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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

歌劇<イーゴリ公>(3)

2006年12月06日 | 作品を語る
今回は、ボロディンの歌劇<イーゴリ公>・第3回。第2幕の続きで、イーゴリ公がアリアを歌う場面から。

〔 第2幕 〕 ~続き

ウラジーミルとコンチャコヴナの二重唱が終わった後、テントの中からイーゴリ公が出て来て有名なアリアを歌う。それは悲痛なレチタティーヴォから始まるが、やがてよく戦ってくれたロシア軍に想いを馳せる勇壮な歌「楽しげな戦いの宴の歌、我が敵に対する勝利」となり、さらに、遠い祖国で自分を待っている妻への呼びかけ「ただ一人、我が愛する妻だけは分かってくれるだろう」と続く。そして再び、またはじめの悲痛な雰囲気に戻る。ちなみに、妻への想いを歌い出すこのアリアの中間部は、序曲の第2主題にもなっている非常に有名な旋律である。

(※M=パシャイエフ盤でイーゴリ公を歌っているのは、アンドレイ・イワノフ。実に剛毅な声の持ち主だ。これこそロシアのドラマティック・バリトン、という感じである。いかにもイーゴリ公らしいイーゴリ公と言えるだろう。この後に続く豪壮なコンチャク汗とのやり取り場面でも、声の威力と存在感において全く遜色がない。お見事。)

(※映画版で歌っているV・キニャーエフという歌手も、アンドレイ・イワノフの声を引き継いだような堂々たるドラマティック・バリトンである。この人のイーゴリ公も良い。他の出演歌手たちより、一頭地を抜く存在感がある。)

(※エルムレル盤でイーゴリ公を歌っているのは、旧ソ連時代の重鎮バス歌手イワン・ペトロフ。実は当ブログを立ち上げた最初期に、この人をトピックにしたことがあった。しかしそれはもう丸2年も前のことゆえ、今読み直してみるとちょっと恥ずかしくなるようなレベルのことを書いていた。と言うより、初期の記事を見ると情けない物が他にもあちこち・・。 orz 

それはともかく、ペトロフのイーゴリ公というのはやはり、いつ聴いても圧倒的である。オン・マイクな録音のとり方によって一層強調されることになるのだが、この人の歌唱に聴かれる雄大さには、他との比較を絶するものがある。スケールの大きさにある種の気高さまでが加わって、まるで“ロシアのヴォータン”とでも呼びたくなるような、偉大にして崇高なイーゴリ像が現出しているのだ。深みのある低音、ハイ・バリトンの音域にまで達する朗々たる高音、そしてゆるぎない歌の造型。これらの美質が十全に揃って、比類なき声のドラマを作り出しているのである。素晴らしい名唱だ。)

(※ハイティンクのライヴで歌っているセルゲイ・レイフェルクスについては逆に、幾分批判的なニュアンスを込めて注釈を入れねばならない。映像を鑑賞していると、彼が立派に演じているのは分かるし、それなりに善戦していることもじゅうじゅう認められる。しかし、声が違うのである。具体的にどう違うのか、ということについては、ロシア・オペラの演奏史に少し触れてみると分かりやすい説明が出来ると思う。

戦後の所謂ボリショイ黄金期に活躍したバリトン歌手の中に、2人のイワノフがいた。アンドレイ・イワノフと、アレクセイ・イワノフである。どちらもイニシャル表記するとA・イワノフになってしまうので非常に紛らわしいのだが、この両者の声とキャラクターは全く違うものだった。前者アンドレイは、上述の通り、堂々たる声を持った典型的なロシアのドラマティック・バリトン。いくぶんアクのある太くたくましい声で、素晴らしいイーゴリ公を歌った。私は未聴ながら、オネーギンも得意としていたらしい。もう一方のアレクセイは、同じバリトンでも、もっと甲高い響きを持ったハイ・バリトンの歌手。受け持つ役としては<スペードの女王>のトムスキーや、<ボリス・ゴドゥノフ>のシチェルカロフ(あるいは、録音があるかどうかは不明だが、ランゴーニ)などがよく似合った人である。

