リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

説明「社会学」(その1)

2023-10-14 16:47:30 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。ようやく涼しくなってさわやか。平年より少し遅くキンモクセイが香っています。みなさまにはお仕事もはかどって、ってせっかくの休みの時にいいわれたくないか。
 まだ日中歩いてると暑くなるけど、それをいったらほんとにいい日なんて1ケ月しかない。さらに鼻水が止まる日をいれたら2,3週間だね。今年は秋の花粉が特にひどい気もするけど、医者に行くほどじゃないから気のせいか。
 
 先日は秋なので栗の実を買いました。7,8年ぶり。栗ご飯用の皮を剥くのが嫌で買わなかった。
 今年のテーマは茹で栗。おさじですくって食べようというのは二の次で、茹でて皮をむけばむきやすいんじゃないか。と。
 なるほど、と思ったあなた、それが違った。渋皮剥くとき実がやわかすぎてぼろぼろ。粉末栗。渋皮なんて取らなくとも食べられる、という方はいいですが、少なくとも見た目は悪い。
 まあ栗がゴロッとエバッているのもお総菜品のようで、さほど品がいいとは思えないし、粉ばかりでも茹でたせいで逃げた香りを補う、ともいえそうですが(多少は大きいのも残ります)。
 結論として、5,6個そこらの栗屋敷から貰って皮剥いて炊くのがよろしいようで。黙って拾うと心の狭いばあさんが怒ったりするからね。

 さて今日は昔話と、
「消える高校学食、どうすれば「持続可能」に? PTA予算で無料キャンペーン・インスタでPR・事業者撤退で元保護者がスタッフに…工夫重ねる現場を訪ねた」(中国新聞デジタル)
だって。
 これは広島の高校。元保護者が、、というのはやりすぎじゃないかね。元保護者だって遊んでるわけじゃない。いまどきはコンビニも弁当屋もあるし。違いは値段だけじゃん、、たって、学食定食450円なんていってる。高! 横浜市じゃないけど、弁当屋と組んで安くすればいいだけじゃん、弁当屋の弁当は鼻につくけどね。
 私の高校も定時制生徒用に学食があって、うどん・そば、25円くらいで売ってたけど、途中で昼間の営業やめちゃって。でも校内パン売り場あったからねえ(わたしはお弁当を作っていただきました)。わたしの高1の時の親しい友人は、食パン2切れだけ持ってきて食べてたよ。 
 と、これは懐かしいから。

 それからニュース1個。
“子供留守番禁止”条例案なるものが撤回されたって。
小3以下の親は、常に子供と一緒にいないといけないんだってさあ。埼玉県の自民党と公明党議員の議員条例。埼玉の自民党の田村琢実というやつが、世間を自分の思うとおりに動かしたくて、「正義感」あふれた条例を作りたがってるもよう。田舎もんのやることといったら地主のドラ息子と同じだ。そいつの育ちは知らないけど。
 で、世間に非難されて結局撤回なのですが、俺は悪くない、説明が足りなかった、などとぬかしている、ので、ここに条例案を貼っておきます。

”第六条の二 児童(九歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にあるものに限る。)を現に養護する者は、当該児童を住居その他の場所に残したまま外出することその他の放置をしてはならない。”

 説明が足りないも何もない。そのまんまじゃねえか。どこが世間の批判と違うのかいってみろよ。
 わたしゃ残念。条例通したら次の選挙ぼろ負けだったろうに。

 さて本日は、久しぶりに理論条項。

 これは古い10月9日の記事(赤旗)
「パレスチナのイスラム組織ハマスは7日、イスラエルに大規模攻撃を行い、同国メディアによると民間人を含む少なくとも350人が死亡し、1860人以上が負傷しました。イスラエルのネタニヤフ首相は・・・ハマスに「容赦ない報復を行う」と宣言しました。」
 ご存じのように今の状況はもっとひどい。

 なにこれ?
 理解不能。ハマスというのはプーチンの手下か?
 
 皆様におかれましては、失礼ながら、おそらく、こんなこんなの事情があって、とか、いやその事情はもとはといえばこれこれで、とか、、、
 まあものわかりのよろしい。
 分からねえのは、プーチンは自分も家族も死ぬわけじゃないから理解できる。
 しかし、ハマスってのは、自称、自分も家族もガザにいるという触れ込みじゃないか。なんで自分の家族を殺すようなことをするんだね? (ほんとはスパイに踊らされたという憶測は立つが今はそれはおいておく)
 家族の命より大事なものとはなんだ? 宗教? 民族? 国家?
 いや、これ本気で聞いているわけ。誰か知ってる? 知らないしょ。文章では聞いてても、自分の心では知らないしょ?
 そんな知らない行動をするやつらって狂信者?
 
