今回はまず、ショスタコーヴィチの歌劇<鼻>の残り部分のお話。それに続いて、知る人ぞ知る、モソロフの名作<鉄工場>の聴き比べ。
―歌劇<鼻>のあらすじ (続き)
●第7場
ペテルブルクの郊外。駅馬車の停車場。警察分署長が、部下たちを各所に配置する。いかにも駅らしく、旅人と見送り人たちの会話や売り子の声が響く。馬車が動き出すと、「止まれ」と声をかけながら鼻が現われて、後を追いかける。その鼻を狙うピストルの音と人々の悲鳴。人々に取り巻かれて殴られた鼻は、もとの普通の鼻に戻る。分署長はその鼻を紙に包み、部下たちとともに退場する。
●第8場
コワリョフの家の居間と、ポットチナ家の居間。警察分署長がコワリョフの家を訪れ、あれこれと成り行きを説明。それからようやく、鼻を差し出す。コワリョフからしっかりとお金を取って、分署長は退場。ところがその後、どう頑張ってみても、鼻はコワリョフの顔にくっつかない。医者にも来てもらったが、やはりダメ。コワリョフは泣いて悲しむ。やがて彼のもとを訪れた友人ヤルイシキンを相手に、コワリョフは毒づく。「これは娘との結婚話を受けようとしない俺に対して、ポットチナ夫人が仕返しにやったことに違いない」。
舞台の反対側に置かれたポットチナ夫人の家。「このままでは、あなたを告訴する」というコワリョフからの穏やかでない手紙を受け取った夫人は、驚きつつも返事を書く。「何のことか、さっぱり分かりません。娘との結婚には賛成ですが・・」。続いてコワリョフとヤルイシキンの言い争い、そして夫人と娘の二重唱が同時進行する。
(※上記の展開のうち、第7場は原作にないオペラだけのアクション・シーン。続く第8場はほぼ原作どおりの流れだが、コワリョフの友人ヤルイシキンという人物は原作には出てこない。このあたりは、舞台作品としての効果的な見せ場作りや、重なり合う二重唱のような音楽的聴かせどころを生み出すための創出だったように思われる。)
●インテルメッツォ(間奏曲)
人々が新聞に見入りながら、“歩く鼻”のうわさをしている。鼻があっちの通りに現れる、こっちの店に出て来ると、話題は持ちきり。どんどん集まってくる野次馬と、それを鎮めようと躍起になる警官たちの騒ぎが続く。
●第9場
幕が上がると、舞台はコワリョフ家の寝室。鼻を支えながらベッドから起きたコワリョフ。鼻が元の場所にちゃんとくっついていることを確かめて、彼は召使のイワンと一緒に大喜び。そこへ、床屋が不安そうに登場。3人で大笑いした後、床屋はコワリョフの顔を剃り始める。
●第10場
ネフスキー大通りの一角。通りをぶらつくコワリョフは次々と出会う知人の反応を見て、自分の鼻がすっかり元通りになっていると実感。すっかりいい気分になる。ポットチナ親娘とも出会って笑いを交わし、娘との結婚をほのめかす夫人にコワリョフは丁重な礼をして別れる。「金のない娘との縁組なんてなあ」と彼はつぶやき、胴着売りの娘をからかって立ち去る。
(※以上見てきた通り、この<鼻>は、何故このようなことが起こったかについて何一つ合理的、あるいは科学的な説明がなされないシュールな作品である。ある意味、カフカ的な危機感を感じさせる面もある怪作だが、その原作もまた、読者を煙に巻くようなエンディングを持っている。「だれがなんと言おうと、この種の出来事は世の中にままあるのだ。たまにではあるが、起こるのである」って、ホントか、おい?w )
―A・モソロフ作曲<鉄工場>の聴き比べ
若きショスタコーヴィチの才能が縦横に炸裂した歌劇<鼻>については様々な捉え方が出来そうだが、“騒音が楽音として活かされた芸術品”というのも、その一つとして成り立つような気がする。ところで、この種の騒音系音楽というのは、20世紀に書かれた作品を渉猟してみると結構いろいろな物が見つかる。旧ソヴィエト時代から例を挙げるなら、プロコフィエフの<鋼鉄の歩み>などがそうだろう。しかし、昔ロジェストヴェンスキーのCDでこの曲を聴いた時、私はひどい頭痛に襲われて大変な苦しみを味わってしまった。正直なところ、これはもうご勘弁という感じである。
一方、アレクサンドル・モソロフが1928年に書き上げた<鉄工場>Op19は同じ騒音系でもなかなか楽しい曲で、演奏時間にして僅か4分前後の小品なのにもかかわらず、非常な充実感を与えてくれる名作だ。さて、この<鉄工場>、今いくつぐらいの録音があるのだろう。とりあえず私がこれまでに聴いてきた同曲の演奏は、全部で4種類。おそらく皆同じ楽譜を使っているのだろうが、演奏家によってそれぞれ随分違った工場に仕上がっているのが面白い。