声の点で言うとレイフェルクスはその後者、つまりアレクセイ・イワノフの流れを継ぐ人なのである。だからトムスキーやランゴーニにはぴったりだが、<イーゴリ公>のタイトル役までやるのはちょっと似合わないよ、ということを私は言いたいのだ。この役を歌うには、彼の声はあまりにも軽くて“へらちょんぺ”なのである。尤も、この人だけを聴いていたら、イーゴリ公はこういう声で歌うものだと納得されてしまうかも知れないが・・。)

悩めるイーゴリ公のところにオヴルール(T)という一人のポロヴェッツ人がやって来て、イーゴリに逃亡を促す。イーゴリは、「こっそりと逃げ出すような真似は、この俺には出来ない」と、最初はオヴルールの申し出を拒否する。が、やがて、それも一つの道かもしれないと、考え直し始める。

(※イーゴリ公を助けに現れるオヴルールという男の素性については、森安達也氏の著作『イーゴリ遠征物語』という本の中でいくつかの手がかりを見出すことが出来る。筑摩書房から1987年に出版された同書は、このオペラの原典となっている『イーゴリ公遠征譚』について詳しい解説を行なった本である。以下、同書から得た知識をもとにして、私なりにこの謎めいた人物についての簡単な整理をしてみたい。

オヴルールという男は、ポロヴェッツ人達から見ればとんでもない裏切り者なわけだが、彼には彼なりの事情と都合があったようだ。まず、「キリスト教の洗礼を受けたポロヴェッツ人」というのが、オヴルールの基本的な人物設定である。ハイティンクのライヴ映像を観ていると、彼は金色に輝く大きな十字架を胸に下げていて、それをイーゴリ公、及び客席の聴衆にもよく見えるように強調して出して見せる。さらに、森安氏の『イーゴリ遠征物語』148ページには、18世紀ロシアの歴史家であるタチシチェフという人によるおおよそ次のような内容の解説文が載っている。

「オヴルールの母親はロシア人だった。ポロヴェッツ人たちから受けるいやがらせに苦しんでいた彼は、いつかロシアへ行きたいと考えていた。やがてイーゴリ公を助けてロシアへ入った彼は、公から貴族に取り立てられ、妻も世話してもらった」。

オペラ理解の一助にしていただけたら幸いである。)

―この続きは、次回。いよいよ、あの『ポロヴェッツ人の踊りと合唱』が出て来る場面に入る。

【2019年3月27日 追記】

●アレクサンドル・バトゥーリンが歌うイーゴリ公のアリア(1941年)

この記事を投稿してから、間もなく12年4ヶ月。結構な年月が経った。今から何年ぐらい前になるか、メリク=パシャイエフの<イーゴリ公>には、当記事で扱っている1951年盤とは別に1941年の録音もあるらしいことを、YouTubeサーフィン中に知った。その一部をつまみ食い的に聴いた感じでは、総合的な意味で1951年盤にはとても及ばないという印象だった。しかし、そこでイーゴリ公を歌っていたアレクサンドル・バトゥーリンというバス歌手は、並々ならぬ実力の持ち主であったようにお見受けする。その根拠となる歌唱が、こちら↓。

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歌劇<イーゴリ公>(2)

2006年12月02日 | 作品を語る
前回の続きで、ボロディンの歌劇<イーゴリ公>・第2回。今回は、第1幕の後半から。

〔 第1幕 〕 ~続き

第2場・・・宮殿内のヤロスラヴナの部屋。一人、物思いに沈むヤロスラヴナ。夫と息子がともに出発して以来何の音沙汰もないので、彼女は強い不安を感じている。そこへ女たちがやって来て、ガリツキー公の一味がひどい事をしていると訴える。ガリツキー本人も続いて現れるが、「そんなにあの娘が返してほしいなら、いいさ、返してやる。また、別の娘をさらってくればいいことだからな」と、彼は侮蔑的な態度を見せる。

