リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

視点選択の現実(その6)

2023-07-22 17:27:26 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日はミンミンゼミが初めて鳴きました。カナカナは明け方に聞いてましたが。ところで10日前からジーっていってる音は何の音でしょう、アブラゼミにしては地味で、ずっと鳴き虫だと思っておりましたが。 
 さて皆様におかれましては、暑い中だいじょうぶ? 日曜日はくそ暑い中、某Tデパートへ行ってきましたが、涼しいのなんのって。こりゃ働いてる人はたまんないのか、若いからなんともないのか。なんともモヤモヤのまま帰ってきました。みなさま、今の職場で冷房が効いてないからといって悪いばかりとは思えません。
 うちの学校は暑くていや? いや暑い時は、「先生、やめて食堂行ってアイスコーヒー飲みながら授業しましょう」といえばよい。コーヒー代はもちろん先生持ちです。いいねえ、学生は。
 冷房問題にして「問題を矮小化」したかもしれない。要は、なんとか元気を保てるといいね、という。ここに来た若い人たちの大部分は、テーマ検索1回目で過ぎ去っていく方たちで、悪いけど関係ないや、と思っておりますが、2回目以降、再度以上来た方たちは大切なお客様。ほんと、お体を大切に。
 生きているといいことなんか沢山ありますし。いや、「そんなことはない」とかじゃなくて、これから生きての話ね。この知識は年寄りの勝ち。

 ネット情報はここのところ子供が死んだニュースの見出しばかりで。気が滅入るので開かないけれど。
 こんなのは明るい。
「大阪万博「やりたくない」 費用高騰に人手不足…ゼネコンから悲鳴」(朝日)
建設業界さえやりたくないならやめてしまえばいい。災害復興用にいくらでも資材も人手もいるだろう。これは明るい。

「函館市教育委員会は7日、市立小学校39校の全校で今年度のプール授業を中止すると発表した。バスの運転手が不足し、プールのない学校の児童が近隣校に移動できなくなったのが理由だ。」(読売)
 函館なんか寒いんだからやめたがいい。なんて明るいんだ。泳げなければ危険な川遊びもしないだろう。代わりに温水プール借り上げで1日だけ水に浮く練習をすればいい。浮かべば後は危険がわかる年齢になってからいつだって泳げる。と思ったら、函館には民間プールもめったにないね。要するに泳げなくていいんじゃ?
 
「100万円のVIPシートも! 夏祭り・花火大会で観覧席の“有料化”進む」(日テレ)
ねぶたが100万、阿波踊りが20万だってさあ。祭りってみんなで祭らなきゃ意味ないんじゃないかい?
 まあそれもよし。みんな一緒なんかじゃないことが少しずつバレていくから。
 差別の祭りへの普遍的な仲間幻想もここまで。

 さて、イヤミの羅列はこの辺で。本題。

 先週は社会史派の新しい歴史本を取り揃えてしまって、薬で傷んだやる気をさらにいっそう低下させてしまったので反省。年寄りは古い世界から新しい流行りへ浮気してはいけない。
 というわけで、本日のとっかかりは降旗節雄「歴史と主体性」という古い本。「科学とイデオロギー」についてのマルクス主義運動が命派との論争本で、私(たち)としては既に決着をつけたテーマですが、
(「社会科学の視座と方法」(その1)2023/03/11 以降「論理の行為論的基礎」(その5)2023/04/15 まで。題がいいかげんなのでご注意)
 彼氏が躍起になって言うし、彼と論争してるほうも何もわかっていないていたらくで呆れかえったので、蒸し返しの(その6)。
 この論争者たちはマルクス主義者同士なのですが、両方とも、科学というものが一つだと思い込んでいる。つまり「資本論」は科学で真理なのだ、神聖不可侵だ、と信じ込んでいる連中。ところで威勢だけはいい主義者は、降旗がその不変のマルクスの真理を勝手に変えている、と言い、降旗氏は、科学をわきまえていないのは君たちだ、といいつのる。両者ともわかってないから、まあ消耗なこと。

 で、科学は研究主体の価値意識でいかようにも表現できること、ただし、結果としての因果連関の法則は、歴史的一時点においては普遍にして不変の真理であることは既に述べたのでいいません。
 本日のお題は、なぜ価値意識によって違う或る一視点を、誰にでも普遍な視点であると思い込んでしまうか、について。
 
 まず第1に、人間が認識する「世界」には秘密があります。それは「世界は登場物で出来ている」ということです。当り前ですね、だが、誰も気づいてはいない。世界を構成するものは客観的に独立して存在する原子構成物なんかではない。すでに行為主体が「独自に」認識せざるを得ない意味を内在する、あるいは行為主体に喚起させる、特定物の集合である。
 ということに人が気づくためには、その系を述べなければならないでしょう。「系」とは、まあ「そこから導かれるもの」ですね。
 
 第2に、系の1は、このため、「或る世界を語るものは、その登場物を限定することで世界を確定してしまう」ということです。世界を語る行為主体にとって、意識しているいないを問わず、その世界は彼が特定した限定性を持った構成素で出来ています。そんなもの、他人と「同じ世界」ではありません。

 第3に、系の2は、その登場物がどう動作するか、行為主体、つまり観念者が知っている、ということです。どう動作するか観念できないならば、たとえ視界や聴覚世界に現れてもそれが意味連関を持った像をなすことはありません。初めから「自分だけがその内実まで知っている」から、他人にわからないのが当然だというアタマがない。わからないほうがバカだと思い込んでいる。
 
 第4に、系の3は、従って、観念者が自分で生きてもいない世界、あるいは「先生に教えてもらっていない」世界のことなど分かりはしない、この登場物の動作は、自分が生きている意味を持って、または「先生に教えてもらった通り」に動作し、意味を持つということです。これがかみ合わない観念生活者相互の「論争」というものの虚しさの源泉です。
 
 第5に、系の4は、その表象がどれだけの自分にとっての行為論的な意味を持つかということを観念者が知っている、ということです。これはいうのもヤボですが、教授の言うことを聞いておけばアカデミズム生活は安泰であり、方や、組織内生活者は理論指導者の言うことを聞くのが地位の条件だ、ということです。
 
 題6に、系の5として、従って、主体的な研究者は、自己の生きてきた世界にのみ従い、既存のアカデミズムや前衛教義にとらわれてはいけない。まるで無駄だからです。それは他人の生であり、他人の教義です。決して自分のモノにはならず、自分及び自分の仲間たちの利益にはなりません。
 
 とね。

 まったく無関係な話し。無地のシーツで上下の不明なものがあるでしょ? で、ネット情報によると
 「シーツの上下にある折り返し部分をヘムといいます。大きいヘムと小さいヘムがありますが、一般に大きいヘムを頭側にします。本記事は株式会社サイオ出版の提供により掲載しています。」
    https://www.kango-roo.com/learning/4406/
なんて書いてあるんだけど、ほんとだと思う?
 足元は重くする(大きいヘムにする)ほうが常識じゃないかね?
 どっちでもいい? おっしゃるとおり。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  オカルト(その18;生命の哀... | トップ | 彼らが地獄へいかず誰がいく »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会学の基礎概念」カテゴリの最新記事