クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

<コジ・ファン・トゥッテ>~クイケン

2006年07月04日 | 演奏(家)を語る
歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べ・最終回。今回は古楽器派のメンバーによる新しいスタイルの名演奏を一つ、採り上げてみたい。番号は最初からの通しで、6番となる。

6.ジギスバルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンド、他(アクサン、ブリリアント)~1990年

クイケン盤はまず、女性歌手陣が素晴らしい。特にフィオルディリージ役のソイレ・イソコスキ、そしてドラベッラ役のモニカ・グロープ、この二人が最高である。よくコントロールされた声の優しい美しさ、言葉を細やかに歌いだす精妙な歌唱。彼女たちの前にあっては、例えばベームのEMI盤で歌っていたシュワルツコップ&ルートヴィッヒの歴史的名コンビでさえ、まるで厚化粧のオバサンたちに感じられてしまうほどである。さらに、このクイケン盤の姉妹は、二人が全くと言っていいぐらい同じ水準に並んでいて、いわゆる凸凹がない。先頃語った通り、ベームの’74年ザルツブルク・ライヴでは姉がリードしているような感があったし、ムーティ盤では逆に、妹の方に存在感があった。(※勿論それらは、それなりに味のあるものだったが。)それがクイケン盤では、見事に二人が揃っているのである。アンサンブル志向が非常に強いこのオペラの場合、二人の姉妹にこのような均質感があることは大きなアドヴァンテージ・ポイントになる。そう言えば、前回扱ったフォンク盤に出演していた姉妹役の二人も、揃ったアンサンブルという点では非常に良かった。しかし、個々に歌うアリアを比べてみると、イソコスキ&グロープのコンビの方がさらに優れた歌唱を聴かせてくれるのである。

この二人の歌はどれも素晴らしいものだが、ここではその一例として、フィオルディリージ役のイソコスキが歌う第14曲のアリア「岩のように動かない」にちょっと注目してみたい。往年のシュワルツコップなどと比べると、彼女の歌は毅然としてはいながらも、同時にまたかなり細やかで優しい性格を備えたものになっている。「岩にしちゃ随分、柔らかくありませんか?」みたいな感じなのだ。しかし、当アリアについて一つ、ここで是非とも確認しておきたいポイントがある。この有名な歌の中にある一節 Cosi ognor quest’alma e forte(=この心はいつだって、こんなに強いのよ)に付けられた音楽は、<戴冠式ミサ K.317>の第1曲「キリエ・エレイソン(=主よ、あわれみたまえ)」の音楽であり、さらにその終曲「アニュス・デイ(=神の子羊)」の中でソプラノ独唱が歌い出す Dona nobis pacem (=我らに平和を与えたまえ)の音楽でもあるということだ。

一見気丈に振舞って見せるフィオルディリージだが、実はこの時既に心の動揺が始まっていると解釈することも十分可能なのである。音程が大きく上下する彼女のコロラトゥーラは、激しく揺れ始めた心を表しているものとも受け取れるのだ。そうして考えてみると、シュワルツコップが示したような“岩”そのもののような堂々たる力唱、あるいは、それにもう一花添えたようなヤノヴィッツの名唱もそれぞれに見事なものではあったのだが、だからと言ってそれらが、このアリアの絶対的な回答とまでは言い切れないのである。イソコスキがここで聴かせる柔らかい表現には、強い態度に隠された女心の裏の部分、即ち、主に憐れみを求め、安らぎを希求する祈りの部分が、巧まずして歌い出されているとは言えないだろうか。

女性陣のもう一人、ナンシー・アージェンタが歌うデスピーナも、これまた名唱。歌の完成度について言えば、これまでに数多く記録されたデスピーナ歌唱の中でも、おそらくトップ・レベルの出来栄えと絶賛してよいものだろう。ただし、注釈も必要だと思う。彼女のデスピーナは、「ちょっと世間ずれした、軽いノリの小娘」などではなく、知的な雰囲気を強く漂わせる大人の女性になっているのだ。インチキ医者やニセ公証人のお芝居ではちょっと物足りなさを感じさせる部分もあるが、この人のデスピーナもまた立派な正解と言うべきであろう。世間知らずで無邪気な姉妹とは対照的に、デスピーナには人生経験と、それに裏打ちされた世知がある。声質的にはスーブレット系の軽いソプラノだが、人物的に見れば、彼女は二人の姉妹よりもずっと大人の女性なのである。