まず、インゴ・メッツマッハー&ハンブルク国立フィルによるもの。これはまるで重戦車の進撃を思わせるようなパワフル演奏。オーケストラの鳴りっぷりも豪快だし、指揮者の統率も鮮やかで、聴いていて胸のすくような思いがする。この爆演は、『誰が20世紀音楽など恐れようか(=20世紀音楽なんか怖くない)』という長いタイトルの付いたCDシリーズの一つで聴くことが出来る。ひょっとしたら、これが<鉄工場>のベスト名演と言ってもいいかもしれない。ただし、同じCDに収められた他の曲の演奏は、あまり面白くない。20世紀に書かれた有名なオーケストラ曲のさわりとか小品みたいなのをオムニバスで並べているのだが、どれについても平凡な印象しか残らない。
「人民を疲れさせる」という理由で当時のソ連当局から批判され、長く埋もれることとなった<鉄工場>だが、1975年になってようやくそれも見直される機運になったそうだ。現在Scribendumというレーベルから発売されているCDで、その復活蘇演を行なったエフゲニ・スヴェトラーノフ&ソヴィエト国立響(当時)の演奏を聴くことが出来る。しかし正直な感想を言うと、これはあまりよろしくない。演奏家たちがこの曲に共感していなかったのか、あるいは曲を十分に把握できていなかったのか、何とも冴えない凡演に終わっている。これを聴いていると、効率の悪い機械がギクシャクと作動し、粗悪な材料による出来の悪い鉄製品がだらしなく生産され続けるオンボロ工場、といったイメージが浮かんでくる。音質も、このレーベルによくありがちな特徴が出ていて、何だかざらついたような粗い音。なお、当盤の併録曲は、ドヴォルザークの<新世界より>とストラヴィンスキーの<春の祭典>。
さて、デジタル時代に入って、リッカルド・シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウ管を指揮した録音(L)を聴くと、これはもう上に超の字がつくぐらいにモダンな工場を見ているような気分になる。職員の操作は、ボタン一つ。あとはコンピューターの制御によって動くロボット・アームが、寸分の狂いも見せず正確に組立作業を行なう。そういうインテリジェントな工場である。これは純器楽的なアプローチによる名演として、高い価値を誇るものと言えるだろう。組み合わせの曲は、プロコフィエフの交響曲第3番とヴァレーズの<アルカナ>。
最後になったが、フランスの指揮者ピエール・デルヴォーがパリ音楽院管弦楽団を指揮したEMI盤の名演奏も忘れてはならない。これは現在、『ピエール・デルヴォーのロシア&フランス名曲集』みたいなタイトルの2枚組セットとして入手可能なCDである。1枚目がパリ音楽院管弦楽団とのロシア名曲集、そして2枚目がコンセール・コロンヌ管弦楽団とのフランス名曲集となっている。ちょっと惜しまれるのは、その1枚目がモノラル録音であることだが、幸い音質は十分に鮮明である。ここで聴かれる<鉄工場>は、パリ音楽院管から非常に荒々しい響きが引き出され、たいそう聴き栄えのする豪演になっている。これも同曲のベストを争える名演だと思う。また、このCDは、デルヴォー氏らしい“荒ぶる快演”が他にもたくさん収録されているのが嬉しいポイントだ。特にハチャトゥリアンの<剣の舞>、カバレフスキの<コラ・ブルニョン>序曲、あるいはリャードフの<キキモラ>といったあたりがゴキゲンなかっ飛び名演。ちなみに、2枚目のフランス名曲集はステレオ録音で、そこでもデルヴォー節を堪能することができる。ただし、オーケストラ自体の音色の魅力となると、どうしても1枚目のパリ音楽院管にはかなわない。
私がCDを聴いて知っている<鉄工場>は、以上の4種。あと、ヴィクトール・デ・サバタの指揮による古いライヴ録音が現在ナクソス・レーベルから出ているようだ。組み合わせの曲は、ベートーヴェンの<田園>やストラヴィンスキーの<花火>等。ネット通販サイトで先日その一部を試聴してみたが、さすがにそれだけでは何とも言えない。
―次回予告。ここまでプロコフィエフ、ショスタコーヴィチと流れて来たので、次回もう一つだけソヴィエト・オペラ。今回採りあげた歌劇<鼻>と同様ニコライ・ゴーゴリの原作によって書かれた、ロディオン・シチェドリン畢生(ひっせい)の大作を。