そんな兄に対して怒りを隠さないヤロスラヴナだったが、彼が部屋を去った後貴族会議の議員たちが揃って現れ、彼女に凶報を伝える。「イーゴリ公と御子息のウラジーミルは、ともに敵の捕虜となりました。そして敵軍は、もうこちらの城門にまで迫って来ています」。ポロヴェッツ軍の放った火によって背景が赤く照らし出される中、苦渋の思いを歌う人々の轟然たる合唱によって第1幕が終了。

(※ここで聴かれる『ヤロスラヴナのアリオーソ』も、大事な曲だ。「夫と息子が出発してから、もう長い月日が経ってしまった」と歌い始めるこの嘆きの歌は、主役ソプラノにとって大きな聴かせどころの一つである。M=パシャイエフ盤では、エフゲーニャ・スモレンスカヤが歌っている。この人は、非常に強い声を持ったソプラノ歌手である。歌の細やかな表情には欠けるものの、力感やスケール感の点では随一だ。何と言っても、あのピロゴフが歌うガリツキーと相対峙して負けず劣らずなのだから。 

ちなみにスモレンスカヤには、同じM=パシャイエフの指揮によるチャイコフスキーの歌劇<スペードの女王>全曲でリーザを歌った録音もある。これは1950年盤と57年盤の2種類があって、私が持っているのは前者50年盤の方。そこには、彼女が当時の代表的なリーザ歌いであったことを示す、堂々たる歌唱が記録されている。)

(※そのスモレンスカヤと、ある意味対照的なヤロスラヴナを聴かせてくれるのが、映画版で歌っているタマーラ・ミラシキナだ。この人は、<エフゲニ・オネーギン>のタチヤーナ役でとりわけ高い評価を得ていた歌手である。ここでの歌唱もそのリリックな声を活かしたもので、とても可憐なヤロスラヴナを生み出している。映像で演じている女優さんもまた、イメージ通りの風貌をしている。ガリツキーを叱責する場面などではちょっと迫力が足りないと感じられたりもするが、彼女の歌もまた、ヤロスラヴナの一面を美しく歌い出したものと言えそうである。それだけに残念なのが、最後の第4幕。そこでは彼女が歌う美しいラメント「私はカッコウ鳥になって飛んで行き」が、大幅にカットされてしまっているのだ。映画の時間制限という事情があってのことだろうが、これは何とも口惜しい。)

(※上記2人の、ちょうど間を通ってうまく行っている感じなのが、エルムレル盤で歌っているタチヤーナ・トゥガリノワである。今回扱っている4種に限って言えば、この人のヤロスラヴナが一番スタンダードな名唱と言えるような気がする。ミラシキナよりも線の太い力強さがあり、スモレンスカヤよりもずっとリリックな美しさがある。)

(※ハイティンクのコヴェント・ガーデン・ライヴでヤロスラヴナを歌っているのは、日本でもお馴染みのアンナ・トモワ=シントウだ。ブルガリア出身の彼女にとっては親しみやすい役柄であろうと思われるのだが、熱演の割には、残念ながら出来栄えは今一つの印象である。声のコントロール、歌のフォルム、ともに決まりが悪くて、何となく不安定。)

〔 第2幕 〕

ポロヴェッツ人たちの陣営。夕暮れ時。ポロヴェッツの娘たちが歌い、そして踊る。それに続いて、ポロヴェッツの将コンチャク汗(B)の娘コンチャコヴナ(Ms)が登場し、「暗い夜よ、とばりを広げよ」と有名なカヴァティーナを歌う。これは、イーゴリ公の息子ウラジーミルへの恋心を吐露する歌である。そこへウラジーミルが姿を現し、セレナードを歌う。やがて向き合った2人は、ひそかに愛を語り始める。お互いに敵軍同士でありながら、若い2人の間にはロマンスが芽生えていたのだ。