 さて、ここで、みなさん、「違う、彼らは狂信者ではない」と頭では解しているでしょう。なんせ自分たちも「自衛隊は必要」とかいってるんだから。で、自衛隊員はなんのために死ぬの? 国家? みんなの平和な生活? 平和な生活のために戦争するの? よく子供が聞くよね、それはお子さんが正しい。「国民」はすでに疎外され切っている。
 
 というわけで、説明「社会学」(その1)
 
 ハマスなどと自主団体の名称がついていても、それは要するに支配者なのです。 
 疎外された支配者の支配意志は、(疎外された、なんて、受身でいうようなものでもないのですが)、それはその支配が複数の支配の関係の下で作り上げた行為共同性によって、分かりやすく言えば自律的に、「お互いの」人民を死に追いやるのです。  
 その被支配者の人民は「将来の国家」なり「宗教的統一」なりの名の下で自殺的に死に殺人的に他の人民を殺す。
 恐れ入った疎外状況です。

 この時点で利益のある者は、「擬制の支配者」の他では、関係行為者の「自己の生の意味」を疎外されて作り上げる者しかいない。そんなものが人間の生の意味とは、とんだ自己満足ですが。

 ここでちょっと、ありうる言葉の行き違いに考慮しておきましょう。
 まず、今問題になっている、たとえば「国家」とは、観念にすぎません。頭の中のお化けです。
 そうか? 国家はそんな支配者や人民の頭の中にあるような観念的なものではなく実体的なものではないか?
 そういう国家もあります。支配者の統治領域のことです。これは地図に描けるように、観念的なものではありません。
 さて、では聞きましょう。そんな国家の死、あるいは領域の崩壊に、あなたは家族やあなたの命を懸けるのか? 妻子の命をかけるのか?
 かけては悪いとはいっていません。そういう赤ん坊のような人と話しても無駄なので、はいさようなら。
 わたしは、実は妻子の命のほうが大事なのに、そう公言出来ない人の話をするのです。

 が、ついでもう一つ、ありうる言葉の誤解をはっきりさせておきましょう。
 「くに」の期限である「ムラ」とは、つまり生産共同体とは、なんら観念ではありません。
 ある生産共同体、いわゆる「農村」や「漁村」におけるムラへの構成員の表象は、それなくしては自己の生存が危うくなる「なにか」です。というよりは具体的に、灌漑も、また短期で始末をつけなければならない収穫作業も、その協同体なしにはすまされない生命線です。従って、隣のムラとの水争いの戦いは、やはり生命線です。そういう協働を生産共同体と呼んでいるのです。
 しかし生産共同体の長についていえば、別に彼がいなければ済まないものでもない=死んだってかまわない。あるいは「この村」だって、隣村との水争いなど、自分も隣村の成員になればいいだけのことです。隣村がいいといえばの話ですが。
 さてそんな村で、隣村が、最近は渇水が続くのでこの村と同時に寄合を持とうと言ったらどうなのか。いやな奴はどの村にもいる。まあ持ちたければ勝手にすればいい。
 具体的な生産関係とはそういうものです。誰もその統合に命などかけはしない。両村の構成員が生き延びるために寄合を共同にするのです。それが嘘だというのなら、平成の大合併など歴史上に存在しない。彼は自己の生命の名において、自由です。
 そしてこの場面には観念世界など存在しないのです。来年の渇水をどうするのか、それは両村民A,B,C,それぞれの次の生き死にに関わる、彼らの生理的将来状況なのです。人は生きるために行為をする。本来。
 
 そんな前提の下で、まず、この観念の「国家」等とはなにか。
 
 人間は自己の将来がかかる状況を、一言の言葉にして表します。他者に注意を授けるためです。いわく「火事」「洪水」「地震」。同様に、人はそれを言えば支配者の賞賛を得られ、仲間から優越しうる状況を体感します。「国家のために」です。それは「支配者」のためでないところで被支配者のストレスから逃れているわけです。「支配者も俺らと同等だ、そう本人が言っている」。実は死ぬのは人民だけですが、それは今問題になっているわけではありません。それが「行為の目的」なるものです。
 この賞賛的・優越的条項にかかわる自己の将来は、賞賛と優越ですが、実際の彼の行為は、支配者が言うままの行為であり、自己の将来のための過程的な現実の行為として行為者は捉える。この乖離が、いいたければ、「疎外」です。この観念作業には自己の行為後の位置は、支配者には都合のいいことに、関わらないのです。
 親は子の弁当を作る。それは子のためであり、行為後の疲労のためではありません。ほんとうに個が満足するかどうか、それは知らなくとも親は「子のために」弁当を作る。それを疎外といってもしょうがありませんが、過程的な行為と観念作業との乖離です。
 つまり、国家とは、行為者の行為論上の願望と支配者の御都合主義的語彙体系との合致点です。

 同様に、支配者の行動も、彼の生き死にについて行います。支配者の本性は「自由」です。生きてさあどうすれば部下や他の支配者の賞賛や優越を得るか。それが彼らの平常です。 
 しかしその根拠が「国家」である場合がある、というより国家を定立させざるを得ない状況があるのです。これが支配者の観念上の疎外状況です。
 第1に、自己の賞賛と優越のために、人を殺し、自分を殺しても満足な形式について認識しておかなければならないし、 
 第2に、その自然史的過程を国家が包摂する過程を、それを結論として、人民に述べ立てなければならない。

 これらが「愚かな」「狂信的」殺人行動の中身です。あるいは平凡な人民の、実は支配者に設定された被支配行動です。
  
 もちろん以上は科学ではなく「説明」にすぎません。
 それは科学の原理を適用した「1面の事実」というだけのものです。その実体は、原理の「ただの例」です。
 例をもって説明し、この原理を因果連関の構成素にしたものが科学なのです。
 が、すでに読者の方々の混乱が見えてますので、(その2)に回します。
 もう5時なの。

 

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