―歌劇<鼻>のあらすじ (続き)
●第7場
ペテルブルクの郊外。駅馬車の停車場。警察分署長が、部下たちを各所に配置する。いかにも駅らしく、旅人と見送り人たちの会話や売り子の声が響く。馬車が動き出すと、「止まれ」と声をかけながら鼻が現われて、後を追いかける。その鼻を狙うピストルの音と人々の悲鳴。人々に取り巻かれて殴られた鼻は、もとの普通の鼻に戻る。分署長はその鼻を紙に包み、部下たちとともに退場する。
●第8場
コワリョフの家の居間と、ポットチナ家の居間。警察分署長がコワリョフの家を訪れ、あれこれと成り行きを説明。それからようやく、鼻を差し出す。コワリョフからしっかりとお金を取って、分署長は退場。ところがその後、どう頑張ってみても、鼻はコワリョフの顔にくっつかない。医者にも来てもらったが、やはりダメ。コワリョフは泣いて悲しむ。やがて彼のもとを訪れた友人ヤルイシキンを相手に、コワリョフは毒づく。「これは娘との結婚話を受けようとしない俺に対して、ポットチナ夫人が仕返しにやったことに違いない」。
舞台の反対側に置かれたポットチナ夫人の家。「このままでは、あなたを告訴する」というコワリョフからの穏やかでない手紙を受け取った夫人は、驚きつつも返事を書く。「何のことか、さっぱり分かりません。娘との結婚には賛成ですが・・」。続いてコワリョフとヤルイシキンの言い争い、そして夫人と娘の二重唱が同時進行する。
(※上記の展開のうち、第7場は原作にないオペラだけのアクション・シーン。続く第8場はほぼ原作どおりの流れだが、コワリョフの友人ヤルイシキンという人物は原作には出てこない。このあたりは、舞台作品としての効果的な見せ場作りや、重なり合う二重唱のような音楽的聴かせどころを生み出すための創出だったように思われる。)
●インテルメッツォ(間奏曲)
人々が新聞に見入りながら、“歩く鼻”のうわさをしている。鼻があっちの通りに現れる、こっちの店に出て来ると、話題は持ちきり。どんどん集まってくる野次馬と、それを鎮めようと躍起になる警官たちの騒ぎが続く。
●第9場
幕が上がると、舞台はコワリョフ家の寝室。鼻を支えながらベッドから起きたコワリョフ。鼻が元の場所にちゃんとくっついていることを確かめて、彼は召使のイワンと一緒に大喜び。そこへ、床屋が不安そうに登場。3人で大笑いした後、床屋はコワリョフの顔を剃り始める。
●第10場
ネフスキー大通りの一角。通りをぶらつくコワリョフは次々と出会う知人の反応を見て、自分の鼻がすっかり元通りになっていると実感。すっかりいい気分になる。ポットチナ親娘とも出会って笑いを交わし、娘との結婚をほのめかす夫人にコワリョフは丁重な礼をして別れる。「金のない娘との縁組なんてなあ」と彼はつぶやき、胴着売りの娘をからかって立ち去る。
(※以上見てきた通り、この<鼻>は、何故このようなことが起こったかについて何一つ合理的、あるいは科学的な説明がなされないシュールな作品である。ある意味、カフカ的な危機感を感じさせる面もある怪作だが、その原作もまた、読者を煙に巻くようなエンディングを持っている。「だれがなんと言おうと、この種の出来事は世の中にままあるのだ。たまにではあるが、起こるのである」って、ホントか、おい?w )
―A・モソロフ作曲<鉄工場>の聴き比べ
若きショスタコーヴィチの才能が縦横に炸裂した歌劇<鼻>については様々な捉え方が出来そうだが、“騒音が楽音として活かされた芸術品”というのも、その一つとして成り立つような気がする。ところで、この種の騒音系音楽というのは、20世紀に書かれた作品を渉猟してみると結構いろいろな物が見つかる。旧ソヴィエト時代から例を挙げるなら、プロコフィエフの<鋼鉄の歩み>などがそうだろう。しかし、昔ロジェストヴェンスキーのCDでこの曲を聴いた時、私はひどい頭痛に襲われて大変な苦しみを味わってしまった。正直なところ、これはもうご勘弁という感じである。
一方、アレクサンドル・モソロフが1928年に書き上げた<鉄工場>Op19は同じ騒音系でもなかなか楽しい曲で、演奏時間にして僅か4分前後の小品なのにもかかわらず、非常な充実感を与えてくれる名作だ。さて、この<鉄工場>、今いくつぐらいの録音があるのだろう。とりあえず私がこれまでに聴いてきた同曲の演奏は、全部で4種類。おそらく皆同じ楽譜を使っているのだろうが、演奏家によってそれぞれ随分違った工場に仕上がっているのが面白い。