(※今回扱っている4種の全曲録音の中では、エルムレル盤がここでも一番の名演を聴かせてくれる。冒頭の娘たちの合唱、そしてそれをリードする一人のポロヴェッツ人娘、ともに他の3種を凌ぐベストの出来栄えだ。コンチャコヴナを歌うエレナ・オブラスツォワ、そしてウラジーミル役のウラジーミル・アトラントフも素晴らしい。特にアトラントフの歌唱は、この役のほぼ理想的なものとさえ思える。と同時に、「このお2人は西ヨーロッパで学んだり活躍したり出来るようになった、東西雪解け以後の世代なんだなあ」と、つくづく実感する。彼らの発声及び歌唱法には、ロシア的な力強さだけでなく、西欧的な洗練味みたいなものが備わっているのである。)

(※M=パシャイエフ盤に登場する恋人コンビは、上記エルムレル盤の2人とは全く対照的だ。コンチャコヴナはヴェラ・ボリセンコ、ウラジーミルはセルゲイ・レメシェフ。どちらも古い時代の名歌手たちで、いかにもロシア的な声と歌い方を持っていた。上記のオブラスツォワ&アトラントフのコンビと比べると、まるで別世界の人たちに見える。ボリセンコはいかにも当時の代表的なメゾ・ソプラノであったことを示す声を聞かせるが、歌について言えば、もっと巧いものを今は他で聴くことが出来る。

それよりも、ウラジーミル役にレメシェフが起用されているのがちょっと意外な感じだ。この歌手は先頃語った歌劇<モーツァルトとサリエリ>でも触れた通り、イワン・コズロフスキーと並ぶボリショイ黄金期の代表的なリリック・テナーだった。ただ声質はどちらかと言えばレッジェーロなので、このオペラの登場人物ならむしろ、後に出て来るオヴルールの方が似合いそうに思える。

イーゴリの息子ウラジーミルというのはリリックであっても、一般的にはもっとロブストな声が合う役だろう。実際エルムレル盤のアトラントフも、ハイティンクのライヴで歌っているアレクセイ・ステブリアンコも、ともにその線に乗ったものである。このM=パシャイエフ盤が録音された時代には、ウラジーミルの声はレッジェーロなテナーだったのだろうか。当時の代表的なドラマティック・テナーとしてはゲオルギー・ネレップの名が挙げられるのだが、彼の強靭な声はこの役とはイメージが違うものと考えられたのだろうか。私にはちょっと、そのあたりの事情はよく分からない。いずれにしても、レメシェフのウラジーミルはかなりユニークな印象を与えるものになっている。)

(※ハイティンクのライヴ映像では、コンチャコヴナを歌うメゾ・ソプラノ歌手エレナ・ザレンバの声がとても印象的。この人はオブラスツォワ以上に、ロシア的な香りを強く漂わせる声を持っている。このエグイ美声、私は結構好きである。おっとりした感じの立ち居振る舞いが、またいかにもお姫様っぽくて良い。物語上の設定は全然違うが、あの<アイーダ>に出て来るアムネリスのロシア版といった雰囲気がある。)

(※映画版のコンチャコヴナは、声はともかくとして、専門の女優さんが演じているその姿について言えば、完全に野人の娘。漫画に出て来る何とか公園前派出所のお巡りさんみたいに、両方の濃い眉毛がほとんどつながっちゃっている。で、その風貌がまた父親のコンチャク汗にそっくりなのだ。ポロヴェッツの人たちのことは私には分からないが、これが案外リアルなメイクなのだろうか・・。一方のウラジーミルは、映画では何だか昼行灯な若者に描かれている。物語のラスト近くで遠くをぼんやり見つめる時の表情など、今で言う“脱力系”の味。)

―この続きは、次回・・。
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