こんにちは、昨日は七夕。といってもこの辺ではお飾りの笹は片りんもみられません。前住んでた近くの町では川のフェンスに笹を差し掛けて並べてるって、センスに疑問があるけど、まあないよりまし。こいのぼりも泳がないし、困った田舎村だ。
今日は都会の入谷では鬼子母神の朝顔市が最終日だそうで。もうしぼんでるけどね。しかし率直に言えば、朝顔なんて買うもんじゃないがね。種まいときゃいくつも次々に生えるし。この「次々」が取り柄だと思うぞ。次々に咲いて次々にしぼんで。ただ、この祭りは都会の風情というもの。田舎の寺でやっても、なにそれ、だね。
ここいらの田舎では、空き地を囲ってノカンゾウを植えていたのが綺麗に咲いていました。
空き地を囲って植える花がノカンゾウってとこが田舎だね。
ノカンゾウって、シンプルな野ユリの赤いやつ。雑草。囲ったって周りの雑草を抜かないから、見た目そのまんま雑草。東京でも線路の土手とかに生えてます。なかなかよい。
『萱草に寄す』って立原道造の詩集ね。ワスレグサと読むの。1日でしぼんじゃうから、ってワスレグサ。こういう伝説は話半分ね。朝顔だってハイビスカスだって、翌日も咲くときはあるさ。まあいいけど
ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた、、、、
教科書にあったでしょ。今は詩なんて載せないか。
立原の場合の萱草はユウスゲみたいだけどね、黄色い萱草。ニッコウキスゲとかの夕方版。
いいねえ、七月お盆の地方ではキスゲもベニスゲも実家に帰れば見れるね。そんな地方ないか。
さて、現実逃避は終わって、ってどっちが現実かは別として、本日のお題は前回(週)の続き。
政治経済学で扱える規定性は、社会科学的題材をどこまで包括しうるか。
政治経済学で扱える規定性とは、当然に、資本主義経済に基づく消費物資の入手と、資本主義経済を選択している支配階級の調整にかかわる、人民の行為論的将来の規定性です。資本主義の存在は、消費物資の豊富さを追求する支配階級を基盤としているからです。
そもそも「経済」学なるものは、擬制なのです。経済学とは片方に支配者の行為として現象する支配過程と、他方に人民の生活過程として現象する被支配過程とで出来ているものです。
すなわち、或る消費物資の生産は、その生産者であり消費者である人民Aにとっては彼の生活です。ただしそれが生活全部ではないのは、彼がその生活物資を奪われるから、彼が「支配されているから」です。そして彼の人生は一つであるから、この2つの混合した過程は「被支配過程」なのです。(その支配過程への盲目が、昔、一部で流行った「生活過程論」の誤りです。)
他方、この生活物資を奪う支配者にとって、やはり或る消費物資の生産は生活ではありますが他方、それ以上にその他者による「生活過程」は支配者にとっては支配の本体、支配過程なのです。
このため経済学に必然的に追加されるのが、支配者と被支配者をつなぐ、人民における「権力構造」論です。これが或る時代の新自由主義のイデオロギーにつながります。
さて、ここまでが原理論です。しかし原理論は内容をもっていません。原理の現象は時代によって、あるいは構成素の流出入によって、変化します。ここで宇野弘蔵とは別の意味で、段階論が必要となります。どちらかといえば岩田弘・鈴木鴻一郎の趣旨に近い。
段階論とは、その規定の中身で、その論者が欲する因果連関を説明しなければなりませんが、ここではとりあえず、その枠組みだけ提示しておきます。段階は4つです。
第1 資本主義前史時代
消費物資=富に目のくらんだ国家=支配階級と、異国民=人民を犠牲にした消費物資増大化の歴史です。
原始的蓄積。
第2 資本主義国家
本来の資本主義国家は、支配者と国家下流階級=中産階級=資本家との提携の歴史です。
植民地主義的侵略。
第3 世界資本主義内国家の誕生
国家は、資本家の奴隷たる人民を、消費物資増大のため国家構成員として取り込んだ。この時点において過剰資本は、他国において自己を処理させるべく、資本家を叱咤する。
帝国主義的侵略。
第4 単一世界資本主義
後進諸国の国内植民地主義の再生産
後進諸国において、前史資本主義化が進行する。ただ前史との違いは、それ以上の資本主義的進展を許さないところです。人民はどこまでも異国民です。
腐臭漂うカオス。
さて、では「現在」がどうなっているか。それは宇野経でいう「現状分析」ではありません。現状分析は(岩田等と同じく)段階論に吸収されています。その代わりに(運動的)「総括」がはいります。この論では対抗権力が被支配過程に埋まってしまうので、その変革的意義を取り立てて記しておこうという意味です。
と、全体像まで見え透いてしまう解説。