まず、インゴ・メッツマッハー&ハンブルク国立フィルによるもの。これはまるで重戦車の進撃を思わせるようなパワフル演奏。オーケストラの鳴りっぷりも豪快だし、指揮者の統率も鮮やかで、聴いていて胸のすくような思いがする。この爆演は、『誰が20世紀音楽など恐れようか(=20世紀音楽なんか怖くない)』という長いタイトルの付いたCDシリーズの一つで聴くことが出来る。ひょっとしたら、これが<鉄工場>のベスト名演と言ってもいいかもしれない。ただし、同じCDに収められた他の曲の演奏は、あまり面白くない。20世紀に書かれた有名なオーケストラ曲のさわりとか小品みたいなのをオムニバスで並べているのだが、どれについても平凡な印象しか残らない。
「人民を疲れさせる」という理由で当時のソ連当局から批判され、長く埋もれることとなった<鉄工場>だが、1975年になってようやくそれも見直される機運になったそうだ。現在Scribendumというレーベルから発売されているCDで、その復活蘇演を行なったエフゲニ・スヴェトラーノフ&ソヴィエト国立響(当時)の演奏を聴くことが出来る。しかし正直な感想を言うと、これはあまりよろしくない。演奏家たちがこの曲に共感していなかったのか、あるいは曲を十分に把握できていなかったのか、何とも冴えない凡演に終わっている。これを聴いていると、効率の悪い機械がギクシャクと作動し、粗悪な材料による出来の悪い鉄製品がだらしなく生産され続けるオンボロ工場、といったイメージが浮かんでくる。音質も、このレーベルによくありがちな特徴が出ていて、何だかざらついたような粗い音。なお、当盤の併録曲は、ドヴォルザークの<新世界より>とストラヴィンスキーの<春の祭典>。
さて、デジタル時代に入って、リッカルド・シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウ管を指揮した録音(L)を聴くと、これはもう上に超の字がつくぐらいにモダンな工場を見ているような気分になる。職員の操作は、ボタン一つ。あとはコンピューターの制御によって動くロボット・アームが、寸分の狂いも見せず正確に組立作業を行なう。そういうインテリジェントな工場である。これは純器楽的なアプローチによる名演として、高い価値を誇るものと言えるだろう。組み合わせの曲は、プロコフィエフの交響曲第3番とヴァレーズの<アルカナ>。
最後になったが、フランスの指揮者ピエール・デルヴォーがパリ音楽院管弦楽団を指揮したEMI盤の名演奏も忘れてはならない。これは現在、『ピエール・デルヴォーのロシア&フランス名曲集』みたいなタイトルの2枚組セットとして入手可能なCDである。1枚目がパリ音楽院管弦楽団とのロシア名曲集、そして2枚目がコンセール・コロンヌ管弦楽団とのフランス名曲集となっている。ちょっと惜しまれるのは、その1枚目がモノラル録音であることだが、幸い音質は十分に鮮明である。ここで聴かれる<鉄工場>は、パリ音楽院管から非常に荒々しい響きが引き出され、たいそう聴き栄えのする豪演になっている。これも同曲のベストを争える名演だと思う。また、このCDは、デルヴォー氏らしい“荒ぶる快演”が他にもたくさん収録されているのが嬉しいポイントだ。特にハチャトゥリアンの<剣の舞>、カバレフスキの<コラ・ブルニョン>序曲、あるいはリャードフの<キキモラ>といったあたりがゴキゲンなかっ飛び名演。ちなみに、2枚目のフランス名曲集はステレオ録音で、そこでもデルヴォー節を堪能することができる。ただし、オーケストラ自体の音色の魅力となると、どうしても1枚目のパリ音楽院管にはかなわない。
私がCDを聴いて知っている<鉄工場>は、以上の4種。あと、ヴィクトール・デ・サバタの指揮による古いライヴ録音が現在ナクソス・レーベルから出ているようだ。組み合わせの曲は、ベートーヴェンの<田園>やストラヴィンスキーの<花火>等。ネット通販サイトで先日その一部を試聴してみたが、さすがにそれだけでは何とも言えない。
―次回予告。ここまでプロコフィエフ、ショスタコーヴィチと流れて来たので、次回もう一つだけソヴィエト・オペラ。今回採りあげた歌劇<鼻>と同様ニコライ・ゴーゴリの原作によって書かれた、ロディオン・シチェドリン畢生(ひっせい)の大作を。
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