一方の男性陣だが、フェランド役のマルクス・シェーファーとグリエルモ役のペール・フォレスタットの二人は、やや物足りない。前回のフォンク盤と同じ状況で、基本的に声の魅力に欠けるのだ。あのベームの’74年盤に出演していたシュライアーとプライみたいな名コンビはおそらく、もう二度と出て来ないだろう。しかし、この二人、アンサンブル技術はハイ・レベル。素晴らしい名唱を聴かせる三人の女性陣に伍して、全体のバランスをしっかり取るだけの仕事は出来ている。当盤の男性二人については、そこを評価するべきだろう。

クイケン盤に登場している男性陣の中では、実はドン・アルフォンゾが面白い。と言っても、ここで歌っているユウブ・クレイサンスという歌手は声がやたら若々しくて、とても初老の哲学者といった風には聞こえない。だから、開幕直後のやり取りなど、3人の若者たちの会話みたいに感じられてしまう。やや、これはミス・キャストか?と、実は最初ちょっとがっかりした。しかし、その後、彼とデスピーナとのやり取りが始まった時、私は「あっ」と思ったのである。小才の利いた女性を相手にしてのこの誘惑的(?)なセリフ回し、どこかで聞いたことがある・・。

ドン・ジョヴァンニだ!このクレイサンスという人の声はちょうど、「ドン・ジョヴァンニを得意役にしていたチェーザレ・シエピの声からアクを抜き、耳あたりの良いものに加工してみたら、こんなのが出来上がりました」みたいな感じなのである。だから彼とデスピーナの対話はまるで、ドン・ジョヴァンニとツェルリーナのそれみたいに聞こえてくるのだ。実際、この人のドン・アルフォンゾは(こちらの思い過ごしかも知れないが)、青年たちや姉妹たちを相手にしている時は何でもないのだが、デスピーナと絡む時には妙な“色っぽさ”を漂わせるのである。思わず、「この二人って、過去に親密な関係があったんじゃないか?」なんて、ちょっと勘ぐってみたくなったほどである。

こんな“発見”をしてからはもう、ドン・アルフォンゾが出て来る場面が待ち遠しくて仕方ないという気持ちになってしまった。これは楽しい体験だった。そうか、この「恋人たちの学校」の先生というのは、一介の老哲学者などではなく、実はあのドン・ジョヴァンニだったのだ。むむむ、なんという説得力!男女の心の機微を扱う恋のゲームで、彼がただ一人の勝利者になったのは、その実力から言って当然の結果だったのである。―とまあ、これは単なる与太話に過ぎないが、そんなことをふと考えさせてくれるこのような演奏は、聴いていて実に楽しい。(※世評高きベームのEMI盤には、こういう楽しさがない。)

クイケンの指揮についても、いくつか書いておくべきだろう。彼が作り出すテンポやリズムは総じて軽やかだが、ピリオド派にありがちな先鋭な雰囲気というのはここにはあまりなく、むしろ柔軟さの方が印象に残るような演奏になっている。同じ古楽器派でも、ガーディナーなどとは随分違ったタイプと言えそうだ。また、EMI盤で聴かれるベームの音が、あたかも体操選手の筋肉みたいな引き締まったしなやかさを持つものだったのに対し、クイケン盤で聴かれる音には、もっと肩の力が抜けた柔らかいしなやかさが感じられる。だから、この演奏、聴いていて疲れない。歌手たちの美声に酔いながら、心地良く全曲を聴きとおすことが出来る。それと、レチタティーヴォの部分で合いの手を入れるチェンバロが非常に雄弁であることも、さすが古楽器派の面目躍如というところであろう。この演奏ではさらに、チェンバロに合わせて弦楽器(※ヴィオラ・ダ・ガンバかな?)も一緒に鳴っているのがはっきりと聞き取れる。

CDの音質も、まあまあ良好。さらに値段の安さも考え合わせると、クイケン盤はかなりのお買い得品であると言えそうだ。

―これで、歌劇<コジ・ファン・トゥッテ>の聴き比べは終了。次回は、これまでちょっと保留にしてあったウェーバーの作品を、正式に採り上げてみたい。
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