを同時に持っている)ともなれば話題にしておこうか、と。
 この人はわたし的に普通にいい人。だから、一般から言えば「そうとうまとも」な人。いまのところわたしはなんのモラハラもない。若いからね。
 昔、将棋に谷川浩司という人がいまして、20歳のころはなんのモラハラ対象ではなかったのですが、中年も過ぎると怪しくなっていく。まあ人間、よほどでないとそうなるので、別に谷川氏を貶めるつもりはありません。藤井氏が未開花というだけ。
 で、肝心の彼の将棋、これがつまらない。つまらないので興味がない、たとえ8冠であろうと。
 将棋なんて趣味だからね。お互い最善手を指すって、五分五分でゲームを進める、ってこと、それ、なんか面白い? 本人はいいよ、それが主義なんだからね。しかし見てたってつまらない。将棋は本人がどういう構想で戦うか、ってことに意義がある、その構想の成就をハラハラしてハタでみる、というところね、ポイントは構想の価値、、なんてことを書いてもしょうがないけど、私の趣味が将棋と知っている人あてのメッセージ。だから書かないの、って。
 
 さて、昨日の(その1)の趣旨は、「このハマスの人殺し共が。いい気になるなよ」ということでした。読み取れなかったらもう一度お読みください。
 しかしそれはハマスだけが悪いのではなく、それを支える一般大衆が9割悪いのだ、とも書きました。同様にもう一度お読みください。それは、1937年に始まるしな事変、アメリカ帝国主義IMEは「しな」の変換もさせませんが、「支那事変」です。日中戦争などとふざけるな。日本の一方的侵略です。で、もとい、しな事変を代表とする侵略戦争の責任の9割が一般大衆の責にあるのと同様です。
 その理由を、「説明」として記したところです。

 ここで、古典的な説明社会学である理解社会学ないし解釈社会学について、その欠陥の第1は理解ないし解釈の基盤が恣意であり、しかもウェーバーの場合はそれが間違っている、という点にあるのですが、今回の主題はそこではありません。仮に理解や解釈に根拠があった場合、その社会学と、将来に向けて使用可能な因果連関の立言が必須の科学との、関連はどうなるか、という問題です。

 そもそも行為主体は、支配者であろうと被支配者であろうと同様です。そこで万人に見える形で行為の原理と原則を提出します。その原理等の真理性はあちらこちらで検討されるべきであり、きちんと文章で示されている限りそれは可能でしょう。そのための「例示」です。
 われわれは行為者の信条、意欲、動機、は、いわば把握しつくしているのです。その信条その他の行為主体の構えに働きかける状況の内実が、科学の本体であって、その状況の提出の現実的結果が間違っていると知れた場合において、その主体の事情の析出手順の非科学性が問われるのです。

 状況とは、たとえば、植民地エリートに働きかける行為共同性を成立させた当該植民地諸人民の行為環境のことです。つまり「誰でもなろうとする」支配者になれない状況における個人をそうでない道に引きずり込むのが状況です。
 人は状況の中で支配者となり、また対抗権力者となります。科学は、行為の原理・原則によりそうならざるを得ない行為環境を提示することによって、その資格を得ます。因果連関上、「そうならざるをえない」ことがわかるからです。
 つまりたとえば、プーチンが「なぜウクライナを侵略するか」という問いの答えは、いかに中立を装ってみても、そもそもがイデオロギー的立場でいろいろに変わる評論であり、科学ではありません。
 「プーチンはウクライナを侵略しうる。それはこれこれの環境的理由だ。」という将来連関、また「それではこれに対して現在の行為主体たるA男、B嬢、彼らと同様の環境を持つCは、何と何という選択肢をもちうるか」、という将来連関に使用されうる、行為環境に内在する因果連関の定言の提示が、科学なのです。

 さてところで、じゃあハマスについていってみろ、といわれたところでそれは無知識では無理。その場で生きている人間にさえできるかどうかわからない情報量が必要です。その情報を提出するのに寄与するのが実証社会学、その他経済上の知識です。

 そして経済単位の違う「他国民」たるわれわれの、いったん学問を離れた課題は、先進国プロレタリアート貴族として、後進諸国家の理不尽な死を止めることにあります。あるいは、正確に言えば、理不尽な死を止めることはできなくとも、理不尽な死を意味ある死、次の世代、引継ぎ者たちに伝え得る死に変えることにあります。そんなことができるのか? できます。常に人は一人ではないからです。人の生はつながっているから極東のプロレタリアート貴族が、自分の友人宛にかように書き留めているのです。小鳥は山火事を消すために小さな口で運んだ水滴を投ずる。その行為はそれに終わらず、それを関知した人間が人間の中で広めることができる。それはあえて科学でなくとも「例示」によってできる。世の中はそういうものです。
 

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