リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人間にとっての矛盾の3形態

2023-07-02 13:55:08 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。
 こんにちは、ってなんだ? って、そんなこといわないで。昨日のブログはあまりにむ無内容かと思って、お口直し。こうしてクッションを入れておけば、より大きな「来週期待」が仮に遅れてもいいかも、と。
 
 で、すぐ本題。
 人間にとって、観照の愉しみのためではなく行為に道筋をつけるべき「矛盾」とは、以下の3通りです。
 
1 ある概念を構成している規定性が複数あること。初めの人間の認識反応は「変すぎる」です。
 これは別に、いわゆる反対しあうような矛盾ではなく、ただ2個(以上)あって相入れない、というだけのこと。これは弁証法的な叙述で解決されます。

2 或る現実の事態が、そこから行為するときに、行為主体にとって相反する状況を生む状態。
 これは他者や他者群によって引き起こされるわけで、主に支配状態の反映であり、まれにジェンダーの問題を原因とします(愛しているのに、かえって嫌われる)。
 いずれにしてもこれはコトバの問題ではなく、他者や他者群の変更に向かうしかありません。

3 人間の行為というものが、ある状況に対して同じ反応を予定するものについては、その対象を一括して把握してしまおうとすること。隈行為論ではこれを対象の象徴性と呼びたいと思っております。(例:お前も人を殺せという「日本」と、「友達みんなが住む」日本がダブることによる行動分裂、あるいは言説分裂。)
 しかし、これは解決されない。人間は認知して行動する生き物だから。あえていえば、現実が、行為主体から離れて、解決してくれます。

 以上の3通りです。

 が、ここに、違う用例も生ずることがあります。
 いちばん巷で見かけるのが問題の中に2通りのコトバの意味を隠す、数学的(ギリシャ的)パズルです。
 しかし、社会論の中にもよくでてきます。これら3通りの事例の認識時に、行為主体がその状況を、当初の概念における自己矛盾と認識し、そこでとどめて修辞し続ける事態です。
 その結果は、概念「〇〇」の自己矛盾、となります。

 というわけで、現在借用中の阿部照男氏の「生産的労働と不生産的労働」。
 こうした「生産的労働」テーマというのは、残念ながらマルクス主義の内部論争の域を出ることがありませんので、私にもみなさまにも関係のないところですが、著者阿部氏的には著者の論の根底にある、という「労働の自己疎外」論。こういう論が出るから「労働」物神は悪いところしかないのです。
 本来、支配に取りこまれてしまった生産行為が労働=賃労働であるはずなのに、阿部氏もそこまでは実質的には認識しているはずなのに、いうには
 「労働は喜びであるとともに苦しみである」という矛盾、と納得してしまう。そこから苦しみの根源である、あるいは賃労働の根源である、通時代的な(生産)行為における支配の解明に食い込んでいこうとしえないのが「労働」物神=マルクス主義経済学です。あるいは人民が常に行っている「労働」の認識に至れない講壇社会主義といったほうがいいかもしれません。阿部氏にとっては、歴史は嫌な労働を他人にやらせようという人間行為でしかない。論のストーリーをどうするのも演者の自由です。しかし、その理論なるものは、それだけの解釈に過ぎない。 
 
 皆様にこんなことを言ってもしょうがないけれど、すぐ本を返してしまいますのでその前にケリを、と。
 皆様には、論頭に上げました矛盾の3形態を、それとしてご理解ください。「矛盾」「矛盾」と騒ぐ内実が分かりやすくなると思います。
 
 と、想定より元気でしょ。今回の薬、まともだった。少し頭痛いけど、理由なんてわかりゃしないし。

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