しかし、完成まであと2年弱余裕があるのさ。
今日は都会の入谷では鬼子母神の朝顔市が最終日だそうで。もうしぼんでるけどね。しかし率直に言えば、朝顔なんて買うもんじゃないがね。種まいときゃいくつも次々に生えるし。この「次々」が取り柄だと思うぞ。次々に咲いて次々にしぼんで。ただ、この祭りは都会の風情というもの。田舎の寺でやっても、なにそれ、だね。
ここいらの田舎では、空き地を囲ってノカンゾウを植えていたのが綺麗に咲いていました。
空き地を囲って植える花がノカンゾウってとこが田舎だね。
ノカンゾウって、シンプルな野ユリの赤いやつ。雑草。囲ったって周りの雑草を抜かないから、見た目そのまんま雑草。東京でも線路の土手とかに生えてます。なかなかよい。
『萱草に寄す』って立原道造の詩集ね。ワスレグサと読むの。1日でしぼんじゃうから、ってワスレグサ。こういう伝説は話半分ね。朝顔だってハイビスカスだって、翌日も咲くときはあるさ。まあいいけど
ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた、、、、
教科書にあったでしょ。今は詩なんて載せないか。
立原の場合の萱草はユウスゲみたいだけどね、黄色い萱草。ニッコウキスゲとかの夕方版。
いいねえ、七月お盆の地方ではキスゲもベニスゲも実家に帰れば見れるね。そんな地方ないか。
さて、現実逃避は終わって、ってどっちが現実かは別として、本日のお題は前回(週)の続き。
政治経済学で扱える規定性は、社会科学的題材をどこまで包括しうるか。
政治経済学で扱える規定性とは、当然に、資本主義経済に基づく消費物資の入手と、資本主義経済を選択している支配階級の調整にかかわる、人民の行為論的将来の規定性です。資本主義の存在は、消費物資の豊富さを追求する支配階級を基盤としているからです。
そもそも「経済」学なるものは、擬制なのです。経済学とは片方に支配者の行為として現象する支配過程と、他方に人民の生活過程として現象する被支配過程とで出来ているものです。
すなわち、或る消費物資の生産は、その生産者であり消費者である人民Aにとっては彼の生活です。ただしそれが生活全部ではないのは、彼がその生活物資を奪われるから、彼が「支配されているから」です。そして彼の人生は一つであるから、この2つの混合した過程は「被支配過程」なのです。(その支配過程への盲目が、昔、一部で流行った「生活過程論」の誤りです。)
他方、この生活物資を奪う支配者にとって、やはり或る消費物資の生産は生活ではありますが他方、それ以上にその他者による「生活過程」は支配者にとっては支配の本体、支配過程なのです。
このため経済学に必然的に追加されるのが、支配者と被支配者をつなぐ、人民における「権力構造」論です。これが或る時代の新自由主義のイデオロギーにつながります。
さて、ここまでが原理論です。しかし原理論は内容をもっていません。原理の現象は時代によって、あるいは構成素の流出入によって、変化します。ここで宇野弘蔵とは別の意味で、段階論が必要となります。どちらかといえば岩田弘・鈴木鴻一郎の趣旨に近い。
段階論とは、その規定の中身で、その論者が欲する因果連関を説明しなければなりませんが、ここではとりあえず、その枠組みだけ提示しておきます。段階は4つです。
第1 資本主義前史時代
消費物資=富に目のくらんだ国家=支配階級と、異国民=人民を犠牲にした消費物資増大化の歴史です。
原始的蓄積。
第2 資本主義国家
本来の資本主義国家は、支配者と国家下流階級=中産階級=資本家との提携の歴史です。
植民地主義的侵略。
第3 世界資本主義内国家の誕生
国家は、資本家の奴隷たる人民を、消費物資増大のため国家構成員として取り込んだ。この時点において過剰資本は、他国において自己を処理させるべく、資本家を叱咤する。
帝国主義的侵略。
第4 単一世界資本主義
後進諸国の国内植民地主義の再生産
後進諸国において、前史資本主義化が進行する。ただ前史との違いは、それ以上の資本主義的進展を許さないところです。人民はどこまでも異国民です。
腐臭漂うカオス。
さて、では「現在」がどうなっているか。それは宇野経でいう「現状分析」ではありません。現状分析は(岩田等と同じく)段階論に吸収されています。その代わりに(運動的)「総括」がはいります。この論では対抗権力が被支配過程に埋まってしまうので、その変革的意義を取り立てて記しておこうという意味です。
と、全体像まで見え透いてしまう解説。
しかし、完成まであと2年弱余裕があるのさ。
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